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6章
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いよいよ決勝戦だ。既に覚悟は決まっているが、いざ実行するとなると手が震え、胸の奥から嫌な鼓動が聞こえてくる。
だが絶対にやり遂げる。高野連に送り付けた文書通りのことを。
* * *
七月二十八日。神宮球場では十三時から行われる西東京大会の決勝戦前の両チームの練習が行われている。今日も夏の太陽の光が容赦なく球児たちに降り注がれて、汗がほとばしる。
三鷹第二高校はランニングをした後にラダーを使ったウォームアップを終え、これからキャッチボールを行っている。声はよく出ているのだが、芦田孝太郎には皆の表情が少し硬いように見える。甲子園を決める決勝戦であるし、相手が相手なのだから仕方のないことではあるのだが。
「オーケー。ナイスボール。さあもっと声出してこうぜ」
芦田の隣では藤崎克也が大声を張り上げている。それだけ声を出しているのは、気合が入っているからというよりも声を出していないと不安が押し寄せてくるからのように思えた。それは克也だけでなく皆同様で、いつもより声が響き渡っている。
正捕手である芦田のキャッチボールの相手はエースの深瀬透だ。深瀬はこんな時でもいつも通りの笑顔でボールを要求してくる。芦田が深瀬にボールを投げ返すと深瀬のサイドハンドから投じられたボールは芦田の胸に前にきっちりと決まる。腕の振り、ボールの回転も調子のいい時の深瀬だ。まだキャッチボールではあるが、ピッチングはキャッチボールの延長である。キャッチボールがしっかりできていないとピッチングの出来も良くはならない。
キャッチボールも終盤を迎え、選手全員が少しずつ投げる距離を縮めながらテンポを速める。キャッチボールが終わった後、深瀬はブルペンに入り、芦田は自分達のシートノックが始まるまでは投球練習に付き合う。後攻の早大鶴ケ丘高校が先にシートノックを行い、その後で三鷹第二高校のシートノックを行う予定になっている。
「シートノックの準備しとけよ。きびきび動いていこう」
「おぉー」
キャッチボールが終了し、キャプテンの芦田の号令に皆が威勢よく応じる。額から流れ出る汗を拭いながら、皆がベンチへ向かって走る。
「早大鶴ケ丘高校、ノックを始めてください。時間は七分間です」
アナウンスと共に早大鶴ケ丘高校のシートノックが始まった。芦田は深瀬のボールを受けながら、時折その様子を観察する。シートノックが始まると本当にいよいよ試合なんだという実感が湧いてきた。まずはボール回しがホームベースにいる捕手から始める。早大鶴ケ丘高校の正捕手の辛島太一がホームベースから一塁にボールを投げ、一塁から二塁にボールが送られる。ボール回しを見ただけで早大鶴ケ丘高校が今まで戦ってきた相手とは実力の次元が違うことがよく分かる。ボールを捕ってから投げるまでが速く、肩の強い選手も多いため、当然スピード感がある。その上送球(スローイング)の正確さも群を抜いている。芦田はボール回しを見ただけで圧倒されそうになった。
「芦田、次シンカー」
深瀬の呼び掛けに芦田はハッとして振り返る。この程度のことで相手に圧倒されてどうするんだ。地力の差があることは最初から分かっていたことであるし、それでも勝機があるのが野球というスポーツだ。今は深瀬のボールの状態を確認することに集中しようと芦田は思い直した。
「ナイスボール」
深瀬のボールの状態はいい。低めに集まっているし、ストレートも走っている。これなら十分戦えると思った。
「お待たせいたしております。本日の試合に先立ちまして両校のスターティングメンバー並びに審判を紹介いたします」
スターティングメンバーのアナウンスが始まった。
「先攻は三塁側、三鷹二高。一番、センター、中島啓太君。センター、中島君。背番号八。二番、セカンド、金平純一(じゅんいち)君。セカンド、金平君。背番号四。三番、キャッチャー、芦田孝太郎君。キャッチャー、芦田君。背番号二。」
* * *
打順(オーダー)を変えてきたか。
準決勝まで六番だった中島を一番に。一番だった芦田が三番に。三番だった城田を六番に変えてきた。中島と芦田は今大会当たっており、逆に城田は当たっていない。そう考えるとこの打順(オーダー)変更は順当とも思えるが、準決勝までずっと同じだった打順を変えるということはそれまで慣れ親しんだ選手の役割を変えることになるため、リスクにもなる。三鷹第二高校はウチのチームを少しでも攪乱しようという狙いで打順(オーダー)変更を行ったのだろうと坂上大輔は考える。だが、ウチのチームは予想していた打順が変わったぐらいであたふたしたりはしない。
三鷹第二高校のシートノックも終わり両校の選手が整列するのを記録員(スコアラー)である坂上はベンチから見つめる。いよいよ試合が始まる。皆頑張ってくれ。
審判が試合開始を告げると、後攻の早大鶴ケ丘高校は守備に就き、先攻の三鷹第二高校はベンチに戻っていく。マウンドに上がっている早大鶴ケ丘高校のエース、早坂俊介は二年生の正捕手である辛島太一に向かって投球練習を繰り返す。坂上は今朝から早坂の表情が硬く、口数も少なかったことが気になったが、今行っている投球練習では力みのないフォームで投げられている。甲子園のかかったこの試合、強烈なプレッシャーがかかっているのはウチのチームだけではない。ましてや相手は予選の決勝という舞台も初めてなのだから、より一層の緊張があるのではないか。
投球練習の最後のボールを受け、辛島が二塁にボールを送る。相変わらず肩が強く辛島の投げたボールはとんでもないスピードでショートの吉田翔也のグラブに吸い込まれる。翔太が他の内野手へとボールを回し、最後は投手の早坂へとボールを戻す。坂上はバッターボックスに向かっている三鷹第二高校の一番打者の中島を見ながら、昨日のミーティングを振り返る。
「続いて攻撃面の説明に入りますね。一番注意する必要があるのは四番の藤崎です」
三鷹第二高校の四番の藤崎克也。体格も良く、攻守共にチームのキーマンになる選手だ。
「まず警戒するのは長打力ですが、長打力だけではなく、ボールへの対応能力も群を抜いています。この映像を見てください」
画面には低めのボール球の変化球を大勢を崩しながらも外野まで持っていき、タイムリーヒットを打った藤崎の映像が映っている。
「ストレートにも強いんですが、落ちる球や逃げる球を拾うのがとても上手い選手です。ただ、その自信から来ているのかは分かりませんが、明らかにボールと分かる変化球に手出して自滅するケースが見られます。このバッターを打ち取るにはその欠点を突くべきでしょう」
「他のクリーンナップ、三番の城田と五番の赤城ももちろん警戒する必要があるとは思いますが、今大会はあまり当たりがありません。この二人よりも警戒が必要なのは一番の芦田と六番の中島だと思います」
三番の城田は変化球に弱くチャンスメイクが出来ていないようだし、五番の赤城はそこそこのパンチ力はあるようだが、打率が非常に低く、勝負強さもあまり感じない。
「まず一番打者の芦田です。非常に粘り強い打者で出塁率が非常に高いです。長打力はありませんが、足を絡めた揺さぶりもしてきますし、キャッチーということもあり、狙い球の絞り方が秀逸だと思います。ある意味最もやっかいなバッターかもしれません」
坂上は六番の中島のバッティングに映像を切り替えて説明を続ける。
「そしてこのバッターが六番の中島です。まだレギュラーメンバーで唯一の二年生ですが、非常にセンスを感じさせる選手です。足も速く長打力もある左バッターで、今大会は五割二分三厘という驚異の打率を残しています。このバッターも狙い球を絞ってバッティングをするタイプのように見えますので、一番の芦田同様に打ち取るためには狙い球を察知することが必要です」
六番から一番に昇格した中島がバッターボックスに入る。審判がプレイ開始を告げると、試合開始のサイレンが球場に鳴り響く。マウンド上で振りかぶる早坂を見て、頼んだぞ早坂、と心の中で祈りながら坂上は固唾を呑んでいた。
* * *
「一回の表。三鷹二高の攻撃は、一番、センター、中島君」
啓太が左バッターボックスの土を均し、右手でバットを振り子のように二回振ってからいつものようにオープンスタンスで構える。
「啓太―。思いきって行けよ。甘い球が来たらガンガン打っていっていいからな」
三番打者の芦田はヘルメットをかぶり、バットを持った状態でベンチから声援を送る。甘い球は逃さない積極性が啓太の持ち味だ。打順が変わってもその持ち味は変えずに活かしていって欲しい。
「さあ、行こうぜ行こうぜ」
「啓太―。初球から初球から」
ベンチにいる部員全員が、腹の底から大きな声を啓太に届かせている。スタンドから聞こえる吹奏楽部の演奏も選手を後押ししてくれる。
「啓ちゃん、初回から楽しんで行こう」
ベンチ前でキャッチボールをしている深瀬も啓太に声を送る。人で埋め尽くされたスタンドからは早坂俊介を応援する声が多く聞こえてくるが、この雰囲気に呑まれずに楽しんでやるぐらいの余裕を持って欲しいのは確かだ。
左投手(サウスポー)の早坂が大きく振りかぶり、しなやかなフォームからボールを放つ。一球目のストレートに啓太のバットが空を切った。ストレートを狙っていたようだったが、バットの軌道はボールの下。甘いコースではあったが、それだけボールが来ているということだろうか。電光掲示板には136km/hと球速が表示されているが、ベンチから見ていてもスピードガンの数字以上の球速を感じさせる。打席に立っている啓太にはもっと速く見えるのだろうか。
二球目はワンバウンドするボール球のフォークに啓太のバットが止まる。相手の二年生捕手の辛島はワンバンドしたボールをプロテクターできっちりと前に落とした。
「ナイス選。見えてる見えてる」
そして三球目。早坂が投げるタイミングと同時に啓太はバントの構えを作る。セーフティバントは三塁線のいいコースに転がり、これは行けると一瞬思った。しかし、投手の早坂がもの凄いスピードでボールに追いつき、体を反転させて一塁に送球する。ギリギリのタイミングだったが判定はアウト。
「オッケーオッケー。狙いはいいよ」
あまりに惜しいバントだったため、一瞬ベンチからはため息が漏れたが、すぐに切り替え、啓太にねぎらいの言葉が掛けられる。バントしたコースも打球の勢いの殺し方も悪くなかったが、早坂のフィールディングが素早かった。さすがに名門校のエースナンバーを背負っているだけのことはある。ピッチングだけじゃなく守備も鍛えられている。
二番打者の金平が打席に向かい、芦田はネクストバッターサークルへと移動する。芦田は一塁からベンチに帰ってくる啓太を手招きして呼び寄せる。
「啓太。早坂の球はどんな感じ?」
「ストレートはすごい速く見えますよ。145km/hは出てるんじゃないかってぐらいに。それに手元で伸びてきます。あのボールを捕まえるのはなかなか難しいじゃないかと思います。それに・・・」
啓太が少し言葉を詰まらせる。
「ベンチからでも分かるかと思いますが、もの凄い威圧感を感じます。あんなに威圧感を感じるピッチャーに当たったことは今までないです」
確かにマウンドに上がった早坂の雰囲気はテレビのインタビュー等で見る爽やかさとは全くの別物だ。
「なるほど。それが分かっただけでも得たものはあるよ。ほんとに悪くないバントだったぞ。切り替えていこう」
「はい」
啓太がベンチに戻って行く。啓太の打席から得た情報を決して無駄にはしないようにと芦田は自分を戒める。
「二番、セカンド、金平君」
芦田がネクストバッターサークルにしゃがみ込むと二番の金平が左打席に立つ。三鷹第二高校の今日の一、二番は左打者が並ぶ。そしてクリーナップの三人は全員が右打者だ。
「金平、芦田。俺まで回せよ」
芦田の背後から四番打者の克也のドスのきいた声が聞こえてくる。分かってるよ、絶対回してやるからという思いを込めて芦田はベンチに向かって目配せをする。
金平に対しての初球もストレート。啓太同様に金平は初球を空振りする。
「スイングは悪くねえぞ。自信持っていけ」
克也の言った通り、金平のスイングの形は崩れていない。そしてタイミングも合っていた。それでもバットはボールの下を通ったのだから、啓太の言ったようにボールは手元で伸びているのだろう。
二球目のサインに早坂が首を振る。ビデオを何度も見て思ったことだが、早坂は捕手のサインに首を振ることが多い。そして首を振って投げる球は理に適った配球であった。おそらくピッチングの組み立ては二年生捕手の辛島ではなく、頭の良さそうな早坂がしているのだろうと芦田は踏んでいた。
「金平。思い切っていけ」
芦田は思い切ってあの球を狙っていけという意味を込めて、金平に声援を送る。
二度目のサインに首を縦に振った早坂が振りかぶる。右膝を腰の高さまで上げ、大きく踏み出した右足に体重を移動させ、鋭く腕が振られる。その鋭い腕の振りとは対照的に放たれたボールにはスピードがない。スローカーブだ。金平は前につんのめった形でそのボールを空振った。予想はしていたが、この球速差はやっかいだ。
金平はツーナッシングと追い込まれ、一球見せ球のボール球を見送った。ボールカウントはワンボールツーストライク。問題は次の球だ。二球目の空振りを見て、スローカーブを決め球に使うことも考えられるし、二球目のスローカーブを活かしてストレートで来ることも考えられる。
金平に投じた四球目は高めのストレートだった。金平はスローカーブが頭に残っていたのか中途半端なスイングで空振りの三振を喫した。
「早坂―。ナイピッチ」
向こうのベンチは一、二番を打ち取ったことで盛り上がっている。初回から主導権を握られてたまるか。芦田は心の中で煮えたぎる思いと共に打席に向かった。
「三番、キャッチャー、芦田君」
「頼んだぞ、キャプテン」
「芦田、お前なら打てるぞ」
アナウンスとベンチからの声援と共に芦田が右バッターボックスに入る。バットの先端でホームベースの右上と左上を優しく触り、外角と内角の位置を確かめると左手でバットを投手の方向へ向けながら早坂の表情、早大鶴ケ丘高校の守備位置を確認する。早坂の表情は鬼気迫るものがあり、一人たりともランナーは出さないとでも言わんばかりの気迫が感じ取れる。ツーアウトランナーなしのこの状況、守備位置は内外野共に定位置で、二遊間がやや広いため、芦田は基本のセンター返しを試みようと思った。一球目は何から入ってくるか。前の一、二番にはストレートのストライクから入っている。
芦田への一球目、早坂は一度首を振ってから頷き、投球モーションに入る。リリースしたボールは一瞬ストレートかと思うほどスピードがあったが、ホームベースの手前で急激に落下するフォークボールだ。ワンバウンドするボール球のフォークを芦田は見送った。芦田は一球目は何が来ても見送ると決めていたため、手を出さずに済んだが、ストレートを狙っていたら手を出してしまったからもしれないと思う程キレのあるフォークだった。前の二人とは異なる初球の入り方でボールカウントはワンボールノーストライク。ここはストライクが欲しいため、確実にカウントを取れるボールで来るだろう。
「次の球狙ってけー」
ネクストバッターサークルから克也の声が聞こえる。
二球目の外角のストレートは芦田のバットの上っ面にかすり、右後方へ飛ぶファウルとなった。ほぼベルトの高さのボールであったのにも関わらず、仕留め損ねた。しかも振り遅れている。確かにこのストレートは速くて伸びがある。スピードガンの数字は137km/hと出ているが、それ以上の速度に感じられるのはなぜだろうか。特に変わったピッチングフォームでもないのに。
三球目は外角低めいっぱいの際どいストレート。厳しいコースだったため芦田は見送ったが、審判からはストライクのコールが聞こえてくる。これで追い込まれてツーナッシングだ。
「広く広くー」
「上から叩いてこうぜ」
次の四球目、おそらく勝負球が来るだろう。一般的にツーストライクと追い込まれると打者は見逃し三振を恐れるため、ストレートを待って全ての変化球に対応しようとする。変化球を待ってストレートに対応するのは難しく、見逃し三振を喫してしまうことになる可能性が高いからだ。だが芦田はセオリーに反し、追い込まれたこの状態で変化球にヤマを張っていこうと決めた。
早坂の左手からボールが離れる。ボールが離れた瞬間にボールが浮き上がったように見えた。そこから大きく曲がりながら落ちていく早坂のスローカーブは芦田の膝元の際どいコースに向かってくる。芦田は少しつんのめりながらもバットにボールを当て、三塁側へ鋭いファウル放つ。打球は三塁側のスタンドへと入っていく。
「捉えてるよー」
「打てるぞ芦田―」
芦田はスローカーブを待っていたが、それでも態勢を崩したスイングになり、ファウルにするのが精一杯だった。膝元の厳しいコースであったため、フェアゾーンに入れるのは難しいボールではあったが。100km/hを割るスピードでストレートとの球速差がある上に大きな落差のスローカーブは想像以上のボールだった。
「追い込んでるよー。早坂」
今のスローカーブへの対応を見て、早大鶴ケ丘高校のバッテリーは次のボールに何を選択してくるだろうか。今のスローカーブを活かして速いボールで勝負してくるか。
芦田に対する五球目、早坂の投げたボールは内角にうなりを上げて迫ってくる。芦田は思い切りバットを振るが、打った瞬間に差し込まれたと思った。バットの根本に当たり、詰まった打球は力なくセカンドの頭上に上がる。早大鶴ケ丘高校のセカンドの吉田が難なくセカンドフライを捕球し、スリーアウトチェンジ。球威のあるボールに押されてしまった。初回の攻撃で流れを作りたかったのに。
「芦田さん。切り替えて守っていきましょう。守りからリズム作りましょうよ」
啓太の声が響いてくる。そうだ。攻撃で流れを引き寄せられなかったのなら、守りで流れを引き寄せればいい。芦田はベンチに戻ってレガースとプロテクターを手に持ち、既にマウンドに上がって控え捕手相手に投球練習を始めている深瀬に声を掛ける。
「深瀬、頼んだぞ」
「任せろ」
一回の裏の守備。芦田は考えに考えてきた配球を早大鶴ケ丘高校の打線に試してみたくてうずうずしていた。
* * *
「早坂、ナイピッチ」
「このリズム、攻撃にも持っていこうぜ」
一回の表を三者凡退で切り抜けた選手達がベンチに戻ってくると、ベンチの選手から賞賛の声、選手を奮起させる声が浴びせられる。皆で円陣を組み、キャプテンの翔也が気合入れの声を上げる。
「先取点―」
「おぉー」
円陣が解かれて選手達がベンチに戻ると、早坂は皆に賞賛の声を送られながらハイタッチ交わし、ベンチの奥に引っ込む。タオルを頭に被って自分の世界に入るいつも通りの早坂の姿。早坂はいつも試合中にはあまり言葉を交わさず、一人になって何かを考えていることが多い。坂上は一回の表の早坂のピッチングを見て、今日は調子が良さそうで安心した。これなら完封も十分に狙えるだろう。
「一回の裏。早大鶴ケ丘高校の攻撃は、一番、ショート、林田(はやしだ)君」
林田が右バッターボックスに入り、ベース寄りに立ち位置を取って構える。打ち合わせでは三鷹第二高校バッテリーは外角中心の配球で来るため、ベース寄りに立って来た球に逆らわずに打って行こうと決めた。
「林田―。狙ってけよ」
ネクトバッターサークスに入っているキャプテンの吉田翔也の大きい声が響く。翔也の声はとてもよく通るので、どんな遠くからでも翔也の声がすると分かる。
マウンド上の深瀬は捕手の出すサインに頷き、振りかぶらずに胸の前にグラブを構えたままのノーワインドアップの態勢を作る。しっかりと体重を軸足から左足へ移動させて、沈み込んでから右横手からボールが投じられる。林田に対しての初球は内角に決まり、林田は見送る。審判が右手を上げ、ストライクのコールが聞こえてくる。初球から内角でカウントを取りにくるとはこのバッテリーにとっては珍しい入り方だ。ベンチからではストレートかシュートなのかは分からない。
テンポ良く投げた二球目も内角に決まり、林田は見送る。林田はミーティングで聞いていた内容とは全く異なる配球にやや驚いたような表情をしている。準決勝までのデータでは二球続けて内角でストライクを取る配球などはしてこなかっただけに坂上も戸惑いを隠せない。
「オッケー。ナイスボール」
三鷹第二高校の捕手の芦田の掛ける声と共に向こうベンチも二球で追い込んだことに盛り上がっている。捕手の芦田は一球ごとにこちらのベンチの様子をちらちらと窺っている。
三球目は外角のボール球のスライダー。林田のバットはわずかに動いたが、きっちりと見送ってボールカウントはワンボールツーストライク。今のスライダーが見せ球なのであれば次の球は・・・。
息をつかせぬペースで深瀬はノーワインドアップの態勢に入る。右打者の背中の方からボールが来るように見えるサイドスローから放たれたボールは一、二球目と同じく内角への速い球だ。林田はバットを振りぬくが、詰まった打球はセカンドの真正面への平凡なゴロになった。セカンドがきっちりとボールを捌いてファーストへ送り、ワンナウト。
「深瀬。ナイピッチ。ワンナウトワンナウト」
先頭打者を取ったことで波に乗ったのか、向こうの守備陣は元気良く声を出している。勢いづかせはいけない。坂上は左打者である二番打者の翔也に期待するしかなかった。右のサイドスロー対左打者では左打者の方が有利だ。右打者は背中の後ろからボールが来るような軌道になるため、ボールは見づらいが、左打者の場合は外から体の方に向かってボールが入ってくる軌道のため、右打者に比べて断然ボールは見やすい。早大鶴ケ丘高校のスターティングメンバーに左打者は二番の翔也と七番の早坂のみだ。
「翔也。絶対出れるぞ」
「キャプテン。いつものように粘って行こうぜ」
二番打者の翔也は二番というだけあって小技も得意であるし、粘り強いバッティングが持ち味だ。特に敢えてファウルを打つ技術には目を見張るものがある。
翔也は一球目のボールを腰を引いて見送ったが、審判の右手が上がってストライクのコールが響き渡る。またインコースだ。翔也が腰を引いて見送ったということは今の球はシュートだろうか。いずれにせよ、三鷹第二高校バッテリーはウチを攪乱するために、今までの試合とは配球の傾向を変えてきたということは確かだろう。
「翔也―。狙い球絞っていけ」
続く二球目も内角の速い球。翔也は窮屈そうなスイングでバットに当たったボールは左後方へと飛ぶファウルとなった。タイミングも合っていないし、芯も外している。一番打者の林田と同様にあっという間に追い込まれた。
捕手の芦田がサインを出すと、深瀬は迷いなく頷き、相変わらず速いテンポで投球モーションに入る。こちらに考える暇を与えない狙いなのだろうか。深瀬が投じた三球目に対し、翔也のバットはピクリと動いただけで、そのボールを見送った。
「ストライーク。バッターアウト」
まさかの見送りの三振。今の球は外角低めのストレートだろうか。早大鶴ケ丘高校の中でナンバーワンの粘り強さ誇る翔也が三球三振とは誰もが思ってもみない結果だった。
「坂上」
坂上がスコアブックにKの字を記していると、林田が声を掛けてきた。
「向こうのバッテリー、ウチを意識して配球パターンを変えてきているみたいだ」
坂上も一、二番への配球を見て林田と同じ認識を持った。ここからは外角狙いを改める必要がありそうだ。
「それにあいつのシュート、とんでもなくキレてるぞ」
「インコースの球は全部シュートか?」
「ああ。あんなに詰まらされるとは思わなかったよ」
確かに林田の打球はどん詰まりのセカンドゴロだった。パワーのある林田をあれだけ詰まらせることのできるボールを準決勝までは決め球として使ってこなかったことに坂上は疑問を抱く。まさか決勝で当たる相手を意識して、準決勝までは敢えて最も得意とする決め球を使わなかったということだろうか。芦田が新聞記事のインタビューで答えていた「決勝でも深瀬の最大の武器である外のボールを活かすいつも通りのピッチングをできるように努めます」というのはブラフだったのか。だとすれば坂上がミーティングで皆に外のボールを狙っていくように発言したのも芦田の手の平の上で踊らされていたということなる。
「変化量がすごいっていうより手元でクッとくる感じなんだよ。あのシュート。相当やっかいなボールだぜ」
見逃し三振を喫してベンチに帰ってきた翔也が悔しそうな表情でつぶやく。
「でも次は向こうのいいようにはさせねえから」
翔也が力強く言葉を放つと同時にバッターボックスからは鈍い金属音が聞こえてくる。坂上は打球の行方を追うとサードの後方のファウルゾーンに力のないフライが上がっている。サードが落下点に入り、きっちりとグラブに打球が収まった。三者凡退。しかもたったの八球で一回裏の攻撃が終わってしまった。
* * *
「深瀬、明日はシュートをどんどん使っていくよ」
決勝戦の前日、芦田は深瀬とピッチングの打ち合わせをしていた。克也はもう帰ってしまったので、その場には深瀬と啓太が残っていた。
「ついに解禁か。待ちわびたよ」
準決勝まで深瀬の最大の武器である右打者の内角をえぐるシュートは主に見せ球としてしか使ってこなかった。夏の大会のトーナメントの組み合わせが決まってから、芦田は決勝戦まではシュートを決め球にすることは封印しようと決めたのだ。夏の大会を勝ち進んでいくにつれて、バックネット裏には制服を着てビデオカメラを構えた高校球児らしき人物が増えていく。つまり勝ち進むほどに、対戦相手に情報を知られるということになる。
「なるほど。種を蒔いてあるって言ってたのはそういうことだったんですね」
啓太は芦田が準決勝終了後に吐いた言葉の意味を理解したようで、うんうんと頷きながら、納得がいったというような表情をしていた。
「でも、良くここまで一番の武器を使わずに行くって決めましたよね。普通は自分の一番の持ち味を使わずに負けてしまったら、悔いが残るからってやらないじゃないですか」
「俺も最初はそう思ったけどさ。芦田の考えることだし、信じて投げるしかないって決めたよ」
確かに啓太の言う通り、最大の武器を封印したピッチングをすることで、決勝の前に負けてしまったら、悔やんでも悔やみきれない。だが、それでも。
「本気で甲子園行くって決めたから」
芦田は自分の思いを打ち明ける。
「ウチのような高校が本気で甲子園狙うなら思い切ったことをしないと行けない。だから途中で負ける可能性も考えられるけど、この方法で戦うって腹を括ったんだよ」
インタビューでも外のボールを中心とした今まで通りの戦い方で行くと答えて種を蒔いておいたし、やれるだけのことは全てやった。明日の決勝は絶対に勝つ。
三回の裏。ツーアウトランナーなしの状況で一番打者の林田を迎えている。深瀬がここまで許したヒットは四番の辛島のツーベースヒットのみ。ここまでの内角のシュート主体のピッチングに早大鶴ケ丘高校の打線を戸惑わせ、功を奏している。だが、二巡目も全く同じ攻め方で通用するほど甘くはないと芦田は考えていた。相手はあの名門早大鶴ケ丘高校なのだから。
「一番、ショート、林田君」
林田が右バッターボックスに入る。一巡目の打席はだいぶホームベースに近づいて立っていたが、今回はホームベースからやや離れて立っている。一巡目の内角攻めを行ったことによってインコースをだいぶ意識しているのだろう。
芦田は深瀬に対してサインを出す。深瀬は頷くとすぐにグラブを胸の前で縦に構えたまま左足を引く。右足を軸足にして左足を大きく上げてから、しっかりと体重移動を行って体を回転させる。そこから放たれたボールは一度浮き上がるような軌道を見せ、沈みながら曲がっていく。外角に決まった深瀬のシンカーを林田が見送ると審判からはストライクのコールが聞こえてくる。
二球目は外角低めにスライダー。深瀬のボールは若干高めに浮いたが、コースは外一杯だったこともあり、林田の打球は右方向へのファウルとなった。
「勝ってる勝ってる。追い込んだぞ深瀬」
「この回三人で切ろうぜ」
バックからも深瀬を勢いづける声援が聞こえてくる。一番の林田は長打も足もある警戒すべき打者で外野はやや深めの位置に就いている。決して楽に打ち取れる打者ではない。芦田は細心の注意を払いながら三球目のサインを出す。
三球目は内角に食い込む深瀬のシュート。ボール気味でいいというサインの通り深瀬のシュートはストライクゾーンからやや外れている。そのボールに対し、林田はバットをピクリと動かすしぐさを見せたが見送った。これでボールカウントはワンボールツーストライク。次のボールで決めたいところだ。
林田への四球目。深瀬の投じたボールは林田の方向へ曲がりながら沈むシンカーだ。林田はタイミングを外されたようで体が前に突っ込んだ形のスイングになった。打球はフラフラっとショートとレフトの間に上がる。ショートの克也がバックし、レフトの城田が思い切り前に突っ込んでくるが、打球はその間にポトリと落ちた。打ち取っている当たりだが、結果はレフト前ヒットだ。
「深瀬、打ち取ってるぞ。切り替えて次取ろう」
深瀬は全く動じることのない様子だ。芦田の掛ける声にもいつも通りの笑顔で応えてきた。
「ツーアウトだ。バッター集中で行こう」
「翔也―。続いて行こうぜ」
両チームのベンチ、スタンドから、それぞれの打者と投手に声援が浴びせられる。
「二番、セカンド、吉田君」
二番打者の吉田は追い込まれてから粘りに粘り、ボールカウントはスリーボールツーストライクのフルカウントとなった。二巡目ということで打者の目が慣れてきたことも考慮し、一巡目とは配球を変えているのだが、一巡目のように簡単には打ち取れない。吉田はポイントを体の近くに置き、敢えてファウルを打って球数を投げさせることを考えた打ち方をしてくる。
フルカウントからの八球目。内角低めを狙った深瀬のシュートは高めに大きく外れるボール球になった。これでフォアボールだ。
「ナイス選、翔也」
「よく選んだぞ」
三番打者の打席の前に深瀬は審判にタイムを要求し、一人でマウンドへと向かう。
「深瀬。ボールも内容も悪くないぞ。今まで通りに自信持って投げろよ」
「うん。分かってるよ。ツーアウトだし、大したピンチじゃないしね」
「ああ。逆に守りやすくなったな」
深瀬はこの状況でもいつものように顔をくしゃっとさせて笑う。深瀬は大丈夫だ。ボールも精神状態も全然問題ない。一番打者のヒットはポテンヒットであるし、二番打者への最後の球こそ高めに浮いたが、この回のピッチングの内容は決して悪くない。
「内野―。打たせていくからな。近いとこな」
芦田はホームベースに戻ると野手全員に聞こえるように声を張り上げる。外野にはシングルヒットを打たれた場合にホームで刺せるようにバックホーム体制を敷かせる。
「三番、サード、神田(かんだ)君」
三番打者の神田は一打席目は初球のシュートを打ち上げている。初球はボール気味のシュートで入ろうと決め、芦田は深瀬に向かってサインを出す。深瀬はサインに頷くと、セットポジションに入り、少しの間を置いてから二塁に牽制球を投げる。ランナーを殺すための牽制球ではなく、間を取るための牽制球。一呼吸置いてから投げさせたかったため、芦田は牽制球のサインを出した。ショートの克也から深瀬にボールが返ってくると、深瀬はもう一度セットポジションに入った。小さく左足を上げ、体重を移動させてから腕を振りぬく。深瀬がボールをリリースした瞬間にまずいと思った。ボールはすっぽ抜けて神田の体めがけて向かってくる。神田は避けきれず、背中にボールがぶつかる。死球(デッドボール)だ。ツーアウト満塁で四番の辛島を迎えることになる。
芦田は三鷹第二高校側のベンチにいる青柳に目配せすると、青柳が頷いた。芦田は再び審判にタイムを要求し、今度は内野手全員がマウンドに集まっていく。
「まずここが最初の山だね。俺達が甲子園へ行くための」
芦田は皆に対して危機感と高揚感を持たせるために、慎重に言葉を探してから発信する。そして、一打席目の四番の辛島のバッティングを振り返りながら策を考える。
二回の裏、一打席目の辛島には初回とは異なる配球で挑んだ。初球の真ん中低めのシンカーを見送り、ワンストライクを取ると、二球目のボール球のシンカーに手を出させてツーナッシングと追い込んだ。シンカーに対してタイミングは合っていなかったが、辛島のスイングスピードの鋭さに芦田はやや恐怖を覚えた。だが、二球続けてシンカーを投げたことで辛島の頭の中には遅い変化球が刻まれているだろうと思い、次の球を考えた。三球目は遊び球なしで内角のシュートを要求した。深瀬のシュートは鋭いキレを持っており、スピードもストレートよりも速い時もあるぐらいだ。一番速い球をインコースに。その思いを深瀬も汲み取ったようで、思い切り振りぬいた右腕からは力のあるシュートが投じられた。内角低めいっぱいのシュートに対して辛島のスイングの始動が遅れた瞬間を見て、芦田は「仕留めた」と思った。だが、辛島のスイングは芦田の想像を上回り、もの凄いスピードで内角のボールに対して向かってきた。打球はやや詰まっていたのだが、それでも勢いのある打球が右中間を破り、ツーベースヒットとなった。なんてスイングスピードとパワーだと芦田は驚かずにはいられなかった。普通はあれだけスイングの始動が遅れたら、インコースのボールを外野まで持っていくことなどまずできない。
「ああ。そうだな。野球の神様が俺達に与えた試練だと考えようぜ」
芦田の言葉に呼応して克也がこのピンチを前向きに捉えた発言をする。
「野球の神様って。克也ってそういうの嫌いじゃなかったっけ?」
深瀬が克也におちょくるような口調で話し掛ける。この状況に追い込まれても、こんな言葉が出てくるのだからこの男は大したものだ。
「神頼みとかは嫌いだけど、別に野球の神様がいるっていう考え方自体は嫌いじゃねえよ」
正直次の四番に対してはどう攻めていいか芦田は迷っていた。四番の辛島の能力はそれぐらいずば抜けており、神様でも何でもすがりたい気持ちだった。だが、克也の言う通り、神頼み等はもってのほかだ。自分達の今までしてきた練習を信じ、自分の頭でものを考え、このピンチを切り抜けるしかない。第一、野球の神様がいるのなら、芦田の中学時代に犯した罪を決して許してはくれないだろう。だから神様の力は借りれないのだ。
ベンチから伝令として三年生の高橋が走ってくる。
「どんなに優れていても十割打てるバッターはいない。必ず穴があるはずだからそこを突いていけ。前の打席にもそのヒントはあるぞ、だってさ。それから深いフライを処理できるように外野の守備位置は深めにしとくように」
芦田は辛島の一打席目を思い返す。最終的には内角のシュートを右中間に持っていかれたが、その前に投げたシンカーには合っていなかった。そこを切り口にして攻めていけということだろうか。
「こういう場面も想定して今まで練習してきただろ。自分達を信じて戦えば、結果はついてくるさ」
伝令の高橋の言葉に皆が頷く。
「ま、そうだな。四番と勝負するしか選択肢はねえんだし、腹括って行こうぜ」
高橋が監督の言葉を伝えてくれたおかけで、少し道が見えてきたような気がしてきた。他に問題があるとすれば、二球続けて深瀬の球が抜けていることだ。コントロールの良い深瀬にとっては珍しい。まだ三回なので、球数はさほど放っていない。表情は決して硬くなく、いつもの笑顔を保ってはいるが、この決勝の舞台でマウンドに上がっているのだからとてつもないプレッシャーがかかっているのだろう。
「深瀬」
芦田が深瀬に呼び掛ける。
「打たせていこう。肩の力を抜いて投げれば打ち取れないバッターじゃない」
「例えいい当たりを打たれても絶対に守ってやるから、思い切っていけよ。打たせて取るのがお前のスタイルだろ」
芦田に続いて克也も深瀬に声を掛け、他の内野手も深瀬を勇気づける言葉を発していく。
「うん。まあ、俺はどんな時でも肩の力は抜けてるけどね。肩の力だけじゃなく全身の力が抜けてフニャフニャしてる。分かった。打たせて取ってくから、守りは任せるよ」
深瀬は何だか嬉しそうだった。緊張や不安を敢えて出せないようにするために作っている部分もあるのかもしれないが、それでも深瀬の表情や言葉にはなぜか安心させられる。頼もしいエースだと改めて思う。
「絶対行くぞ。甲子園」
「おぉー」
芦田の声に皆が応じ、それぞれの守備位置へと走っていく。
芦田がホームベースに戻るとバッターボックスのすぐ横に、190cm近い長身で体格のいい男がずしりと立っている。これで二年生だというのだから驚かされる。辛島の顔を見ると、細めの目が印象的でどちらかというと気の弱そうな人間という印象を抱く。
「プレイ」
審判がボールインプレーを宣言すると、辛島はバッターボックスの土を撫でるように丁寧に均す。その均し方はとても優しく、繊細な性格を表しているように思える。
芦田が初球のサインを出す。前の二球共、深瀬のボールが抜けているため、勇気のいるサインだったが、腹は括った。
辛島は二度程深呼吸した後、肩に置いていたバットを上げ、投手の深瀬と正対する。深瀬は左足を大きく上げ、辛島に一球目を投じる。深瀬の投じたボールに辛島のバットは一瞬ピクリと動いたが、ボール球だと判断して見送る。内角のシュート。一打席目に打たれたボールではあるが、この打席ではそのボールをストライクゾーンから外して様子を見た。満塁の場面で敢えてボールから入ったのは深瀬のコントロールを信頼しているからでもある。普通の投手だったら、満塁で初球からボール球など要求できない。
芦田は要求通りのコースに深瀬のボールが決まったのに安心すると共に、辛島のバットが動いたことから狙い球はストレート系なのかと思案する。前の打席でも辛島のスイングはストレートのタイミングに合わせているように見えたが、ひょっとすると辛島はどんな場面、状況においてもストレートに目付けをして、全てのボールに対応するタイプなのか。それは何も考えず来た球を打つタイプの打者とも言える。早大鶴ケ丘高校バッテリーの配球も早坂が考えているように見えるし、辛島はそこまで頭を使って野球をするタイプではないのかもしれない。だとしたら身体能力はずば抜けていてもそこを突破口に打ち取ることはできる。
二球目は低めのストライクゾーンにシンカーが決まった。辛島は一打席目と同様に大きなスイングで空振りする。タイミングは合っていない。
「ナイスボール」
「辛島―。大振りはいらないよ」
両チームのベンチから大きな声が聞こえてくる。芦田は三球目のサインを出す。
一度牽制を入れてから深瀬が投じたボールにまたしても辛島のバットが空を切る。やはりシンカーにはタイミングは合っていない。この打者に対しては変に裏をかく必要はないが、芦田は次の球もシンカーを投げさせるかまよっていた。シンカーは右打者の方向に曲がりながら大きく沈む変化球であまり投げる投手はいない。だからこそ打ちづらいボールではあるのだが、コントロールを付けるのが難しいボールでもある。幸いここまでは低めに決まっているが、三球続けて投げさせていいものか。捕手は投手のコントロールミス等のリスクを考慮して配球を考えなくてはいけない。散々頭を悩ませた結果、芦田は次もシンカーで行くと決めた。
深瀬が軸足から左足へきっちり体重移動をさせ、沈み込んで振りぬいた右腕からは一度浮き上がるかのような軌道からボール大きく曲がりながら沈んでいく。辛島のバットが内角のシンカーを捉えるが、打球は三塁側スタンドに入る明らかなファウルとなる。前の二球より少し高かったが、三球続けたことも合って辛島の目はシンカーに慣れてきたようだ。
もう一球シンカーを続けるのは危ないし、ストレートへも対応してくる。そう考え芦田は五球目のサインを出す。
深瀬は間髪入れずに首を縦に振り、セットポジションに入る。サイドハンドから放たれたボールは右打者の背中の後ろから対角線に入ってくる。辛島のバットが始動する。そしてボール打者の手元で外に曲がっていく。よし、仕留めた。
深瀬の外角低めのスライダーは辛島のバットの芯を外したが、鋭い打球がショートの頭上に飛ぶ。そんな、嘘だろ。これだけお膳立てしておいて、バットの芯を外したのに何でだ。芦田はやられた、と思った。ツーアウト満塁で内野の頭を超えたら確実に二点は入る。ショートの克也が素早く右後方に下がりながら思い切りジャンプする。克也はグラウンドに転がり込んでからボールを掴んだ左手のグラブを上げる。
「アウトー」
スリーアウトチェンジ。克也のファインプレーだ。
「克也。ナイスプレー」
芦田は思わず叫んでいた。深瀬は克也の元に駆け寄ってグラブでハイタッチをしている。
例えいい当たりを打たれても絶対に守ってやるから、思い切っていけよ。打たせて取るのがお前のスタイルだろ。
本当に克也の言った通りになった。辛島のバッティングには驚かされたが、ウチのチームには頼りになる選手がたくさんいる。だから大丈夫だ。絶対に甲子園に行く。部員全員が揃っていない試合を最後の試合には決してしない。
* * *
四回の表。三鷹第二高校の攻撃は二番の金平から始まる。早坂がここまで許したヒットは四番の藤崎のレフト前ヒットの一本のみ。四死球もなく、早坂の調子はいい。それだけに先程の三回裏のあのチャンスでは得点が欲しかった。辛島の打球は芯を外したとは思えないほど鋭かったが、ギリギリで内野の頭を越えなかったのは外角低めの変化球を無理に引っ張ったからだ。その点ではあのショートライナーは三鷹第二高校のラッキーでも何でもなく、バッテリーの配球が功を奏したということになる。
二番の金平に対して、早坂は二球続けてストレートを投じた。二球とも金平のバットはボールの下を通っている。なぜこんなに速く感じるか、なぜバットに当たらないのか。きっと打席に立っている金平はそう思っているだろう。坂上は早坂がこのストレートを身に付けるために行った並々ならぬ努力を振り返っていた。
二年生の秋。早坂はイップスにかかり、まともに投げられなくなってから投球フォームを徹底的に見直したいと当時マネージャーに転向して間もない坂上に申し出てきた。早坂が一度だけ弱音を漏らしたあの翌日だった。もちろん坂上はそれに応じ、早坂に協力した。少しでも早坂の力になりたい。その思いが坂上を駆り立てた。これだけの実力を持ちながら、決して慢心せずに誰よりも努力し、どんなチームメイトにも公平に優しく接する早坂の頼みを断るなどという選択肢はなかった。坂上だけではなく、誰もが早坂の人間性を評価し、尊敬の念を抱いている。
坂上は早坂のブルペンでの投球練習をビデオカメラを回しながら観察していたが、まだイップス克服には程遠く、投げるボールは全て捕手のはるか手前でワンバウンドした。だが、その現実から目を逸らさず、必死の形相でボールを投げ続ける早坂の姿を見ると、できるだけ早くイップスを治してやりたいと坂上は思った。
投球練習が終わった後にミーティングルームに二人で向かい、早坂のピッチングフォームをテレビに映して確認した。
「特にイップスになる前のフォームと変わってるとは感じないんだよな」
坂上は何度も何度も繰り返し早坂のフォームを見た上で、率直に感じた意見を述べる。
「うーん」
早坂は頭を悩ませながら、真剣な目でテレビ画面を見つめている。そもそもイップスとは精神的な原因等で普段通りのプレーができなくなる現象である。フォームを見直すことに注力するよりも、しばらく投げることを控えて心を休めた方がいいのかもしれないとも思った。
「早坂さ、最近何か悩みとかある?野球以外の事とかで」
坂上は唐突に早坂に質問をぶつける。
「悩みかあー」
早坂はしばらく真剣な面持ちで考え込む。
「これといっていないんだよね」
長い間考え込んでから早坂が答える。今の答えは本音なのだろうか。本当に悩みがないのなら、前の日に合宿所の外でうずくまったりはしないのではないか。きっと早坂はずっと高校野球界のスター選手として注目され続けたことによるプレッシャーを抱えているのだろう。だが、本人がそれを話すつもりがないのに無理に話させるつもりは坂上にはなかった。
坂上はもう一度早坂のピッチングフォームを見返す。よく見ると体の開きが早く、あまり上手く下半身が使えていないように見えた。それはイップスになる以前からの早坂のフォームの癖であった。それもあって早坂はコントロールのいい方ではなかったが、それをカバーするできる速球がそれまでの早坂を支えていた。。
「早坂。ピッチングフォームなんだけどさ。ちょっと体の末端で投げてると思うんだよね。体の軸を中心にして投げれるようにを改善してみたらどうかな」
もちろんそれを改善することがイップス克服に繋がるとは限らない。だが、もうそのぐらいしか案はなかった。
「確かにそうだね。要はもっと下半身で粘って前で放せってことだろ。やってみる価値はあるかもね」
早坂が坂上の出した案に同意し、ピッチングフォームの改善をに特化した練習を行っっていくことに決まった。
「まずは下半身の強化からだな。とことん走ろうぜ、早坂」
早坂の走り込みの量はそれまでもチーム一だったが、さらに増やした。ランニングよりもダッシュを中心とする走り込みのメニューを徹底的に行い、しばらくはボールには触らない練習を行った。秋から冬にかけての尋常ではない量の走り込みの成果から、早坂の太ももは以前よりも一段と太くなったように思えた。そしてブルペンでの投球練習でフォームを慎重に確認しながら試行錯誤を行ってきた。最終的に早坂が投手として復帰できたのは今年の春の都大会だった。春のセンバツには間に合わなかったが、早坂は新しいフォームを身に付けたことにより、ピッチングの安定感は以前とは比べものにならないほど増していた。
金平への三球目。早坂はグラブを胸の前から頭の後ろまで持っていき、右足を大きく上げる。軸足の左足から右足へと体重移動を行い、下半身でできるだけ粘って体が開くのを我慢する。そこから強烈なボディターンで体が回りボールは体のずっと前で放される。胸元に決まったストレートに金平のバットが回る。ボール球の高めのストレートを空振りし、三球三振。スピードガンの数字は139km/hと表示されており、早坂が一年生の頃に比べれば見劣りするが、打者の近くでボール放しているため、打者からすると以前の早坂のボールよりも速く感じられるだろう。実際今の打席の金平は早坂のストレートに手も足も出ないという感じだった。前の打席に放ったスローカーブが頭にちらついていることもあるだろうが。
「いいねー。早坂」
「ナイピッチ、ナイピッチ」
マウンド上の早坂は金平を三振に取った瞬間に雄叫びを上げた。普段の早坂とは180度異なる人を寄せ付けないその雰囲気は早坂のこの試合にかける想いが滲み出ていた。去年の秋から今年の春までの早坂の努力を見てきただけにこの結果は当然だと坂上は思っている。あれだけ苦しんで苦労した早坂のボールをそう易々と打てるはずはない。
「三番、キャッチャー、芦田君」
三番打者の芦田がバッターボックスに入る。一打席目の芦田は早坂のストレートの球威に押されてセカンドフライに倒れているが、決して油断のできない打者だ。この選手はとても頭が切れる。早大鶴ケ丘高校バッテリーは早坂がリードを行っているため、この打席は早坂と芦田の読み合いが鍵を握るだろうと思った。
初球の外角低めのストレートに芦田のバットが空を切った。ストレートを狙ったフルスイングだ。
「球走ってるぞ。どんどん押してけ」
二球目のボールは外に外れてボールカウントはワンボールワンストライク。
「芦田―。積極的に行け」
「早坂―。思い切って腕振ってけ」
両チームからの声援が坂上の耳に入ってくる中、早坂は振りかぶり、三球目を投じる。早坂が放ったボールは高めに抜けたボール球だ。だが、芦田はそのボール球に対して迷わず上からバットを叩きつける。打球は早坂の左脇をゴロで抜け、セカンドの翔也が二遊間を破ろうとするその打球に懸命に飛びついた。芦田の打球は翔也の伸ばしたグラブに届かずにセンター前に抜けた。坂上は驚きを隠せなかった。ヒット打たれた結果にももちろんだが、高めのボール球を狙いすましたかのように打ちに来た芦田に対して。やはりこの男は底が知れない。
「四番、ショート、藤崎君」
* * *
「いやー、こんな拮抗した試合になるなんて思わなかったよ」
「俺も俺も。絶対早大鶴ケ丘の圧勝になると思ってたのにな。びっくりだよ」
「あの深瀬ってピッチャーがなかなかいいよな。スピードは大したことないけど、コントロールが抜群にいい」
「キャッチャーのリードも冴えてる感じだし、四番の打球の速さも凄かったな。もちろん選手の個々の力で言えば早大鶴ケ丘が上だろうけど、三鷹二高もいい選手が揃ってるんじゃねえか?」
「これはひょっとすると、番狂わせがあるかもしれないな」
「そうかもな」
二人の男が興奮した様子で決勝戦について語り合っている。
「それにしても暑っちーな」
一人の男が首に巻いているタオルで汗を拭いながら呟く。
西東京大会の決勝戦は五回の裏が終わり、現在はグラウンド整備を行っているところだ。夏の太陽は容赦なく照りつけ、選手だけではなく決勝戦を観に来た観客の体力も奪っていく。雲一つない空に佇んでいる太陽はそれほど攻撃的だった。試合は〇対〇のまま動きを見せていない。試合開始当初は圧倒的に早大鶴ケ丘高校の応援が多かったのだが、三鷹第二高校が善戦を続けているうちに周囲の観客の中には判官贔屓で三鷹第二高校の応援に回り始めている者もいる。黒崎始の前の席でしゃべっている二人の男達のように。
黒崎は青のジーンズに白いワンポイントのTシャツといったラフな服装で、キャップを深めにかぶってバックネット裏の席に座っていた。一塁側にも三塁側にも寄っていないその席には黒崎とは違い、純粋に高校野球の決勝そのものを楽しみに来た人達が溢れている。おそらくこの中で一番つまらなさそうな顔をしているのは自分だろうという自覚はあった。
まったく何をやってるんだよ早大鶴ケ丘。だらしねえな。こんな弱小相手に手こずってんじゃねえよ。
心の中で黒崎は毒づく。黒崎は一か月と少し前まであのチームに所属していた実感が湧かない。それほど黒崎は三鷹第二高校野球部に対して心の中でも距離を置いているということだった。
四回の表の三鷹第二高校の攻撃。ワンナウトから芦田がセンター前ヒットで出塁した。高めのボール球に上からバット叩きつけたその打球の行方を黒崎は夢中で追っていたことに気付いた。黒崎は三鷹第二高校の敗北を心の底から願っていたが、芦田のことだけは別だった。芦田は三鷹第二高校の中で、唯一黒崎を認めてくれた選手だったからだ。芦田の姿を見ると、黒崎の心の針がプラスの方向に動きかけたが、黒崎は無理やりその針をマイナスの方向に押し戻した。
「四番、ショート、藤崎君」
ウグイス嬢が丁寧に藤崎克也の名前を読み上げるのと同時に黒崎は歯を強く噛みしめていた。
克也が堂々とした振る舞いでバッターボックスに入った。前の打席で早坂俊介からヒットを打っていたことも黒崎は気に入らなかった。
早坂が投じた一球目はスローカーブ。克也は大きなスイングでそのボールを空振りした。
長打狙ってんのかよ。前の打席いい当たりのヒット打ったからっていい気になってんじゃねえよ。
黒崎は克也のスイングを見てそう思った。二球目もスローカーブで克也はこのボールを捉えレフトスタンドのポールの左脇を通過する特大のファウルとなった。観客からはどよめきの声が聞こえたが、どんなに飛ばそうがファウルはファウルだ。これでツーナッシングと追い込まれたことに変わりはない。
一球見せ球のストレートを混ぜてボールカウントはワンボールツーストライクとなった。
そして投じられた四球目、低めのフォークボールを克也のバットが拾って、一塁側への痛烈なファウルとなった。これでスローカーブ、フォーク共いい当たりされたことになる。この状況で早大鶴ケ丘高校バッテリーが次の球に何を選択するのかは黒崎には全く読めなかった。黒崎は身体能力が劣っているだけでなく、頭を使って野球をやるのも苦手だった。
早坂が捕手の出すサインに首を二回振ってから首を縦に動かした。早坂が振りかぶると同時に黒坂は念じる。
打ち取れ早坂。こんな奴に二打席連続でヒットを打たせていい気にさせるなよ。
黒崎は思い返す。ずっと心に残っている言葉を。
お前さ、何でまだ野球やってんの?
お前がいると練習になんねえんだよ、特に実戦形式の練習の時な。お前向いてないんだよ。野球だけじゃなくて、運動全般。自分でも分かってるだろ?高校野球じゃ全く通用しないって。もう辞めた方がいいと思うぜ。
カキーンという金属音と共に鋭い打球がショートの正面に飛ぶ。早大鶴ケ丘のショートは痛烈なゴロを捌いてセカンドに送り、セカンドはファーストに転送した。ダブルプレーだ。
ざまあみろ。
黒崎はほくそ笑んだ。
とっとと負けて、消えちまえ。
* * *
七回の裏。ついに試合の均衡が破られた。ツーアウトランナー一塁二塁の状況から、早大鶴ケ丘高校の四番打者の辛島にセンター前へのタイムリーヒットを打たれたのだ。センターの啓太は懸命にバックホームしたが、俊足の二塁ランナーの林田は送球が届く前にホームベースを踏んだ。
現在もツーアウト一塁二塁で五番の菊川(きくかわ)を迎えており、ピンチは続いたままだ。菊川は辛島に次いで長打力があり、勝負強いとてもやっかいな打者だ。芦田は主審にタイムを申告し、三鷹第二高校の内野手がマウンド上に集まる。
「まだ一点だ。次切れば全然問題ない」
三鷹第二高校の攻撃の機会はまだ二イニングある。早坂のピッチングは後半に入っても衰えることなく、さらに凄みを増していたがこの回を一点で切り抜けられればまだチャンスはあると芦田は考えていた。
「ああ。必ず逆転してやるから取られた点は気にせずに今まで通り投げろよ。お前なら抑えられる」
七回までで三鷹第二高校が早坂から放ったヒットはたったの三本だ。その三本の内、二本は四番の克也のヒットである。克也がはっきりと「必ず逆転してやる」と言い切れるのは決して根拠のない自信から来ている訳ではない。実際今日の克也は早坂のボールに合っている。四回の表の攻撃でゲッツーになってしまったショートゴロも飛んだコースが悪かっただけでいい当たりだった。だから克也の打席の前にチャンスを作ればきっとランナーを返してくれる。絶対にこのままでは終らせない。
「ねえ、俺達さ」
深瀬が口を開く。
「引退して卒業してからも集まって会ったりするのかな?」
深瀬の唐突な発言に皆がぽかんとしている。
「何だよ。お前、急に」
克也の表情は少し深瀬を心配しているようにも見える。
「深瀬、もしかして少し弱気になってる?」
セカンドの金平が深瀬に尋ねる。
「俺たちの引退はまだ先だぞ。絶対今日で引退にはしねえから」
サードの赤城も深瀬を案じて声を掛ける。
「いや、別に弱気になんかなってないし、この試合も全然勝てると思ってるけど、なんかふと思ってさ」
深瀬はあまり場の空気に捉われずに突拍子のないことを言い出すことがあるが、芦田も皆と同様に深瀬の発言に驚いた。いつものようにヘラヘラと笑っているところを見ると、本当に弱気になっている訳ではなく、ただ思い浮かんだことを口にしただけなのだろう。
「甲子園の決勝まで行ったとしても、このメンバーで当たり前のようにいられるのも後一か月もないだろ。それに来年の四月になったら、野球部だけじゃなく学校も卒業して皆離れ離れじゃん。なんか寂しいなって思ったんだよ」
芦田は深瀬がなぜこんな発言をしたのか理解した。きっと今のこの瞬間が楽しくて仕方ないのだ。だから高校野球、そして高校生活が終わった後はこのメンバーで過ごす時間などなくなってしまうのではないかと思ったのだろう。
「まあ、集まったりするんじゃないのかな。二個上の先輩達なんかよく集まって飲みに行ってるって聞くしね」
「あの人達は高校在学中にも飲みに行ってたらしいからな。絶対それは真似するなよ。高野連にバレたら後輩達に迷惑が掛かるんだからな」
克也が深瀬に釘を刺す。確かに今はどこで誰が見てるか分からない。実際に引退した後に居酒屋に居たところ目撃されて出場停止になった高校もある。
「俺達三年生は全部で十二人。黒崎も含めると十三人だけどさ」
深瀬の口から黒崎の名前が発せられ、芦田の心はもやもやした。昨日バッティングセンターで見かけ、声を掛けたら即座に走り去って行ってしまった黒崎。その後に送ったメールにも返信は返ってきていない。
「皆卒業して大学とか行って、就職したり結婚したりするじゃん。それぞれ九人子供作ってさ、練習試合しようよ」
一同に笑いが起きた。芦田も一瞬、今の試合状況も黒崎のことも吹っ飛んで笑ってしまった。
「そんなに子供作れるかよ、馬鹿」
その後も話は引退後、卒業後に何をしたいかで盛り上がった。今決勝戦を行っているということを忘れているかのように三鷹第二高校の三年生達は話し続けていた。深瀬の一言から始まった会話で皆の表情が柔らいでいく。
「じゃあ、そういうわけだから、卒業した後に甲子園の思い出話で盛り上がれるように頑張ろうぜ」
最後は深瀬が締めくくり、皆がマウンドから自分のポジションへと向かう。その姿は卒業後に皆がそれぞれの道を辿る模様を連想させた。
芦田はホームベースへと向かう途中に三塁側の三鷹第二高校のベンチ見ると、記録員(スコアラー)としてベンチ入りしている愛と目が合った。何かを訴えかけるような目だった。
明日の試合が終わってからじゃなくて。
芦田は昨日の言葉を思い出す。
甲子園行きを決めてからがいいな。
分かってるよ。必ず勝つから。
* * *
マウンド上で早坂が控え捕手に向かって投球練習をしている。軽く投げているだけなのにボールはとてつもなくキレている。それほど今日の早坂の調子は良かった。
「辛島。取った後のこの回重要だぞ。下位打線からだけど慎重にいこうぜ」
「はい」
坂上はベンチの前で、レガースとプロテクターを着けている辛島に声を掛ける。捕手としてはまだまだ頼りないが、打者としては文句のつけようがない。実際に今日も先取点となるタイムリーを放ち、四番としての役割をきっちりと果たしている。抜群の身体能力から繰り出される辛島のバッティングは坂上が嫉妬してしまうほどずば抜けていた。
防具を装着し終えた辛島はホームベースへと向かっていく。三鷹第二高校の攻撃は残り二回だ。いいタイミングで点が取れたと坂上は思った。
スコアボードを見ると七回裏のところに「2」という数字が光っている。七回の裏、早大鶴ケ丘高校は四番、五番の連続タイムリーで二点を獲得した。四番の辛島のタイムリーで押し寄せてきた流れから、もっと取れるのではないかと思ったのだが、三鷹第二高校の守りは粘り強かった。六番打者の新川(しんかわ)の打球は二遊間を破ってセンター前に抜けようかという鋭いゴロだったが、三鷹第二高校のセカンドの金平が飛びついて打球を好捕すると、そのまま二塁へトスしてスリーアウト目を取られた。金平は一見地味で目立たない選手だが、その動きは洗練されていた。三鷹第二高校の選手は野球を良く分かっており、いい選手がたくさん揃っている。このチームは決して運よく勝ち上がってきた都立高校ではない。勝ち上がるべくして勝ち上がってきたチームなのだと坂上は再認識した。
「八回の表。三鷹二校の攻撃は、六番、レフト、城田君」
早坂は左手に持っていたロージンバックをポンと落とし、右手のグラブと左手を胸の前に持っていく。大きく息を吐いてから辛島の出したサインに頷くと、グラブを頭の後ろまで持っていき、右足を大きく上げると鋭く左腕が振り抜かれる。
「ストライーク」
初球のスローカーブに城田は態勢を崩して空振りした。
いい入り方だ。残こされた攻撃はわずか二イニングということもあり、焦って打ちに来る打者の心理を利用してこの球を選択したのなら、辛島も少しは成長したのではないかと坂上は感じた。八回表が始まる前に「慎重にいこう」といった坂上の意図をきちんと汲み取っているように思える。もっとも、ただの偶然で初球のスローカーブを選択したということも考えられるが。
二球目はフォークボール。これも城田は空振りし、あっという間に追い込んだ。
「絶好調だねー、早坂」
「いいぞいいぞ。どんどん攻めろ」
「城田―。落ち着いて良く見ていけ」
「広く広くー」
ツーナッシングと追い込んでから、早坂は一度首を振り、投球モーションに入る。しなやかで力強いフォームから繰り出されたボールはとんでもないスピードに見えた。150km/hを超えているんじゃないかと思うくらいに。
「ストライーク、バッターアウト」
早坂の渾身の外角低めのストレートに城田は手が出なかったようで、見逃し三振に倒れた。それも三球三振。坂上が電光掲示板を見ると、144km/hという球速が表示されている。今日一番のスピードボールだ。
今の球には早坂の気持ちがこれでもかというぐらいに込められていた。チャンスはやらないぞと相手に見せつける強い気持ちが。
「七番、ライト、加賀君」
甲子園まであとアウト五つ。残りのアウトの数が減らば減るほど、投手に掛かるプレッシャーはとてつもなく大きくなっていく。
「ストライーク」
七番の加賀は初球のストレートを見送った。今のはベルトの高さのボールだったのだから、手を出すべきボールだろう。プレッシャーが掛かっているのは相手も同じかと坂上は思った。
「加賀―。積極的に行け」
「自分のスイングー」
三鷹第二高校ベンチから発せられる声は今までよりも大きくなっているが、それは焦っていることの裏返しだ。この八回で点が取れなければ、九回の攻撃時に掛かるプレッシャーは膨れ上がるため、何としてもこの回に点が欲しいのだろう。だが客観的に見て、三鷹第二高校の下位打線の打力と早坂の実力はかけ離れすぎている。奇跡なんて起きないよ。
加賀はツーナッシングと追い込まれてから、ストライクからボールになるフォークに手を出して空振り三振に倒れた。
「二者連続三振。いいねー早坂」
「お前の球は誰も打てねーよ」
「さあ、三人で切ろうぜ」
八番の村岡は初球のストレートを簡単に打ち上げ、ピッチャーフライに倒れた。得点した後の守備を三人で終えられたことは大きい。もうこの流れは誰にも止められない。早坂のピッチングは崩せない。
* * *
「今までやってきた練習を信じよう。俺達なら絶対追いつける」
三鷹第二高校野球部はベンチの前で円陣を組んでいる。
「泥臭く、粘り強い、俺達の本来の野球を見せようぜ」
芦田はキャプテンとして皆を鼓舞する。いよいよ最終回の攻撃が始まる。三鷹第二高校は二点ビバインドで九回表の攻撃を迎えようとしていた。
「必ず出て芦田さんまで繋ぎますから任せてください」
啓太が力強い目で芦田を見る。その表情と声にはこの回の打席への決意がにじみ出ている。
「ああ。頼んだぞ。一人一人が繋ぐ意識を持って行こう」
「俺まで繋いでくれれば絶対に逆転してやる。気合入れて行こうぜ」
克也は自信に満ち溢れている。今日の試合で唯一早坂のボールに合っているのが四番の克也だ。九番の深瀬から始まるこの回の攻撃は一人出れば芦田に回る。芦田が出れば、克也まで回る。克也まで回せば絶対に何かが起きる。
「逆転」
「おぉー」
絶対に勝つ。あの早坂から最低でも二点は取らなければ試合は終わってしまうのだから、厳しいことはわかっていたが、それでも芦田は諦めてなどいなかった。
「九回の表、三鷹二校の攻撃は九番、ピッチャー、深瀬君」
三塁側のベンチから、バッターボックスに入った深瀬の背番号一番が見える。ここまで力投したエースの背中を見ると、深瀬のここまでのピッチングを無駄にしてはいけないという思いに駆られる。
「深瀬―。思い切っていこうぜ」
「いつも通り、リラックスしていきましょう」
深瀬は投手であることを考慮して九番に入っているが、バッティングのセンスはなかなかいい。追いつけば九回の裏のピッチングが残っているし、代打を出すという選択肢は三鷹第二高校にはなかった。
マウンド上の早坂からは相変わらず険しいオーラが出ている。初回からここまで決して気を緩めてなどこなかった。
早坂が投じた初球は大きく高めに外れたボール球となった。
「ナイス選、ナイス選」
「よく見極めていこうぜ」
「早坂、楽に楽に」
はっきりした高めのボールのストレート。相手投手の早坂は明らかに肩に力が入っている。どんなに甲子園で経験を積んだ選手でも、この場面で緊張しないはずはない。
早坂は帽子を取って額の汗を拭ってから、左手に丁寧にロージンバックを染み込ませる。深瀬に対する二球目。早坂は一度首を振ってから投球動作に入る。鋭い腕の振りから、緩いボールが投じられる。スローカーブだ。
「ストライーク」
主審のコールが耳に入ってくる。深瀬は全く打つ素振りを見せずに見送った。これでボールカウントはワンボールワンストライク。
「早坂ー。ナイスボール」
「打たせていこうぜ」
次は何で来る。俺が向こうのバッテリーならここは、まだこの打席で一度もバットを振っていない深瀬に手を出させるボールを選択する。
三球目、深瀬はストライクからボールになるフォークボールを空振りする。三塁側のベンチからは右バッターボックスの深瀬の表情は見えないが、スイングが硬い。
「深瀬、楽に楽に。肩の力抜いていこう」
卒業した後に甲子園の思い出話で盛り上がれるように頑張ろうぜ。
いつもヘラヘラ笑っている深瀬だが、野球にかける想いは人一倍だ。ずっとバッテリーを組んできた芦田は深瀬の努力も本気で甲子園に行きたいという想いも知っている。そんな深瀬に何て声を掛けるべきか慎重に考えてから声を出す。
「深瀬、楽しんでいこう」
掛ける言葉はこれが一番だと思った。野球を楽しむことがモットーの深瀬には。
「深瀬君。頑張れー」
マネージャーの愛も大きな声援を送る。皆も腹の底から声を出している。何とか出塁してくれという想いを乗せて。
四球目。深瀬はバントの構えを見せる。ツーナッシングからセーフティ?
深瀬はバットを前に押し出して投手の早坂と前進して来たファーストの間に打球が転がる。プッシュバントだ。
「上手い」
思わず声に出していた。それほどいいバントだった。一塁ベースカバーに入ろうと走っていたセカンドの吉田が切り返して打球を追う。投手の早坂は一塁ベースカバーに走る。深瀬も一塁に全力で走る。吉田が打球を素手で掴んで、態勢が崩れたまま一塁に送球する。一塁にヘッドスライディングする深瀬の手とボールのどちらが速く到達したのか分からないぐらいのタイミングだった。
一塁塁審の判定を待つ時間がとても長く感じられた。皆が固唾を呑んで見守っている。
「アウトー」
懸命な深瀬のプレーだったが、審判からはアウトが宣告された。惜しいプレーたっただけにベンチにいる皆が悔しがっている。
「一番、センター、中島君」
「啓太、ここからチャンスを作って行こうぜ」
ウグイス嬢のアナウンスに続いて、ベンチからは啓太に声援が送られる。ワンナウトを取られたが、誰もが気落ちせずに前を向いている。その姿を見て一瞬芦田の涙腺が緩みかけるが、何やってんだと自分で自分を叱咤する。皆と同じように前を向かないと。キャプテンだろ。
一塁キャンバスから深瀬が戻ってくる。ヘッドスライディングをしたため、ユニフォームはドロドロだ。
「いいバントとダッシュだったぞ」
「ナイスファイト」
「出れなくて悪い」
珍しく真顔で深瀬が謝る。それだけ塁に出たいという気持ちが強かったんだろう。
「深瀬。九回裏にまだ仕事が残ってるんだから、頼んだぞ」
芦田は絶対追いついてやるからという想いを込めて、深瀬に声を掛ける。
「うん。準備して待ってるよ」
一番打者の啓太がバッターボックスに入り、二番の金平がネクストバッターサークルに入る。芦田はヘルメットとバットを取りにベンチの端に向かう途中、愛の姿が視界に入った。スコアブックに向かい、ペンを握りしめている右手が小刻みに震えている。
「愛」
愛が芦田の声に反応し、こちらを振り向く。
「大丈夫だよ。勝って戻ってくるから」
愛は目に涙を浮かべてながらコクリと頷く。そしてバッターボックスへと向かって声を出す。
「中島君、積極的に行こう」
芦田はヘルメットをかぶり、バットを手にする。芦田が二年と四か月使い続けてきたバット。このバットを今までどれだけ振ってきただろうか。振った分だけの何かがきっとバットに宿っているはずだ。芦田はそう思い、バットを握りしめてグラウンドを向く。
「ストライーク」
啓太のバットが早坂のストレートに対して空を切る。終盤に来て球威が増しているように見える。
「悪くないスイングだぞ。自信持って行け」
二球目は外れてボールカウントはワンボールワンストライク。
そして三球目。内角低めのストレートを啓太は振りぬくが、球威に押されて高いバウンドのゴロになる。が、打球の飛んだコースがいい。三遊間の深い所だ。
「啓太―。走れー」
チーム一の俊足を飛ばして啓太が一塁ベースに向かう。ショートの林田が打球に追いつき、右足で踏ん張ってノーステップでファーストへ送球する。一塁ベースの手前で啓太が両手を前に出して倒れ込む。頼む、セーフであってくれ。心の中でそう懇願し、審判のコールを待つ。
「セーフ」
コールが聞こえた瞬間に三鷹第二高校ベンチは湧いた。
「よく出たぞー」
「ナイスラン、啓太」
啓太が出塁した。これでダブられなければ、三番の芦田まで回る。芦田はネクストバッターサールに向かう。
「二番、セカンド、金平君」
「金平―。楽に行こう。いつも通りやれば大丈夫だ」
ネクストバッターサークルから見た金平の顔からは緊張の色が漂っている。この場面で緊張するなというのは無理な話だが、少しでもそのプレッシャーを解放できるならと思い、芦田は大声で金平へ呼び掛けた。
マウンド上の早坂はセットポジションの構えを作るとしばらく静止し、一塁へ牽制球を投じる。啓太は大きなリードを取っていた状態からヘッドスライディングで一塁へ戻る。九回の表。ワンナントランナー一塁。一塁ランナーにチーム一の俊足の啓太を置いた状態でどんな攻撃を仕掛けていくか。監督の青柳が出すサインを見終えると、啓太と金平はヘルメットのつばを触り、アンサーを出す。
早坂が再びセットポジションに入る。大きく上げた右足が今度はホームベースの方向へ動く。金平はセーフティバントの構えを見せてバットを引く。高めに浮いたストレートを見送りボールカウントはワンボールノーストライク。
金平に対する二球目も高めに抜け、ツーボールとなった。ここに来て珍しくボールが先行している。少しずつ流れがウチに傾いてきたのかもしれないと芦田は思った。
慎重にサインを交換してからセットポジションに入った早坂の右足が上がる。その右足がホームベースの方向へ入った瞬間啓太がスタートを切る。
「走った」
早大鶴ケ丘高校のベンチからランナーの状況を知らせる声が響く。早坂の振りぬいた左腕から放たれたボールにはスピードがない。スローカーブだ。金平の重心が前の方へ移動する。だが、金平は体を開くのをギリギリまで我慢してバットを振りぬく。一二塁間へ鋭いゴロが転がる。一塁ランナーの啓太はヒットエンドランでスタートを切っているため、一二塁間を破れば、ワンナウトランナー一塁三塁の状況で芦田に回ることになる。
「抜けろー」
セカンドの吉田は二塁ベース寄りに守っていたが、打球に対する一歩目が速く、飛びついて伸ばして左手のグラブに打球が収まる。吉田は起き上がると、二塁は無理と判断し、ファーストへ送球する。
「アウトー」
このプレッシャーが掛かっている場面であの打球に追いつき、捕った後も冷静に送球する姿を見ると、さすがに鍛えられている。
これでツーアウトランナー二塁。あとアウトひとつ取られれば、三鷹第二高校の三年生の高校野球は終わる。早大鶴ケ丘高校はあとアウトひとつ取れば、甲子園行きの切符を手にする。
「頼むぞー、芦田」
「絶対俺に回せよ」
皆の声を背中に受けて、芦田がネクストバッターサークルから立ち上がる。
「三番、キャッチャー、芦田君」
ネクストバッターサークルからバッターボックスへの道のりを芦田は一歩一歩噛みしめながら歩く。歩きながら頭の中で様々な出来事に思いを馳せる。中学時代、実力もないのに本気で何かに打ち込んでいる人間や空気の読めない人間を馬鹿にしていたこと。何事も要領よくそつなくこなし、力は入れずにほどほどに生きていくのが馬鹿を見ないで済むと思っていたこと。山内将太の自殺という取り返しのつかないことを起こしてしまったこと。それから少しでも変わろうと、一生懸命に生きようと思ったこと。一人一人と真剣に真正面から向き合おうと思ったこと。本気で甲子園を目指して練習してきたこと。黒崎が野球部を辞めてしまったこと。
どの出来事も今の芦田を作り上げている。全てを背負って芦田は右バッターボックスへ左足から踏み出す。
丁寧に足場を均してから、ホームベースの両端をバット触る。左手一本で持ったバットを投手の早坂の方向を向けて周りを見渡す。外野はやや深めの守備位置だ。芦田は長打力がある方ではないが、二点差がある今の状況から二塁ランナーを返されるのは良しとし、それよりも長打でチャンスを広げられることを警戒するシフトを敷いている。
次の克也に繋ぐことだけに集中しよう。
芦田は自分にそう言い聞かせ、構えを作る。マウンド上の早坂はロージンバックを左手に持ちながら、こちらを睨みつけるかのような険しい表情をしている。試合開始からずっと醸し出しているそのオーラは威圧感が溢れ出している。インタビューに答える爽やかな早坂とは打って変わったこの雰囲気。三鷹第二高校の打線がここまでわずか四安打に抑えられているのは早坂から感じるプレッシャーに萎縮してしまっているという理由もある。
「ヨッシャー、来い」
芦田は気が付くと、大声を絞り出していた。普段打席で声を出したりすることはない。何が自分をそうさせたのかは分からないが、絶対に負けたくないという気持ちがあるのだけは確かだった。
「早坂―。決めようぜ」
「自分のピッチングを貫いていこう」
早大鶴ケ丘高校の守備(バック)が早坂を盛り立てる。
「芦田―。強気で行け」
「芦田さん。繋ぐ意識だけ持っていきましょう」
三鷹第二高校の声援も負けていない。
早坂が右足を大きく上げてから左腕を鋭く振りぬく。芦田は思い切りバットを振りぬく。
「ストライーク」
速い。
「シャアアー」
芦田から空振りを取り、早坂が雄叫びを上げる。
「いいぞ。早坂。気持ち入ってるねー」
確かに今のストレートは速さだけじゃなく、気持ちの込もったボールだった。早坂の絶対に負けないという気持ちが。だけど、気持ちならこっちだって負けない。
「芦田さん、バット振れてますよ」
二塁ランナーの啓太から声が掛かる。啓太も内野安打で出塁し、この試合にかける気持ちを見せてくれた。キャプテンの俺がそれに応えないでどうする。
二球目は外にストレートが外れた。
「見えてる見えてる。ナイス選」
今のボールは見極められたが、それにしても早坂のストレートは速い。今の球の球速表示は142km/hと出ているが、もっと出ているように感じられるし、浮き上がると錯覚させるような軌道を見せている。
三球目。スローカーブに芦田のバットが空を切る。
「追い込んだぞー」
「今のお前の球は誰も打てねーよ」
低めのいいコースに決まったとは言え、今のはストレートを意識しすぎていた。ボールカウントはワンボールツーストライク。あとストライク一つ取られれば試合は終わってしまう。
芦田に対する第四球。内角高めの際どいコースにストレートが投じられる。そのストレートは芦田のバットの上っ面に当たり、後方に飛ぶファウルとなる。
「いいぞー。粘って行け」
「絶対打てるぞ」
五球目、六球目の際どいコースのストレートも芦田はファウルにする。一球ごとに自分の体が熱くなってくるのが感じられる。心臓の鼓動も聞こえてくる。
七球目。早坂の左手から放たれたボールが一瞬浮き上がるのが見えた。スローカーブだ。ボールはホームベースの前でワンバウンドする。早大鶴ケ丘の捕手の辛島がプロテクターにボールを当てて体の前に落とす。
これでツーボールツーストライクだ。早坂の顔を見ると大量の汗が流れている。それは芦田も同じだった。二人とも汗を拭うこともせず、ただ一心に次のボールへの準備をする。
八球目のストレートを芦田が一塁線のファウルゾーンに弾き返す。
「さあ来い」
芦田は間髪入れずに大声で叫び、構えを作る。早坂もそのテンポにつられるかのようにすぐにセットポジションに入る。そして投球モーションに入り、九球目が放たれた。
スピードのあるボールが外角低めに向かってくる。芦田はスイングを始動させるが、ボール近づくにつれて沈んでいく。フォークボールだ。だがもうバットは止まらない。芦田は懸命にワンバウンドしそうな低めのボール球にバットを当てにいく。頼む、当たってくれ。
ギリギリまで指先の神経を研ぎ澄ませて振ったバットにボールがかすった。打球は後方へ飛んでゆく。芦田はかろうじて難を逃れた。
「ナイスカットナイスカット」
危なかった。フォークが全く頭になかった訳ではなかったが、今のフォークはストレートに見えるぐらいスピードがあった。
早坂を見るとさすがに肩で息をしている。芦田が粘り続け、次で十球目になるのだから無理もなかった。
十球目のボールは早坂の左手からリリースされると一瞬浮き上がるかのように見え、そこから大きく曲がっていく。
カキーンという心地いい金属音と共にレフト線へ強烈なライナーが飛んでいく。が、わかずかに切れてファウルとなる。
「ああー惜しい」
「芦田。捉えているよ」
「絶対打てるぞー」
少し甘く入って来たスローカーブを芦田は見逃さなかった。だが、少し待ちきれなかった分だけ打球が切れてしまったのだ。
「いい当たりでもファウルはファウルだ」
「追い込んでるぞ、早坂」
十一球目。ホームベースの手前でワンバウンドするフォークボールを芦田きっちりと見極めてバットを止める。これでボールカウントはスリーボールツーストライ。フルカウントだ。
スローカーブは捉えた。フォークも見極めている。とすれば次の球は・・・。
芦田は一度深呼吸して早坂を見据える。その表情は打てるもんなら打ってみろよと言っているかのように見える。
早坂の右足が地面から離れる。軸足である左足から右足へ体重移動を行い、沈み込んで投げられたボールは内角へと真っ直ぐ向かってくる。芦田の読み通りストレートだ。捉えたと思った。だが、打球は芦田の真後ろへと飛んでいく。早坂のボールの手元での伸びは芦田の予想を上回っていた。その分ボールの下を叩いてしまった。
「らぁーーーーーーーーーーーーー!」
ファウルになった瞬間に早坂が叫び声を上げた。恐ろしい気迫だ。顔から滴り落ちる汗を気にもしていない。
次の球が十三球目。これだけ粘っても早坂の集中力は途切れない。
「タイミング合ってるぞ、芦田」
「押してる押してる。勝ってるぞ、早坂」
第十三球目。早坂がゆっくりと右足を上げる。大きく踏み出した右足に体重が移動し、鋭く体が回転する。しなやかで柔らかい左腕が鋭く振られる。
外角低めのストレート。際どいボールだ。芦田は無我夢中で食らいついた。早坂の投げたボールは芦田がフルスイングしたバットの芯に当たる。強烈な打球が早坂の顔めがけて飛んでいく。早坂がグラブを出してそのライナーを捕りに行くが、あまりの打球の速さにボールを弾く。弾いたボールは早坂の後方へ飛んで転がり落ちる。ツーアウトなので打った瞬間にスタートを切っていた二塁ランナーの啓太は三塁に到達し、芦田も一塁を駆け抜ける。ピッチャー強襲ヒットでツーアウトランナー一塁三塁。
「すげえぞ芦田。よく打った」
「信じてたぞ、キャプテン」
これ以上ない声が三鷹第二高校から聞こえる。芦田は振り返って四番の克也に視線を送る。後は頼んだぞ。
「四番、ショート、藤崎君」
同点のランナーを一塁に置いた状況で藤崎克也がバッターボックスに入る。
「克也―。今日のこれまでの打席のスイングを思い出せ。お前なら絶対打てるぞ」
四番打者の克也は今日の試合で早坂から二安打を放ち、当たっている。しかも二本ともクリーンヒットだ。誰もがその四番に期待している。
「甘い球あるぞ、積極的に行こうぜ」
「スタンドに放りこんでやれ。絶対打てるぞ」
「ツーアウト、ツーアウト。ここで切ろうぜ」
「早坂―。気持ちだ。ここは気持ちで行こうぜ」
両チームからの声援が飛び交う。芦田は一塁ベースを踏んだ状態でマウンドの早坂を見る。早坂は芦田の方を見て、一瞬口元を緩ませた。
何だろう、今のは。
口元が緩んだのは一瞬ですぐに今まで通りの険しい顔つきに戻ったが、今の早坂の表情が芦田は気になった。もしかしてこの状況を楽しんでいるのか?今日打たれている克也にリベンジできるチャンスだからか?それとも芦田の見間違いか?
芦田は一塁ベースから離塁してリードを取り始める。芦田のセーフティリードである六歩半分だけ足を動かすと、やや腰を落とした状態で早坂をじっと見る。早坂がセットポジションに入ってしばらく静止する。しばらく芦田の方を睨むように凝視してから右足を上げ、そのまま真っ直ぐ右足を突き出す。早坂の牽制球に対し、芦田は頭から戻る。一塁ベースを右手で掴みながら起き上がり、ユニフォームに付いた泥を払う。再び芦田はリードを取る。
今度は早坂の右足が素早く動いた。クイックモーションだ。早坂の投じたボールは外角低めに決まり、克也はそのボールを見送る。
「ストライーク」
審判の右手が上がり、歓声が聞こえてくる。
「ナイスボールだ、早坂」
「絶対守ってやる。自分を信じて思い切って投げろ」
「克也―。次甘い球来るぞ」
「打ってこうぜ、打ってこうぜ」
ツーアウト一塁三塁のこの状況で一塁ランナーの芦田が盗塁に成功すれば、ツーアウト二塁三塁となりシングルヒットでも同点に追いつける状況を作ることができる。だが、投手の球もモーションも速く、捕手の肩も強いこのバッテリーからと盗塁を決めるのは難しい。それに、ここで走るのは例え盗塁が成功しても、一塁を空けることで克也を歩かせる気をバッテリーに起こさせる可能性が増すのではないかと案じ、得策ではないと芦田は判断した。克也の次の打者である五番の赤城は全く早坂のボールに合っておらず、ここまで三つの三振を喫している。三鷹第二高校には代打の切り札となるような選手もいない。五番の赤城を信頼していない訳ではない。だが、客観的に判断すると事実上のチャンスは克也のこの打席しかないのだ。後は全てを克也に託そうと思った。
「克也―。お前の三年間を見せてやれ。」
塁上から芦田が叫ぶ。思えば克也との間には色々あった。芦田がキャプテンになってからは言い争うことも少なくなかった。だがそれでもここまで来た。本気で甲子園を目指して共にここまで走ってきたのだ。だから絶対甲子園に行こう。黒崎を含めた野球部全員で。
早坂が投球モーションに入り、二球目を投じる。スピードの乗ったボールが内角をえぐる。左投手(サウスポー)の早坂から右打者の克也に対し、対角線にボールが向かっていく。克也は迷わずにバットを振り出す。バットの軌道が体の近くの最短距離を通るインサイドアウトのスイグだ。カキーンという金属音が聞こえてきたのと共に芦田はスタートを切った。
真芯で捉えた速い打球がショートの頭上を越えるのが見えた。芦田は二塁ベースを回って三塁へ向かう。三塁ランナーの啓太は既にホームインしている。芦田が返れば同点に追い付ける。二塁から三塁に向かう間に芦田は考える。三塁を回るか三塁で止まるか。打球は左中間を破るかどうかは分からず、回り込んで取られた可能性がある。外野からの送球が逸れずに来れば、ホームインするのは厳しいかもしれない。だが、五番の赤城は今日全く当たっていない。チャンスはここしかないのだ。
三塁ランナーコーチャーの高橋は右腕をぐるぐる回している。ここは行くしかない場面なのだと自分に言い聞かせ、芦田三塁ベースを回った。
これ以上ないぐらい全力でホームベースを目指して走る。次のバッターの赤城が芦田から見て右側に両手を振っている。送球が内側に逸れているため、外から回り込めという指示だ。芦田は回り込んでスラインディングをすると、内側に少し逸れた送球が捕手の辛島にミットに到達したのが見えた。体を捻ってホームベースに手を伸ばす。届いてくれと願いながら。
* * *
九回の表。ツーアウトランナー二塁。打席には三番の芦田が入っている。
「すげえな、何球粘るんだよ」
「今の低めのフォークを良くカットしたよな。次の球で十球目だぞ」
「物凄い執念を感じるよな」
必死に早坂のボールに食らいつく芦田を見て、黒崎もこの試合にかける芦田の想いを感じ取っていた。二対〇と二点ビバインドで迎えた九回。正直黒崎は後半に地力の差が出て、もっと点差が開くだろうと予想していた。だから強力な早大鶴ケ丘打線をここまで二点に抑えていることには驚いていたが、あの早坂から二点を取るということは奇跡でも起きない限り不可能だろうとも思っていた。それでもこの九回、深瀬も啓太も金平も、そして芦田も全く諦めるそぶりなど見せず、絶対勝ってやるという気持ちが滲み出ていた。そのプレーは三鷹第二高校の敗北を願っていたはずの黒崎の心を揺り動かしていた。
十球目が投じられ、レフト線に強烈な打球が飛んでいく。
「おぉーーー」
観客達から歓声が上がるが、わずかに切れてファウルだ。だが、芦田が早坂のボールを捉えている。早坂俊介という超高校級の怪物を相手に堂々と渡り合っている。
十一球目はフォークが低めに外れてボールとなり、フルカウントとなる。そして十二球目は早坂の渾身のストレートをドンピシャのタイミングでスイングするが、打球はバックネットに突き刺さる。
「らぁーーーーーーーーーーーーー!」
投げ終わった後に早坂の雄叫びが聞こえてきた。グラウンドの外にいてもその迫力が十分伝わってくる。皆はこんな相手と戦っているのか。
十三球目。早坂の速い球を芦田が弾き返す。投手に真っ直ぐ向かっていった速い打球に反応して早坂はグラブを出すが、打球を弾いた。ボールは早坂の後ろに力なく転がり、ツーアウト一塁三塁となった。
「四番、ショート、藤崎君」
黒崎は三鷹第二高校の選手達のプレーを見て、震えが止まらなかった。二点差がある状況でこんな凄い相手に諦めずに必死に食らいついている。黒崎はスマートフォンを取り出し、昨日芦田から送られてきたメールの内容を確認する。
【今までキャプテンとして何も力になれずに本当に悪かった】
なんで俺はずっと人のせいにしてばかりいたんだろう。
【もう嫌かもしれないけど、もしよかったら明日の決勝戦見に来てくれないか?】
チームメイトと上手く馴染もうと努力もせずに、チームの居心地が悪くて逃げ出した。何もかも人のせいにして、他人を憎み、自分の落ち度は棚に上げて。
【明日は俺達の三年間の集大成だから】
何で逃げ出してしまったんだろう。何であんなに馬鹿なことばかり考えていたのだろう。
【野球部全員に見てて欲しいんだ】
自分を必要だと言ってくれる仲間がいるのに。
【甲子園行きを決めて待ってるからな。黒崎が戻って来れるように】
黒崎は野球部を辞めたことを後悔すると共に自暴自棄になっていた自分を恥じた。気づけば黒崎の目からは涙が零れ落ちていた。
カキーンという爽快な金属音が聞こえてくる。黒崎は打球の行方を追う。打球はショートの頭を越え、左中間を破ろうとするがセンターが回り込んで捕球する。三塁ランナーな啓太はホームインし、一塁ランナーの芦田は二塁を回って三塁に向かう。そして、三塁も回った。ホームに突っ込むのであれば正直タイミングは厳しい。送球が逸れるのを期待するしかない。センターからの送球は一塁側にやや逸れている。捕手の辛島に送球が到達する。芦田は外側から回り込んでタッチを交わすようにスライディングをし、ホームベースに左手を伸ばす。辛島がミットをホームベースに伸ばす。頼む、セーフであってくれ。黒崎は心の底からそう願った。
しばしの間、静寂が訪れた。試合をしている選手達、ベンチで見守る選手達、スタンドで応援する選手達、スタンドにいる観客達が主審の判定をじっと待っている。
「アウトー」
主審がアウトを宣告した瞬間、三鷹第二高校野球部の夏が終わった。夏の予選を二連覇している王者早大鶴ケ丘高校にここまで食い下がったからなのか、スタンドからは三鷹第二高校に対するエールが送られている。
「よくやったぞー、三鷹二校」
「立派だったぞー」
黒崎は椅子から立ち上がり、精一杯大きな音で拍手をした。三鷹第二高校野球部の選手全員の健闘を称えて。
* * *
「アウトー」
間近から主審の判定が聞こえてきた。タッチをかわすために外側から回り込んでホームベースに左手を伸ばしたが、ホームベースに触れる前に辛島のミットが伸びてきた。
判定を聞いてから芦田はその場にうずくまって動かなかった。
二対一。ゲームセット。決勝戦敗退。
頭の中で現実の状況を反照する。あそこで三塁ベースを回ってホームに突っ込んだ判断は客観的に考えて、正しかったと思う。同点に追い付くチャンスはあの時しかなかったのだから。でも届かなかった。届かなかったのだ。
本気で勝ちにいった。泥臭く、粘り強く、真剣に。昔の自分が鼻で笑っていたような何かに本気で取り組むということをずっと続けてきた。だからこそ、力が足りなかったことが悔しくて悔しくて、芦田の目からは涙が流れ出る。
「芦田、よく走った」
「ああ、これ以上ない激走だったぞ」
チームメイトがアウトになったことを責めず、ねぎらいの言葉を掛けてくる。
「負けたのはもっと大きい当たりを打てなかった俺の責任だ」
右肩に手が添えられる。大きくてゴツゴツしたその手は克也のものだと分かった。
「そんなことないよ」
芦田は下を向いたまま涙声で応じる。
「いや、最後の打球はもっと角度が付けられる思ったんだけど、球威に押されて打球が上がらなかったんだよ。だからほんとに俺のせいだよ」
「負けたのは誰のせいでもないよ」
今度は深瀬が言葉を続ける。
「だから泣くなよキャプテン。整列までしっかりやろう」
芦田は下を向きながら、首を縦に振ることしかできなかった。チームメイトにこんな言葉を掛けられたら余計に涙が止まらない。本来なら皆のことをねぎらうのはキャプテンである俺の役目なのに情けねえな、俺。甲子園行きを決めるという愛との約束も黒崎に宣言したことも守れなかった。
「啓太」
キャプテンとしてまだやることがある。そう思って芦田は涙を拭いて立ち上がる。啓太も涙をボロボロと流している。
「最終回よく出てくれたよ。あれがなかったら、俺も打てなかった」
実際、九回表の攻撃は啓太の闘志溢れる内野安打での出塁から始まった。
「そんなこと・・・・・ないです」
啓太は涙ぐみながらやっとという感じで言葉を吐き出す。
「今日・・・・全然・・・・出塁できなくて・・・・すみませんでした」
嗚咽が止まらずに、啓太の言葉は途切れ途切れになる。そこまでこの試合、そして三年生のことを想ってくれているのだと思うと芦田の目から再び涙が滲み出てくる。
「お前はよくやったよ。全然責められるようなプレーはしてない。これからはお前が中心のチームになるんだから、頼んだぞ。絶対甲子園行けよ」
「はい。ありがとうございます」
芦田はそれから他のメンバーにも声を掛けた。レギュラーメンバーにも、控えのメンバーにも全員に。
「芦田君」
声を掛けられて芦田がハッと振り返る。声の主は早大鶴ケ丘高校のエース、早坂だった。
「ありがとう」
右手を差し出し、寂しそうな表情で握手を求めてくる。試合中とは別人のようだ。何で勝ったそっちがそんな寂しそうな顔をしてるんだよ。それにありがとう?
早坂の言葉の真意は分からなかったが、右手を出して握手に応じた。
「こちらこそ、ありがとう」
今日の試合、全力で戦い合ったことに感謝を込めて。
* * *
「早大鶴ケ丘、三年連続甲子園出場おめでとう」
「早坂くーん」
「早坂―。甲子園にも応援行くからな」
スタンドから様々な種類の人間の声援が聞こえてくる。その声の中でも多いのが早坂に対するものだ。今日の試合、最後に一点を取られはしたが、早坂の調子は良かった。マウンドで気迫溢れるピッチングを見せるのはいつものことだが、今日の早坂は今までで一番気持ちが入っていたように思える。やはり最後の夏の甲子園をかけた試合だったからだろう。
グラウンドには早大鶴ケ丘高校と三鷹第二高校がバックネットの方向を向いて一塁側と三塁側に整列し、セレモニーが行われている。
「皆様、健闘した両校の選手に盛大な拍手をお送り下さい」
セレモニー終了の合図を告げ、優勝旗を持ったキャプテンの翔也からホームベースへ向かって歩き出す。ホームベースに達すると、そこからダイヤモンドを一周して歩き、ベンチへと戻ってくる。準優勝の三鷹第二高校も早大鶴ケ丘高校の後に続いて、同様の道筋を辿る。
決して三鷹第二高校を甘く見ていた訳ではないが、坂上もこんなに切迫した試合になるとは思わなかった。おそらく、この球場にいるだれもがそう思っているだろう。三鷹第二高校はセンターラインを中心にとてもいい選手が揃っていた。甲子園に出ていても何ら不思議のない選手が。エースの深瀬、正捕手の芦田、ショートの藤崎、セカンドの金平、センターの中島。この五人は特に突出していた。序盤の深瀬のピッチングには困惑させられたし、三番の芦田の粘り強さ、そして四番の藤崎の力強いバッティングには後一歩で甲子園行きの切符を奪われるところだった。決して都立の弱小校なんかではない。そんな相手に堂々と勝利した仲間たちがベンチに戻ってくる。
「坂上ー。お前のおかげで取ってこれたぜ、優勝旗」
優勝旗を手にしたキャプテンの翔也が嬉しそうな表情で坂上に声を掛けてくる。
「いや、俺は向こうの配球を決めつけるというミスをしたし、全然貢献できてないよ。優勝できたのは皆のおかげだよ」
本音だった。深瀬、芦田のバッテリーの序盤のインコース攻めにより序盤の拙攻はこの試合も外中心の配球で来る決めつけた自分にあると坂上は思ってたからだ。
「そんなことねえよ。お前がいなかったら優勝できてないよ」
キャプテンの翔也に肩をぽんと叩かれる。身長は坂上とほとんど変わらないのに、なぜか翔也がとても大きく見えた。
「坂上、今日の試合も君のデータのおかげで自分のピッチングが出来たよ」
早坂も坂上を評価してくれる。
「本当にありがとう」
こんなに真っ向からお礼を言われると、何だかとても照れ臭かった。だが、この時坂上は新チーム結成後、野球部を辞めずにマネージャーとして野球部に残ってよかったと心の底から思った。
「優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます」
球場から出ると、報道陣が待ち構えており、インタビューが行われる。早坂はいつも通りの曇りのない笑顔でインタビュアーの祝福の言葉にお礼を返す。
「非常に切迫したいい試合でした。今日の試合を振り返ってどう思いますか?」
「相手の三鷹二高が非常に強く、苦しい試合になりましたが、だからこそ自分のピッチングができたと思っています。優勝できたのはチームメイト達のおかげです。支えてくれた皆に感謝したいです」
これだけの大勢の記者に囲まれながら、冷静に、愛嬌良く振る舞う早坂の姿を見て坂上は自分だったら舞い上がってまともな返答ができないなと思った。早坂は一年生の時からそんな場所に立ち、誰からも評価されるようなコメントをするのだから凄いとしか言いようがない。人間としての器が自分とは全然違うのだ。
「今日の試合とは別の話になるのですが」
インタビュアーが質問を続ける。
「昨日お父さんが無事退院されたそうですね。早坂選手はそんなお父さんに優勝というこれ以上ないプレゼントを送ることができた訳ですが、優勝の報告と共にお父さんにどんな言葉を送りたいですか?」
早坂の父が入院していたという話は聞いていた。そうか、退院できたのか。
「今日の試合が終わったら、勝っても負けても言おうと思っていたことがあります」
早坂の顔から笑顔が消え、真顔になった。今までに見たことのないような冷たい表情だ。
「昨日、東京都の高野連に脅迫状が届いたと思います。文書の内容はこうです。7月二十八日の西東京大会の決勝戦終了後、一人の人間を殺す。なお、警察への連絡はもちろん決勝戦の中止、順延は絶対に許さない」
高野連に脅迫状?一人の人間を殺す?一対何を言ってるんだ?早坂。
「あれは僕が送りました」
周囲がざわめく中、早坂はほくそ笑んでいた。
だが絶対にやり遂げる。高野連に送り付けた文書通りのことを。
* * *
七月二十八日。神宮球場では十三時から行われる西東京大会の決勝戦前の両チームの練習が行われている。今日も夏の太陽の光が容赦なく球児たちに降り注がれて、汗がほとばしる。
三鷹第二高校はランニングをした後にラダーを使ったウォームアップを終え、これからキャッチボールを行っている。声はよく出ているのだが、芦田孝太郎には皆の表情が少し硬いように見える。甲子園を決める決勝戦であるし、相手が相手なのだから仕方のないことではあるのだが。
「オーケー。ナイスボール。さあもっと声出してこうぜ」
芦田の隣では藤崎克也が大声を張り上げている。それだけ声を出しているのは、気合が入っているからというよりも声を出していないと不安が押し寄せてくるからのように思えた。それは克也だけでなく皆同様で、いつもより声が響き渡っている。
正捕手である芦田のキャッチボールの相手はエースの深瀬透だ。深瀬はこんな時でもいつも通りの笑顔でボールを要求してくる。芦田が深瀬にボールを投げ返すと深瀬のサイドハンドから投じられたボールは芦田の胸に前にきっちりと決まる。腕の振り、ボールの回転も調子のいい時の深瀬だ。まだキャッチボールではあるが、ピッチングはキャッチボールの延長である。キャッチボールがしっかりできていないとピッチングの出来も良くはならない。
キャッチボールも終盤を迎え、選手全員が少しずつ投げる距離を縮めながらテンポを速める。キャッチボールが終わった後、深瀬はブルペンに入り、芦田は自分達のシートノックが始まるまでは投球練習に付き合う。後攻の早大鶴ケ丘高校が先にシートノックを行い、その後で三鷹第二高校のシートノックを行う予定になっている。
「シートノックの準備しとけよ。きびきび動いていこう」
「おぉー」
キャッチボールが終了し、キャプテンの芦田の号令に皆が威勢よく応じる。額から流れ出る汗を拭いながら、皆がベンチへ向かって走る。
「早大鶴ケ丘高校、ノックを始めてください。時間は七分間です」
アナウンスと共に早大鶴ケ丘高校のシートノックが始まった。芦田は深瀬のボールを受けながら、時折その様子を観察する。シートノックが始まると本当にいよいよ試合なんだという実感が湧いてきた。まずはボール回しがホームベースにいる捕手から始める。早大鶴ケ丘高校の正捕手の辛島太一がホームベースから一塁にボールを投げ、一塁から二塁にボールが送られる。ボール回しを見ただけで早大鶴ケ丘高校が今まで戦ってきた相手とは実力の次元が違うことがよく分かる。ボールを捕ってから投げるまでが速く、肩の強い選手も多いため、当然スピード感がある。その上送球(スローイング)の正確さも群を抜いている。芦田はボール回しを見ただけで圧倒されそうになった。
「芦田、次シンカー」
深瀬の呼び掛けに芦田はハッとして振り返る。この程度のことで相手に圧倒されてどうするんだ。地力の差があることは最初から分かっていたことであるし、それでも勝機があるのが野球というスポーツだ。今は深瀬のボールの状態を確認することに集中しようと芦田は思い直した。
「ナイスボール」
深瀬のボールの状態はいい。低めに集まっているし、ストレートも走っている。これなら十分戦えると思った。
「お待たせいたしております。本日の試合に先立ちまして両校のスターティングメンバー並びに審判を紹介いたします」
スターティングメンバーのアナウンスが始まった。
「先攻は三塁側、三鷹二高。一番、センター、中島啓太君。センター、中島君。背番号八。二番、セカンド、金平純一(じゅんいち)君。セカンド、金平君。背番号四。三番、キャッチャー、芦田孝太郎君。キャッチャー、芦田君。背番号二。」
* * *
打順(オーダー)を変えてきたか。
準決勝まで六番だった中島を一番に。一番だった芦田が三番に。三番だった城田を六番に変えてきた。中島と芦田は今大会当たっており、逆に城田は当たっていない。そう考えるとこの打順(オーダー)変更は順当とも思えるが、準決勝までずっと同じだった打順を変えるということはそれまで慣れ親しんだ選手の役割を変えることになるため、リスクにもなる。三鷹第二高校はウチのチームを少しでも攪乱しようという狙いで打順(オーダー)変更を行ったのだろうと坂上大輔は考える。だが、ウチのチームは予想していた打順が変わったぐらいであたふたしたりはしない。
三鷹第二高校のシートノックも終わり両校の選手が整列するのを記録員(スコアラー)である坂上はベンチから見つめる。いよいよ試合が始まる。皆頑張ってくれ。
審判が試合開始を告げると、後攻の早大鶴ケ丘高校は守備に就き、先攻の三鷹第二高校はベンチに戻っていく。マウンドに上がっている早大鶴ケ丘高校のエース、早坂俊介は二年生の正捕手である辛島太一に向かって投球練習を繰り返す。坂上は今朝から早坂の表情が硬く、口数も少なかったことが気になったが、今行っている投球練習では力みのないフォームで投げられている。甲子園のかかったこの試合、強烈なプレッシャーがかかっているのはウチのチームだけではない。ましてや相手は予選の決勝という舞台も初めてなのだから、より一層の緊張があるのではないか。
投球練習の最後のボールを受け、辛島が二塁にボールを送る。相変わらず肩が強く辛島の投げたボールはとんでもないスピードでショートの吉田翔也のグラブに吸い込まれる。翔太が他の内野手へとボールを回し、最後は投手の早坂へとボールを戻す。坂上はバッターボックスに向かっている三鷹第二高校の一番打者の中島を見ながら、昨日のミーティングを振り返る。
「続いて攻撃面の説明に入りますね。一番注意する必要があるのは四番の藤崎です」
三鷹第二高校の四番の藤崎克也。体格も良く、攻守共にチームのキーマンになる選手だ。
「まず警戒するのは長打力ですが、長打力だけではなく、ボールへの対応能力も群を抜いています。この映像を見てください」
画面には低めのボール球の変化球を大勢を崩しながらも外野まで持っていき、タイムリーヒットを打った藤崎の映像が映っている。
「ストレートにも強いんですが、落ちる球や逃げる球を拾うのがとても上手い選手です。ただ、その自信から来ているのかは分かりませんが、明らかにボールと分かる変化球に手出して自滅するケースが見られます。このバッターを打ち取るにはその欠点を突くべきでしょう」
「他のクリーンナップ、三番の城田と五番の赤城ももちろん警戒する必要があるとは思いますが、今大会はあまり当たりがありません。この二人よりも警戒が必要なのは一番の芦田と六番の中島だと思います」
三番の城田は変化球に弱くチャンスメイクが出来ていないようだし、五番の赤城はそこそこのパンチ力はあるようだが、打率が非常に低く、勝負強さもあまり感じない。
「まず一番打者の芦田です。非常に粘り強い打者で出塁率が非常に高いです。長打力はありませんが、足を絡めた揺さぶりもしてきますし、キャッチーということもあり、狙い球の絞り方が秀逸だと思います。ある意味最もやっかいなバッターかもしれません」
坂上は六番の中島のバッティングに映像を切り替えて説明を続ける。
「そしてこのバッターが六番の中島です。まだレギュラーメンバーで唯一の二年生ですが、非常にセンスを感じさせる選手です。足も速く長打力もある左バッターで、今大会は五割二分三厘という驚異の打率を残しています。このバッターも狙い球を絞ってバッティングをするタイプのように見えますので、一番の芦田同様に打ち取るためには狙い球を察知することが必要です」
六番から一番に昇格した中島がバッターボックスに入る。審判がプレイ開始を告げると、試合開始のサイレンが球場に鳴り響く。マウンド上で振りかぶる早坂を見て、頼んだぞ早坂、と心の中で祈りながら坂上は固唾を呑んでいた。
* * *
「一回の表。三鷹二高の攻撃は、一番、センター、中島君」
啓太が左バッターボックスの土を均し、右手でバットを振り子のように二回振ってからいつものようにオープンスタンスで構える。
「啓太―。思いきって行けよ。甘い球が来たらガンガン打っていっていいからな」
三番打者の芦田はヘルメットをかぶり、バットを持った状態でベンチから声援を送る。甘い球は逃さない積極性が啓太の持ち味だ。打順が変わってもその持ち味は変えずに活かしていって欲しい。
「さあ、行こうぜ行こうぜ」
「啓太―。初球から初球から」
ベンチにいる部員全員が、腹の底から大きな声を啓太に届かせている。スタンドから聞こえる吹奏楽部の演奏も選手を後押ししてくれる。
「啓ちゃん、初回から楽しんで行こう」
ベンチ前でキャッチボールをしている深瀬も啓太に声を送る。人で埋め尽くされたスタンドからは早坂俊介を応援する声が多く聞こえてくるが、この雰囲気に呑まれずに楽しんでやるぐらいの余裕を持って欲しいのは確かだ。
左投手(サウスポー)の早坂が大きく振りかぶり、しなやかなフォームからボールを放つ。一球目のストレートに啓太のバットが空を切った。ストレートを狙っていたようだったが、バットの軌道はボールの下。甘いコースではあったが、それだけボールが来ているということだろうか。電光掲示板には136km/hと球速が表示されているが、ベンチから見ていてもスピードガンの数字以上の球速を感じさせる。打席に立っている啓太にはもっと速く見えるのだろうか。
二球目はワンバウンドするボール球のフォークに啓太のバットが止まる。相手の二年生捕手の辛島はワンバンドしたボールをプロテクターできっちりと前に落とした。
「ナイス選。見えてる見えてる」
そして三球目。早坂が投げるタイミングと同時に啓太はバントの構えを作る。セーフティバントは三塁線のいいコースに転がり、これは行けると一瞬思った。しかし、投手の早坂がもの凄いスピードでボールに追いつき、体を反転させて一塁に送球する。ギリギリのタイミングだったが判定はアウト。
「オッケーオッケー。狙いはいいよ」
あまりに惜しいバントだったため、一瞬ベンチからはため息が漏れたが、すぐに切り替え、啓太にねぎらいの言葉が掛けられる。バントしたコースも打球の勢いの殺し方も悪くなかったが、早坂のフィールディングが素早かった。さすがに名門校のエースナンバーを背負っているだけのことはある。ピッチングだけじゃなく守備も鍛えられている。
二番打者の金平が打席に向かい、芦田はネクストバッターサークルへと移動する。芦田は一塁からベンチに帰ってくる啓太を手招きして呼び寄せる。
「啓太。早坂の球はどんな感じ?」
「ストレートはすごい速く見えますよ。145km/hは出てるんじゃないかってぐらいに。それに手元で伸びてきます。あのボールを捕まえるのはなかなか難しいじゃないかと思います。それに・・・」
啓太が少し言葉を詰まらせる。
「ベンチからでも分かるかと思いますが、もの凄い威圧感を感じます。あんなに威圧感を感じるピッチャーに当たったことは今までないです」
確かにマウンドに上がった早坂の雰囲気はテレビのインタビュー等で見る爽やかさとは全くの別物だ。
「なるほど。それが分かっただけでも得たものはあるよ。ほんとに悪くないバントだったぞ。切り替えていこう」
「はい」
啓太がベンチに戻って行く。啓太の打席から得た情報を決して無駄にはしないようにと芦田は自分を戒める。
「二番、セカンド、金平君」
芦田がネクストバッターサークルにしゃがみ込むと二番の金平が左打席に立つ。三鷹第二高校の今日の一、二番は左打者が並ぶ。そしてクリーナップの三人は全員が右打者だ。
「金平、芦田。俺まで回せよ」
芦田の背後から四番打者の克也のドスのきいた声が聞こえてくる。分かってるよ、絶対回してやるからという思いを込めて芦田はベンチに向かって目配せをする。
金平に対しての初球もストレート。啓太同様に金平は初球を空振りする。
「スイングは悪くねえぞ。自信持っていけ」
克也の言った通り、金平のスイングの形は崩れていない。そしてタイミングも合っていた。それでもバットはボールの下を通ったのだから、啓太の言ったようにボールは手元で伸びているのだろう。
二球目のサインに早坂が首を振る。ビデオを何度も見て思ったことだが、早坂は捕手のサインに首を振ることが多い。そして首を振って投げる球は理に適った配球であった。おそらくピッチングの組み立ては二年生捕手の辛島ではなく、頭の良さそうな早坂がしているのだろうと芦田は踏んでいた。
「金平。思い切っていけ」
芦田は思い切ってあの球を狙っていけという意味を込めて、金平に声援を送る。
二度目のサインに首を縦に振った早坂が振りかぶる。右膝を腰の高さまで上げ、大きく踏み出した右足に体重を移動させ、鋭く腕が振られる。その鋭い腕の振りとは対照的に放たれたボールにはスピードがない。スローカーブだ。金平は前につんのめった形でそのボールを空振った。予想はしていたが、この球速差はやっかいだ。
金平はツーナッシングと追い込まれ、一球見せ球のボール球を見送った。ボールカウントはワンボールツーストライク。問題は次の球だ。二球目の空振りを見て、スローカーブを決め球に使うことも考えられるし、二球目のスローカーブを活かしてストレートで来ることも考えられる。
金平に投じた四球目は高めのストレートだった。金平はスローカーブが頭に残っていたのか中途半端なスイングで空振りの三振を喫した。
「早坂―。ナイピッチ」
向こうのベンチは一、二番を打ち取ったことで盛り上がっている。初回から主導権を握られてたまるか。芦田は心の中で煮えたぎる思いと共に打席に向かった。
「三番、キャッチャー、芦田君」
「頼んだぞ、キャプテン」
「芦田、お前なら打てるぞ」
アナウンスとベンチからの声援と共に芦田が右バッターボックスに入る。バットの先端でホームベースの右上と左上を優しく触り、外角と内角の位置を確かめると左手でバットを投手の方向へ向けながら早坂の表情、早大鶴ケ丘高校の守備位置を確認する。早坂の表情は鬼気迫るものがあり、一人たりともランナーは出さないとでも言わんばかりの気迫が感じ取れる。ツーアウトランナーなしのこの状況、守備位置は内外野共に定位置で、二遊間がやや広いため、芦田は基本のセンター返しを試みようと思った。一球目は何から入ってくるか。前の一、二番にはストレートのストライクから入っている。
芦田への一球目、早坂は一度首を振ってから頷き、投球モーションに入る。リリースしたボールは一瞬ストレートかと思うほどスピードがあったが、ホームベースの手前で急激に落下するフォークボールだ。ワンバウンドするボール球のフォークを芦田は見送った。芦田は一球目は何が来ても見送ると決めていたため、手を出さずに済んだが、ストレートを狙っていたら手を出してしまったからもしれないと思う程キレのあるフォークだった。前の二人とは異なる初球の入り方でボールカウントはワンボールノーストライク。ここはストライクが欲しいため、確実にカウントを取れるボールで来るだろう。
「次の球狙ってけー」
ネクストバッターサークルから克也の声が聞こえる。
二球目の外角のストレートは芦田のバットの上っ面にかすり、右後方へ飛ぶファウルとなった。ほぼベルトの高さのボールであったのにも関わらず、仕留め損ねた。しかも振り遅れている。確かにこのストレートは速くて伸びがある。スピードガンの数字は137km/hと出ているが、それ以上の速度に感じられるのはなぜだろうか。特に変わったピッチングフォームでもないのに。
三球目は外角低めいっぱいの際どいストレート。厳しいコースだったため芦田は見送ったが、審判からはストライクのコールが聞こえてくる。これで追い込まれてツーナッシングだ。
「広く広くー」
「上から叩いてこうぜ」
次の四球目、おそらく勝負球が来るだろう。一般的にツーストライクと追い込まれると打者は見逃し三振を恐れるため、ストレートを待って全ての変化球に対応しようとする。変化球を待ってストレートに対応するのは難しく、見逃し三振を喫してしまうことになる可能性が高いからだ。だが芦田はセオリーに反し、追い込まれたこの状態で変化球にヤマを張っていこうと決めた。
早坂の左手からボールが離れる。ボールが離れた瞬間にボールが浮き上がったように見えた。そこから大きく曲がりながら落ちていく早坂のスローカーブは芦田の膝元の際どいコースに向かってくる。芦田は少しつんのめりながらもバットにボールを当て、三塁側へ鋭いファウル放つ。打球は三塁側のスタンドへと入っていく。
「捉えてるよー」
「打てるぞ芦田―」
芦田はスローカーブを待っていたが、それでも態勢を崩したスイングになり、ファウルにするのが精一杯だった。膝元の厳しいコースであったため、フェアゾーンに入れるのは難しいボールではあったが。100km/hを割るスピードでストレートとの球速差がある上に大きな落差のスローカーブは想像以上のボールだった。
「追い込んでるよー。早坂」
今のスローカーブへの対応を見て、早大鶴ケ丘高校のバッテリーは次のボールに何を選択してくるだろうか。今のスローカーブを活かして速いボールで勝負してくるか。
芦田に対する五球目、早坂の投げたボールは内角にうなりを上げて迫ってくる。芦田は思い切りバットを振るが、打った瞬間に差し込まれたと思った。バットの根本に当たり、詰まった打球は力なくセカンドの頭上に上がる。早大鶴ケ丘高校のセカンドの吉田が難なくセカンドフライを捕球し、スリーアウトチェンジ。球威のあるボールに押されてしまった。初回の攻撃で流れを作りたかったのに。
「芦田さん。切り替えて守っていきましょう。守りからリズム作りましょうよ」
啓太の声が響いてくる。そうだ。攻撃で流れを引き寄せられなかったのなら、守りで流れを引き寄せればいい。芦田はベンチに戻ってレガースとプロテクターを手に持ち、既にマウンドに上がって控え捕手相手に投球練習を始めている深瀬に声を掛ける。
「深瀬、頼んだぞ」
「任せろ」
一回の裏の守備。芦田は考えに考えてきた配球を早大鶴ケ丘高校の打線に試してみたくてうずうずしていた。
* * *
「早坂、ナイピッチ」
「このリズム、攻撃にも持っていこうぜ」
一回の表を三者凡退で切り抜けた選手達がベンチに戻ってくると、ベンチの選手から賞賛の声、選手を奮起させる声が浴びせられる。皆で円陣を組み、キャプテンの翔也が気合入れの声を上げる。
「先取点―」
「おぉー」
円陣が解かれて選手達がベンチに戻ると、早坂は皆に賞賛の声を送られながらハイタッチ交わし、ベンチの奥に引っ込む。タオルを頭に被って自分の世界に入るいつも通りの早坂の姿。早坂はいつも試合中にはあまり言葉を交わさず、一人になって何かを考えていることが多い。坂上は一回の表の早坂のピッチングを見て、今日は調子が良さそうで安心した。これなら完封も十分に狙えるだろう。
「一回の裏。早大鶴ケ丘高校の攻撃は、一番、ショート、林田(はやしだ)君」
林田が右バッターボックスに入り、ベース寄りに立ち位置を取って構える。打ち合わせでは三鷹第二高校バッテリーは外角中心の配球で来るため、ベース寄りに立って来た球に逆らわずに打って行こうと決めた。
「林田―。狙ってけよ」
ネクトバッターサークスに入っているキャプテンの吉田翔也の大きい声が響く。翔也の声はとてもよく通るので、どんな遠くからでも翔也の声がすると分かる。
マウンド上の深瀬は捕手の出すサインに頷き、振りかぶらずに胸の前にグラブを構えたままのノーワインドアップの態勢を作る。しっかりと体重を軸足から左足へ移動させて、沈み込んでから右横手からボールが投じられる。林田に対しての初球は内角に決まり、林田は見送る。審判が右手を上げ、ストライクのコールが聞こえてくる。初球から内角でカウントを取りにくるとはこのバッテリーにとっては珍しい入り方だ。ベンチからではストレートかシュートなのかは分からない。
テンポ良く投げた二球目も内角に決まり、林田は見送る。林田はミーティングで聞いていた内容とは全く異なる配球にやや驚いたような表情をしている。準決勝までのデータでは二球続けて内角でストライクを取る配球などはしてこなかっただけに坂上も戸惑いを隠せない。
「オッケー。ナイスボール」
三鷹第二高校の捕手の芦田の掛ける声と共に向こうベンチも二球で追い込んだことに盛り上がっている。捕手の芦田は一球ごとにこちらのベンチの様子をちらちらと窺っている。
三球目は外角のボール球のスライダー。林田のバットはわずかに動いたが、きっちりと見送ってボールカウントはワンボールツーストライク。今のスライダーが見せ球なのであれば次の球は・・・。
息をつかせぬペースで深瀬はノーワインドアップの態勢に入る。右打者の背中の方からボールが来るように見えるサイドスローから放たれたボールは一、二球目と同じく内角への速い球だ。林田はバットを振りぬくが、詰まった打球はセカンドの真正面への平凡なゴロになった。セカンドがきっちりとボールを捌いてファーストへ送り、ワンナウト。
「深瀬。ナイピッチ。ワンナウトワンナウト」
先頭打者を取ったことで波に乗ったのか、向こうの守備陣は元気良く声を出している。勢いづかせはいけない。坂上は左打者である二番打者の翔也に期待するしかなかった。右のサイドスロー対左打者では左打者の方が有利だ。右打者は背中の後ろからボールが来るような軌道になるため、ボールは見づらいが、左打者の場合は外から体の方に向かってボールが入ってくる軌道のため、右打者に比べて断然ボールは見やすい。早大鶴ケ丘高校のスターティングメンバーに左打者は二番の翔也と七番の早坂のみだ。
「翔也。絶対出れるぞ」
「キャプテン。いつものように粘って行こうぜ」
二番打者の翔也は二番というだけあって小技も得意であるし、粘り強いバッティングが持ち味だ。特に敢えてファウルを打つ技術には目を見張るものがある。
翔也は一球目のボールを腰を引いて見送ったが、審判の右手が上がってストライクのコールが響き渡る。またインコースだ。翔也が腰を引いて見送ったということは今の球はシュートだろうか。いずれにせよ、三鷹第二高校バッテリーはウチを攪乱するために、今までの試合とは配球の傾向を変えてきたということは確かだろう。
「翔也―。狙い球絞っていけ」
続く二球目も内角の速い球。翔也は窮屈そうなスイングでバットに当たったボールは左後方へと飛ぶファウルとなった。タイミングも合っていないし、芯も外している。一番打者の林田と同様にあっという間に追い込まれた。
捕手の芦田がサインを出すと、深瀬は迷いなく頷き、相変わらず速いテンポで投球モーションに入る。こちらに考える暇を与えない狙いなのだろうか。深瀬が投じた三球目に対し、翔也のバットはピクリと動いただけで、そのボールを見送った。
「ストライーク。バッターアウト」
まさかの見送りの三振。今の球は外角低めのストレートだろうか。早大鶴ケ丘高校の中でナンバーワンの粘り強さ誇る翔也が三球三振とは誰もが思ってもみない結果だった。
「坂上」
坂上がスコアブックにKの字を記していると、林田が声を掛けてきた。
「向こうのバッテリー、ウチを意識して配球パターンを変えてきているみたいだ」
坂上も一、二番への配球を見て林田と同じ認識を持った。ここからは外角狙いを改める必要がありそうだ。
「それにあいつのシュート、とんでもなくキレてるぞ」
「インコースの球は全部シュートか?」
「ああ。あんなに詰まらされるとは思わなかったよ」
確かに林田の打球はどん詰まりのセカンドゴロだった。パワーのある林田をあれだけ詰まらせることのできるボールを準決勝までは決め球として使ってこなかったことに坂上は疑問を抱く。まさか決勝で当たる相手を意識して、準決勝までは敢えて最も得意とする決め球を使わなかったということだろうか。芦田が新聞記事のインタビューで答えていた「決勝でも深瀬の最大の武器である外のボールを活かすいつも通りのピッチングをできるように努めます」というのはブラフだったのか。だとすれば坂上がミーティングで皆に外のボールを狙っていくように発言したのも芦田の手の平の上で踊らされていたということなる。
「変化量がすごいっていうより手元でクッとくる感じなんだよ。あのシュート。相当やっかいなボールだぜ」
見逃し三振を喫してベンチに帰ってきた翔也が悔しそうな表情でつぶやく。
「でも次は向こうのいいようにはさせねえから」
翔也が力強く言葉を放つと同時にバッターボックスからは鈍い金属音が聞こえてくる。坂上は打球の行方を追うとサードの後方のファウルゾーンに力のないフライが上がっている。サードが落下点に入り、きっちりとグラブに打球が収まった。三者凡退。しかもたったの八球で一回裏の攻撃が終わってしまった。
* * *
「深瀬、明日はシュートをどんどん使っていくよ」
決勝戦の前日、芦田は深瀬とピッチングの打ち合わせをしていた。克也はもう帰ってしまったので、その場には深瀬と啓太が残っていた。
「ついに解禁か。待ちわびたよ」
準決勝まで深瀬の最大の武器である右打者の内角をえぐるシュートは主に見せ球としてしか使ってこなかった。夏の大会のトーナメントの組み合わせが決まってから、芦田は決勝戦まではシュートを決め球にすることは封印しようと決めたのだ。夏の大会を勝ち進んでいくにつれて、バックネット裏には制服を着てビデオカメラを構えた高校球児らしき人物が増えていく。つまり勝ち進むほどに、対戦相手に情報を知られるということになる。
「なるほど。種を蒔いてあるって言ってたのはそういうことだったんですね」
啓太は芦田が準決勝終了後に吐いた言葉の意味を理解したようで、うんうんと頷きながら、納得がいったというような表情をしていた。
「でも、良くここまで一番の武器を使わずに行くって決めましたよね。普通は自分の一番の持ち味を使わずに負けてしまったら、悔いが残るからってやらないじゃないですか」
「俺も最初はそう思ったけどさ。芦田の考えることだし、信じて投げるしかないって決めたよ」
確かに啓太の言う通り、最大の武器を封印したピッチングをすることで、決勝の前に負けてしまったら、悔やんでも悔やみきれない。だが、それでも。
「本気で甲子園行くって決めたから」
芦田は自分の思いを打ち明ける。
「ウチのような高校が本気で甲子園狙うなら思い切ったことをしないと行けない。だから途中で負ける可能性も考えられるけど、この方法で戦うって腹を括ったんだよ」
インタビューでも外のボールを中心とした今まで通りの戦い方で行くと答えて種を蒔いておいたし、やれるだけのことは全てやった。明日の決勝は絶対に勝つ。
三回の裏。ツーアウトランナーなしの状況で一番打者の林田を迎えている。深瀬がここまで許したヒットは四番の辛島のツーベースヒットのみ。ここまでの内角のシュート主体のピッチングに早大鶴ケ丘高校の打線を戸惑わせ、功を奏している。だが、二巡目も全く同じ攻め方で通用するほど甘くはないと芦田は考えていた。相手はあの名門早大鶴ケ丘高校なのだから。
「一番、ショート、林田君」
林田が右バッターボックスに入る。一巡目の打席はだいぶホームベースに近づいて立っていたが、今回はホームベースからやや離れて立っている。一巡目の内角攻めを行ったことによってインコースをだいぶ意識しているのだろう。
芦田は深瀬に対してサインを出す。深瀬は頷くとすぐにグラブを胸の前で縦に構えたまま左足を引く。右足を軸足にして左足を大きく上げてから、しっかりと体重移動を行って体を回転させる。そこから放たれたボールは一度浮き上がるような軌道を見せ、沈みながら曲がっていく。外角に決まった深瀬のシンカーを林田が見送ると審判からはストライクのコールが聞こえてくる。
二球目は外角低めにスライダー。深瀬のボールは若干高めに浮いたが、コースは外一杯だったこともあり、林田の打球は右方向へのファウルとなった。
「勝ってる勝ってる。追い込んだぞ深瀬」
「この回三人で切ろうぜ」
バックからも深瀬を勢いづける声援が聞こえてくる。一番の林田は長打も足もある警戒すべき打者で外野はやや深めの位置に就いている。決して楽に打ち取れる打者ではない。芦田は細心の注意を払いながら三球目のサインを出す。
三球目は内角に食い込む深瀬のシュート。ボール気味でいいというサインの通り深瀬のシュートはストライクゾーンからやや外れている。そのボールに対し、林田はバットをピクリと動かすしぐさを見せたが見送った。これでボールカウントはワンボールツーストライク。次のボールで決めたいところだ。
林田への四球目。深瀬の投じたボールは林田の方向へ曲がりながら沈むシンカーだ。林田はタイミングを外されたようで体が前に突っ込んだ形のスイングになった。打球はフラフラっとショートとレフトの間に上がる。ショートの克也がバックし、レフトの城田が思い切り前に突っ込んでくるが、打球はその間にポトリと落ちた。打ち取っている当たりだが、結果はレフト前ヒットだ。
「深瀬、打ち取ってるぞ。切り替えて次取ろう」
深瀬は全く動じることのない様子だ。芦田の掛ける声にもいつも通りの笑顔で応えてきた。
「ツーアウトだ。バッター集中で行こう」
「翔也―。続いて行こうぜ」
両チームのベンチ、スタンドから、それぞれの打者と投手に声援が浴びせられる。
「二番、セカンド、吉田君」
二番打者の吉田は追い込まれてから粘りに粘り、ボールカウントはスリーボールツーストライクのフルカウントとなった。二巡目ということで打者の目が慣れてきたことも考慮し、一巡目とは配球を変えているのだが、一巡目のように簡単には打ち取れない。吉田はポイントを体の近くに置き、敢えてファウルを打って球数を投げさせることを考えた打ち方をしてくる。
フルカウントからの八球目。内角低めを狙った深瀬のシュートは高めに大きく外れるボール球になった。これでフォアボールだ。
「ナイス選、翔也」
「よく選んだぞ」
三番打者の打席の前に深瀬は審判にタイムを要求し、一人でマウンドへと向かう。
「深瀬。ボールも内容も悪くないぞ。今まで通りに自信持って投げろよ」
「うん。分かってるよ。ツーアウトだし、大したピンチじゃないしね」
「ああ。逆に守りやすくなったな」
深瀬はこの状況でもいつものように顔をくしゃっとさせて笑う。深瀬は大丈夫だ。ボールも精神状態も全然問題ない。一番打者のヒットはポテンヒットであるし、二番打者への最後の球こそ高めに浮いたが、この回のピッチングの内容は決して悪くない。
「内野―。打たせていくからな。近いとこな」
芦田はホームベースに戻ると野手全員に聞こえるように声を張り上げる。外野にはシングルヒットを打たれた場合にホームで刺せるようにバックホーム体制を敷かせる。
「三番、サード、神田(かんだ)君」
三番打者の神田は一打席目は初球のシュートを打ち上げている。初球はボール気味のシュートで入ろうと決め、芦田は深瀬に向かってサインを出す。深瀬はサインに頷くと、セットポジションに入り、少しの間を置いてから二塁に牽制球を投げる。ランナーを殺すための牽制球ではなく、間を取るための牽制球。一呼吸置いてから投げさせたかったため、芦田は牽制球のサインを出した。ショートの克也から深瀬にボールが返ってくると、深瀬はもう一度セットポジションに入った。小さく左足を上げ、体重を移動させてから腕を振りぬく。深瀬がボールをリリースした瞬間にまずいと思った。ボールはすっぽ抜けて神田の体めがけて向かってくる。神田は避けきれず、背中にボールがぶつかる。死球(デッドボール)だ。ツーアウト満塁で四番の辛島を迎えることになる。
芦田は三鷹第二高校側のベンチにいる青柳に目配せすると、青柳が頷いた。芦田は再び審判にタイムを要求し、今度は内野手全員がマウンドに集まっていく。
「まずここが最初の山だね。俺達が甲子園へ行くための」
芦田は皆に対して危機感と高揚感を持たせるために、慎重に言葉を探してから発信する。そして、一打席目の四番の辛島のバッティングを振り返りながら策を考える。
二回の裏、一打席目の辛島には初回とは異なる配球で挑んだ。初球の真ん中低めのシンカーを見送り、ワンストライクを取ると、二球目のボール球のシンカーに手を出させてツーナッシングと追い込んだ。シンカーに対してタイミングは合っていなかったが、辛島のスイングスピードの鋭さに芦田はやや恐怖を覚えた。だが、二球続けてシンカーを投げたことで辛島の頭の中には遅い変化球が刻まれているだろうと思い、次の球を考えた。三球目は遊び球なしで内角のシュートを要求した。深瀬のシュートは鋭いキレを持っており、スピードもストレートよりも速い時もあるぐらいだ。一番速い球をインコースに。その思いを深瀬も汲み取ったようで、思い切り振りぬいた右腕からは力のあるシュートが投じられた。内角低めいっぱいのシュートに対して辛島のスイングの始動が遅れた瞬間を見て、芦田は「仕留めた」と思った。だが、辛島のスイングは芦田の想像を上回り、もの凄いスピードで内角のボールに対して向かってきた。打球はやや詰まっていたのだが、それでも勢いのある打球が右中間を破り、ツーベースヒットとなった。なんてスイングスピードとパワーだと芦田は驚かずにはいられなかった。普通はあれだけスイングの始動が遅れたら、インコースのボールを外野まで持っていくことなどまずできない。
「ああ。そうだな。野球の神様が俺達に与えた試練だと考えようぜ」
芦田の言葉に呼応して克也がこのピンチを前向きに捉えた発言をする。
「野球の神様って。克也ってそういうの嫌いじゃなかったっけ?」
深瀬が克也におちょくるような口調で話し掛ける。この状況に追い込まれても、こんな言葉が出てくるのだからこの男は大したものだ。
「神頼みとかは嫌いだけど、別に野球の神様がいるっていう考え方自体は嫌いじゃねえよ」
正直次の四番に対してはどう攻めていいか芦田は迷っていた。四番の辛島の能力はそれぐらいずば抜けており、神様でも何でもすがりたい気持ちだった。だが、克也の言う通り、神頼み等はもってのほかだ。自分達の今までしてきた練習を信じ、自分の頭でものを考え、このピンチを切り抜けるしかない。第一、野球の神様がいるのなら、芦田の中学時代に犯した罪を決して許してはくれないだろう。だから神様の力は借りれないのだ。
ベンチから伝令として三年生の高橋が走ってくる。
「どんなに優れていても十割打てるバッターはいない。必ず穴があるはずだからそこを突いていけ。前の打席にもそのヒントはあるぞ、だってさ。それから深いフライを処理できるように外野の守備位置は深めにしとくように」
芦田は辛島の一打席目を思い返す。最終的には内角のシュートを右中間に持っていかれたが、その前に投げたシンカーには合っていなかった。そこを切り口にして攻めていけということだろうか。
「こういう場面も想定して今まで練習してきただろ。自分達を信じて戦えば、結果はついてくるさ」
伝令の高橋の言葉に皆が頷く。
「ま、そうだな。四番と勝負するしか選択肢はねえんだし、腹括って行こうぜ」
高橋が監督の言葉を伝えてくれたおかけで、少し道が見えてきたような気がしてきた。他に問題があるとすれば、二球続けて深瀬の球が抜けていることだ。コントロールの良い深瀬にとっては珍しい。まだ三回なので、球数はさほど放っていない。表情は決して硬くなく、いつもの笑顔を保ってはいるが、この決勝の舞台でマウンドに上がっているのだからとてつもないプレッシャーがかかっているのだろう。
「深瀬」
芦田が深瀬に呼び掛ける。
「打たせていこう。肩の力を抜いて投げれば打ち取れないバッターじゃない」
「例えいい当たりを打たれても絶対に守ってやるから、思い切っていけよ。打たせて取るのがお前のスタイルだろ」
芦田に続いて克也も深瀬に声を掛け、他の内野手も深瀬を勇気づける言葉を発していく。
「うん。まあ、俺はどんな時でも肩の力は抜けてるけどね。肩の力だけじゃなく全身の力が抜けてフニャフニャしてる。分かった。打たせて取ってくから、守りは任せるよ」
深瀬は何だか嬉しそうだった。緊張や不安を敢えて出せないようにするために作っている部分もあるのかもしれないが、それでも深瀬の表情や言葉にはなぜか安心させられる。頼もしいエースだと改めて思う。
「絶対行くぞ。甲子園」
「おぉー」
芦田の声に皆が応じ、それぞれの守備位置へと走っていく。
芦田がホームベースに戻るとバッターボックスのすぐ横に、190cm近い長身で体格のいい男がずしりと立っている。これで二年生だというのだから驚かされる。辛島の顔を見ると、細めの目が印象的でどちらかというと気の弱そうな人間という印象を抱く。
「プレイ」
審判がボールインプレーを宣言すると、辛島はバッターボックスの土を撫でるように丁寧に均す。その均し方はとても優しく、繊細な性格を表しているように思える。
芦田が初球のサインを出す。前の二球共、深瀬のボールが抜けているため、勇気のいるサインだったが、腹は括った。
辛島は二度程深呼吸した後、肩に置いていたバットを上げ、投手の深瀬と正対する。深瀬は左足を大きく上げ、辛島に一球目を投じる。深瀬の投じたボールに辛島のバットは一瞬ピクリと動いたが、ボール球だと判断して見送る。内角のシュート。一打席目に打たれたボールではあるが、この打席ではそのボールをストライクゾーンから外して様子を見た。満塁の場面で敢えてボールから入ったのは深瀬のコントロールを信頼しているからでもある。普通の投手だったら、満塁で初球からボール球など要求できない。
芦田は要求通りのコースに深瀬のボールが決まったのに安心すると共に、辛島のバットが動いたことから狙い球はストレート系なのかと思案する。前の打席でも辛島のスイングはストレートのタイミングに合わせているように見えたが、ひょっとすると辛島はどんな場面、状況においてもストレートに目付けをして、全てのボールに対応するタイプなのか。それは何も考えず来た球を打つタイプの打者とも言える。早大鶴ケ丘高校バッテリーの配球も早坂が考えているように見えるし、辛島はそこまで頭を使って野球をするタイプではないのかもしれない。だとしたら身体能力はずば抜けていてもそこを突破口に打ち取ることはできる。
二球目は低めのストライクゾーンにシンカーが決まった。辛島は一打席目と同様に大きなスイングで空振りする。タイミングは合っていない。
「ナイスボール」
「辛島―。大振りはいらないよ」
両チームのベンチから大きな声が聞こえてくる。芦田は三球目のサインを出す。
一度牽制を入れてから深瀬が投じたボールにまたしても辛島のバットが空を切る。やはりシンカーにはタイミングは合っていない。この打者に対しては変に裏をかく必要はないが、芦田は次の球もシンカーを投げさせるかまよっていた。シンカーは右打者の方向に曲がりながら大きく沈む変化球であまり投げる投手はいない。だからこそ打ちづらいボールではあるのだが、コントロールを付けるのが難しいボールでもある。幸いここまでは低めに決まっているが、三球続けて投げさせていいものか。捕手は投手のコントロールミス等のリスクを考慮して配球を考えなくてはいけない。散々頭を悩ませた結果、芦田は次もシンカーで行くと決めた。
深瀬が軸足から左足へきっちり体重移動をさせ、沈み込んで振りぬいた右腕からは一度浮き上がるかのような軌道からボール大きく曲がりながら沈んでいく。辛島のバットが内角のシンカーを捉えるが、打球は三塁側スタンドに入る明らかなファウルとなる。前の二球より少し高かったが、三球続けたことも合って辛島の目はシンカーに慣れてきたようだ。
もう一球シンカーを続けるのは危ないし、ストレートへも対応してくる。そう考え芦田は五球目のサインを出す。
深瀬は間髪入れずに首を縦に振り、セットポジションに入る。サイドハンドから放たれたボールは右打者の背中の後ろから対角線に入ってくる。辛島のバットが始動する。そしてボール打者の手元で外に曲がっていく。よし、仕留めた。
深瀬の外角低めのスライダーは辛島のバットの芯を外したが、鋭い打球がショートの頭上に飛ぶ。そんな、嘘だろ。これだけお膳立てしておいて、バットの芯を外したのに何でだ。芦田はやられた、と思った。ツーアウト満塁で内野の頭を超えたら確実に二点は入る。ショートの克也が素早く右後方に下がりながら思い切りジャンプする。克也はグラウンドに転がり込んでからボールを掴んだ左手のグラブを上げる。
「アウトー」
スリーアウトチェンジ。克也のファインプレーだ。
「克也。ナイスプレー」
芦田は思わず叫んでいた。深瀬は克也の元に駆け寄ってグラブでハイタッチをしている。
例えいい当たりを打たれても絶対に守ってやるから、思い切っていけよ。打たせて取るのがお前のスタイルだろ。
本当に克也の言った通りになった。辛島のバッティングには驚かされたが、ウチのチームには頼りになる選手がたくさんいる。だから大丈夫だ。絶対に甲子園に行く。部員全員が揃っていない試合を最後の試合には決してしない。
* * *
四回の表。三鷹第二高校の攻撃は二番の金平から始まる。早坂がここまで許したヒットは四番の藤崎のレフト前ヒットの一本のみ。四死球もなく、早坂の調子はいい。それだけに先程の三回裏のあのチャンスでは得点が欲しかった。辛島の打球は芯を外したとは思えないほど鋭かったが、ギリギリで内野の頭を越えなかったのは外角低めの変化球を無理に引っ張ったからだ。その点ではあのショートライナーは三鷹第二高校のラッキーでも何でもなく、バッテリーの配球が功を奏したということになる。
二番の金平に対して、早坂は二球続けてストレートを投じた。二球とも金平のバットはボールの下を通っている。なぜこんなに速く感じるか、なぜバットに当たらないのか。きっと打席に立っている金平はそう思っているだろう。坂上は早坂がこのストレートを身に付けるために行った並々ならぬ努力を振り返っていた。
二年生の秋。早坂はイップスにかかり、まともに投げられなくなってから投球フォームを徹底的に見直したいと当時マネージャーに転向して間もない坂上に申し出てきた。早坂が一度だけ弱音を漏らしたあの翌日だった。もちろん坂上はそれに応じ、早坂に協力した。少しでも早坂の力になりたい。その思いが坂上を駆り立てた。これだけの実力を持ちながら、決して慢心せずに誰よりも努力し、どんなチームメイトにも公平に優しく接する早坂の頼みを断るなどという選択肢はなかった。坂上だけではなく、誰もが早坂の人間性を評価し、尊敬の念を抱いている。
坂上は早坂のブルペンでの投球練習をビデオカメラを回しながら観察していたが、まだイップス克服には程遠く、投げるボールは全て捕手のはるか手前でワンバウンドした。だが、その現実から目を逸らさず、必死の形相でボールを投げ続ける早坂の姿を見ると、できるだけ早くイップスを治してやりたいと坂上は思った。
投球練習が終わった後にミーティングルームに二人で向かい、早坂のピッチングフォームをテレビに映して確認した。
「特にイップスになる前のフォームと変わってるとは感じないんだよな」
坂上は何度も何度も繰り返し早坂のフォームを見た上で、率直に感じた意見を述べる。
「うーん」
早坂は頭を悩ませながら、真剣な目でテレビ画面を見つめている。そもそもイップスとは精神的な原因等で普段通りのプレーができなくなる現象である。フォームを見直すことに注力するよりも、しばらく投げることを控えて心を休めた方がいいのかもしれないとも思った。
「早坂さ、最近何か悩みとかある?野球以外の事とかで」
坂上は唐突に早坂に質問をぶつける。
「悩みかあー」
早坂はしばらく真剣な面持ちで考え込む。
「これといっていないんだよね」
長い間考え込んでから早坂が答える。今の答えは本音なのだろうか。本当に悩みがないのなら、前の日に合宿所の外でうずくまったりはしないのではないか。きっと早坂はずっと高校野球界のスター選手として注目され続けたことによるプレッシャーを抱えているのだろう。だが、本人がそれを話すつもりがないのに無理に話させるつもりは坂上にはなかった。
坂上はもう一度早坂のピッチングフォームを見返す。よく見ると体の開きが早く、あまり上手く下半身が使えていないように見えた。それはイップスになる以前からの早坂のフォームの癖であった。それもあって早坂はコントロールのいい方ではなかったが、それをカバーするできる速球がそれまでの早坂を支えていた。。
「早坂。ピッチングフォームなんだけどさ。ちょっと体の末端で投げてると思うんだよね。体の軸を中心にして投げれるようにを改善してみたらどうかな」
もちろんそれを改善することがイップス克服に繋がるとは限らない。だが、もうそのぐらいしか案はなかった。
「確かにそうだね。要はもっと下半身で粘って前で放せってことだろ。やってみる価値はあるかもね」
早坂が坂上の出した案に同意し、ピッチングフォームの改善をに特化した練習を行っっていくことに決まった。
「まずは下半身の強化からだな。とことん走ろうぜ、早坂」
早坂の走り込みの量はそれまでもチーム一だったが、さらに増やした。ランニングよりもダッシュを中心とする走り込みのメニューを徹底的に行い、しばらくはボールには触らない練習を行った。秋から冬にかけての尋常ではない量の走り込みの成果から、早坂の太ももは以前よりも一段と太くなったように思えた。そしてブルペンでの投球練習でフォームを慎重に確認しながら試行錯誤を行ってきた。最終的に早坂が投手として復帰できたのは今年の春の都大会だった。春のセンバツには間に合わなかったが、早坂は新しいフォームを身に付けたことにより、ピッチングの安定感は以前とは比べものにならないほど増していた。
金平への三球目。早坂はグラブを胸の前から頭の後ろまで持っていき、右足を大きく上げる。軸足の左足から右足へと体重移動を行い、下半身でできるだけ粘って体が開くのを我慢する。そこから強烈なボディターンで体が回りボールは体のずっと前で放される。胸元に決まったストレートに金平のバットが回る。ボール球の高めのストレートを空振りし、三球三振。スピードガンの数字は139km/hと表示されており、早坂が一年生の頃に比べれば見劣りするが、打者の近くでボール放しているため、打者からすると以前の早坂のボールよりも速く感じられるだろう。実際今の打席の金平は早坂のストレートに手も足も出ないという感じだった。前の打席に放ったスローカーブが頭にちらついていることもあるだろうが。
「いいねー。早坂」
「ナイピッチ、ナイピッチ」
マウンド上の早坂は金平を三振に取った瞬間に雄叫びを上げた。普段の早坂とは180度異なる人を寄せ付けないその雰囲気は早坂のこの試合にかける想いが滲み出ていた。去年の秋から今年の春までの早坂の努力を見てきただけにこの結果は当然だと坂上は思っている。あれだけ苦しんで苦労した早坂のボールをそう易々と打てるはずはない。
「三番、キャッチャー、芦田君」
三番打者の芦田がバッターボックスに入る。一打席目の芦田は早坂のストレートの球威に押されてセカンドフライに倒れているが、決して油断のできない打者だ。この選手はとても頭が切れる。早大鶴ケ丘高校バッテリーは早坂がリードを行っているため、この打席は早坂と芦田の読み合いが鍵を握るだろうと思った。
初球の外角低めのストレートに芦田のバットが空を切った。ストレートを狙ったフルスイングだ。
「球走ってるぞ。どんどん押してけ」
二球目のボールは外に外れてボールカウントはワンボールワンストライク。
「芦田―。積極的に行け」
「早坂―。思い切って腕振ってけ」
両チームからの声援が坂上の耳に入ってくる中、早坂は振りかぶり、三球目を投じる。早坂が放ったボールは高めに抜けたボール球だ。だが、芦田はそのボール球に対して迷わず上からバットを叩きつける。打球は早坂の左脇をゴロで抜け、セカンドの翔也が二遊間を破ろうとするその打球に懸命に飛びついた。芦田の打球は翔也の伸ばしたグラブに届かずにセンター前に抜けた。坂上は驚きを隠せなかった。ヒット打たれた結果にももちろんだが、高めのボール球を狙いすましたかのように打ちに来た芦田に対して。やはりこの男は底が知れない。
「四番、ショート、藤崎君」
* * *
「いやー、こんな拮抗した試合になるなんて思わなかったよ」
「俺も俺も。絶対早大鶴ケ丘の圧勝になると思ってたのにな。びっくりだよ」
「あの深瀬ってピッチャーがなかなかいいよな。スピードは大したことないけど、コントロールが抜群にいい」
「キャッチャーのリードも冴えてる感じだし、四番の打球の速さも凄かったな。もちろん選手の個々の力で言えば早大鶴ケ丘が上だろうけど、三鷹二高もいい選手が揃ってるんじゃねえか?」
「これはひょっとすると、番狂わせがあるかもしれないな」
「そうかもな」
二人の男が興奮した様子で決勝戦について語り合っている。
「それにしても暑っちーな」
一人の男が首に巻いているタオルで汗を拭いながら呟く。
西東京大会の決勝戦は五回の裏が終わり、現在はグラウンド整備を行っているところだ。夏の太陽は容赦なく照りつけ、選手だけではなく決勝戦を観に来た観客の体力も奪っていく。雲一つない空に佇んでいる太陽はそれほど攻撃的だった。試合は〇対〇のまま動きを見せていない。試合開始当初は圧倒的に早大鶴ケ丘高校の応援が多かったのだが、三鷹第二高校が善戦を続けているうちに周囲の観客の中には判官贔屓で三鷹第二高校の応援に回り始めている者もいる。黒崎始の前の席でしゃべっている二人の男達のように。
黒崎は青のジーンズに白いワンポイントのTシャツといったラフな服装で、キャップを深めにかぶってバックネット裏の席に座っていた。一塁側にも三塁側にも寄っていないその席には黒崎とは違い、純粋に高校野球の決勝そのものを楽しみに来た人達が溢れている。おそらくこの中で一番つまらなさそうな顔をしているのは自分だろうという自覚はあった。
まったく何をやってるんだよ早大鶴ケ丘。だらしねえな。こんな弱小相手に手こずってんじゃねえよ。
心の中で黒崎は毒づく。黒崎は一か月と少し前まであのチームに所属していた実感が湧かない。それほど黒崎は三鷹第二高校野球部に対して心の中でも距離を置いているということだった。
四回の表の三鷹第二高校の攻撃。ワンナウトから芦田がセンター前ヒットで出塁した。高めのボール球に上からバット叩きつけたその打球の行方を黒崎は夢中で追っていたことに気付いた。黒崎は三鷹第二高校の敗北を心の底から願っていたが、芦田のことだけは別だった。芦田は三鷹第二高校の中で、唯一黒崎を認めてくれた選手だったからだ。芦田の姿を見ると、黒崎の心の針がプラスの方向に動きかけたが、黒崎は無理やりその針をマイナスの方向に押し戻した。
「四番、ショート、藤崎君」
ウグイス嬢が丁寧に藤崎克也の名前を読み上げるのと同時に黒崎は歯を強く噛みしめていた。
克也が堂々とした振る舞いでバッターボックスに入った。前の打席で早坂俊介からヒットを打っていたことも黒崎は気に入らなかった。
早坂が投じた一球目はスローカーブ。克也は大きなスイングでそのボールを空振りした。
長打狙ってんのかよ。前の打席いい当たりのヒット打ったからっていい気になってんじゃねえよ。
黒崎は克也のスイングを見てそう思った。二球目もスローカーブで克也はこのボールを捉えレフトスタンドのポールの左脇を通過する特大のファウルとなった。観客からはどよめきの声が聞こえたが、どんなに飛ばそうがファウルはファウルだ。これでツーナッシングと追い込まれたことに変わりはない。
一球見せ球のストレートを混ぜてボールカウントはワンボールツーストライクとなった。
そして投じられた四球目、低めのフォークボールを克也のバットが拾って、一塁側への痛烈なファウルとなった。これでスローカーブ、フォーク共いい当たりされたことになる。この状況で早大鶴ケ丘高校バッテリーが次の球に何を選択するのかは黒崎には全く読めなかった。黒崎は身体能力が劣っているだけでなく、頭を使って野球をやるのも苦手だった。
早坂が捕手の出すサインに首を二回振ってから首を縦に動かした。早坂が振りかぶると同時に黒坂は念じる。
打ち取れ早坂。こんな奴に二打席連続でヒットを打たせていい気にさせるなよ。
黒崎は思い返す。ずっと心に残っている言葉を。
お前さ、何でまだ野球やってんの?
お前がいると練習になんねえんだよ、特に実戦形式の練習の時な。お前向いてないんだよ。野球だけじゃなくて、運動全般。自分でも分かってるだろ?高校野球じゃ全く通用しないって。もう辞めた方がいいと思うぜ。
カキーンという金属音と共に鋭い打球がショートの正面に飛ぶ。早大鶴ケ丘のショートは痛烈なゴロを捌いてセカンドに送り、セカンドはファーストに転送した。ダブルプレーだ。
ざまあみろ。
黒崎はほくそ笑んだ。
とっとと負けて、消えちまえ。
* * *
七回の裏。ついに試合の均衡が破られた。ツーアウトランナー一塁二塁の状況から、早大鶴ケ丘高校の四番打者の辛島にセンター前へのタイムリーヒットを打たれたのだ。センターの啓太は懸命にバックホームしたが、俊足の二塁ランナーの林田は送球が届く前にホームベースを踏んだ。
現在もツーアウト一塁二塁で五番の菊川(きくかわ)を迎えており、ピンチは続いたままだ。菊川は辛島に次いで長打力があり、勝負強いとてもやっかいな打者だ。芦田は主審にタイムを申告し、三鷹第二高校の内野手がマウンド上に集まる。
「まだ一点だ。次切れば全然問題ない」
三鷹第二高校の攻撃の機会はまだ二イニングある。早坂のピッチングは後半に入っても衰えることなく、さらに凄みを増していたがこの回を一点で切り抜けられればまだチャンスはあると芦田は考えていた。
「ああ。必ず逆転してやるから取られた点は気にせずに今まで通り投げろよ。お前なら抑えられる」
七回までで三鷹第二高校が早坂から放ったヒットはたったの三本だ。その三本の内、二本は四番の克也のヒットである。克也がはっきりと「必ず逆転してやる」と言い切れるのは決して根拠のない自信から来ている訳ではない。実際今日の克也は早坂のボールに合っている。四回の表の攻撃でゲッツーになってしまったショートゴロも飛んだコースが悪かっただけでいい当たりだった。だから克也の打席の前にチャンスを作ればきっとランナーを返してくれる。絶対にこのままでは終らせない。
「ねえ、俺達さ」
深瀬が口を開く。
「引退して卒業してからも集まって会ったりするのかな?」
深瀬の唐突な発言に皆がぽかんとしている。
「何だよ。お前、急に」
克也の表情は少し深瀬を心配しているようにも見える。
「深瀬、もしかして少し弱気になってる?」
セカンドの金平が深瀬に尋ねる。
「俺たちの引退はまだ先だぞ。絶対今日で引退にはしねえから」
サードの赤城も深瀬を案じて声を掛ける。
「いや、別に弱気になんかなってないし、この試合も全然勝てると思ってるけど、なんかふと思ってさ」
深瀬はあまり場の空気に捉われずに突拍子のないことを言い出すことがあるが、芦田も皆と同様に深瀬の発言に驚いた。いつものようにヘラヘラと笑っているところを見ると、本当に弱気になっている訳ではなく、ただ思い浮かんだことを口にしただけなのだろう。
「甲子園の決勝まで行ったとしても、このメンバーで当たり前のようにいられるのも後一か月もないだろ。それに来年の四月になったら、野球部だけじゃなく学校も卒業して皆離れ離れじゃん。なんか寂しいなって思ったんだよ」
芦田は深瀬がなぜこんな発言をしたのか理解した。きっと今のこの瞬間が楽しくて仕方ないのだ。だから高校野球、そして高校生活が終わった後はこのメンバーで過ごす時間などなくなってしまうのではないかと思ったのだろう。
「まあ、集まったりするんじゃないのかな。二個上の先輩達なんかよく集まって飲みに行ってるって聞くしね」
「あの人達は高校在学中にも飲みに行ってたらしいからな。絶対それは真似するなよ。高野連にバレたら後輩達に迷惑が掛かるんだからな」
克也が深瀬に釘を刺す。確かに今はどこで誰が見てるか分からない。実際に引退した後に居酒屋に居たところ目撃されて出場停止になった高校もある。
「俺達三年生は全部で十二人。黒崎も含めると十三人だけどさ」
深瀬の口から黒崎の名前が発せられ、芦田の心はもやもやした。昨日バッティングセンターで見かけ、声を掛けたら即座に走り去って行ってしまった黒崎。その後に送ったメールにも返信は返ってきていない。
「皆卒業して大学とか行って、就職したり結婚したりするじゃん。それぞれ九人子供作ってさ、練習試合しようよ」
一同に笑いが起きた。芦田も一瞬、今の試合状況も黒崎のことも吹っ飛んで笑ってしまった。
「そんなに子供作れるかよ、馬鹿」
その後も話は引退後、卒業後に何をしたいかで盛り上がった。今決勝戦を行っているということを忘れているかのように三鷹第二高校の三年生達は話し続けていた。深瀬の一言から始まった会話で皆の表情が柔らいでいく。
「じゃあ、そういうわけだから、卒業した後に甲子園の思い出話で盛り上がれるように頑張ろうぜ」
最後は深瀬が締めくくり、皆がマウンドから自分のポジションへと向かう。その姿は卒業後に皆がそれぞれの道を辿る模様を連想させた。
芦田はホームベースへと向かう途中に三塁側の三鷹第二高校のベンチ見ると、記録員(スコアラー)としてベンチ入りしている愛と目が合った。何かを訴えかけるような目だった。
明日の試合が終わってからじゃなくて。
芦田は昨日の言葉を思い出す。
甲子園行きを決めてからがいいな。
分かってるよ。必ず勝つから。
* * *
マウンド上で早坂が控え捕手に向かって投球練習をしている。軽く投げているだけなのにボールはとてつもなくキレている。それほど今日の早坂の調子は良かった。
「辛島。取った後のこの回重要だぞ。下位打線からだけど慎重にいこうぜ」
「はい」
坂上はベンチの前で、レガースとプロテクターを着けている辛島に声を掛ける。捕手としてはまだまだ頼りないが、打者としては文句のつけようがない。実際に今日も先取点となるタイムリーを放ち、四番としての役割をきっちりと果たしている。抜群の身体能力から繰り出される辛島のバッティングは坂上が嫉妬してしまうほどずば抜けていた。
防具を装着し終えた辛島はホームベースへと向かっていく。三鷹第二高校の攻撃は残り二回だ。いいタイミングで点が取れたと坂上は思った。
スコアボードを見ると七回裏のところに「2」という数字が光っている。七回の裏、早大鶴ケ丘高校は四番、五番の連続タイムリーで二点を獲得した。四番の辛島のタイムリーで押し寄せてきた流れから、もっと取れるのではないかと思ったのだが、三鷹第二高校の守りは粘り強かった。六番打者の新川(しんかわ)の打球は二遊間を破ってセンター前に抜けようかという鋭いゴロだったが、三鷹第二高校のセカンドの金平が飛びついて打球を好捕すると、そのまま二塁へトスしてスリーアウト目を取られた。金平は一見地味で目立たない選手だが、その動きは洗練されていた。三鷹第二高校の選手は野球を良く分かっており、いい選手がたくさん揃っている。このチームは決して運よく勝ち上がってきた都立高校ではない。勝ち上がるべくして勝ち上がってきたチームなのだと坂上は再認識した。
「八回の表。三鷹二校の攻撃は、六番、レフト、城田君」
早坂は左手に持っていたロージンバックをポンと落とし、右手のグラブと左手を胸の前に持っていく。大きく息を吐いてから辛島の出したサインに頷くと、グラブを頭の後ろまで持っていき、右足を大きく上げると鋭く左腕が振り抜かれる。
「ストライーク」
初球のスローカーブに城田は態勢を崩して空振りした。
いい入り方だ。残こされた攻撃はわずか二イニングということもあり、焦って打ちに来る打者の心理を利用してこの球を選択したのなら、辛島も少しは成長したのではないかと坂上は感じた。八回表が始まる前に「慎重にいこう」といった坂上の意図をきちんと汲み取っているように思える。もっとも、ただの偶然で初球のスローカーブを選択したということも考えられるが。
二球目はフォークボール。これも城田は空振りし、あっという間に追い込んだ。
「絶好調だねー、早坂」
「いいぞいいぞ。どんどん攻めろ」
「城田―。落ち着いて良く見ていけ」
「広く広くー」
ツーナッシングと追い込んでから、早坂は一度首を振り、投球モーションに入る。しなやかで力強いフォームから繰り出されたボールはとんでもないスピードに見えた。150km/hを超えているんじゃないかと思うくらいに。
「ストライーク、バッターアウト」
早坂の渾身の外角低めのストレートに城田は手が出なかったようで、見逃し三振に倒れた。それも三球三振。坂上が電光掲示板を見ると、144km/hという球速が表示されている。今日一番のスピードボールだ。
今の球には早坂の気持ちがこれでもかというぐらいに込められていた。チャンスはやらないぞと相手に見せつける強い気持ちが。
「七番、ライト、加賀君」
甲子園まであとアウト五つ。残りのアウトの数が減らば減るほど、投手に掛かるプレッシャーはとてつもなく大きくなっていく。
「ストライーク」
七番の加賀は初球のストレートを見送った。今のはベルトの高さのボールだったのだから、手を出すべきボールだろう。プレッシャーが掛かっているのは相手も同じかと坂上は思った。
「加賀―。積極的に行け」
「自分のスイングー」
三鷹第二高校ベンチから発せられる声は今までよりも大きくなっているが、それは焦っていることの裏返しだ。この八回で点が取れなければ、九回の攻撃時に掛かるプレッシャーは膨れ上がるため、何としてもこの回に点が欲しいのだろう。だが客観的に見て、三鷹第二高校の下位打線の打力と早坂の実力はかけ離れすぎている。奇跡なんて起きないよ。
加賀はツーナッシングと追い込まれてから、ストライクからボールになるフォークに手を出して空振り三振に倒れた。
「二者連続三振。いいねー早坂」
「お前の球は誰も打てねーよ」
「さあ、三人で切ろうぜ」
八番の村岡は初球のストレートを簡単に打ち上げ、ピッチャーフライに倒れた。得点した後の守備を三人で終えられたことは大きい。もうこの流れは誰にも止められない。早坂のピッチングは崩せない。
* * *
「今までやってきた練習を信じよう。俺達なら絶対追いつける」
三鷹第二高校野球部はベンチの前で円陣を組んでいる。
「泥臭く、粘り強い、俺達の本来の野球を見せようぜ」
芦田はキャプテンとして皆を鼓舞する。いよいよ最終回の攻撃が始まる。三鷹第二高校は二点ビバインドで九回表の攻撃を迎えようとしていた。
「必ず出て芦田さんまで繋ぎますから任せてください」
啓太が力強い目で芦田を見る。その表情と声にはこの回の打席への決意がにじみ出ている。
「ああ。頼んだぞ。一人一人が繋ぐ意識を持って行こう」
「俺まで繋いでくれれば絶対に逆転してやる。気合入れて行こうぜ」
克也は自信に満ち溢れている。今日の試合で唯一早坂のボールに合っているのが四番の克也だ。九番の深瀬から始まるこの回の攻撃は一人出れば芦田に回る。芦田が出れば、克也まで回る。克也まで回せば絶対に何かが起きる。
「逆転」
「おぉー」
絶対に勝つ。あの早坂から最低でも二点は取らなければ試合は終わってしまうのだから、厳しいことはわかっていたが、それでも芦田は諦めてなどいなかった。
「九回の表、三鷹二校の攻撃は九番、ピッチャー、深瀬君」
三塁側のベンチから、バッターボックスに入った深瀬の背番号一番が見える。ここまで力投したエースの背中を見ると、深瀬のここまでのピッチングを無駄にしてはいけないという思いに駆られる。
「深瀬―。思い切っていこうぜ」
「いつも通り、リラックスしていきましょう」
深瀬は投手であることを考慮して九番に入っているが、バッティングのセンスはなかなかいい。追いつけば九回の裏のピッチングが残っているし、代打を出すという選択肢は三鷹第二高校にはなかった。
マウンド上の早坂からは相変わらず険しいオーラが出ている。初回からここまで決して気を緩めてなどこなかった。
早坂が投じた初球は大きく高めに外れたボール球となった。
「ナイス選、ナイス選」
「よく見極めていこうぜ」
「早坂、楽に楽に」
はっきりした高めのボールのストレート。相手投手の早坂は明らかに肩に力が入っている。どんなに甲子園で経験を積んだ選手でも、この場面で緊張しないはずはない。
早坂は帽子を取って額の汗を拭ってから、左手に丁寧にロージンバックを染み込ませる。深瀬に対する二球目。早坂は一度首を振ってから投球動作に入る。鋭い腕の振りから、緩いボールが投じられる。スローカーブだ。
「ストライーク」
主審のコールが耳に入ってくる。深瀬は全く打つ素振りを見せずに見送った。これでボールカウントはワンボールワンストライク。
「早坂ー。ナイスボール」
「打たせていこうぜ」
次は何で来る。俺が向こうのバッテリーならここは、まだこの打席で一度もバットを振っていない深瀬に手を出させるボールを選択する。
三球目、深瀬はストライクからボールになるフォークボールを空振りする。三塁側のベンチからは右バッターボックスの深瀬の表情は見えないが、スイングが硬い。
「深瀬、楽に楽に。肩の力抜いていこう」
卒業した後に甲子園の思い出話で盛り上がれるように頑張ろうぜ。
いつもヘラヘラ笑っている深瀬だが、野球にかける想いは人一倍だ。ずっとバッテリーを組んできた芦田は深瀬の努力も本気で甲子園に行きたいという想いも知っている。そんな深瀬に何て声を掛けるべきか慎重に考えてから声を出す。
「深瀬、楽しんでいこう」
掛ける言葉はこれが一番だと思った。野球を楽しむことがモットーの深瀬には。
「深瀬君。頑張れー」
マネージャーの愛も大きな声援を送る。皆も腹の底から声を出している。何とか出塁してくれという想いを乗せて。
四球目。深瀬はバントの構えを見せる。ツーナッシングからセーフティ?
深瀬はバットを前に押し出して投手の早坂と前進して来たファーストの間に打球が転がる。プッシュバントだ。
「上手い」
思わず声に出していた。それほどいいバントだった。一塁ベースカバーに入ろうと走っていたセカンドの吉田が切り返して打球を追う。投手の早坂は一塁ベースカバーに走る。深瀬も一塁に全力で走る。吉田が打球を素手で掴んで、態勢が崩れたまま一塁に送球する。一塁にヘッドスライディングする深瀬の手とボールのどちらが速く到達したのか分からないぐらいのタイミングだった。
一塁塁審の判定を待つ時間がとても長く感じられた。皆が固唾を呑んで見守っている。
「アウトー」
懸命な深瀬のプレーだったが、審判からはアウトが宣告された。惜しいプレーたっただけにベンチにいる皆が悔しがっている。
「一番、センター、中島君」
「啓太、ここからチャンスを作って行こうぜ」
ウグイス嬢のアナウンスに続いて、ベンチからは啓太に声援が送られる。ワンナウトを取られたが、誰もが気落ちせずに前を向いている。その姿を見て一瞬芦田の涙腺が緩みかけるが、何やってんだと自分で自分を叱咤する。皆と同じように前を向かないと。キャプテンだろ。
一塁キャンバスから深瀬が戻ってくる。ヘッドスライディングをしたため、ユニフォームはドロドロだ。
「いいバントとダッシュだったぞ」
「ナイスファイト」
「出れなくて悪い」
珍しく真顔で深瀬が謝る。それだけ塁に出たいという気持ちが強かったんだろう。
「深瀬。九回裏にまだ仕事が残ってるんだから、頼んだぞ」
芦田は絶対追いついてやるからという想いを込めて、深瀬に声を掛ける。
「うん。準備して待ってるよ」
一番打者の啓太がバッターボックスに入り、二番の金平がネクストバッターサークルに入る。芦田はヘルメットとバットを取りにベンチの端に向かう途中、愛の姿が視界に入った。スコアブックに向かい、ペンを握りしめている右手が小刻みに震えている。
「愛」
愛が芦田の声に反応し、こちらを振り向く。
「大丈夫だよ。勝って戻ってくるから」
愛は目に涙を浮かべてながらコクリと頷く。そしてバッターボックスへと向かって声を出す。
「中島君、積極的に行こう」
芦田はヘルメットをかぶり、バットを手にする。芦田が二年と四か月使い続けてきたバット。このバットを今までどれだけ振ってきただろうか。振った分だけの何かがきっとバットに宿っているはずだ。芦田はそう思い、バットを握りしめてグラウンドを向く。
「ストライーク」
啓太のバットが早坂のストレートに対して空を切る。終盤に来て球威が増しているように見える。
「悪くないスイングだぞ。自信持って行け」
二球目は外れてボールカウントはワンボールワンストライク。
そして三球目。内角低めのストレートを啓太は振りぬくが、球威に押されて高いバウンドのゴロになる。が、打球の飛んだコースがいい。三遊間の深い所だ。
「啓太―。走れー」
チーム一の俊足を飛ばして啓太が一塁ベースに向かう。ショートの林田が打球に追いつき、右足で踏ん張ってノーステップでファーストへ送球する。一塁ベースの手前で啓太が両手を前に出して倒れ込む。頼む、セーフであってくれ。心の中でそう懇願し、審判のコールを待つ。
「セーフ」
コールが聞こえた瞬間に三鷹第二高校ベンチは湧いた。
「よく出たぞー」
「ナイスラン、啓太」
啓太が出塁した。これでダブられなければ、三番の芦田まで回る。芦田はネクストバッターサールに向かう。
「二番、セカンド、金平君」
「金平―。楽に行こう。いつも通りやれば大丈夫だ」
ネクストバッターサークルから見た金平の顔からは緊張の色が漂っている。この場面で緊張するなというのは無理な話だが、少しでもそのプレッシャーを解放できるならと思い、芦田は大声で金平へ呼び掛けた。
マウンド上の早坂はセットポジションの構えを作るとしばらく静止し、一塁へ牽制球を投じる。啓太は大きなリードを取っていた状態からヘッドスライディングで一塁へ戻る。九回の表。ワンナントランナー一塁。一塁ランナーにチーム一の俊足の啓太を置いた状態でどんな攻撃を仕掛けていくか。監督の青柳が出すサインを見終えると、啓太と金平はヘルメットのつばを触り、アンサーを出す。
早坂が再びセットポジションに入る。大きく上げた右足が今度はホームベースの方向へ動く。金平はセーフティバントの構えを見せてバットを引く。高めに浮いたストレートを見送りボールカウントはワンボールノーストライク。
金平に対する二球目も高めに抜け、ツーボールとなった。ここに来て珍しくボールが先行している。少しずつ流れがウチに傾いてきたのかもしれないと芦田は思った。
慎重にサインを交換してからセットポジションに入った早坂の右足が上がる。その右足がホームベースの方向へ入った瞬間啓太がスタートを切る。
「走った」
早大鶴ケ丘高校のベンチからランナーの状況を知らせる声が響く。早坂の振りぬいた左腕から放たれたボールにはスピードがない。スローカーブだ。金平の重心が前の方へ移動する。だが、金平は体を開くのをギリギリまで我慢してバットを振りぬく。一二塁間へ鋭いゴロが転がる。一塁ランナーの啓太はヒットエンドランでスタートを切っているため、一二塁間を破れば、ワンナウトランナー一塁三塁の状況で芦田に回ることになる。
「抜けろー」
セカンドの吉田は二塁ベース寄りに守っていたが、打球に対する一歩目が速く、飛びついて伸ばして左手のグラブに打球が収まる。吉田は起き上がると、二塁は無理と判断し、ファーストへ送球する。
「アウトー」
このプレッシャーが掛かっている場面であの打球に追いつき、捕った後も冷静に送球する姿を見ると、さすがに鍛えられている。
これでツーアウトランナー二塁。あとアウトひとつ取られれば、三鷹第二高校の三年生の高校野球は終わる。早大鶴ケ丘高校はあとアウトひとつ取れば、甲子園行きの切符を手にする。
「頼むぞー、芦田」
「絶対俺に回せよ」
皆の声を背中に受けて、芦田がネクストバッターサークルから立ち上がる。
「三番、キャッチャー、芦田君」
ネクストバッターサークルからバッターボックスへの道のりを芦田は一歩一歩噛みしめながら歩く。歩きながら頭の中で様々な出来事に思いを馳せる。中学時代、実力もないのに本気で何かに打ち込んでいる人間や空気の読めない人間を馬鹿にしていたこと。何事も要領よくそつなくこなし、力は入れずにほどほどに生きていくのが馬鹿を見ないで済むと思っていたこと。山内将太の自殺という取り返しのつかないことを起こしてしまったこと。それから少しでも変わろうと、一生懸命に生きようと思ったこと。一人一人と真剣に真正面から向き合おうと思ったこと。本気で甲子園を目指して練習してきたこと。黒崎が野球部を辞めてしまったこと。
どの出来事も今の芦田を作り上げている。全てを背負って芦田は右バッターボックスへ左足から踏み出す。
丁寧に足場を均してから、ホームベースの両端をバット触る。左手一本で持ったバットを投手の早坂の方向を向けて周りを見渡す。外野はやや深めの守備位置だ。芦田は長打力がある方ではないが、二点差がある今の状況から二塁ランナーを返されるのは良しとし、それよりも長打でチャンスを広げられることを警戒するシフトを敷いている。
次の克也に繋ぐことだけに集中しよう。
芦田は自分にそう言い聞かせ、構えを作る。マウンド上の早坂はロージンバックを左手に持ちながら、こちらを睨みつけるかのような険しい表情をしている。試合開始からずっと醸し出しているそのオーラは威圧感が溢れ出している。インタビューに答える爽やかな早坂とは打って変わったこの雰囲気。三鷹第二高校の打線がここまでわずか四安打に抑えられているのは早坂から感じるプレッシャーに萎縮してしまっているという理由もある。
「ヨッシャー、来い」
芦田は気が付くと、大声を絞り出していた。普段打席で声を出したりすることはない。何が自分をそうさせたのかは分からないが、絶対に負けたくないという気持ちがあるのだけは確かだった。
「早坂―。決めようぜ」
「自分のピッチングを貫いていこう」
早大鶴ケ丘高校の守備(バック)が早坂を盛り立てる。
「芦田―。強気で行け」
「芦田さん。繋ぐ意識だけ持っていきましょう」
三鷹第二高校の声援も負けていない。
早坂が右足を大きく上げてから左腕を鋭く振りぬく。芦田は思い切りバットを振りぬく。
「ストライーク」
速い。
「シャアアー」
芦田から空振りを取り、早坂が雄叫びを上げる。
「いいぞ。早坂。気持ち入ってるねー」
確かに今のストレートは速さだけじゃなく、気持ちの込もったボールだった。早坂の絶対に負けないという気持ちが。だけど、気持ちならこっちだって負けない。
「芦田さん、バット振れてますよ」
二塁ランナーの啓太から声が掛かる。啓太も内野安打で出塁し、この試合にかける気持ちを見せてくれた。キャプテンの俺がそれに応えないでどうする。
二球目は外にストレートが外れた。
「見えてる見えてる。ナイス選」
今のボールは見極められたが、それにしても早坂のストレートは速い。今の球の球速表示は142km/hと出ているが、もっと出ているように感じられるし、浮き上がると錯覚させるような軌道を見せている。
三球目。スローカーブに芦田のバットが空を切る。
「追い込んだぞー」
「今のお前の球は誰も打てねーよ」
低めのいいコースに決まったとは言え、今のはストレートを意識しすぎていた。ボールカウントはワンボールツーストライク。あとストライク一つ取られれば試合は終わってしまう。
芦田に対する第四球。内角高めの際どいコースにストレートが投じられる。そのストレートは芦田のバットの上っ面に当たり、後方に飛ぶファウルとなる。
「いいぞー。粘って行け」
「絶対打てるぞ」
五球目、六球目の際どいコースのストレートも芦田はファウルにする。一球ごとに自分の体が熱くなってくるのが感じられる。心臓の鼓動も聞こえてくる。
七球目。早坂の左手から放たれたボールが一瞬浮き上がるのが見えた。スローカーブだ。ボールはホームベースの前でワンバウンドする。早大鶴ケ丘の捕手の辛島がプロテクターにボールを当てて体の前に落とす。
これでツーボールツーストライクだ。早坂の顔を見ると大量の汗が流れている。それは芦田も同じだった。二人とも汗を拭うこともせず、ただ一心に次のボールへの準備をする。
八球目のストレートを芦田が一塁線のファウルゾーンに弾き返す。
「さあ来い」
芦田は間髪入れずに大声で叫び、構えを作る。早坂もそのテンポにつられるかのようにすぐにセットポジションに入る。そして投球モーションに入り、九球目が放たれた。
スピードのあるボールが外角低めに向かってくる。芦田はスイングを始動させるが、ボール近づくにつれて沈んでいく。フォークボールだ。だがもうバットは止まらない。芦田は懸命にワンバウンドしそうな低めのボール球にバットを当てにいく。頼む、当たってくれ。
ギリギリまで指先の神経を研ぎ澄ませて振ったバットにボールがかすった。打球は後方へ飛んでゆく。芦田はかろうじて難を逃れた。
「ナイスカットナイスカット」
危なかった。フォークが全く頭になかった訳ではなかったが、今のフォークはストレートに見えるぐらいスピードがあった。
早坂を見るとさすがに肩で息をしている。芦田が粘り続け、次で十球目になるのだから無理もなかった。
十球目のボールは早坂の左手からリリースされると一瞬浮き上がるかのように見え、そこから大きく曲がっていく。
カキーンという心地いい金属音と共にレフト線へ強烈なライナーが飛んでいく。が、わかずかに切れてファウルとなる。
「ああー惜しい」
「芦田。捉えているよ」
「絶対打てるぞー」
少し甘く入って来たスローカーブを芦田は見逃さなかった。だが、少し待ちきれなかった分だけ打球が切れてしまったのだ。
「いい当たりでもファウルはファウルだ」
「追い込んでるぞ、早坂」
十一球目。ホームベースの手前でワンバウンドするフォークボールを芦田きっちりと見極めてバットを止める。これでボールカウントはスリーボールツーストライ。フルカウントだ。
スローカーブは捉えた。フォークも見極めている。とすれば次の球は・・・。
芦田は一度深呼吸して早坂を見据える。その表情は打てるもんなら打ってみろよと言っているかのように見える。
早坂の右足が地面から離れる。軸足である左足から右足へ体重移動を行い、沈み込んで投げられたボールは内角へと真っ直ぐ向かってくる。芦田の読み通りストレートだ。捉えたと思った。だが、打球は芦田の真後ろへと飛んでいく。早坂のボールの手元での伸びは芦田の予想を上回っていた。その分ボールの下を叩いてしまった。
「らぁーーーーーーーーーーーーー!」
ファウルになった瞬間に早坂が叫び声を上げた。恐ろしい気迫だ。顔から滴り落ちる汗を気にもしていない。
次の球が十三球目。これだけ粘っても早坂の集中力は途切れない。
「タイミング合ってるぞ、芦田」
「押してる押してる。勝ってるぞ、早坂」
第十三球目。早坂がゆっくりと右足を上げる。大きく踏み出した右足に体重が移動し、鋭く体が回転する。しなやかで柔らかい左腕が鋭く振られる。
外角低めのストレート。際どいボールだ。芦田は無我夢中で食らいついた。早坂の投げたボールは芦田がフルスイングしたバットの芯に当たる。強烈な打球が早坂の顔めがけて飛んでいく。早坂がグラブを出してそのライナーを捕りに行くが、あまりの打球の速さにボールを弾く。弾いたボールは早坂の後方へ飛んで転がり落ちる。ツーアウトなので打った瞬間にスタートを切っていた二塁ランナーの啓太は三塁に到達し、芦田も一塁を駆け抜ける。ピッチャー強襲ヒットでツーアウトランナー一塁三塁。
「すげえぞ芦田。よく打った」
「信じてたぞ、キャプテン」
これ以上ない声が三鷹第二高校から聞こえる。芦田は振り返って四番の克也に視線を送る。後は頼んだぞ。
「四番、ショート、藤崎君」
同点のランナーを一塁に置いた状況で藤崎克也がバッターボックスに入る。
「克也―。今日のこれまでの打席のスイングを思い出せ。お前なら絶対打てるぞ」
四番打者の克也は今日の試合で早坂から二安打を放ち、当たっている。しかも二本ともクリーンヒットだ。誰もがその四番に期待している。
「甘い球あるぞ、積極的に行こうぜ」
「スタンドに放りこんでやれ。絶対打てるぞ」
「ツーアウト、ツーアウト。ここで切ろうぜ」
「早坂―。気持ちだ。ここは気持ちで行こうぜ」
両チームからの声援が飛び交う。芦田は一塁ベースを踏んだ状態でマウンドの早坂を見る。早坂は芦田の方を見て、一瞬口元を緩ませた。
何だろう、今のは。
口元が緩んだのは一瞬ですぐに今まで通りの険しい顔つきに戻ったが、今の早坂の表情が芦田は気になった。もしかしてこの状況を楽しんでいるのか?今日打たれている克也にリベンジできるチャンスだからか?それとも芦田の見間違いか?
芦田は一塁ベースから離塁してリードを取り始める。芦田のセーフティリードである六歩半分だけ足を動かすと、やや腰を落とした状態で早坂をじっと見る。早坂がセットポジションに入ってしばらく静止する。しばらく芦田の方を睨むように凝視してから右足を上げ、そのまま真っ直ぐ右足を突き出す。早坂の牽制球に対し、芦田は頭から戻る。一塁ベースを右手で掴みながら起き上がり、ユニフォームに付いた泥を払う。再び芦田はリードを取る。
今度は早坂の右足が素早く動いた。クイックモーションだ。早坂の投じたボールは外角低めに決まり、克也はそのボールを見送る。
「ストライーク」
審判の右手が上がり、歓声が聞こえてくる。
「ナイスボールだ、早坂」
「絶対守ってやる。自分を信じて思い切って投げろ」
「克也―。次甘い球来るぞ」
「打ってこうぜ、打ってこうぜ」
ツーアウト一塁三塁のこの状況で一塁ランナーの芦田が盗塁に成功すれば、ツーアウト二塁三塁となりシングルヒットでも同点に追いつける状況を作ることができる。だが、投手の球もモーションも速く、捕手の肩も強いこのバッテリーからと盗塁を決めるのは難しい。それに、ここで走るのは例え盗塁が成功しても、一塁を空けることで克也を歩かせる気をバッテリーに起こさせる可能性が増すのではないかと案じ、得策ではないと芦田は判断した。克也の次の打者である五番の赤城は全く早坂のボールに合っておらず、ここまで三つの三振を喫している。三鷹第二高校には代打の切り札となるような選手もいない。五番の赤城を信頼していない訳ではない。だが、客観的に判断すると事実上のチャンスは克也のこの打席しかないのだ。後は全てを克也に託そうと思った。
「克也―。お前の三年間を見せてやれ。」
塁上から芦田が叫ぶ。思えば克也との間には色々あった。芦田がキャプテンになってからは言い争うことも少なくなかった。だがそれでもここまで来た。本気で甲子園を目指して共にここまで走ってきたのだ。だから絶対甲子園に行こう。黒崎を含めた野球部全員で。
早坂が投球モーションに入り、二球目を投じる。スピードの乗ったボールが内角をえぐる。左投手(サウスポー)の早坂から右打者の克也に対し、対角線にボールが向かっていく。克也は迷わずにバットを振り出す。バットの軌道が体の近くの最短距離を通るインサイドアウトのスイグだ。カキーンという金属音が聞こえてきたのと共に芦田はスタートを切った。
真芯で捉えた速い打球がショートの頭上を越えるのが見えた。芦田は二塁ベースを回って三塁へ向かう。三塁ランナーの啓太は既にホームインしている。芦田が返れば同点に追い付ける。二塁から三塁に向かう間に芦田は考える。三塁を回るか三塁で止まるか。打球は左中間を破るかどうかは分からず、回り込んで取られた可能性がある。外野からの送球が逸れずに来れば、ホームインするのは厳しいかもしれない。だが、五番の赤城は今日全く当たっていない。チャンスはここしかないのだ。
三塁ランナーコーチャーの高橋は右腕をぐるぐる回している。ここは行くしかない場面なのだと自分に言い聞かせ、芦田三塁ベースを回った。
これ以上ないぐらい全力でホームベースを目指して走る。次のバッターの赤城が芦田から見て右側に両手を振っている。送球が内側に逸れているため、外から回り込めという指示だ。芦田は回り込んでスラインディングをすると、内側に少し逸れた送球が捕手の辛島にミットに到達したのが見えた。体を捻ってホームベースに手を伸ばす。届いてくれと願いながら。
* * *
九回の表。ツーアウトランナー二塁。打席には三番の芦田が入っている。
「すげえな、何球粘るんだよ」
「今の低めのフォークを良くカットしたよな。次の球で十球目だぞ」
「物凄い執念を感じるよな」
必死に早坂のボールに食らいつく芦田を見て、黒崎もこの試合にかける芦田の想いを感じ取っていた。二対〇と二点ビバインドで迎えた九回。正直黒崎は後半に地力の差が出て、もっと点差が開くだろうと予想していた。だから強力な早大鶴ケ丘打線をここまで二点に抑えていることには驚いていたが、あの早坂から二点を取るということは奇跡でも起きない限り不可能だろうとも思っていた。それでもこの九回、深瀬も啓太も金平も、そして芦田も全く諦めるそぶりなど見せず、絶対勝ってやるという気持ちが滲み出ていた。そのプレーは三鷹第二高校の敗北を願っていたはずの黒崎の心を揺り動かしていた。
十球目が投じられ、レフト線に強烈な打球が飛んでいく。
「おぉーーー」
観客達から歓声が上がるが、わずかに切れてファウルだ。だが、芦田が早坂のボールを捉えている。早坂俊介という超高校級の怪物を相手に堂々と渡り合っている。
十一球目はフォークが低めに外れてボールとなり、フルカウントとなる。そして十二球目は早坂の渾身のストレートをドンピシャのタイミングでスイングするが、打球はバックネットに突き刺さる。
「らぁーーーーーーーーーーーーー!」
投げ終わった後に早坂の雄叫びが聞こえてきた。グラウンドの外にいてもその迫力が十分伝わってくる。皆はこんな相手と戦っているのか。
十三球目。早坂の速い球を芦田が弾き返す。投手に真っ直ぐ向かっていった速い打球に反応して早坂はグラブを出すが、打球を弾いた。ボールは早坂の後ろに力なく転がり、ツーアウト一塁三塁となった。
「四番、ショート、藤崎君」
黒崎は三鷹第二高校の選手達のプレーを見て、震えが止まらなかった。二点差がある状況でこんな凄い相手に諦めずに必死に食らいついている。黒崎はスマートフォンを取り出し、昨日芦田から送られてきたメールの内容を確認する。
【今までキャプテンとして何も力になれずに本当に悪かった】
なんで俺はずっと人のせいにしてばかりいたんだろう。
【もう嫌かもしれないけど、もしよかったら明日の決勝戦見に来てくれないか?】
チームメイトと上手く馴染もうと努力もせずに、チームの居心地が悪くて逃げ出した。何もかも人のせいにして、他人を憎み、自分の落ち度は棚に上げて。
【明日は俺達の三年間の集大成だから】
何で逃げ出してしまったんだろう。何であんなに馬鹿なことばかり考えていたのだろう。
【野球部全員に見てて欲しいんだ】
自分を必要だと言ってくれる仲間がいるのに。
【甲子園行きを決めて待ってるからな。黒崎が戻って来れるように】
黒崎は野球部を辞めたことを後悔すると共に自暴自棄になっていた自分を恥じた。気づけば黒崎の目からは涙が零れ落ちていた。
カキーンという爽快な金属音が聞こえてくる。黒崎は打球の行方を追う。打球はショートの頭を越え、左中間を破ろうとするがセンターが回り込んで捕球する。三塁ランナーな啓太はホームインし、一塁ランナーの芦田は二塁を回って三塁に向かう。そして、三塁も回った。ホームに突っ込むのであれば正直タイミングは厳しい。送球が逸れるのを期待するしかない。センターからの送球は一塁側にやや逸れている。捕手の辛島に送球が到達する。芦田は外側から回り込んでタッチを交わすようにスライディングをし、ホームベースに左手を伸ばす。辛島がミットをホームベースに伸ばす。頼む、セーフであってくれ。黒崎は心の底からそう願った。
しばしの間、静寂が訪れた。試合をしている選手達、ベンチで見守る選手達、スタンドで応援する選手達、スタンドにいる観客達が主審の判定をじっと待っている。
「アウトー」
主審がアウトを宣告した瞬間、三鷹第二高校野球部の夏が終わった。夏の予選を二連覇している王者早大鶴ケ丘高校にここまで食い下がったからなのか、スタンドからは三鷹第二高校に対するエールが送られている。
「よくやったぞー、三鷹二校」
「立派だったぞー」
黒崎は椅子から立ち上がり、精一杯大きな音で拍手をした。三鷹第二高校野球部の選手全員の健闘を称えて。
* * *
「アウトー」
間近から主審の判定が聞こえてきた。タッチをかわすために外側から回り込んでホームベースに左手を伸ばしたが、ホームベースに触れる前に辛島のミットが伸びてきた。
判定を聞いてから芦田はその場にうずくまって動かなかった。
二対一。ゲームセット。決勝戦敗退。
頭の中で現実の状況を反照する。あそこで三塁ベースを回ってホームに突っ込んだ判断は客観的に考えて、正しかったと思う。同点に追い付くチャンスはあの時しかなかったのだから。でも届かなかった。届かなかったのだ。
本気で勝ちにいった。泥臭く、粘り強く、真剣に。昔の自分が鼻で笑っていたような何かに本気で取り組むということをずっと続けてきた。だからこそ、力が足りなかったことが悔しくて悔しくて、芦田の目からは涙が流れ出る。
「芦田、よく走った」
「ああ、これ以上ない激走だったぞ」
チームメイトがアウトになったことを責めず、ねぎらいの言葉を掛けてくる。
「負けたのはもっと大きい当たりを打てなかった俺の責任だ」
右肩に手が添えられる。大きくてゴツゴツしたその手は克也のものだと分かった。
「そんなことないよ」
芦田は下を向いたまま涙声で応じる。
「いや、最後の打球はもっと角度が付けられる思ったんだけど、球威に押されて打球が上がらなかったんだよ。だからほんとに俺のせいだよ」
「負けたのは誰のせいでもないよ」
今度は深瀬が言葉を続ける。
「だから泣くなよキャプテン。整列までしっかりやろう」
芦田は下を向きながら、首を縦に振ることしかできなかった。チームメイトにこんな言葉を掛けられたら余計に涙が止まらない。本来なら皆のことをねぎらうのはキャプテンである俺の役目なのに情けねえな、俺。甲子園行きを決めるという愛との約束も黒崎に宣言したことも守れなかった。
「啓太」
キャプテンとしてまだやることがある。そう思って芦田は涙を拭いて立ち上がる。啓太も涙をボロボロと流している。
「最終回よく出てくれたよ。あれがなかったら、俺も打てなかった」
実際、九回表の攻撃は啓太の闘志溢れる内野安打での出塁から始まった。
「そんなこと・・・・・ないです」
啓太は涙ぐみながらやっとという感じで言葉を吐き出す。
「今日・・・・全然・・・・出塁できなくて・・・・すみませんでした」
嗚咽が止まらずに、啓太の言葉は途切れ途切れになる。そこまでこの試合、そして三年生のことを想ってくれているのだと思うと芦田の目から再び涙が滲み出てくる。
「お前はよくやったよ。全然責められるようなプレーはしてない。これからはお前が中心のチームになるんだから、頼んだぞ。絶対甲子園行けよ」
「はい。ありがとうございます」
芦田はそれから他のメンバーにも声を掛けた。レギュラーメンバーにも、控えのメンバーにも全員に。
「芦田君」
声を掛けられて芦田がハッと振り返る。声の主は早大鶴ケ丘高校のエース、早坂だった。
「ありがとう」
右手を差し出し、寂しそうな表情で握手を求めてくる。試合中とは別人のようだ。何で勝ったそっちがそんな寂しそうな顔をしてるんだよ。それにありがとう?
早坂の言葉の真意は分からなかったが、右手を出して握手に応じた。
「こちらこそ、ありがとう」
今日の試合、全力で戦い合ったことに感謝を込めて。
* * *
「早大鶴ケ丘、三年連続甲子園出場おめでとう」
「早坂くーん」
「早坂―。甲子園にも応援行くからな」
スタンドから様々な種類の人間の声援が聞こえてくる。その声の中でも多いのが早坂に対するものだ。今日の試合、最後に一点を取られはしたが、早坂の調子は良かった。マウンドで気迫溢れるピッチングを見せるのはいつものことだが、今日の早坂は今までで一番気持ちが入っていたように思える。やはり最後の夏の甲子園をかけた試合だったからだろう。
グラウンドには早大鶴ケ丘高校と三鷹第二高校がバックネットの方向を向いて一塁側と三塁側に整列し、セレモニーが行われている。
「皆様、健闘した両校の選手に盛大な拍手をお送り下さい」
セレモニー終了の合図を告げ、優勝旗を持ったキャプテンの翔也からホームベースへ向かって歩き出す。ホームベースに達すると、そこからダイヤモンドを一周して歩き、ベンチへと戻ってくる。準優勝の三鷹第二高校も早大鶴ケ丘高校の後に続いて、同様の道筋を辿る。
決して三鷹第二高校を甘く見ていた訳ではないが、坂上もこんなに切迫した試合になるとは思わなかった。おそらく、この球場にいるだれもがそう思っているだろう。三鷹第二高校はセンターラインを中心にとてもいい選手が揃っていた。甲子園に出ていても何ら不思議のない選手が。エースの深瀬、正捕手の芦田、ショートの藤崎、セカンドの金平、センターの中島。この五人は特に突出していた。序盤の深瀬のピッチングには困惑させられたし、三番の芦田の粘り強さ、そして四番の藤崎の力強いバッティングには後一歩で甲子園行きの切符を奪われるところだった。決して都立の弱小校なんかではない。そんな相手に堂々と勝利した仲間たちがベンチに戻ってくる。
「坂上ー。お前のおかげで取ってこれたぜ、優勝旗」
優勝旗を手にしたキャプテンの翔也が嬉しそうな表情で坂上に声を掛けてくる。
「いや、俺は向こうの配球を決めつけるというミスをしたし、全然貢献できてないよ。優勝できたのは皆のおかげだよ」
本音だった。深瀬、芦田のバッテリーの序盤のインコース攻めにより序盤の拙攻はこの試合も外中心の配球で来る決めつけた自分にあると坂上は思ってたからだ。
「そんなことねえよ。お前がいなかったら優勝できてないよ」
キャプテンの翔也に肩をぽんと叩かれる。身長は坂上とほとんど変わらないのに、なぜか翔也がとても大きく見えた。
「坂上、今日の試合も君のデータのおかげで自分のピッチングが出来たよ」
早坂も坂上を評価してくれる。
「本当にありがとう」
こんなに真っ向からお礼を言われると、何だかとても照れ臭かった。だが、この時坂上は新チーム結成後、野球部を辞めずにマネージャーとして野球部に残ってよかったと心の底から思った。
「優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます」
球場から出ると、報道陣が待ち構えており、インタビューが行われる。早坂はいつも通りの曇りのない笑顔でインタビュアーの祝福の言葉にお礼を返す。
「非常に切迫したいい試合でした。今日の試合を振り返ってどう思いますか?」
「相手の三鷹二高が非常に強く、苦しい試合になりましたが、だからこそ自分のピッチングができたと思っています。優勝できたのはチームメイト達のおかげです。支えてくれた皆に感謝したいです」
これだけの大勢の記者に囲まれながら、冷静に、愛嬌良く振る舞う早坂の姿を見て坂上は自分だったら舞い上がってまともな返答ができないなと思った。早坂は一年生の時からそんな場所に立ち、誰からも評価されるようなコメントをするのだから凄いとしか言いようがない。人間としての器が自分とは全然違うのだ。
「今日の試合とは別の話になるのですが」
インタビュアーが質問を続ける。
「昨日お父さんが無事退院されたそうですね。早坂選手はそんなお父さんに優勝というこれ以上ないプレゼントを送ることができた訳ですが、優勝の報告と共にお父さんにどんな言葉を送りたいですか?」
早坂の父が入院していたという話は聞いていた。そうか、退院できたのか。
「今日の試合が終わったら、勝っても負けても言おうと思っていたことがあります」
早坂の顔から笑顔が消え、真顔になった。今までに見たことのないような冷たい表情だ。
「昨日、東京都の高野連に脅迫状が届いたと思います。文書の内容はこうです。7月二十八日の西東京大会の決勝戦終了後、一人の人間を殺す。なお、警察への連絡はもちろん決勝戦の中止、順延は絶対に許さない」
高野連に脅迫状?一人の人間を殺す?一対何を言ってるんだ?早坂。
「あれは僕が送りました」
周囲がざわめく中、早坂はほくそ笑んでいた。
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