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生きる糧

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 話していると突然、ズキンッと強烈な痛みが前頭部に走った。


 俺が小学1年生の時、隣で手を洗っていた子が、蛇口に水を掛けているのを見て理由を尋ねた。

「洗う前の汚れた手で触ったからだよ。洗った手で触ると、せっかく洗った手がまた汚れるでしょ」
 
 そう言って不思議そうな顔をしていた。
 少し馬鹿にされたような気がしてモヤっとしたが、同時に成程と唸った。それ以来、蛇口を洗わなければ触れなくなった。


 あんなの、なんで今思い出したんだろう····。

 理解や納得をした事は深く遺るという事か。言動も想いも、脳に遺るのはいつだって深く納得がいったものばかりだ。
 でも、理解できなかったり納得がいかないものは幾度となく繰り返そうが遺らない。俺の脳は随分とアホみたいだ。皆そうなんだろうか?
 そうだよ。何もかも憶えてる奴なんかいないよな。だから、仕方ないんだ。死んでしまった奴の記憶が薄れていくのは。

 秤君の親父さんも怒ったりしないよ、だぶん。駿も怒らないよな。でもやっぱ、ちょっと寂しいよ。
 あの世で会えると思ってたのに、俺、よくわかんない所に来ちゃったしさ。なんでか、まだ生きてるんだよ。兄ちゃんだけこんなんでごめんな。

 あれ? もしかして、駿も同じようにどっかに転移とかできてたりしないのかな。
 だったらいいな。どこかで楽しく生きてくれてたら。魔法とか使える世界だと羨ましいな。せっかく別の世界に行けるなら、そっちのが絶対楽しいじゃん。
 俺が来ちゃった世界、なんなんだよって感じだよ。魔法とか微塵も使えないし、結局胸糞悪いし。秤君はすっごい良い人だけども。

 もし、俺らが元々この世界に生きてたら、お前を苦しめた奴を法で懲らしめる事ができたんだろうな。俺はあんな間抜けな死に方しなかっただろうな。

 あー····、ヤバい。後悔しかないわ。俺まだ、死にたくなかったんだけどな────



~~~



──ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、──



「要····あなた、そろそろ起きなさいよ」



~~~


──······あなた··そろそろ起きなさいよ──

「母さん····? 駿が····、俺··も····うっ」

「要さん? 要さん、大丈夫ですか。要さん!!」

「秤··君? あれ、なんだこれ····」

「要さん!? しっかりしてください!! 要さんっ!!」

「ダメだ··頭が····うぁっ······」


~~~



──ピッ、ピッ、ピピッ、ピッ、ピピッ、──


「要? 要!!」


 ナースコールが鳴り響く。


「脳波が、今、脳波に少し変化があったんです!」


 なんだか、周囲がバタバタしている。


~~~


──かなめ? 要? 起きなさい。起きて! あなたまで逝かないでちょうだい──


「ごめん。俺··馬鹿で····」

「要さん、どうしたんですか? 要さんっ──」


~~~


「ごめん。俺、馬鹿で····。母さん、俺どうして····」


 目にとびこんできたのは、青ざめた顔でぐしゃぐしゃに泣きじゃくる母さんだった。


「要··。あなた還ってきたのね。良かった····。還ってきてくれてありがとう。本当に良かった。本当に····」


 母さんはその場で泣き崩れた。なんのこっちゃ分からない。俺の身体が動かず、声を上げて泣き続ける母さんに手を添えてやることもできないんだ。
 傍に居た看護師さんが言うには、俺は駿の仇討ちで返り討ちにあったが、どうにか一命を取り留めたらしい。
 だが、暫く生死を彷徨って、今の今まで眠ったままだったんだとか。俺は、たった2日間のリアルすぎる夢を見ていたのだろうか。
 
 しかし、そうとも言いきれない事が起きていた。
 こっちの世界では5年も経っていて、軽く浦島太郎状態の俺。俺が寝コケてる間に、色んな事が変わったらしい。

 俺の起こした仇討ちがきっかけで、犯罪者の人権に対する考え方が改められる声があがっているそうだ。少しずつだが確実に、法律が被害者や遺族に寄り添う方向で改定されていく流れになっているらしい。


 被害者が馬鹿を見ない世界。正しく生きている人間が正しく生きていけるような世の中を作っていく。
 それが俺が還ってきた理由なのかもしれない。



 駿、俺が先立って世界を変えてやるよ。お前みたいな奴が、馬鹿を見ない世界に──。




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