婚約破棄された令息の華麗なる逆転劇 ~偽りの番に捨てられたΩは、氷血公爵に愛される~

なの

文字の大きさ
4 / 18

第三章:運命の出会い

しおりを挟む
雨は、三日三晩降り続いた。
エリアスは、ただひたすらに歩き続けた。
泥濘に足を取られ、何度転んだか分からない。かつて楽譜をめくるためにあった繊細な指先は土に汚れ、爪は割れ、誇りだった上質なシャツの生地は雨に濡れて重くなり、歩くたびに足にまとわりつく。

空腹が限界に達すれば道端の野草を口にし、夜の凍える寒さは廃屋の片隅で身をさすって凌いだ。
湿った石の床は骨まで冷えを通し、震えが止まらない夜もあった。しかし、身体の苦痛よりも、心を蝕むのは絶え間なく蘇る裏切りの記憶だった。

婚約者ジークフリートの嘲笑。親友オリヴァーの勝ち誇った顔。

――そして、実の父が自分に向けた氷のような侮蔑の眼差し。
踏みにじられた勿忘草の刺繍が、何度も脳裏に浮かんでは消える。

信じていたすべての人に裏切られ、捨てられた。
僕は、独りだ。

その事実が、鉛のように重く彼の心にのしかかる。
涙はとうに枯れ果てていた。目の奥がひりひりと痛み、もう何も感じなくなってしまったかのようだった。

このまま故郷アルビオン王国を彷徨っていれば、いつか誰かに見つかってしまうだろう。
元公爵子息の成れの果てだと、指をさされて笑われるに違いない。それだけは、嫌だった。最後のプライドが、それを許さなかった。

「……隣の国へ、行こう」

地図も持たず、方角も定かではない。それでも、この国から一刻も早く離れたかった。エリアスは震える足で再び立ち上がり、東へと向かって歩き始めた。
薄い革靴の底はとうにすり減り、一歩ごとに鋭い痛みが走る。
どれくらい歩いただろうか。山を一つ越え、深い森を抜けた先、不意に視界が開けた。

そこに広がっていたのは、故郷とは少し違う様式の、活気あふれる街並みだった。赤い屋根瓦と白い壁の家々が立ち並び、街角には色とりどりの旗がはためいている。

隣国ルミナスの国境の街、リーゼンブルク。どうやら、無我夢中で国境を越えていたらしい。

街の喧騒が、ひどく遠い世界のものに感じられた。商人たちの威勢の良い声、子供たちの笑い声、馬車の車輪が石畳を叩く音……自分だけが、この世界の彩度から切り離されてしまったかのようだ。

エリアスは人目を避けながら裏路地に入り、唯一の財産を確かめる。それは、勘当される直前まで身に着けていた、小さなサファイアのカフスボタン。
父から成人祝いに贈られたものだったが、今は感傷に浸っている場合ではなかった。

質屋に行き、カフスボタンをお金に換えた。店主は汚れた彼の姿を怪訝そうに見たが、宝石の価値を認めると、それなりの金額を支払ってくれた。
彼はそのお金で数日分の硬いパンと、屋根裏部屋の安宿を手に入れた。

身分を尋ねられた際は、震える声で「エリアです」とだけ答えた。エリアス・フォン・ラティスという名前は、あの雨の夜に捨ててきたのだ。

新しい名前、新しい街。
しかし、心が晴れることはない。窓の外を人々が笑いながら行き交うのを、エリアスはただ無気力に眺めて過ごしていた。

時折、街の向こうに見える山々を見つめては、故郷の方角を想った。でも、もう帰る場所はない。

そんなある日の昼下がり。パンを買いに広場へ出たエリアスの耳に、甲高い悲鳴と人々の怒声が飛び込んできた。

見ると、暴走した馬車が果物屋の屋台に突っ込み、あたりにリンゴやオレンジが散乱している。馬は興奮して嘶き、御者が必死に手綱を引いている。

そして、その傍らで――小さな男の子が足を抑えて泣き叫んでいた。

「きゃあ!血が……!」
「誰か、早く治癒師を呼んでこい!」
「治癒師なんて、この街にはいないじゃないか!」

人だかりができるが、誰もが遠巻きにするばかり。
少年の足からは、痛々しく赤い血が流れ続けている。母親らしき女性が泣きながら少年を抱きしめ、周囲の人々は困惑の表情を浮かべている。その光景に、エリアスは息を呑んだ。心の奥底で、何かが疼く。

――魔法を使っては駄目。目立ってはいけない。
そう理性が警告する。

しかし、彼の足は意思に反して、人混みをかき分け、少年の元へと向かっていた。苦しんでいる人を見過ごすことなどできない。
それは、彼が生まれ持った性分であり、彼の力の根源でもあった。

「大丈夫だよ。ちょっと見せてくれる?」

エリアスは優しく声をかけながら、しゃがみこんだ。
少年の青ざめた顔に、涙の跡がくっきりと残っている。そして、人々の目から隠すように、自分の上着の裾で傷口を覆う。その下で、彼はそっと右手に意識を集中させた。

ふわり、と柔らかな光が手のひらに灯る。
久しぶりに感じる魔力の流れが、彼の心に微かな温もりをもたらした。

温かな恵みの魔法が、少年の傷へと注ぎ込まれていく。
派手な治癒ではない。傷口を塞ぎ、出血を止めるだけの、ごくささやかな治癒魔法。
痛みが和らいだのか、少年の嗚咽が少しずつ小さくなっていく。

「痛くなくなった……」

少年の小さな声に、エリアスは安堵の息を漏らした。
人を救うことができた。その事実が、彼の枯れかけた心に、小さな光を灯した。

その様子を、広場を見下ろす宿屋の二階の窓から、一人の男が静かに見つめていた。

男の名は、アレクシス・ヴァン・レイヴン。
他国にまで「氷血公爵」の異名で知られる、ルミナス王国屈指のαである。

彼は、ざわめきの中でふと感じた微かだが、どこまでも純粋な魔力の波動に気づいた。それは、凍てついた大地に差し込む陽光のような、慈愛に満ちた温かい魔力。

お伽話に謳われる「恵みの魔法」の残滓。
彼が生涯で感じたことのない、清らかな力だった。

アレクシスの銀灰色の瞳が、すっと細められる。
彼の視線の先には、みすぼらしい身なりの青年が傷ついた子供に寄り添っていた。青年が立ち去ると同時に、奇跡的に少年の出血が止まっている。

間違いない。

青年は、人々の感謝の声が自分に向く前に素早くその場を離れ、路地裏へと姿を消した。
その後ろ姿には、何かから逃げるような切羽詰まった雰囲気があった。

面白い。

あれほどの稀有な力を持ちながら、なぜあのような姿で、正体を隠すように生きているのか。
アレクシスの凍てついた心に、数年ぶりに「興味」という名の小さな波紋が広がった。彼は音もなく席を立ち、青年が消えた路地裏へと向かう。

一方、エリアスは壁に寄りかかり、荒い息を繰り返していた。久しぶりに魔法を使ったせいか、どっと疲労感が押し寄せる。
それ以上に、人前で力を使ってしまった恐怖で心臓が早鐘を打っていた。
冷たい汗が背中を流れ、手が震えて止まらない。

見られていたらどうしよう。もし正体がばれたら……。

「見事なものだったな。
ただの旅人にしては」

不意に、頭上から低く、よく通る声が降ってきた。
はっとして顔を上げると、いつの間に現れたのか、一人の長身の男がエリアスを見下ろしていた。
陽光を弾く美しい銀髪に、すべてを見透かすような銀灰色の瞳。上質な、しかし華美ではない仕立ての良い服は、彼がただ者ではないことを示している。

そして何より、そのαとしての存在感は圧倒的だった。まるで、空気そのものが彼を中心に凍りついているかのようだ。

「……何のことでしょう。人違いでは?」

エリアスは警戒心を最大限に引き上げ、後ずさった。
男の視線が、まるで獲物を品定めするかのように、自分に向けられているのが分かる。
その瞳の奥に宿る知性と冷徹さに、本能的な恐怖を感じた。

男は答えず、ゆっくりとエリアに歩み寄る。
一歩、また一歩。
逃げ場のない路地裏で、エリアは壁に背中を押し付けた。冷たい石の感触が、彼の恐怖を現実のものとして突きつける。

「その身に宿る力、俺の前で隠し通せると思うなよ」

男――アレクシスは、氷のような美貌に、かすかな笑みを浮かべて言った。
それは捕食者が獲物を見つけた時の、危険な微笑みだった。

エリアスの心臓が、激しく跳ね上がる。すべてが終わった。そう思った瞬間だった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

魔王を倒した勇者の凱旋に、親友の俺だけが行かなかった理由

スノウマン(ユッキー)
BL
スラム育ちの少年二人は、15歳になり神の祝福でスキルを得た事で道をたがえる。彼らはやがて青年となり、片方は魔王討伐に旅立つ勇者として華々しい活躍をし、もう片方はただ彼の帰還を待つ相変わらずスラム暮らしの存在となる。 これは何も持たない青年がただ勇者の帰りを待つ日常を描いた作品です。 無自覚両片想いの勇者×親友。 読了後、もう一度だけ読み直して頂けると何か見える世界が変わるかもしれません。

番に見つからない街で、子供を育てている

はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。 異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。 現世の記憶は失われているが、 この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。 街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、 ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。 だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。 再会は望まない。 今はただ、この子との生活を守りたい。 これは、番から逃げたオメガが、 選び直すまでの物語。 *本編完結しました

いい加減観念して結婚してください

彩根梨愛
BL
平凡なオメガが成り行きで決まった婚約解消予定のアルファに結婚を迫られる話 元々ショートショートでしたが、続編を書きましたので短編になりました。 2025/05/05時点でBL18位ありがとうございます。 作者自身驚いていますが、お楽しみ頂き光栄です。

オメガはオメガらしく生きろなんて耐えられない

子犬一 はぁて
BL
「オメガはオメガらしく生きろ」 家を追われオメガ寮で育ったΩは、見合いの席で名家の年上αに身請けされる。 無骨だが優しく、Ωとしてではなく一人の人間として扱ってくれる彼に初めて恋をした。 しかし幸せな日々は突然終わり、二人は別れることになる。 5年後、雪の夜。彼と再会する。 「もう離さない」 再び抱きしめられたら、僕はもうこの人の傍にいることが自分の幸せなんだと気づいた。 彼は温かい手のひらを持つ人だった。 身分差×年上アルファ×溺愛再会BL短編。

過労死転生した悪役令息Ωは、冷徹な隣国皇帝陛下の運命の番でした~婚約破棄と断罪からのざまぁ、そして始まる激甘な溺愛生活~

水凪しおん
BL
過労死した平凡な会社員が目を覚ますと、そこは愛読していたBL小説の世界。よりにもよって、義理の家族に虐げられ、最後は婚約者に断罪される「悪役令息」リオンに転生してしまった! 「出来損ないのΩ」と罵られ、食事もろくに与えられない絶望的な日々。破滅フラグしかない運命に抗うため、前世の知識を頼りに生き延びる決意をするリオン。 そんな彼の前に現れたのは、隣国から訪れた「冷徹皇帝」カイゼル。誰もが恐れる圧倒的カリスマを持つ彼に、なぜかリオンは助けられてしまう。カイゼルに触れられた瞬間、走る甘い痺れ。それは、αとΩを引き合わせる「運命の番」の兆しだった。 「お前がいいんだ、リオン」――まっすぐな求婚、惜しみない溺愛。 孤独だった悪役令息が、運命の番である皇帝に見出され、破滅の運命を覆していく。巧妙な罠、仕組まれた断罪劇、そして華麗なるざまぁ。絶望の淵から始まる、極上の逆転シンデレラストーリー!

新年に余り物でおせちを作ったら、冷酷と噂の騎士団長様に「運命の番」だと求婚されました

水凪しおん
BL
料理人だった俺が転生したのは、男性オメガというだけで家族に虐げられる不遇の青年カイ。 新年くらいはと前世の記憶を頼りに作ったのは、この世界にはない『おせち料理』だった。 それを偶然口にしたのは、氷のように冷酷と噂される最強の騎士団長リアム。 「お前は俺の運命の番だ」 彼の屋敷に保護され、俺の作る料理が彼の心を溶かしていく。 不器用で、だけどまっすぐな愛情を注いでくれる彼と、美味しい料理で紡ぐ、甘くて温かい異世界スローライフ。

『2度目の世界で、あなたと……』 ― 魔法と番が支配する世界で、二度目の人生を ―

なの
BL
Ωとして生まれたリオナは、政略結婚の駒として生き、信じていた結婚相手に裏切られ、孤独の中で命を落とした。 ――はずだった。 目を覚ますと、そこは同じ世界、同じ屋敷、同じ朝。 時間だけが巻き戻り、前世の記憶を持つのは自分だけ。 愛を知らないまま死んだ。今度こそ、本物の愛を知り、自ら選び取る人生を生きる。 これは、愛を知らず道具として生きてきたΩが、初めて出会った温もりに触れ、自らの意思で愛を選び直す物語。 「愛を知らず道具として生きてきたΩが転生を機に、 年上αの騎士と本物の愛を掴みます。 全6話+番外編完結済み!サクサク読めます。

悪役令息(Ω)に転生した俺、破滅回避のためΩ隠してαを装ってたら、冷徹α第一王子に婚約者にされて溺愛されてます!?

水凪しおん
BL
前世の記憶を持つ俺、リオネルは、BL小説の悪役令息に転生していた。 断罪される運命を回避するため、本来希少なΩである性を隠し、出来損ないのαとして目立たず生きてきた。 しかし、突然、原作のヒーローである冷徹な第一王子アシュレイの婚約者にされてしまう。 これは破滅フラグに違いないと絶望する俺だが、アシュレイの態度は原作とどこか違っていて……?

処理中です...