婚約破棄された令息の華麗なる逆転劇 ~偽りの番に捨てられたΩは、氷血公爵に愛される~

なの

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第五章:溶けていく心

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季節は、ゆっくりと冬から春へと移ろいでいた。

エリアスがレイヴン公爵邸に来てから、数ヶ月が経っていた。
彼が手入れを続ける庭園は、もはや以前の荒れた姿が嘘のように、生命力に満ち溢れていた。

クロッカスやスイセンが寒さの中で健気に顔を出し、チューリップの芽が力強く土を持ち上げている。
朝露に濡れた花びらは宝石のように輝き、鳥たちのさえずりが庭園に響いていた。

エリアスの生活も、少しずつ安定していた。屋敷の使用人たちは、最初こそ彼を怪しんでいたが、庭の劇的な変化と、エリアスのひたむきな仕事ぶりを見るうちに、次第に態度を軟化させていった。
特に、古参の執事であるセバスチャンや、メイド頭のマーサは、何かとエリアスのことを気にかけてくれるようになっていた。

「エリア、少しは休みをお取りなさい。また昼食も抜きで土いじりをしていたでしょう」

マーサが心配そうに声をかけると、エリアスは土のついた手で頬を撫で、はにかんだ。

「ありがとうございますマーサさん。
でも、この子たちが春を待ちきれないみたいで」

そんな彼の姿に、マーサは優しい眼差しを向ける。
この物静かで心根の優しい青年が、一体どんな過去を背負っているのか。時折見せる、深い悲しみを湛えた瞳。誰もが疑問に思いながらも、アレクシスの客である彼に深く立ち入る者はいなかった。

一方、アレクシスは相変わらず書斎の窓からエリアスの姿を眺めるのが日課となっていた。

彼は公務で多忙な日々を送っていたが、その合間に見るエリアスの姿は、彼の凍てついた心に差し込む一筋の陽光のようだった。

彼は、ただ植物を育てるだけではなかった。
庭に迷い込んできた小鳥の怪我をこっそり癒し、時には花の蜜を吸いにきた蝶と戯れるように指先を差し伸べる。
彼の周りだけ時間が穏やかに、そして優しく流れているように見えた。

このΩは、なぜこれほどまでに俺の心を惹きつけるのだろうか――。

アレクシスはαとしての本能とは違う、理解できない感情に戸惑いながら、それでもエリアスから目を離すことができなかった。

ある風の強い日の午後。
エリアスが高い木の枝に引っかかった蔓を払おうと、古い脚立に登っていた時のことだった。春風が突然強く吹き、脚立を激しく揺らす。ぐらり、と脚立が大きく揺れ、彼の体がバランスを崩した。

「わっ!」

落ちる――そう思った瞬間、エリアスの体は衝撃ではなく、逞しい腕にふわりと受け止められていた。
驚いて目を開けると、そこには信じられないほど近くに、アレクシスの整った顔があった。彼の銀灰色の瞳が、間近で自分を見つめている。

「……公爵様」

エリアスの頬に、薄っすらと赤みが差した。彼の腕の中は温かく、白檀の落ち着いた香りに包まれている。

「無茶をするな。怪我でもしたらどうする」

彼の声は低く、叱責するような響きがあったが、エリアスを抱きとめる腕は驚くほど優しい。
彼の腕の中から見上げる銀灰色の瞳に、エリアスは初めて「心配」という感情がはっきりと浮かんでいるのを見た。心臓が、とくん、と大きく跳ねる。

アレクシス自身も、彼を抱きとめた瞬間、胸に奇妙な感情が湧き上がるのを感じていた。このしなやかな体を守りたいという、αとしてこれまで感じたことのない強い衝動。それは、彼自身を困惑させるものだった。

「も、申し訳ありません!すぐに降ります!」

エリアスが慌てて身じろぎすると、アレクシスは名残惜しむかのように、ゆっくりと彼を地面に降ろした。彼の体温が腕から離れていくのを、なぜか寂しく感じる自分に驚いた。

「……ありがとう、ございました」

「危険な作業は、他の者に任せろ。お前の仕事は、この庭に花を咲かせることだ。それ以外で、お前自身を危険に晒す必要はない」

それは、主としての命令でありながら、エリアスの身を案じる言葉でもあった。彼の不器用な優しさに触れるたび、エリアスの心の中の氷が、少しずつ溶けていくのを感じていた。

ジークフリートは、僕が怪我をしても、きっと気にも留めなかっただろう。
でも、この方は……

その夜、エリアスは珍しく夕食に呼ばれた。二人きりの、静かな食卓。
燭台の炎が揺らめき、銀の食器が美しく輝いている。上質なワインの香りと、丁寧に調理された料理の湯気が立ち上る中、アレクシスが何を考えているのか分からず、エリアスは緊張で喉が渇いた。

「昼間は、すまなかったな。驚かせたか」

「い、いえ。助けていただいて……」

気まずい沈黙が流れる。それを破ったのは、アレクシスの方だった。

「お前の力は、治癒だけではないらしいな」

「……ええ。植物の成長を促したり、土を清めたり。恵みの魔法、と呼ばれていました」

故郷での呼び名を口にした途端、エリアスの表情が曇ったのを、アレクシスは見逃さなかった。
彼の瞳に、深い悲しみと恐怖の色が浮かぶ。

「その力を持つΩは、極めて稀だと聞く。隣のアルビオン王国では、丁重に扱われるはずだが」

彼の言葉は、核心に迫る鋭い刃のようだった。
エリアスはカトラリーを握る手に力を込める。これ以上、話したくない。あの忌まわしい過去を、思い出したくなかった。

エリアスの葛藤を察したのか、アレクシスはそれ以上は追求せず、話題を変えた。
この傷ついたΩを、これ以上追い詰めたくはなかった。

「春になったら、見たい花がある」

「……どんな花でしょう?」

エリアスの声に、わずかな安堵が混じった。

「月下美人だ。一晩しか咲かない、幻の花だと聞く」

それは、育てるのが非常に難しいとされる、神秘的な花だった。
満月の夜にだけ咲き、夜明けと共に散ってしまう、儚い美しさで知られている。

「僕でよければ……挑戦してみます」

エリアスがそう答えると、アレクシスは初めて、はっきりと分かるほどの優しい笑みを浮かべた。
その笑顔は、彼の「氷血公爵」という異名が嘘のように、エリアスの心を温かく照らした。燭台の光に照らされた彼の横顔は、驚くほど穏やかで美しかった。

この人は、冷たいだけじゃない。きっと、とても寂しい人なんだ。
エリアスは、アレクシスのために、どうしてもその花を咲かせたいと強く思った。それは、雇い主への義務感からではなかった。彼に喜んでほしい。彼の笑顔が、もっと見たい。彼の孤独を、少しでも癒すことができたら……。

その感情が「恋」の始まりだと、エリアス自身が気づくのは、もう少し先のことになる。しかし、二人の間に流れる空気が、確実に変わり始めていることだけは、確かだった。

月下美人という、一夜限りの奇跡の花が、やがて二人の運命を大きく変えることになるとは、この時はまだ知る由もなかった。


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