借金のカタに同居したら、毎日甘く溺愛されてます

なの

文字の大きさ
2 / 5

家の顔、外の顔

しおりを挟む
朝の光は静かで、豪邸は不自然なほど音がなかった。

迎えは本当に十時ぴったりに来た。  
黒い車の後部座席に乗ると運転席の前に座る男が軽く会釈した。
三十代手前、黒縁の眼鏡、癖のない笑い方。

「初めまして、相沢様。龍堂グループ総務の鷹羽(たかば)と申します」

「……相沢、です」

「以後よろしくお願いします」

言葉遣いは柔らかいけど、隙がない。プロだ。
こういう人が弦也の周りには何人もいるんだろう。

「本日はご挨拶と簡単な手続き、あとオリエンテーションです」

車は門を出て、街路樹の緑を切り取っていく。窓に流れる外の世界が少し遠い。

「弦也さ……龍堂さんは?」

「本日は午前にひとつ、午後に二件、会合が入っております」

「会合」

「表の、です」

間を置いて、鷹羽が微笑んだ。  
裏の、は言わない。言わなくても、わかる。
俺は昨夜、はっきり聞いた。「俺のものだ」と。  

そのものには、表の顔に合わせる義務も、裏の顔に触れる覚悟も、含まれてるんだろう。

――

連れて来られたのは、街の中心にそびえるガラス張りのビルだった。  

受付の女性が一瞬だけ目を見張る。すぐに笑顔に戻ったけれど俺のスニーカーを見たんだって、わかってしまう。

「総務で事務補助をお願いする予定です。まずは入館証の発行から」

写真撮影。書類へのサイン。iPadでの規約確認。  
社外秘という文字がやたらと目に入る。  
ペンを持つ指が少し震えて、書いた自分の名前が頼りない曲線になった。

「緊張しますよね」

声をかけてくれたのは、隣のデスクの女性だった。ポニーテール、名札には宵村よいむらとある。

「新しい方ですよね。よろしくお願いします」

「相沢です。こちらこそ、よろしくお願いします」

「お若いんですね、二十一?」

「はい」

「かわいい」

不意打ちに言葉が詰まる。宵村さんはくすっと笑って、キーボードに視線を落とした。  
からかわれてるんじゃない。純粋な感想。……たぶん。

「今日はファイリングとデータの入力を少し。難しいことは回してないので、ご安心を」

「ありがとうございます」

ひたすら紙を分類して、スキャンして、ファイル名を付ける。  
単純作業は、考えないと手が進む。ちゃんと役に立ててる感覚が、胸の奥の焦りに薄い絆創膏を貼ってくれた。

昼前、スマホが震えた。  
画面に出た差出人名は、見慣れないもの――いや、見慣れ始めている、名前。

『弦也:昼、空けておけ』

短い。二言で全部持っていくメッセージだ。  
返そうとして、指が止まる。なんて返せば正解なんだ。  

了解しましたは堅い。
スタンプは場違い。  
――迷っているうちに、追撃。

『弦也:迎えを出す』

俺が返す隙なし。
強引。……でも、少しだけ安心する。  

昼休みのチャイムもない会社で、時計の短針と長針が重なった頃、デスクの内線が鳴った。鷹羽だ。

「ロビーまでお願いします」

――

レストランの個室は、静かで、曇ったガラス越しに街が見えた。  
待っていたのは、黒いスーツの男――龍堂弦也。
そこにいるだけで空気の密度が変わる。

「来い」

立ち上がって、椅子を引く。自然すぎる所作。
背筋が勝手に伸びた。

「仕事はどうだ」

「……ファイルを、少しだけ」

「宵村は親切だろう」

知ってるのか。さっきのやり取りまで見られていたみたいで、喉がひゅっと細くなる。

「見てはいない。人となりを知っているだけだ」

「……はい」

サーブされたコンソメスープの香りが、緊張した胃を優しく刺激する。
二口ほど飲んだところで、個室の扉が控えめにノックされた。入ってきたのは、見たことのない大柄な男。

肩幅が広く、スーツの上からでも鍛え上げられた身体の厚みがわかる。
その目が弦也を捉えた瞬間、鋭い光を宿した。

「弦也さん、例の件ですが──」

「下がれ」

その声は、今まで俺に向けていたものとは全く違う、絶対零度の響きを持っていた。
部屋全体の温度が数度下がったような錯覚に陥る。男は一瞬で表情を凍らせ、深々と頭を下げると、音もなく後退り扉の向こうへ消えた。

静寂が戻る。
扉が閉まると弦也は何事もなかったかのように俺に向き直り、その眼差しは驚くほど穏やかだった。

「……裏の、話ですか」

聞かなくていいことを、聞いてしまった。弦也はスプーンを置き、薄く笑う。

「仕事の話だ」

「俺に、関係……」

「ある。──お前は俺のものだ。俺の周りの環境は、すべてお前の環境になる」

喉が鳴る。やわらかい言葉に包まれた、剥き出しの現実。

「怖いか」

「……わかりません。でも……」

「でも?」

「働けるのが、嬉しいです。……誰かに、必要とされたい」

自分で言って、驚く。
この人に、じゃない。
ただ、誰かの役に立ちたいという渇望が、みっともなく顔を出した。

弦也の目の底で、光が揺らぐ。熱を帯びた、深い光。

「必要とする。何度でも言ってやる。俺がお前を、必要だ」

その言葉は、冷めかけたスープよりもずっと熱く、俺の胸に染み渡った。

「午後は戻れ」

「はい」

「終業後、迎えを出す。今日は――買い物に行く」

「買い物?」

「お前のものが、家にない」

そういえば、服も、靴も、タオルも、全部借り物だ。  
居場所には、俺の匂いがなかった。

――

午後の総務は、少しだけ忙しかった。  
電話の取り次ぎを何本か失敗して、宵村さんに助けてもらう。  

「気にしないでください」と笑われて、息ができた。

帰り際、ロビーで待っていたのは鷹羽だった。  

「お疲れさまです」と言われるの、久しぶりかもしれない。

――

モールの駐車場から直結のフロア。  
ショップのショーウィンドウに、自分と釣り合わない値札が並ぶ。

「サイズは――このあたりか?」

いつのまにか現れていた弦也が、店員と手際よく話を進める。  

シャツ、パンツ、ジャケット、下着。靴下まで。  
試着室でタグの多さに手間取っていると、カーテンの外から声がする。

「腰、痛めているのか」

「えっ」

「動きが固い」

見られてる。視線が服越しに追いかけてくるみたいで、熱がのぼる。

「少しだけ。居酒屋で重い箱、持つから」

「二度と持つな」

即答。  
命令形なのに、強引に安心させられる。

「これは?」

カーテンの隙間から伸びてきた手が、ベルトのバックルに触れた。反射的に身を引くと布が擦れて音がした。

「っ、あの」

「見せろ」

言い方。カーテン越しなのに、耳の後ろが熱くなる。  
バックルを外して、ベルトを渡すと、別のものと差し替えられ、ウエストの位置が少しだけ楽になった。

「きつすぎるのを我慢するな」

「……はい」

次の店、次の店。  
鞄、パジャマ、ルームウェア、タオル、スニーカー。  
気づけば紙袋が山になって、鷹羽が器用に持ち分けた。

「足りないものは後でまとめて届けさせる」

「こんなに、いらないです」

「いる。――お前はここに住むんだから」

住む。  
言葉が胸に落ちて、音がした。金属音じゃない。布に包まれた鍵の音みたいな。

――

帰宅すると、玄関横の小さな部屋が開いていた。  
昨日は気づかなかったスペース。クローゼットと棚、デスク、低めのソファ。  

クローゼットには新しい衣類が掛けられ、棚の上には見覚えのあるパン屋の紙袋と、コンビニの新作スイーツ。

ラベルには小さく「夜食に」と手書きの文字。

「……ずるい」

また、同じ言葉が漏れた。隣で、弦也が小さく笑う気配がする。

「甘やかすと言っただろう」

「こんなに、してもらうような人間じゃ……俺なんて──」

「言うな」

強い口調で遮られ、思わず顔を上げる。近い。大きな手が、俺の首筋にそっと触れる。逃げ道を塞ぐような位置なのに、力は込められていない。ただ、彼の体温だけがじんわりと伝わってくる。

「俺なんて。その言葉は、この家では禁止だ」

「……」

「罰が必要か」

「ば、つ……?」

「そう、罰だ」

言いながら、額に柔らかいものが触れた。
ほんの一瞬触れただけの、羽のように軽い口づけ。

それなのに心臓が足の先まで駆け下りていくような衝撃があった。ふわりと、弦也の清潔なシャツの香りが鼻をかすめる。

「なっ、なんで、額……」

「初犯だからだ。軽い罰で済ませてやる」

「いや、罰っていうか、それ、罰じゃ……」

「次に言ったら、場所を変える」

その言葉の意味を理解した瞬間、耳の奥が燃えるように熱くなった。
逃げようとした身体は、首筋に添えられた手の、優しい温度に縫い止められる。

「外では余計な接触はしない。家では、お前をとことん甘やかす。言ったはずだ」

「……そんな詳しくは、聞いてません」

「今、決めた」

ずるい。あまりにも一方的で、ずるい。なのに、心のどこかが安堵している。ルールがあるほうが、怖くないと思ってしまう自分がいた。

「シャワーを浴びて、寝ろ。――ああ、そうだ」

弦也がスマホを取り出し、画面を見せた。  
そこには、さっきのメッセージ画面。俺の返事がないことに、赤い未返信マークがついている。

「返事を寄越せ。短くていい。はい、でもいい」

「……はい」

「よし」

子供扱い。なのに、笑いを堪えるのが難しい。  
スマホを受け取り、震える親指で、はいと打つ。送信。  
すぐに既読がついて、画面に既読:弦也。  

なんでもない表示なのに、胸が落ち着いた。

――

シャワーの後、部屋に戻ると、デスクに小さなメモが置かれていた。

『明日、七時に起こす。
朝は卵がいいか。──弦也』

卵。スクランブルか、目玉焼きか、オムレツか。
たったそれだけの選択肢に、胸が詰まる。

いつからだろう。明日の食事の希望なんて、考えたことすらなかったのに。

震える字で『スクランブル』と書いて、そっとデスクに置いた。

ベッドに入ると、ドアがノックされ、弦也が入ってくる。昨夜と同じように、ベッドの端に腰を下ろした。

彼の手が、ためらいなく俺の髪に触れる。一定のリズムで撫でられると、まぶたが自然と重くなる。

「明日、午前は会社だ。午後は──」

「午後は?」

「病院に行く」

その単語に、心臓が跳ねて目を開ける。

「どこか、悪いんですか」

「お前だ」

「俺?」

「健康診断だ。雇用に必要だからな。急を要するものではない、ただの検査だ」

安堵の息が漏れる。落ち着きを取り戻した俺の額に、もう一度、軽く唇が触れた。昨夜よりも少しだけ長い気がした。

「おやすみ、悠斗」

「……おやすみなさい、弦也さん」

名前を呼ぶと、部屋の空気が少しだけ甘く、濃くなった気がする。

眠りに落ちる直前、ふと思った。
この家には、逃げ場がない。──でも、もう逃げたいとは思わない場所が、たしかにここにある。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

若頭の溺愛は、今日も平常運転です

なの
BL
『ヤクザの恋は重すぎて甘すぎる』続編! 過保護すぎる若頭・鷹臣との同棲生活にツッコミが追いつかない毎日を送る幼なじみの相良悠真。 ホットミルクに外出禁止、舎弟たちのニヤニヤ見守り付き(?)ラブコメ生活はいつだって騒がしく、でもどこかあったかい。 だけどそんな日常の中で、鷹臣の覚悟に触れ、悠真は気づく。 ……俺も、ちゃんと応えたい。 笑って泣けて、めいっぱい甘い! 騒がしくて幸せすぎる、ヤクザとツッコミ男子の結婚一直線ラブストーリー! ※前作『ヤクザの恋は重すぎて甘すぎる』を読んでからの方が、より深く楽しめます。

ある日、人気俳優の弟になりました。

雪 いつき
BL
母の再婚を期に、立花優斗は人気若手俳優、橘直柾の弟になった。顔良し性格良し真面目で穏やかで王子様のような人。そんな評判だったはずが……。 「俺の命は、君のものだよ」 初顔合わせの日、兄になる人はそう言って綺麗に笑った。とんでもない人が兄になってしまった……と思ったら、何故か大学の先輩も優斗を可愛いと言い出して……? 平凡に生きたい19歳大学生と、24歳人気若手俳優、21歳文武両道大学生の三角関係のお話。

αからΩになった俺が幸せを掴むまで

なの
BL
柴田海、本名大嶋海里、21歳、今はオメガ、職業……オメガの出張風俗店勤務。 10年前、父が亡くなって新しいお義父さんと義兄貴ができた。 義兄貴は俺に優しくて、俺は大好きだった。 アルファと言われていた俺だったがある日熱を出してしまった。 義兄貴に看病されるうちにヒートのような症状が… 義兄貴と一線を超えてしまって逃げ出した。そんな海里は生きていくためにオメガの出張風俗店で働くようになった。 そんな海里が本当の幸せを掴むまで…

発情期のタイムリミット

なの
BL
期末試験を目前に控えた高校2年のΩ・陸。 抑制剤の効きが弱い体質のせいで、発情期が試験と重なりそうになり大パニック! 「絶対に赤点は取れない!」 「発情期なんて気合で乗り越える!」 そう強がる陸を、幼なじみでクラスメイトのα・大輝が心配する。 だが、勉強に必死な陸の周りには、ほんのり漂う甘いフェロモン……。 「俺に頼れって言ってんのに」 「頼ったら……勉強どころじゃなくなるから!」 試験か、発情期か。 ギリギリのタイムリミットの中で、二人の関係は一気に動き出していく――! ドタバタと胸きゅんが交錯する、青春オメガバース・ラブコメディ。 *一般的なオメガバースは、発情期中はアルファとオメガを隔離したり、抑制剤や隔離部屋が管理されていたりしていますが、この物語は、日常ラブコメにオメガバース要素を混ぜた世界観になってます。

猫カフェの溺愛契約〜獣人の甘い約束〜

なの
BL
人見知りの悠月――ゆづきにとって、叔父が営む保護猫カフェ「ニャンコの隠れ家」だけが心の居場所だった。 そんな悠月には昔から猫の言葉がわかる――という特殊な能力があった。 しかし経営難で閉店の危機に……
愛する猫たちとの別れが迫る中、運命を変える男が現れた。 猫のような美しい瞳を持つ謎の客・玲音――れお。 
彼が差し出したのは「店を救う代わりに、お前と契約したい」という甘い誘惑。 契約のはずが、いつしか年の差を超えた溺愛に包まれて――
甘々すぎる生活に、だんだんと心が溶けていく悠月。 だけど玲音には秘密があった。
満月の夜に現れる獣の姿。猫たちだけが知る彼の正体、そして命をかけた契約の真実 「君を守るためなら、俺は何でもする」 これは愛なのか契約だけなのか……
すべてを賭けた禁断の恋の行方は? 猫たちが見守る小さなカフェで紡がれる、奇跡のハッピーエンド。

お兄ちゃんができた!!

くものらくえん
BL
ある日お兄ちゃんができた悠は、そのかっこよさに胸を撃ち抜かれた。 お兄ちゃんは律といい、悠を過剰にかわいがる。 「悠くんはえらい子だね。」 「よしよ〜し。悠くん、いい子いい子♡」 「ふふ、かわいいね。」 律のお兄ちゃんな甘さに逃げたり、逃げられなかったりするあまあま義兄弟ラブコメ♡ 「お兄ちゃん以外、見ないでね…♡」 ヤンデレ一途兄 律×人見知り純粋弟 悠の純愛ヤンデレラブ。

【完結】この契約に愛なんてないはずだった

なの
BL
劣勢オメガの翔太は、入院中の母を支えるため、昼夜問わず働き詰めの生活を送っていた。 そんなある日、母親の入院費用が払えず、困っていた翔太を救ったのは、冷静沈着で感情を見せない、大企業副社長・鷹城怜司……優勢アルファだった。 数日後、怜司は翔太に「1年間、仮の番になってほしい」と持ちかける。 身体の関係はなし、報酬あり。感情も、未来もいらない。ただの契約。 生活のために翔太はその条件を受け入れるが、理性的で無表情なはずの怜司が、ふとした瞬間に見せる優しさに、次第に心が揺らいでいく。 これはただの契約のはずだった。 愛なんて、最初からあるわけがなかった。 けれど……二人の距離が近づくたびに、仮であるはずの関係は、静かに熱を帯びていく。 ツンデレなオメガと、理性を装うアルファ。 これは、仮のはずだった番契約から始まる、運命以上の恋の物語。

人並みに嫉妬くらいします

米奏よぞら
BL
流されやすい攻め×激重受け 高校時代に学校一のモテ男から告白されて付き合ったはいいものの、交際四年目に彼の束縛の強さに我慢の限界がきてしまった主人公のお話です。

処理中です...