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家の顔、外の顔
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朝の光は静かで、豪邸は不自然なほど音がなかった。
迎えは本当に十時ぴったりに来た。
黒い車の後部座席に乗ると運転席の前に座る男が軽く会釈した。
三十代手前、黒縁の眼鏡、癖のない笑い方。
「初めまして、相沢様。龍堂グループ総務の鷹羽(たかば)と申します」
「……相沢、です」
「以後よろしくお願いします」
言葉遣いは柔らかいけど、隙がない。プロだ。
こういう人が弦也の周りには何人もいるんだろう。
「本日はご挨拶と簡単な手続き、あとオリエンテーションです」
車は門を出て、街路樹の緑を切り取っていく。窓に流れる外の世界が少し遠い。
「弦也さ……龍堂さんは?」
「本日は午前にひとつ、午後に二件、会合が入っております」
「会合」
「表の、です」
間を置いて、鷹羽が微笑んだ。
裏の、は言わない。言わなくても、わかる。
俺は昨夜、はっきり聞いた。「俺のものだ」と。
そのものには、表の顔に合わせる義務も、裏の顔に触れる覚悟も、含まれてるんだろう。
――
連れて来られたのは、街の中心にそびえるガラス張りのビルだった。
受付の女性が一瞬だけ目を見張る。すぐに笑顔に戻ったけれど俺のスニーカーを見たんだって、わかってしまう。
「総務で事務補助をお願いする予定です。まずは入館証の発行から」
写真撮影。書類へのサイン。iPadでの規約確認。
社外秘という文字がやたらと目に入る。
ペンを持つ指が少し震えて、書いた自分の名前が頼りない曲線になった。
「緊張しますよね」
声をかけてくれたのは、隣のデスクの女性だった。ポニーテール、名札には宵村とある。
「新しい方ですよね。よろしくお願いします」
「相沢です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「お若いんですね、二十一?」
「はい」
「かわいい」
不意打ちに言葉が詰まる。宵村さんはくすっと笑って、キーボードに視線を落とした。
からかわれてるんじゃない。純粋な感想。……たぶん。
「今日はファイリングとデータの入力を少し。難しいことは回してないので、ご安心を」
「ありがとうございます」
ひたすら紙を分類して、スキャンして、ファイル名を付ける。
単純作業は、考えないと手が進む。ちゃんと役に立ててる感覚が、胸の奥の焦りに薄い絆創膏を貼ってくれた。
昼前、スマホが震えた。
画面に出た差出人名は、見慣れないもの――いや、見慣れ始めている、名前。
『弦也:昼、空けておけ』
短い。二言で全部持っていくメッセージだ。
返そうとして、指が止まる。なんて返せば正解なんだ。
了解しましたは堅い。
スタンプは場違い。
――迷っているうちに、追撃。
『弦也:迎えを出す』
俺が返す隙なし。
強引。……でも、少しだけ安心する。
昼休みのチャイムもない会社で、時計の短針と長針が重なった頃、デスクの内線が鳴った。鷹羽だ。
「ロビーまでお願いします」
――
レストランの個室は、静かで、曇ったガラス越しに街が見えた。
待っていたのは、黒いスーツの男――龍堂弦也。
そこにいるだけで空気の密度が変わる。
「来い」
立ち上がって、椅子を引く。自然すぎる所作。
背筋が勝手に伸びた。
「仕事はどうだ」
「……ファイルを、少しだけ」
「宵村は親切だろう」
知ってるのか。さっきのやり取りまで見られていたみたいで、喉がひゅっと細くなる。
「見てはいない。人となりを知っているだけだ」
「……はい」
サーブされたコンソメスープの香りが、緊張した胃を優しく刺激する。
二口ほど飲んだところで、個室の扉が控えめにノックされた。入ってきたのは、見たことのない大柄な男。
肩幅が広く、スーツの上からでも鍛え上げられた身体の厚みがわかる。
その目が弦也を捉えた瞬間、鋭い光を宿した。
「弦也さん、例の件ですが──」
「下がれ」
その声は、今まで俺に向けていたものとは全く違う、絶対零度の響きを持っていた。
部屋全体の温度が数度下がったような錯覚に陥る。男は一瞬で表情を凍らせ、深々と頭を下げると、音もなく後退り扉の向こうへ消えた。
静寂が戻る。
扉が閉まると弦也は何事もなかったかのように俺に向き直り、その眼差しは驚くほど穏やかだった。
「……裏の、話ですか」
聞かなくていいことを、聞いてしまった。弦也はスプーンを置き、薄く笑う。
「仕事の話だ」
「俺に、関係……」
「ある。──お前は俺のものだ。俺の周りの環境は、すべてお前の環境になる」
喉が鳴る。やわらかい言葉に包まれた、剥き出しの現実。
「怖いか」
「……わかりません。でも……」
「でも?」
「働けるのが、嬉しいです。……誰かに、必要とされたい」
自分で言って、驚く。
この人に、じゃない。
ただ、誰かの役に立ちたいという渇望が、みっともなく顔を出した。
弦也の目の底で、光が揺らぐ。熱を帯びた、深い光。
「必要とする。何度でも言ってやる。俺がお前を、必要だ」
その言葉は、冷めかけたスープよりもずっと熱く、俺の胸に染み渡った。
「午後は戻れ」
「はい」
「終業後、迎えを出す。今日は――買い物に行く」
「買い物?」
「お前のものが、家にない」
そういえば、服も、靴も、タオルも、全部借り物だ。
居場所には、俺の匂いがなかった。
――
午後の総務は、少しだけ忙しかった。
電話の取り次ぎを何本か失敗して、宵村さんに助けてもらう。
「気にしないでください」と笑われて、息ができた。
帰り際、ロビーで待っていたのは鷹羽だった。
「お疲れさまです」と言われるの、久しぶりかもしれない。
――
モールの駐車場から直結のフロア。
ショップのショーウィンドウに、自分と釣り合わない値札が並ぶ。
「サイズは――このあたりか?」
いつのまにか現れていた弦也が、店員と手際よく話を進める。
シャツ、パンツ、ジャケット、下着。靴下まで。
試着室でタグの多さに手間取っていると、カーテンの外から声がする。
「腰、痛めているのか」
「えっ」
「動きが固い」
見られてる。視線が服越しに追いかけてくるみたいで、熱がのぼる。
「少しだけ。居酒屋で重い箱、持つから」
「二度と持つな」
即答。
命令形なのに、強引に安心させられる。
「これは?」
カーテンの隙間から伸びてきた手が、ベルトのバックルに触れた。反射的に身を引くと布が擦れて音がした。
「っ、あの」
「見せろ」
言い方。カーテン越しなのに、耳の後ろが熱くなる。
バックルを外して、ベルトを渡すと、別のものと差し替えられ、ウエストの位置が少しだけ楽になった。
「きつすぎるのを我慢するな」
「……はい」
次の店、次の店。
鞄、パジャマ、ルームウェア、タオル、スニーカー。
気づけば紙袋が山になって、鷹羽が器用に持ち分けた。
「足りないものは後でまとめて届けさせる」
「こんなに、いらないです」
「いる。――お前はここに住むんだから」
住む。
言葉が胸に落ちて、音がした。金属音じゃない。布に包まれた鍵の音みたいな。
――
帰宅すると、玄関横の小さな部屋が開いていた。
昨日は気づかなかったスペース。クローゼットと棚、デスク、低めのソファ。
クローゼットには新しい衣類が掛けられ、棚の上には見覚えのあるパン屋の紙袋と、コンビニの新作スイーツ。
ラベルには小さく「夜食に」と手書きの文字。
「……ずるい」
また、同じ言葉が漏れた。隣で、弦也が小さく笑う気配がする。
「甘やかすと言っただろう」
「こんなに、してもらうような人間じゃ……俺なんて──」
「言うな」
強い口調で遮られ、思わず顔を上げる。近い。大きな手が、俺の首筋にそっと触れる。逃げ道を塞ぐような位置なのに、力は込められていない。ただ、彼の体温だけがじんわりと伝わってくる。
「俺なんて。その言葉は、この家では禁止だ」
「……」
「罰が必要か」
「ば、つ……?」
「そう、罰だ」
言いながら、額に柔らかいものが触れた。
ほんの一瞬触れただけの、羽のように軽い口づけ。
それなのに心臓が足の先まで駆け下りていくような衝撃があった。ふわりと、弦也の清潔なシャツの香りが鼻をかすめる。
「なっ、なんで、額……」
「初犯だからだ。軽い罰で済ませてやる」
「いや、罰っていうか、それ、罰じゃ……」
「次に言ったら、場所を変える」
その言葉の意味を理解した瞬間、耳の奥が燃えるように熱くなった。
逃げようとした身体は、首筋に添えられた手の、優しい温度に縫い止められる。
「外では余計な接触はしない。家では、お前をとことん甘やかす。言ったはずだ」
「……そんな詳しくは、聞いてません」
「今、決めた」
ずるい。あまりにも一方的で、ずるい。なのに、心のどこかが安堵している。ルールがあるほうが、怖くないと思ってしまう自分がいた。
「シャワーを浴びて、寝ろ。――ああ、そうだ」
弦也がスマホを取り出し、画面を見せた。
そこには、さっきのメッセージ画面。俺の返事がないことに、赤い未返信マークがついている。
「返事を寄越せ。短くていい。はい、でもいい」
「……はい」
「よし」
子供扱い。なのに、笑いを堪えるのが難しい。
スマホを受け取り、震える親指で、はいと打つ。送信。
すぐに既読がついて、画面に既読:弦也。
なんでもない表示なのに、胸が落ち着いた。
――
シャワーの後、部屋に戻ると、デスクに小さなメモが置かれていた。
『明日、七時に起こす。
朝は卵がいいか。──弦也』
卵。スクランブルか、目玉焼きか、オムレツか。
たったそれだけの選択肢に、胸が詰まる。
いつからだろう。明日の食事の希望なんて、考えたことすらなかったのに。
震える字で『スクランブル』と書いて、そっとデスクに置いた。
ベッドに入ると、ドアがノックされ、弦也が入ってくる。昨夜と同じように、ベッドの端に腰を下ろした。
彼の手が、ためらいなく俺の髪に触れる。一定のリズムで撫でられると、まぶたが自然と重くなる。
「明日、午前は会社だ。午後は──」
「午後は?」
「病院に行く」
その単語に、心臓が跳ねて目を開ける。
「どこか、悪いんですか」
「お前だ」
「俺?」
「健康診断だ。雇用に必要だからな。急を要するものではない、ただの検査だ」
安堵の息が漏れる。落ち着きを取り戻した俺の額に、もう一度、軽く唇が触れた。昨夜よりも少しだけ長い気がした。
「おやすみ、悠斗」
「……おやすみなさい、弦也さん」
名前を呼ぶと、部屋の空気が少しだけ甘く、濃くなった気がする。
眠りに落ちる直前、ふと思った。
この家には、逃げ場がない。──でも、もう逃げたいとは思わない場所が、たしかにここにある。
迎えは本当に十時ぴったりに来た。
黒い車の後部座席に乗ると運転席の前に座る男が軽く会釈した。
三十代手前、黒縁の眼鏡、癖のない笑い方。
「初めまして、相沢様。龍堂グループ総務の鷹羽(たかば)と申します」
「……相沢、です」
「以後よろしくお願いします」
言葉遣いは柔らかいけど、隙がない。プロだ。
こういう人が弦也の周りには何人もいるんだろう。
「本日はご挨拶と簡単な手続き、あとオリエンテーションです」
車は門を出て、街路樹の緑を切り取っていく。窓に流れる外の世界が少し遠い。
「弦也さ……龍堂さんは?」
「本日は午前にひとつ、午後に二件、会合が入っております」
「会合」
「表の、です」
間を置いて、鷹羽が微笑んだ。
裏の、は言わない。言わなくても、わかる。
俺は昨夜、はっきり聞いた。「俺のものだ」と。
そのものには、表の顔に合わせる義務も、裏の顔に触れる覚悟も、含まれてるんだろう。
――
連れて来られたのは、街の中心にそびえるガラス張りのビルだった。
受付の女性が一瞬だけ目を見張る。すぐに笑顔に戻ったけれど俺のスニーカーを見たんだって、わかってしまう。
「総務で事務補助をお願いする予定です。まずは入館証の発行から」
写真撮影。書類へのサイン。iPadでの規約確認。
社外秘という文字がやたらと目に入る。
ペンを持つ指が少し震えて、書いた自分の名前が頼りない曲線になった。
「緊張しますよね」
声をかけてくれたのは、隣のデスクの女性だった。ポニーテール、名札には宵村とある。
「新しい方ですよね。よろしくお願いします」
「相沢です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「お若いんですね、二十一?」
「はい」
「かわいい」
不意打ちに言葉が詰まる。宵村さんはくすっと笑って、キーボードに視線を落とした。
からかわれてるんじゃない。純粋な感想。……たぶん。
「今日はファイリングとデータの入力を少し。難しいことは回してないので、ご安心を」
「ありがとうございます」
ひたすら紙を分類して、スキャンして、ファイル名を付ける。
単純作業は、考えないと手が進む。ちゃんと役に立ててる感覚が、胸の奥の焦りに薄い絆創膏を貼ってくれた。
昼前、スマホが震えた。
画面に出た差出人名は、見慣れないもの――いや、見慣れ始めている、名前。
『弦也:昼、空けておけ』
短い。二言で全部持っていくメッセージだ。
返そうとして、指が止まる。なんて返せば正解なんだ。
了解しましたは堅い。
スタンプは場違い。
――迷っているうちに、追撃。
『弦也:迎えを出す』
俺が返す隙なし。
強引。……でも、少しだけ安心する。
昼休みのチャイムもない会社で、時計の短針と長針が重なった頃、デスクの内線が鳴った。鷹羽だ。
「ロビーまでお願いします」
――
レストランの個室は、静かで、曇ったガラス越しに街が見えた。
待っていたのは、黒いスーツの男――龍堂弦也。
そこにいるだけで空気の密度が変わる。
「来い」
立ち上がって、椅子を引く。自然すぎる所作。
背筋が勝手に伸びた。
「仕事はどうだ」
「……ファイルを、少しだけ」
「宵村は親切だろう」
知ってるのか。さっきのやり取りまで見られていたみたいで、喉がひゅっと細くなる。
「見てはいない。人となりを知っているだけだ」
「……はい」
サーブされたコンソメスープの香りが、緊張した胃を優しく刺激する。
二口ほど飲んだところで、個室の扉が控えめにノックされた。入ってきたのは、見たことのない大柄な男。
肩幅が広く、スーツの上からでも鍛え上げられた身体の厚みがわかる。
その目が弦也を捉えた瞬間、鋭い光を宿した。
「弦也さん、例の件ですが──」
「下がれ」
その声は、今まで俺に向けていたものとは全く違う、絶対零度の響きを持っていた。
部屋全体の温度が数度下がったような錯覚に陥る。男は一瞬で表情を凍らせ、深々と頭を下げると、音もなく後退り扉の向こうへ消えた。
静寂が戻る。
扉が閉まると弦也は何事もなかったかのように俺に向き直り、その眼差しは驚くほど穏やかだった。
「……裏の、話ですか」
聞かなくていいことを、聞いてしまった。弦也はスプーンを置き、薄く笑う。
「仕事の話だ」
「俺に、関係……」
「ある。──お前は俺のものだ。俺の周りの環境は、すべてお前の環境になる」
喉が鳴る。やわらかい言葉に包まれた、剥き出しの現実。
「怖いか」
「……わかりません。でも……」
「でも?」
「働けるのが、嬉しいです。……誰かに、必要とされたい」
自分で言って、驚く。
この人に、じゃない。
ただ、誰かの役に立ちたいという渇望が、みっともなく顔を出した。
弦也の目の底で、光が揺らぐ。熱を帯びた、深い光。
「必要とする。何度でも言ってやる。俺がお前を、必要だ」
その言葉は、冷めかけたスープよりもずっと熱く、俺の胸に染み渡った。
「午後は戻れ」
「はい」
「終業後、迎えを出す。今日は――買い物に行く」
「買い物?」
「お前のものが、家にない」
そういえば、服も、靴も、タオルも、全部借り物だ。
居場所には、俺の匂いがなかった。
――
午後の総務は、少しだけ忙しかった。
電話の取り次ぎを何本か失敗して、宵村さんに助けてもらう。
「気にしないでください」と笑われて、息ができた。
帰り際、ロビーで待っていたのは鷹羽だった。
「お疲れさまです」と言われるの、久しぶりかもしれない。
――
モールの駐車場から直結のフロア。
ショップのショーウィンドウに、自分と釣り合わない値札が並ぶ。
「サイズは――このあたりか?」
いつのまにか現れていた弦也が、店員と手際よく話を進める。
シャツ、パンツ、ジャケット、下着。靴下まで。
試着室でタグの多さに手間取っていると、カーテンの外から声がする。
「腰、痛めているのか」
「えっ」
「動きが固い」
見られてる。視線が服越しに追いかけてくるみたいで、熱がのぼる。
「少しだけ。居酒屋で重い箱、持つから」
「二度と持つな」
即答。
命令形なのに、強引に安心させられる。
「これは?」
カーテンの隙間から伸びてきた手が、ベルトのバックルに触れた。反射的に身を引くと布が擦れて音がした。
「っ、あの」
「見せろ」
言い方。カーテン越しなのに、耳の後ろが熱くなる。
バックルを外して、ベルトを渡すと、別のものと差し替えられ、ウエストの位置が少しだけ楽になった。
「きつすぎるのを我慢するな」
「……はい」
次の店、次の店。
鞄、パジャマ、ルームウェア、タオル、スニーカー。
気づけば紙袋が山になって、鷹羽が器用に持ち分けた。
「足りないものは後でまとめて届けさせる」
「こんなに、いらないです」
「いる。――お前はここに住むんだから」
住む。
言葉が胸に落ちて、音がした。金属音じゃない。布に包まれた鍵の音みたいな。
――
帰宅すると、玄関横の小さな部屋が開いていた。
昨日は気づかなかったスペース。クローゼットと棚、デスク、低めのソファ。
クローゼットには新しい衣類が掛けられ、棚の上には見覚えのあるパン屋の紙袋と、コンビニの新作スイーツ。
ラベルには小さく「夜食に」と手書きの文字。
「……ずるい」
また、同じ言葉が漏れた。隣で、弦也が小さく笑う気配がする。
「甘やかすと言っただろう」
「こんなに、してもらうような人間じゃ……俺なんて──」
「言うな」
強い口調で遮られ、思わず顔を上げる。近い。大きな手が、俺の首筋にそっと触れる。逃げ道を塞ぐような位置なのに、力は込められていない。ただ、彼の体温だけがじんわりと伝わってくる。
「俺なんて。その言葉は、この家では禁止だ」
「……」
「罰が必要か」
「ば、つ……?」
「そう、罰だ」
言いながら、額に柔らかいものが触れた。
ほんの一瞬触れただけの、羽のように軽い口づけ。
それなのに心臓が足の先まで駆け下りていくような衝撃があった。ふわりと、弦也の清潔なシャツの香りが鼻をかすめる。
「なっ、なんで、額……」
「初犯だからだ。軽い罰で済ませてやる」
「いや、罰っていうか、それ、罰じゃ……」
「次に言ったら、場所を変える」
その言葉の意味を理解した瞬間、耳の奥が燃えるように熱くなった。
逃げようとした身体は、首筋に添えられた手の、優しい温度に縫い止められる。
「外では余計な接触はしない。家では、お前をとことん甘やかす。言ったはずだ」
「……そんな詳しくは、聞いてません」
「今、決めた」
ずるい。あまりにも一方的で、ずるい。なのに、心のどこかが安堵している。ルールがあるほうが、怖くないと思ってしまう自分がいた。
「シャワーを浴びて、寝ろ。――ああ、そうだ」
弦也がスマホを取り出し、画面を見せた。
そこには、さっきのメッセージ画面。俺の返事がないことに、赤い未返信マークがついている。
「返事を寄越せ。短くていい。はい、でもいい」
「……はい」
「よし」
子供扱い。なのに、笑いを堪えるのが難しい。
スマホを受け取り、震える親指で、はいと打つ。送信。
すぐに既読がついて、画面に既読:弦也。
なんでもない表示なのに、胸が落ち着いた。
――
シャワーの後、部屋に戻ると、デスクに小さなメモが置かれていた。
『明日、七時に起こす。
朝は卵がいいか。──弦也』
卵。スクランブルか、目玉焼きか、オムレツか。
たったそれだけの選択肢に、胸が詰まる。
いつからだろう。明日の食事の希望なんて、考えたことすらなかったのに。
震える字で『スクランブル』と書いて、そっとデスクに置いた。
ベッドに入ると、ドアがノックされ、弦也が入ってくる。昨夜と同じように、ベッドの端に腰を下ろした。
彼の手が、ためらいなく俺の髪に触れる。一定のリズムで撫でられると、まぶたが自然と重くなる。
「明日、午前は会社だ。午後は──」
「午後は?」
「病院に行く」
その単語に、心臓が跳ねて目を開ける。
「どこか、悪いんですか」
「お前だ」
「俺?」
「健康診断だ。雇用に必要だからな。急を要するものではない、ただの検査だ」
安堵の息が漏れる。落ち着きを取り戻した俺の額に、もう一度、軽く唇が触れた。昨夜よりも少しだけ長い気がした。
「おやすみ、悠斗」
「……おやすみなさい、弦也さん」
名前を呼ぶと、部屋の空気が少しだけ甘く、濃くなった気がする。
眠りに落ちる直前、ふと思った。
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