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第2章 森の守り手
Ep8:小さな灯火
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氷狼との死闘は、夜半過ぎにようやく終わった。
最後まで残ったリーダー格の氷狼が、深手を負いながらも森の闇へと逃げ去った時、ヴァルは獣の姿を解き、ふらつきながらその場に膝をついた。
彼らが流した血で、洞窟の前の雪はどす黒く染まっていた。
「ヴァル!」
アシェルは恐怖も忘れ、洞窟から飛び出した。人間に戻ったヴァルの身体には、おびただしい数の傷が刻まれている。特に左肩の傷は深く、骨が見えるほど肉が抉れていた。
「……来るな」
ヴァルは、荒い息の下から絞り出すように言った。しかし、その声にはもう、以前のような突き放す力は残っていない。アシェルは構わず彼のそばに駆け寄り、その身体を支えようとした。
「ごめん、なさい……俺の、せいで……」
「……今さら、謝るな」
ヴァルはアシェルの肩を借りながら、ゆっくりと立ち上がった。その体重のほとんどがアシェルにかかり、小柄な身体がぐらりと揺れる。それでもアシェルは、必死に歯を食いしばって彼を支えた。初めて触れたヴァルの身体は、高熱を発しているかのように熱かった。
洞窟に戻ると、ヴァルは壁際にどさりと身体を預け、そのまま意識を失ったように動かなくなった。アシェルはパニックになりながらも、必死に頭を働かせた。
(薬草……そうだ、傷に効く薬草をヴァルが教えてくれた)
幸い、洞窟の中にはヴァルが採りためていた薬草が残っていた。アシェルはそれを石の器ですり潰し、震える手でヴァルの傷口に塗り込んでいく。特に深い左肩の傷には、ありったけの薬草を詰め込み、清潔な布で固く縛った。ヴァルの眉が苦痛に歪んだが、彼が目を覚ますことはなかった。
それから三日三晩、アシェルは眠らずにヴァルの看病を続けた。
炉の火が消えないように薪をくべ続け、ヴァルがうなされるたびに、雪で冷やした布で彼の額を拭った。自分の愚かな行動が招いた結果だ。せめてもの償いがしたかった。
そして、自分の無力さを痛感した。
ヴァルがいなければ、自分はとっくに死んでいる。
食料を得ることも、火を起こすことも、獣から身を守ることも、何一つ一人ではできない。彼に生かされているだけだ。その事実が、ナイフのように胸に突き刺さった。
四日目の朝、ヴァルは静かに目を覚ました。
黄金の瞳はまだ熱で濁っていたが、アシェルの姿を認めると、かすれた声で「……水」と呟いた。
アシェルは慌てて、雪解け水を溜めておいた水差しを彼の口元へ運ぶ。ヴァルはそれをゆっくりと、数口だけ飲んだ。
「……お前は、無事か」
それは、アシェルが予想もしなかった言葉だった。自分の心配をしてくれるなんて、思ってもみなかった。
「う、うん。俺は、どこも……。ヴァルこそ、傷は……」
「大したことは、ない。すぐに治る」
そう言うヴァルの顔色は、まだ蒼白だった。強がっているのは明らかだ。アシェルは何も言えず、ただ俯いた。
その日から、二人の立場は逆転した。
動けないヴァルの代わりに、アシェルが森へ出て食料を探した。と言っても、狩りができるわけではない。ヴァルに教わった食べられる草の根や木の実を、一日中歩き回って必死に集めるだけだ。それでも、二人分の食事を確保するのは困難を極めた。
アシェルが泥だらけになって持ち帰ったわずかな食料を、ヴァルは黙って受け取った。そして、いつもアシェルの分を少しだけ多く皿に乗せるのだった。
言葉は、相変わらずほとんどなかった。
しかし、氷狼の襲撃を境に二人の間の空気は明らかに変わっていた。
ヴァルはもう、アシェルを「いないもの」として扱わなかった。彼の視線は、確かにアシェルを捉えている。それはまだ、厳しい観察者の視線だったが、以前のような無関心とはまったく違っていた。
ある晩、アシェルが炉の火を見つめていると、不意にヴァルが口を開いた。
「……なぜ、あの時、鹿を獲った」
それは、ずっとアシェルが恐れていた質問だった。
「……ヴァルに、楽をさせたかった。いつも傷だらけで……俺は、何もできないから。少しでも、役に立ちたかった」
正直に、心の底から出た言葉だった。ヴァルはしばらく黙っていたが、やがて、静かな声で言った。
「……俺は、森の主だ。この程度の傷は、日常だ。お前が気に病むことじゃない」
「でも……!」
「お前は、お前のことだけを考えろ。まず、お前が一人で生きられるようになることが先だ」
その言葉は冷たく聞こえたが、アシェルには、その奥にある不器用な優しさが分かった。それは、アシェルを突き放しているのではなく、彼の自立を促しているのだ。
ふと、アシェルは気づいた。
ヴァルは、一度もアシェルを責めなかった。「お前のせいだ」という言葉を、彼は決して口にしなかったのだ。
その事実に気づいた時、アシェルの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
ヴァルは驚いたようにアシェルを見たが、何も言わずに視線を逸らし、炉の中の炎に目を向けた。
その時だった。
炉の火がぱちり、と音を立てて、一際大きく燃え上がった。そのオレンジ色の暖かい光が、ヴァルの横顔を照らし出す。
そして、アシェルは見た。
ほんの一瞬、その氷のように無表情だったヴァルの唇の端が、ほんのわずかに、本当にごくわずかに、持ち上がったのを。
それは、笑顔と呼ぶにはあまりにも些細な変化だった。だが、それは確かに、アシェルが初めて見る彼の微笑みだった。
アシェルは息をのんだまま、動けなかった。
なぜ彼が笑ったのか、分からない。自分の涙を見て、呆れたのかもしれない。それとも、何か別のことを考えていたのかもしれない。
けれど、アシェルの心には、その小さな微笑みが、暗闇に灯った一つの灯火のように、温かく刻み込まれた。
ヴァルは、決して優しさを言葉にはしない。その温もりは、いつも無言の行動や、厳しい言葉の裏側に隠されている。毛皮を投げ与えてくれたこと。アシェルの分の食事を、少しだけ多くしてくれること。そして今、見せてくれた、一瞬の微笑み。
その小さな灯火を見つけ出すことが、この厳しい森で、この不器用で優しい人と共に生きていくということなのかもしれない。
アシェルは、自分の頬を伝う涙を拭うことも忘れ、ただ、揺らめく炎と、その向こうにあるヴァルの横顔を、じっと見つめていた。心の中に、じんわりと温かいものが広がっていくのを感じながら。
最後まで残ったリーダー格の氷狼が、深手を負いながらも森の闇へと逃げ去った時、ヴァルは獣の姿を解き、ふらつきながらその場に膝をついた。
彼らが流した血で、洞窟の前の雪はどす黒く染まっていた。
「ヴァル!」
アシェルは恐怖も忘れ、洞窟から飛び出した。人間に戻ったヴァルの身体には、おびただしい数の傷が刻まれている。特に左肩の傷は深く、骨が見えるほど肉が抉れていた。
「……来るな」
ヴァルは、荒い息の下から絞り出すように言った。しかし、その声にはもう、以前のような突き放す力は残っていない。アシェルは構わず彼のそばに駆け寄り、その身体を支えようとした。
「ごめん、なさい……俺の、せいで……」
「……今さら、謝るな」
ヴァルはアシェルの肩を借りながら、ゆっくりと立ち上がった。その体重のほとんどがアシェルにかかり、小柄な身体がぐらりと揺れる。それでもアシェルは、必死に歯を食いしばって彼を支えた。初めて触れたヴァルの身体は、高熱を発しているかのように熱かった。
洞窟に戻ると、ヴァルは壁際にどさりと身体を預け、そのまま意識を失ったように動かなくなった。アシェルはパニックになりながらも、必死に頭を働かせた。
(薬草……そうだ、傷に効く薬草をヴァルが教えてくれた)
幸い、洞窟の中にはヴァルが採りためていた薬草が残っていた。アシェルはそれを石の器ですり潰し、震える手でヴァルの傷口に塗り込んでいく。特に深い左肩の傷には、ありったけの薬草を詰め込み、清潔な布で固く縛った。ヴァルの眉が苦痛に歪んだが、彼が目を覚ますことはなかった。
それから三日三晩、アシェルは眠らずにヴァルの看病を続けた。
炉の火が消えないように薪をくべ続け、ヴァルがうなされるたびに、雪で冷やした布で彼の額を拭った。自分の愚かな行動が招いた結果だ。せめてもの償いがしたかった。
そして、自分の無力さを痛感した。
ヴァルがいなければ、自分はとっくに死んでいる。
食料を得ることも、火を起こすことも、獣から身を守ることも、何一つ一人ではできない。彼に生かされているだけだ。その事実が、ナイフのように胸に突き刺さった。
四日目の朝、ヴァルは静かに目を覚ました。
黄金の瞳はまだ熱で濁っていたが、アシェルの姿を認めると、かすれた声で「……水」と呟いた。
アシェルは慌てて、雪解け水を溜めておいた水差しを彼の口元へ運ぶ。ヴァルはそれをゆっくりと、数口だけ飲んだ。
「……お前は、無事か」
それは、アシェルが予想もしなかった言葉だった。自分の心配をしてくれるなんて、思ってもみなかった。
「う、うん。俺は、どこも……。ヴァルこそ、傷は……」
「大したことは、ない。すぐに治る」
そう言うヴァルの顔色は、まだ蒼白だった。強がっているのは明らかだ。アシェルは何も言えず、ただ俯いた。
その日から、二人の立場は逆転した。
動けないヴァルの代わりに、アシェルが森へ出て食料を探した。と言っても、狩りができるわけではない。ヴァルに教わった食べられる草の根や木の実を、一日中歩き回って必死に集めるだけだ。それでも、二人分の食事を確保するのは困難を極めた。
アシェルが泥だらけになって持ち帰ったわずかな食料を、ヴァルは黙って受け取った。そして、いつもアシェルの分を少しだけ多く皿に乗せるのだった。
言葉は、相変わらずほとんどなかった。
しかし、氷狼の襲撃を境に二人の間の空気は明らかに変わっていた。
ヴァルはもう、アシェルを「いないもの」として扱わなかった。彼の視線は、確かにアシェルを捉えている。それはまだ、厳しい観察者の視線だったが、以前のような無関心とはまったく違っていた。
ある晩、アシェルが炉の火を見つめていると、不意にヴァルが口を開いた。
「……なぜ、あの時、鹿を獲った」
それは、ずっとアシェルが恐れていた質問だった。
「……ヴァルに、楽をさせたかった。いつも傷だらけで……俺は、何もできないから。少しでも、役に立ちたかった」
正直に、心の底から出た言葉だった。ヴァルはしばらく黙っていたが、やがて、静かな声で言った。
「……俺は、森の主だ。この程度の傷は、日常だ。お前が気に病むことじゃない」
「でも……!」
「お前は、お前のことだけを考えろ。まず、お前が一人で生きられるようになることが先だ」
その言葉は冷たく聞こえたが、アシェルには、その奥にある不器用な優しさが分かった。それは、アシェルを突き放しているのではなく、彼の自立を促しているのだ。
ふと、アシェルは気づいた。
ヴァルは、一度もアシェルを責めなかった。「お前のせいだ」という言葉を、彼は決して口にしなかったのだ。
その事実に気づいた時、アシェルの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
ヴァルは驚いたようにアシェルを見たが、何も言わずに視線を逸らし、炉の中の炎に目を向けた。
その時だった。
炉の火がぱちり、と音を立てて、一際大きく燃え上がった。そのオレンジ色の暖かい光が、ヴァルの横顔を照らし出す。
そして、アシェルは見た。
ほんの一瞬、その氷のように無表情だったヴァルの唇の端が、ほんのわずかに、本当にごくわずかに、持ち上がったのを。
それは、笑顔と呼ぶにはあまりにも些細な変化だった。だが、それは確かに、アシェルが初めて見る彼の微笑みだった。
アシェルは息をのんだまま、動けなかった。
なぜ彼が笑ったのか、分からない。自分の涙を見て、呆れたのかもしれない。それとも、何か別のことを考えていたのかもしれない。
けれど、アシェルの心には、その小さな微笑みが、暗闇に灯った一つの灯火のように、温かく刻み込まれた。
ヴァルは、決して優しさを言葉にはしない。その温もりは、いつも無言の行動や、厳しい言葉の裏側に隠されている。毛皮を投げ与えてくれたこと。アシェルの分の食事を、少しだけ多くしてくれること。そして今、見せてくれた、一瞬の微笑み。
その小さな灯火を見つけ出すことが、この厳しい森で、この不器用で優しい人と共に生きていくということなのかもしれない。
アシェルは、自分の頬を伝う涙を拭うことも忘れ、ただ、揺らめく炎と、その向こうにあるヴァルの横顔を、じっと見つめていた。心の中に、じんわりと温かいものが広がっていくのを感じながら。
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