雪解けを待つ森で ―スヴェル森の鎮魂歌(レクイエム)―

なの

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第4章 村の影、再び

Ep16:守りたいもの

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意識が戻ったとき、アシェルは洞窟の天井を見つめていた。
何度も見慣れた岩壁。それなのに、どこか別の世界の色に見える。左腕に巻かれた布は、荒々しくも丁寧に縛られている。その手には、かすかにヴァルの体温が染み込んでいた。

「……ヴァル」

呼びかけると、すぐそばで炉の火に薪をくべていた大きな背中が振り向いた。消え入るような声だったはずなのに、彼にはしっかり届いていた。

「気がついたか」

ヴァルの表情はいつも通り無愛想で、言葉もぶっきらぼうだったが、なんとなく安堵してるように見えた。

「痛むか」

「……平気。これくらい……」

アシェルはうっすらと微笑み、ちょっとだけ首を横に振った。しかしその動作で小さな痛みが走り、無意識のうちに息を吸い込む。ヴァルは短くため息をつくと、そっとアシェルの肩に掛けた毛皮の端を直してくれた。

沈黙。焚き火の音だけが静かな部屋に響いていた。

しばらくして、アシェルはぽつりと言葉を探した。

「……俺、考えてたんだ」

「何をだ?」

「ずっと、自分には何もなくて、誰からも必要とされてなかった。生贄として選ばれたのも、きっとそのせいだったって。でも、気づいたんだ」

アシェルはヴァルの顔をまっすぐ見る。以前の彼なら、すぐに視線を外していたはずだった。けれど今は、きちんとヴァルを、そこにいる「ひとり」の存在として見つめていた。

「俺は、守りたい。――この森も、ヴァルのことも。自分自身の意志で」

その言葉は、とても小さく、しかしこの森のどの獣の咆哮よりも強い響きをもって空間を震わせた。

「俺は……人間だけど、誰かを不幸にしてまで村に戻りたくなんてない。ここで、ヴァルと一緒に生きていたい。守りたいものがあるから、俺はここにいる。だから――もう俺を、ただ『助けるだけ』だと思わないでほしい」

ヴァルの目がわずかに見開かれる。その目の奥にあった「自分は孤独で、誰にも必要とされない獣だ」という絶望が、ほんの短い間だけ揺らいだように見える。

「お前……」

「――それは、弱い俺にできるようなことじゃないって分かってる。でも、昔の俺とは違う。自分で選ぶ。たとえ怖くても、もう逃げたくない」

言い切ったアシェルの声は、森の中の春の雪解け水のように、さらさらと力強く流れていた。

ヴァルはその場でしばらく立ち尽くしていた。
やがて、彼はゆっくりアシェルの隣に座る。巨大な手が、頬にかかる乱れた白髪を少しだけ整えてくれた。

「……守りたいなら、強くなれ」

それは命令ではなく、初めてヴァルから差し出された“言葉による約束”だった。

「俺を守りたいと言うなら、その覚悟、俺が見せてもらう」

「……うん」

アシェルは涙をこぼさずに力強く頷いた。
「俺、変わる。昔みたいに怖いから逃げたりしない。もう“守られるだけ”の存在じゃいられない。森もヴァルも、俺自身も、俺が守りたい」
「……覚悟があるのか」
「ある」
ふたりの呼吸が重なる。ヴァルは、ゆっくりとアシェルと向き合うと、初めてその手を迷わず伸ばし、アシェルの右手をしっかりと握る。その力強さは、決して傷ついた子供を慰めるものではなかった。対等な者同士、これから同じ未来を切り拓く「パートナー」としての握手。
そこにあったのは、もう“守る者と守られる者”ではない。おのれの弱さも、強さも、過去の孤独も認め合ったうえで、はじめて生まれる「対等な絆」の感触だった。
「……ありがとう、ヴァル。絶対に後悔させない」
「言ったな?」
ヴァルは口の端で微かに笑った。アシェルもそれを見て、少しだけ肩の力が抜ける。
「これからも怖いことはたくさんある。でも、俺はここで恐れるのをやめる。ここが、俺の居場所だと、自分で選ぶから――」
「…………」
ヴァルは何も答えなかった。ただ、その手を最後まで離さなかった。

ただの守られる者と守る者ではない。互いに、守りたいものがあり、守られたいものもある存在。同じ地平で、同じ未来を見つめ始めた。

炎の揺らめきが、ふたりを照らす。
激しくも穏やかな決意の灯りのもとで、少年は大人になる。孤独な獣は、初めて「共に歩む相棒」を手に入れる。
嵐の夜も、外の世界の悪意も、これからは二人で超えていく。
森を、互いを、守るのはこの二人の意志と覚悟だ。  

長い冬の孤独を二人で越えてきたからこそ――
その日、少年は初めて「自分の意志で選び、信じる」大人へと、静かな一歩を踏み出したのだった。

その焚き火は、夜空の星よりも確かな、ふたりの「対等な絆」の灯火となった。

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