雪解けを待つ森で ―スヴェル森の鎮魂歌(レクイエム)―

なの

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第4章 村の影、再び

Ep15:血に濡れたナイフ

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静寂を破って現れた、森の主。
その姿は、村の若者たちが抱いていた漠然とした恐怖を、現実のものとして突きつけた。人の形をしていながら、その身から放たれる威圧感と殺気は、明らかに人間のそれではない。黄金に輝く瞳は、獲物を前にした獣のように、冷徹な光をたたえていた。

「ひっ……!」

若者の一人が、腰を抜かして尻餅をついた。その恐怖は、瞬く間に他の者たちにも伝染した。
彼らは村では威勢のいいことを言っていたが、本物の「魔物」を前にして、その威勢など何の役にも立たない。

「うろたえるな!そいつは、アシェルを誑かした化け物だ!俺たちで村を守るんだ!」

ヨルンだけが、恐怖を憎悪で塗りつぶし、大声で叫んだ。彼はアシェルの首に腕を回し、その身体を盾にするようにして、ヴァルを睨みつける。

「そのガキから、手を離せ」

ヴァルは、地を這うような低い声で、もう一度繰り返した。その手には、まるで木の枝のように軽々と、巨大な石斧が握られている。

「断る!こいつは村の呪いだ!こいつを生かしておいたから、親父は死んだんだ!お前のような化け物と一緒に、ここで始末してやる!」

ヨルンの言葉は、ヴァルの心の最も深い傷を、無慈悲に抉った。「化け物」。
それは、百年前、彼の仲間たちが人間から投げつけられた、最後の言葉だった。

ヴァルの全身から、黒い殺気が炎のように立ち上る。

「……そうか。やはり人間は、何も変わらないのだな」

その声は、もはや怒りを通り越し、深い、深い絶望に染まっていた。

「奪うことしか知らぬ、愚かな生き物だ」

次の瞬間、ヴァルの姿が掻き消えた。
いや、消えたのではない。常人には目で追えないほどの速度で、若者たちとの距離を詰めたのだ。

「ぐあっ!」

最初に悲鳴を上げたのは、アシェルの腕を掴んでいたヨルンだった。
ヴァルは石斧の柄でヨルンの脇腹を強かに打ち据え、その衝撃でアシェルを捕らえていた腕の力が緩んだ。アシェルはその隙を見逃さず、彼の腕から抜け出した。

「アシェル!」

ヴァルが叫ぶ。その声に促され、アシェルは彼の背後へと駆け込んだ。

「てめえ……!」

脇腹を押さえながら立ち上がったヨルンが、怒りに顔を歪ませ、斧を振りかざしているヴァルに襲いかかる。他の若者たちも、恐怖を振り払うように雄叫びを上げ、それに続いた。

しかし、それは戦いと呼ぶには、あまりにも一方的だった。
ヴァルは、彼らの攻撃を紙一重でかわし、的確に、しかし決して命を奪わない絶妙な力加減で、一人、また一人と打ちのめしていく。石斧の峰で肩を砕き、回し蹴りで足を払い、その動きには一切の無駄がなく、まるで舞を踊っているかのように、洗練され、そして美しかった。

若者たちは、赤子の手をひねるように、次々と地面に倒れ伏していく。

「化け物が……!化け物がぁっ!」

最後に残ったヨルンが、半ば狂乱しながら斧を滅茶苦茶に振り回す。ヴァルはそれを冷静に見極め、斧を振り下ろした瞬間に懐へ飛び込むと、ヨルンの手首を掴み、いとも簡単にその動きを封じた。

「……終わりだ。失せろ」

ヴァルの冷たい声が、戦いの終結を告げる。
ヨルンは、その黄金の瞳に射抜かれ、ようやく自分たちが決して敵うはずのない存在に戦いを挑んでしまったのだと悟った。その瞳には、恐怖と、そして敗北の屈辱が浮かんでいた。

アシェルは、その光景をヴァルの背後から、ただ息をのんで見つめていた。

強い。
圧倒的に、強い。
氷狼との戦いでも感じたが、今目の当たりにしているのは、それとはまた質の違う強さだった。人間を相手にした時の彼の動きには、容赦というものが一切なかった。それは、百年の憎悪が研ぎ澄ませた、ただ敵を排除するためだけの、冷徹な力だった。

「……行こう」

ヴァルは、倒れ伏す若者たちに一瞥もくれず、アシェルにそう言った。その声は、まだ怒りで硬かった。

アシェルは頷き、ヴァルの後に続こうとした、その時だった。

「――まだだ!」

背後で、ヨルンの絶叫が響いた。彼は、懐から小さなナイフを取り出すと、最後の力を振り絞ってヴァルの背中へと襲いかかっていたのだ。

「ヴァル、危ない!」

アシェルが叫ぶのと、ヴァルが振り返るのは、ほぼ同時だった。
しかし、ヴァルの体勢は完全には間に合わない。ナイフの切っ先が、彼の無防備な背中へと吸い寄せられていく。

アシェルは、考えるより先に動いていた。
ヴァルの前に、その小さな身体で立ちはだかる。

ザクリ、という鈍い音。
そして、アシェルの左腕に、焼けるような激痛が走った。ヨルンのナイフが、アシェルの腕を深く切り裂いていた。

「……あ……」

とてつもない量の血が、衣を赤黒く染めていく。視界がぐらりと揺れ、アシェルはその場に崩れ落ちた。

「アシェルッ!」

ヴァルの、今まで聞いたこともないような、悲痛な絶叫が森に響き渡った。
彼は崩れ落ちるアシェルの身体を抱きとめ、その傷口を見た瞬間、その黄金の瞳が、憎悪や怒りとは違う、純粋な「恐怖」の色に染まった。

「……なぜ……」

なぜ、庇った。
なぜ、人間であるお前が、俺を……。

ヴァルの震える声が、遠のいていくアシェルの意識に、かろうじて届いた。
ヨルンは、自分が何をしてしまったのか理解できず、血に濡れたナイフを手に、その場に立ち尽くしていた。

森の静寂の中、ヴァルの絶叫だけが、いつまでも木霊していた。


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