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第4章 村の影、再び
Ep14:侵入者
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その日、森の空気はいつもと違っていた。
空は晴れ渡り、鳥の声も朗らかに響いていた。
しかし、アシェルは肌で感じていた。風に乗って運ばれてくる、微かで、けれど明らかな異質な気配。
それは、この森に属さない者たちの匂いだった。
「……どうした」
罠の点検から戻り、妙に落ち着きなく周囲を警戒しているアシェルに、ヴァルが声をかけた。彼の黄金の瞳もまた、わずかに細められている。彼もまた、その異変に気づいているのだ。
「……匂いがする。人間の匂いだ」
アシェルがそう答えると、ヴァルの表情が凍りついた。彼の脳裏には、百年前のあの夜の光景が再び蘇っているのかもしれない。松明の匂い、血の匂い、そして、人間の欲望の匂い。
「何人くらいだ?」
「分からない……。
でも、一人や二人じゃない。群れの匂いがする」
ヴァルはしばらくの間、じっと森の奥を見つめていたが、やがて興味を失ったかのように、洞窟の中へと戻っていった。
「放っておけ」
「え……?」
「奴らがこの奥までたどり着けるはずがない。その前に、森の獣たちが喰らうか、道に迷って凍え死ぬかだ。俺たちには関係ない」
その言葉は、あまりにも冷たく、突き放すようだった。アシェルは、ヴァルのその態度に戸惑いを隠せない。
「でも、もし、たどり着いたら……」
「その時は、追い返すまでだ」
ヴァルはそれだけ言うと、洞窟の奥で道具の手入れを始めてしまった。その背中は、明確な拒絶を示している。
人間に関わるな……と。
アシェルは何も言えず、唇を噛んだ。ヴァルの言うことは、正しいのかもしれない。彼にとって、人間はもはや関わる価値のない、忌まわしい存在なのだ。その傷の深さを知っているからこそ、アシェルは強く反論することができなかった。
しかし、アシェルの胸には、ヴァルとは違う種類の不安が渦巻いていた。
恐怖。そして、怒り。
村人たちが、なぜこの森に来たのか。理由は一つしか考えられない。自分の噂を聞きつけ、確かめに来たのだ。そして、もし自分を見つけたら――。
脳裏に、生贄にされたあの夜の、村人たちの冷たい目が蘇る。彼らは、自分を「生贄」としてではなく、「呪い」そのものとして見ていた。その呪いが生き永らえていると知れば、彼らが何をするか、想像に難くない。
だが、それ以上にアシェルを苛んだのは、怒りだった。
この森は、ヴァルにとって、たった一つ残された聖域なのだ。百年の孤独を耐え、たった一人で守り抜いてきた場所。そこに、土足で踏み入る権利など、誰にもないはずだ。
(ヴァルの場所を、穢されたくない)
その思いは、もはや恐怖を凌駕していた。
アシェルは、ヴァルに何も告げず、一人でそっと洞窟を抜け出した。ヴァルに教わった通り、気配を殺し、風下を選んで、人間の匂いがする方へと向かう。確かめなければならない。彼らがどこまで来ていて、何をしようとしているのかを。
森の中を進むにつれて、人間の痕跡はより明確になっていった。無残に折られた枝、不必要に踏み荒らされた下草、そして、まだ新しい焚き火の跡。そこには、食べ散らかされた鳥の骨が散乱していた。森の掟などおかまいなしの、略奪の痕跡だ。
その光景に、アシェルの胸に黒い怒りがこみ上げてくる。
ヴァルが、そして自分が、どれほどこの森を敬い、感謝して生きているか……。
彼らは、何も知らない。
何も、知ろうとはしない。
やがて、人の声が聞こえてきた。アシェルは岩陰に身を隠し、そっと様子を窺う。
そこにいたのは、ヨルンをはじめとする、村の若者たち七人だった。彼らは皆、粗末な剣や斧を手にし、その目は不安と、歪んだ使命感でギラついていた。
「ちくしょう、本当にこの先にいるのかよ」
「猟師が見たって言ってたんだから、間違いねえ。もっと奥だ」
「それにしても、不気味な森だな……。本当に、魔物が出るんじゃねえか……」
彼らの会話から、目的が自分であることは明らかだった。そして、彼らが自分を「魔物」と同一視していることも。
その時、一人が叫んだ。
「おい、見ろ!足跡だ!」
指さされた先には、アシェルが今朝、罠の確認のために通った時に残した足跡が、くっきりと残っていた。
「追うぞ!近くにいるはずだ!」
若者たちが、一斉にこちらへ向かってくる。
まずい、とアシェルは思った。このままでは、洞窟の場所が知られてしまう。ヴァルの聖域が、彼らに見つかってしまう。
アシェルは、咄嗟に動いた。
彼らが追っている足跡とは逆の方向へ、わざと大きな音を立てて枝を踏みしめる。
「――っ、誰だ!」
案の定、若者たちはその音に気づき、一斉にそちらを向いた。アシェルは姿を見られないように、木々の間を縫って、洞窟からさらに遠ざかる方向へと駆ける。彼らを引きつけなければ。この場所から、少しでも遠くへ。
「いたぞ!あっちだ!」
「待て、アシェル!話がある!」
ヨルンの声が、背後から追いかけてくる。話など、あるものか。彼らの目に宿る光が、対話を求めている者のそれではないことを、アシェルは知っていた。
必死に走る。
だが、長く森で暮らしているとはいえ、まだ体格では大人の男たちに及ばない。息が切れ、足がもつれ始める。
そして、開けた場所に出た瞬間、背後から伸びてきた屈強な腕に、身体を強く捕らえられた。
「捕まえたぞ!」
ヨルンだった。彼の腕は万力のように強く、アシェルは身動き一つ取れない。他の若者たちも、すぐに追いついてきて、アシェルをぐるりと取り囲んだ。
「やっぱり、生きてやがったか……。この、村の面汚しが」
ヨルンの目に、憎悪の炎が燃え盛る。
「ヴァル……!」
アシェルの口から、無意識に彼の名が漏れた。
その時だった。
「――そいつから、手を離せ」
森の木々を震わせるような、低く、そして怒りに満ちた声が響き渡った。
若者たちが驚いて振り返ったその先に、ヴァルが立っていた。その手には、氷狼との戦いでも使っていた、巨大な石斧が握られている。
その黄金の瞳は、百年前のあの夜と同じ、人間への絶対的な憎悪と殺意に染まっていた。
「放っておけ」と言ったはずの彼が、なぜ、ここに。
「で、出た……!森の、魔物だ……!」
若者の一人が、恐怖に引きつった声を上げた。
ヴァルの怒りと、若者たちの恐怖と憎悪。
二つの決して相容れない感情が、春の陽光が差し込む穏やかな森で、今、激しく衝突しようとしていた。
空は晴れ渡り、鳥の声も朗らかに響いていた。
しかし、アシェルは肌で感じていた。風に乗って運ばれてくる、微かで、けれど明らかな異質な気配。
それは、この森に属さない者たちの匂いだった。
「……どうした」
罠の点検から戻り、妙に落ち着きなく周囲を警戒しているアシェルに、ヴァルが声をかけた。彼の黄金の瞳もまた、わずかに細められている。彼もまた、その異変に気づいているのだ。
「……匂いがする。人間の匂いだ」
アシェルがそう答えると、ヴァルの表情が凍りついた。彼の脳裏には、百年前のあの夜の光景が再び蘇っているのかもしれない。松明の匂い、血の匂い、そして、人間の欲望の匂い。
「何人くらいだ?」
「分からない……。
でも、一人や二人じゃない。群れの匂いがする」
ヴァルはしばらくの間、じっと森の奥を見つめていたが、やがて興味を失ったかのように、洞窟の中へと戻っていった。
「放っておけ」
「え……?」
「奴らがこの奥までたどり着けるはずがない。その前に、森の獣たちが喰らうか、道に迷って凍え死ぬかだ。俺たちには関係ない」
その言葉は、あまりにも冷たく、突き放すようだった。アシェルは、ヴァルのその態度に戸惑いを隠せない。
「でも、もし、たどり着いたら……」
「その時は、追い返すまでだ」
ヴァルはそれだけ言うと、洞窟の奥で道具の手入れを始めてしまった。その背中は、明確な拒絶を示している。
人間に関わるな……と。
アシェルは何も言えず、唇を噛んだ。ヴァルの言うことは、正しいのかもしれない。彼にとって、人間はもはや関わる価値のない、忌まわしい存在なのだ。その傷の深さを知っているからこそ、アシェルは強く反論することができなかった。
しかし、アシェルの胸には、ヴァルとは違う種類の不安が渦巻いていた。
恐怖。そして、怒り。
村人たちが、なぜこの森に来たのか。理由は一つしか考えられない。自分の噂を聞きつけ、確かめに来たのだ。そして、もし自分を見つけたら――。
脳裏に、生贄にされたあの夜の、村人たちの冷たい目が蘇る。彼らは、自分を「生贄」としてではなく、「呪い」そのものとして見ていた。その呪いが生き永らえていると知れば、彼らが何をするか、想像に難くない。
だが、それ以上にアシェルを苛んだのは、怒りだった。
この森は、ヴァルにとって、たった一つ残された聖域なのだ。百年の孤独を耐え、たった一人で守り抜いてきた場所。そこに、土足で踏み入る権利など、誰にもないはずだ。
(ヴァルの場所を、穢されたくない)
その思いは、もはや恐怖を凌駕していた。
アシェルは、ヴァルに何も告げず、一人でそっと洞窟を抜け出した。ヴァルに教わった通り、気配を殺し、風下を選んで、人間の匂いがする方へと向かう。確かめなければならない。彼らがどこまで来ていて、何をしようとしているのかを。
森の中を進むにつれて、人間の痕跡はより明確になっていった。無残に折られた枝、不必要に踏み荒らされた下草、そして、まだ新しい焚き火の跡。そこには、食べ散らかされた鳥の骨が散乱していた。森の掟などおかまいなしの、略奪の痕跡だ。
その光景に、アシェルの胸に黒い怒りがこみ上げてくる。
ヴァルが、そして自分が、どれほどこの森を敬い、感謝して生きているか……。
彼らは、何も知らない。
何も、知ろうとはしない。
やがて、人の声が聞こえてきた。アシェルは岩陰に身を隠し、そっと様子を窺う。
そこにいたのは、ヨルンをはじめとする、村の若者たち七人だった。彼らは皆、粗末な剣や斧を手にし、その目は不安と、歪んだ使命感でギラついていた。
「ちくしょう、本当にこの先にいるのかよ」
「猟師が見たって言ってたんだから、間違いねえ。もっと奥だ」
「それにしても、不気味な森だな……。本当に、魔物が出るんじゃねえか……」
彼らの会話から、目的が自分であることは明らかだった。そして、彼らが自分を「魔物」と同一視していることも。
その時、一人が叫んだ。
「おい、見ろ!足跡だ!」
指さされた先には、アシェルが今朝、罠の確認のために通った時に残した足跡が、くっきりと残っていた。
「追うぞ!近くにいるはずだ!」
若者たちが、一斉にこちらへ向かってくる。
まずい、とアシェルは思った。このままでは、洞窟の場所が知られてしまう。ヴァルの聖域が、彼らに見つかってしまう。
アシェルは、咄嗟に動いた。
彼らが追っている足跡とは逆の方向へ、わざと大きな音を立てて枝を踏みしめる。
「――っ、誰だ!」
案の定、若者たちはその音に気づき、一斉にそちらを向いた。アシェルは姿を見られないように、木々の間を縫って、洞窟からさらに遠ざかる方向へと駆ける。彼らを引きつけなければ。この場所から、少しでも遠くへ。
「いたぞ!あっちだ!」
「待て、アシェル!話がある!」
ヨルンの声が、背後から追いかけてくる。話など、あるものか。彼らの目に宿る光が、対話を求めている者のそれではないことを、アシェルは知っていた。
必死に走る。
だが、長く森で暮らしているとはいえ、まだ体格では大人の男たちに及ばない。息が切れ、足がもつれ始める。
そして、開けた場所に出た瞬間、背後から伸びてきた屈強な腕に、身体を強く捕らえられた。
「捕まえたぞ!」
ヨルンだった。彼の腕は万力のように強く、アシェルは身動き一つ取れない。他の若者たちも、すぐに追いついてきて、アシェルをぐるりと取り囲んだ。
「やっぱり、生きてやがったか……。この、村の面汚しが」
ヨルンの目に、憎悪の炎が燃え盛る。
「ヴァル……!」
アシェルの口から、無意識に彼の名が漏れた。
その時だった。
「――そいつから、手を離せ」
森の木々を震わせるような、低く、そして怒りに満ちた声が響き渡った。
若者たちが驚いて振り返ったその先に、ヴァルが立っていた。その手には、氷狼との戦いでも使っていた、巨大な石斧が握られている。
その黄金の瞳は、百年前のあの夜と同じ、人間への絶対的な憎悪と殺意に染まっていた。
「放っておけ」と言ったはずの彼が、なぜ、ここに。
「で、出た……!森の、魔物だ……!」
若者の一人が、恐怖に引きつった声を上げた。
ヴァルの怒りと、若者たちの恐怖と憎悪。
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