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「カフェ・アルケミスタ」のプレオープン当日。
朝の柔らかな光が大きな窓から差し込み、磨き上げられたカウンターやテーブルを照らし出している。
「カイ! 床はもう一度拭いてちょうだい! 隅にまだ埃が残っているわ!」
「ええっ、昨日ピカピカにしたじゃないですか!?」
「オープン前は、ピカピカのさらに上を目指すのよ!」
エプロン姿のマリアンは、開店前の最後のチェックに余念がない。カイはぶつぶつ文句を言いながらも、かいがいしくモップを動かしている。
厨房のオーブンからはクッキーの甘い香りが漂い、カウンターの上ではマリアンが今朝挽いたばかりのコーヒー豆が、芳醇な匂いを放っていた。
準備は万端。
マリアンは店のドアに、手書きの小さな木製看板をかけた。『Open』と書かれたその文字が、少しだけ震えているように見えた。
「さあ……始めましょうか」
緊張で乾いた喉を、ごくりと鳴らす。
しかし。
一時間経っても、二時間経っても、店の前を通りかかる人はいるものの、ドアベルが鳴ることはなかった。
「……誰も来ませんねぇ」
カウンターの隅で暇を持て余したカイが、つまらなそうに言う。
「まあ、仕方ないわ。大通りから一本入った路地裏ですもの。すぐにお客様が来るなんて、そんなに甘くはないわよね」
気丈にそう言いつつも、マリアンの心中には少しずつ不安が広がっていた。自分の「錬金術」は、本当に世の中に通用するのだろうか。
時計の針が、正午を指そうかという、その時だった。
カラン、と。
店のドアに取り付けられた真鍮のベルが、澄んだ音を立てた。
「!」
マリアンとカイは、弾かれたように顔を上げた。待望の、記念すべき、最初のお客様だ。
しかし、そこに立っていた人物を見て、マリアンの笑顔は完璧な営業用のものに貼りついた。
入ってきたのは、先日、最悪の出会いを果たした隣人――クライスト王国騎士団長、アレクシス・フォン・ヴァイス、その人だった。
鎧は着ていないものの、シンプルなシャツの上からでもわかる、鍛え上げられた分厚い胸板と太い腕。そして、何日も眠っていないかのように目の下に刻まれた濃い隈が、その厳しい顔つきをさらに険しいものにしていた。
(よりにもよって、あの無愛想で無礼な男が、最初のお客様ですって!?)
内心で毒づきながらも、マリアンはプロに徹し、カウンターの中から明るい声をかけた。
「いらっしゃいませ! カフェ・アルケミスタへようこそ!」
アレクシスは、先日ぶつかった平民の娘がエプロンをつけてカウンターに立っていることに、わずかに目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻った。彼は何も言わず、品定めするような鋭い視線で、ゆっくりと店内を見回している。
しばらくの沈黙の後、アレクシスは低い声で尋ねた。
「……ここは、何屋だ」
「カフェにございます。こだわりの珈琲と、ささやかな焼き菓子のお店ですわ」
完璧な笑顔で答えるマリアンに、アレクシスはふん、と鼻を鳴らしたように見えた。彼は空いていたカウンター席にどかりと腰を下ろすと、ぶっきらぼうに注文を告げた。
「……一番、眠気が覚めるものを」
あまりにも無愛想なその態度に、マリアンのこめかみがピクリと動く。
(眠気が覚めるもの、ですって? そんなもの、冷たい水を頭から浴びればよろしいでしょうに!)
しかし、口から出たのは、店主として完璧な言葉だった。
「かしこまりました。当店の最も深煎りの豆を使い、わたくしが特別に調合した一杯をご用意いたします」
マリアンは、自慢の『蒸気式珈琲抽出機』の前に立った。
ガラスのフラスコに水を注ぎ、真鍮のランプに火を灯す。挽きたての豆をフィルターにセットし、機械を作動させると、しゅう、と静かな音を立てて蒸気が発生し、ガラス管の中をお湯がゆっくりと昇っていく。
その一連の流れるような手つきを、アレクシスは腕を組んだまま、無言でじっと見つめていた。見たこともない奇妙な機械と、それを扱うマリアンの真剣な横顔から、目が離せないようだった。
やがて、琥珀色を通り越して、ほとんど漆黒に近い液体が、ぽたり、ぽたりとフラスコに抽出されていく。店中に満ちていた甘い香りが、一瞬にして濃厚でビターな大人の香りに塗り替えられた。
マリアンは、温めておいたカップにその黒い液体を注ぎ、アレクシスの前に静かに置いた。
「お待たせいたしました。『夜明けの一滴』でございます」
アレクシスは、マリアンが即興でつけたその大仰な名前を鼻で笑うこともなく、ただ黙ってカップを手に取った。そして、一口。
その瞬間、アレクシスの時間が止まった。
ガツン、と脳天を殴られるような、強烈な苦味。しかし、その苦味が引いた後から、追いかけるようにして現れる、カカオのような深いコクと、焦がしたカラメルのような、わずかな甘い香り。
疲労で重く沈んでいた意識の霧が、急速に晴れていくのがわかった。視界が、思考が、クリアになっていく。
彼は驚きに目を見開き、手の中のカップを凝視した。そして、もう一口、またもう一口と、確かめるように味わい、あっという間に飲み干してしまった。
(ふふん、どうかしら。わたくしの錬金術の味は)
マリアンは、内心で勝利の笑みを浮かべた。
空になったカップを、アレクシスはカタン、と静かにソーサーに戻した。
長い、長い沈黙。
やがて彼は、低い声でぽつりと呟いた。
「……悪くない」
それだけ言うと、彼は代金の銀貨を数枚カウンターに置くと、一度も振り返ることなく、店から出て行った。
「……なんですって? 『悪くない』ですって!? 素直に美味しいの一言も言えないのかしら、あの氷柱男は!」
後に残されたマリアンが憤慨していると、カイが呆れたように言った。
「いやいや、マリアン様。あの氷の騎士団長にしちゃ、あれはもう『今まで飲んだものの中で一番うまい』って言ってるのと同じくらいの、最高の賛辞ですよ!」
最悪で、最高に手ごわい最初のお客様。
カフェ・アルケミスタの記念すべき第一歩は、こうして静かに、しかし確かに記されたのだった。
朝の柔らかな光が大きな窓から差し込み、磨き上げられたカウンターやテーブルを照らし出している。
「カイ! 床はもう一度拭いてちょうだい! 隅にまだ埃が残っているわ!」
「ええっ、昨日ピカピカにしたじゃないですか!?」
「オープン前は、ピカピカのさらに上を目指すのよ!」
エプロン姿のマリアンは、開店前の最後のチェックに余念がない。カイはぶつぶつ文句を言いながらも、かいがいしくモップを動かしている。
厨房のオーブンからはクッキーの甘い香りが漂い、カウンターの上ではマリアンが今朝挽いたばかりのコーヒー豆が、芳醇な匂いを放っていた。
準備は万端。
マリアンは店のドアに、手書きの小さな木製看板をかけた。『Open』と書かれたその文字が、少しだけ震えているように見えた。
「さあ……始めましょうか」
緊張で乾いた喉を、ごくりと鳴らす。
しかし。
一時間経っても、二時間経っても、店の前を通りかかる人はいるものの、ドアベルが鳴ることはなかった。
「……誰も来ませんねぇ」
カウンターの隅で暇を持て余したカイが、つまらなそうに言う。
「まあ、仕方ないわ。大通りから一本入った路地裏ですもの。すぐにお客様が来るなんて、そんなに甘くはないわよね」
気丈にそう言いつつも、マリアンの心中には少しずつ不安が広がっていた。自分の「錬金術」は、本当に世の中に通用するのだろうか。
時計の針が、正午を指そうかという、その時だった。
カラン、と。
店のドアに取り付けられた真鍮のベルが、澄んだ音を立てた。
「!」
マリアンとカイは、弾かれたように顔を上げた。待望の、記念すべき、最初のお客様だ。
しかし、そこに立っていた人物を見て、マリアンの笑顔は完璧な営業用のものに貼りついた。
入ってきたのは、先日、最悪の出会いを果たした隣人――クライスト王国騎士団長、アレクシス・フォン・ヴァイス、その人だった。
鎧は着ていないものの、シンプルなシャツの上からでもわかる、鍛え上げられた分厚い胸板と太い腕。そして、何日も眠っていないかのように目の下に刻まれた濃い隈が、その厳しい顔つきをさらに険しいものにしていた。
(よりにもよって、あの無愛想で無礼な男が、最初のお客様ですって!?)
内心で毒づきながらも、マリアンはプロに徹し、カウンターの中から明るい声をかけた。
「いらっしゃいませ! カフェ・アルケミスタへようこそ!」
アレクシスは、先日ぶつかった平民の娘がエプロンをつけてカウンターに立っていることに、わずかに目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻った。彼は何も言わず、品定めするような鋭い視線で、ゆっくりと店内を見回している。
しばらくの沈黙の後、アレクシスは低い声で尋ねた。
「……ここは、何屋だ」
「カフェにございます。こだわりの珈琲と、ささやかな焼き菓子のお店ですわ」
完璧な笑顔で答えるマリアンに、アレクシスはふん、と鼻を鳴らしたように見えた。彼は空いていたカウンター席にどかりと腰を下ろすと、ぶっきらぼうに注文を告げた。
「……一番、眠気が覚めるものを」
あまりにも無愛想なその態度に、マリアンのこめかみがピクリと動く。
(眠気が覚めるもの、ですって? そんなもの、冷たい水を頭から浴びればよろしいでしょうに!)
しかし、口から出たのは、店主として完璧な言葉だった。
「かしこまりました。当店の最も深煎りの豆を使い、わたくしが特別に調合した一杯をご用意いたします」
マリアンは、自慢の『蒸気式珈琲抽出機』の前に立った。
ガラスのフラスコに水を注ぎ、真鍮のランプに火を灯す。挽きたての豆をフィルターにセットし、機械を作動させると、しゅう、と静かな音を立てて蒸気が発生し、ガラス管の中をお湯がゆっくりと昇っていく。
その一連の流れるような手つきを、アレクシスは腕を組んだまま、無言でじっと見つめていた。見たこともない奇妙な機械と、それを扱うマリアンの真剣な横顔から、目が離せないようだった。
やがて、琥珀色を通り越して、ほとんど漆黒に近い液体が、ぽたり、ぽたりとフラスコに抽出されていく。店中に満ちていた甘い香りが、一瞬にして濃厚でビターな大人の香りに塗り替えられた。
マリアンは、温めておいたカップにその黒い液体を注ぎ、アレクシスの前に静かに置いた。
「お待たせいたしました。『夜明けの一滴』でございます」
アレクシスは、マリアンが即興でつけたその大仰な名前を鼻で笑うこともなく、ただ黙ってカップを手に取った。そして、一口。
その瞬間、アレクシスの時間が止まった。
ガツン、と脳天を殴られるような、強烈な苦味。しかし、その苦味が引いた後から、追いかけるようにして現れる、カカオのような深いコクと、焦がしたカラメルのような、わずかな甘い香り。
疲労で重く沈んでいた意識の霧が、急速に晴れていくのがわかった。視界が、思考が、クリアになっていく。
彼は驚きに目を見開き、手の中のカップを凝視した。そして、もう一口、またもう一口と、確かめるように味わい、あっという間に飲み干してしまった。
(ふふん、どうかしら。わたくしの錬金術の味は)
マリアンは、内心で勝利の笑みを浮かべた。
空になったカップを、アレクシスはカタン、と静かにソーサーに戻した。
長い、長い沈黙。
やがて彼は、低い声でぽつりと呟いた。
「……悪くない」
それだけ言うと、彼は代金の銀貨を数枚カウンターに置くと、一度も振り返ることなく、店から出て行った。
「……なんですって? 『悪くない』ですって!? 素直に美味しいの一言も言えないのかしら、あの氷柱男は!」
後に残されたマリアンが憤慨していると、カイが呆れたように言った。
「いやいや、マリアン様。あの氷の騎士団長にしちゃ、あれはもう『今まで飲んだものの中で一番うまい』って言ってるのと同じくらいの、最高の賛辞ですよ!」
最悪で、最高に手ごわい最初のお客様。
カフェ・アルケミスタの記念すべき第一歩は、こうして静かに、しかし確かに記されたのだった。
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