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王宮の一室、執務机の上には、もはや山というよりは「壁」に近い高さの書類がそびえ立っていた。
「……終わらない。終わるはずがないんだ、こんなもの」
王太子アリスティードは、震える手で何度目かもわからない印章を振り下ろした。
隣で書類をめくる側近のケヴィンが、無慈悲に次の紙を差し出す。
「殿下、手が止まっております。あと二千四百枚です。
ちなみにこれは、レーン様が『殿下がサボらなければ一時間で終わる量』と注釈をつけていた分です」
「一時間!? バカな、私はもう五時間もこれをやっているんだぞ!」
「レーン様の計算によれば、殿下が『窓の外の鳥を眺める時間』と『お茶のおかわりを要求する無駄な動作』を省けば可能だそうです」
アリスティードは絶望に顔を歪めた。
彼女が残していったのは、単なる事務書類ではなかった。
そこには、王宮の全職員に対する「精密すぎる行動指示書」が添えられていたのだ。
「これを見てください。文官たちに宛てた書き置きです」
ケヴィンが読み上げたその内容は、あまりにも辛辣で、かつ的確だった。
『財務官のモーリス卿へ。
あなたの計算ミスは、常に三ページ目の右下で発生します。
昨年度の傾向から見て、寝不足が原因と思われますので、夜食のパイを控えて二十二時には就寝しなさい。
そうすれば、私の検算の手間が八分三十秒削減されます』
「……モーリス卿が、泣きながらパイをゴミ箱に捨てていましたよ。
『あの方は、私の胃袋まで管理されていたのか』と震えていました」
「あいつは……あいつは一体、何を見ていたんだ」
アリスティードが戦慄していると、部屋の扉が勢いよく開いた。
現れたのは、この国の国王――アリスティードの父であった。
「アリスティード! これは一体どういうことだ!」
国王の手には、さらに別の書類の束が握られていた。
「父上、申し訳ありません! レーンを……レーンを逃してしまい……」
「そんなことはどうでもいい! いや、良くはないが、今はこれだ!
私の寝室に残されていたこの『国王専用・健康管理及び公務最適化マニュアル』は何だ!」
国王が机に叩きつけた紙には、驚くべき内容が記されていた。
『陛下へ。
最近、腰痛を言い訳に午後の執務を三十分切り上げていらっしゃいますが、椅子のクッションの厚みが二センチ足りないだけです。
私が発注しておいた特注のクッションを使いなさい。
それから、隣国の王妃との外交書簡にハートマークを添えるのはおやめください。
国際問題にはなりませんが、私の翻訳作業に『羞恥心の抑制』という無駄な工程が発生します』
アリスティードは、父である国王の顔が真っ赤に染まっていくのを見た。
「あの娘は……あの娘は、私の手紙を検閲していたのか!
しかも、クッションを変えたら本当に腰痛が治ったんだぞ! 癪に障るが、効率が良すぎる!」
「父上……つまり、レーンがいなくなったことで、王宮の全員が『管理者を失った家畜』のようになっていると?」
「そうだ! 料理長は『塩加減を指示してくれる女神がいなくなった』と厨房で蹲り、
庭師は『剪定の角度を分単位で指定されないと落ち着かない』とハサミを置いた!
アリスティード、お前はとんでもない損失を招いたのだぞ!」
アリスティードは、ペンを握ったまま固まった。
自分が「冷酷で可愛げがない」と切り捨てようとした婚約者は、
この国のあらゆる「無駄」を一人で削ぎ落としていた、巨大な歯車そのものだったのだ。
「……探せ。今すぐにだ!」
国王が叫んだ。
「捕縛するためではない! 謝罪するためだ!
いや、むしろ彼女を『国家最高効率化顧問』として再雇用するためだ!
彼女がいないと、この国は一週間以内に書類の海に沈んで滅びる!」
その頃、王都から遠く離れた平穏な農村。
レーンは、偶然通りかかった商人の馬車の前で、腕を組んで立っていた。
「……いいかしら。あなたの馬車の荷台、右側の車輪に三ミリの歪みがあるわ。
このまま進めば、三キロ先の坂道で車軸が折れて、積んでいる卵の四割が割れる。
そうなれば、あなたの利益は本日の労働時間に対してマイナスになるわね」
「えっ、あ、いや、そんな急に言われても……」
「黙って見ていなさい。アン、例の工具を。
十五秒で直すわ。それが最も『合理的』な解決策よ」
レーンはドレスの裾を少しまくり上げると、慣れた手つきで車輪を調整し始めた。
「よし、完了。これで時速四キロの加速が可能よ。
さあ、お礼はいいから、さっさと行きなさい。私の立ち話に付き合う時間は、あなたの人生の損失よ」
呆然とする商人を置き去りにして、レーンは颯爽と歩き出す。
「お嬢様、もう村の人たちの間で『神速の修理令嬢』って噂になってますよ」
「アン、それは心外だわ。私はただ、目の前の非効率を放置すると蕁麻疹が出るだけよ。
さあ、次はあの傾いた水車を直しましょうか。
あれのせいで、村全体の製粉効率が十二パーセントも低下しているもの」
自由を手に入れたレーンの「効率化」という名の暴走は、
彼女の自覚がないまま、着実に周囲を支配し始めていた。
一方、王宮では、アリスティードが三千一枚目の書類を前に、ついに力尽きて机に突っ伏していた。
「レーン……頼む……戻ってきてくれ……。
君の小言なら……いくらでも聞くから……判子だけは……判子だけは押してくれ……」
王太子の切実な願いが虚しく響く中、捜索隊の第一陣が、ようやく彼女の足取りを掴むことになる。
「……終わらない。終わるはずがないんだ、こんなもの」
王太子アリスティードは、震える手で何度目かもわからない印章を振り下ろした。
隣で書類をめくる側近のケヴィンが、無慈悲に次の紙を差し出す。
「殿下、手が止まっております。あと二千四百枚です。
ちなみにこれは、レーン様が『殿下がサボらなければ一時間で終わる量』と注釈をつけていた分です」
「一時間!? バカな、私はもう五時間もこれをやっているんだぞ!」
「レーン様の計算によれば、殿下が『窓の外の鳥を眺める時間』と『お茶のおかわりを要求する無駄な動作』を省けば可能だそうです」
アリスティードは絶望に顔を歪めた。
彼女が残していったのは、単なる事務書類ではなかった。
そこには、王宮の全職員に対する「精密すぎる行動指示書」が添えられていたのだ。
「これを見てください。文官たちに宛てた書き置きです」
ケヴィンが読み上げたその内容は、あまりにも辛辣で、かつ的確だった。
『財務官のモーリス卿へ。
あなたの計算ミスは、常に三ページ目の右下で発生します。
昨年度の傾向から見て、寝不足が原因と思われますので、夜食のパイを控えて二十二時には就寝しなさい。
そうすれば、私の検算の手間が八分三十秒削減されます』
「……モーリス卿が、泣きながらパイをゴミ箱に捨てていましたよ。
『あの方は、私の胃袋まで管理されていたのか』と震えていました」
「あいつは……あいつは一体、何を見ていたんだ」
アリスティードが戦慄していると、部屋の扉が勢いよく開いた。
現れたのは、この国の国王――アリスティードの父であった。
「アリスティード! これは一体どういうことだ!」
国王の手には、さらに別の書類の束が握られていた。
「父上、申し訳ありません! レーンを……レーンを逃してしまい……」
「そんなことはどうでもいい! いや、良くはないが、今はこれだ!
私の寝室に残されていたこの『国王専用・健康管理及び公務最適化マニュアル』は何だ!」
国王が机に叩きつけた紙には、驚くべき内容が記されていた。
『陛下へ。
最近、腰痛を言い訳に午後の執務を三十分切り上げていらっしゃいますが、椅子のクッションの厚みが二センチ足りないだけです。
私が発注しておいた特注のクッションを使いなさい。
それから、隣国の王妃との外交書簡にハートマークを添えるのはおやめください。
国際問題にはなりませんが、私の翻訳作業に『羞恥心の抑制』という無駄な工程が発生します』
アリスティードは、父である国王の顔が真っ赤に染まっていくのを見た。
「あの娘は……あの娘は、私の手紙を検閲していたのか!
しかも、クッションを変えたら本当に腰痛が治ったんだぞ! 癪に障るが、効率が良すぎる!」
「父上……つまり、レーンがいなくなったことで、王宮の全員が『管理者を失った家畜』のようになっていると?」
「そうだ! 料理長は『塩加減を指示してくれる女神がいなくなった』と厨房で蹲り、
庭師は『剪定の角度を分単位で指定されないと落ち着かない』とハサミを置いた!
アリスティード、お前はとんでもない損失を招いたのだぞ!」
アリスティードは、ペンを握ったまま固まった。
自分が「冷酷で可愛げがない」と切り捨てようとした婚約者は、
この国のあらゆる「無駄」を一人で削ぎ落としていた、巨大な歯車そのものだったのだ。
「……探せ。今すぐにだ!」
国王が叫んだ。
「捕縛するためではない! 謝罪するためだ!
いや、むしろ彼女を『国家最高効率化顧問』として再雇用するためだ!
彼女がいないと、この国は一週間以内に書類の海に沈んで滅びる!」
その頃、王都から遠く離れた平穏な農村。
レーンは、偶然通りかかった商人の馬車の前で、腕を組んで立っていた。
「……いいかしら。あなたの馬車の荷台、右側の車輪に三ミリの歪みがあるわ。
このまま進めば、三キロ先の坂道で車軸が折れて、積んでいる卵の四割が割れる。
そうなれば、あなたの利益は本日の労働時間に対してマイナスになるわね」
「えっ、あ、いや、そんな急に言われても……」
「黙って見ていなさい。アン、例の工具を。
十五秒で直すわ。それが最も『合理的』な解決策よ」
レーンはドレスの裾を少しまくり上げると、慣れた手つきで車輪を調整し始めた。
「よし、完了。これで時速四キロの加速が可能よ。
さあ、お礼はいいから、さっさと行きなさい。私の立ち話に付き合う時間は、あなたの人生の損失よ」
呆然とする商人を置き去りにして、レーンは颯爽と歩き出す。
「お嬢様、もう村の人たちの間で『神速の修理令嬢』って噂になってますよ」
「アン、それは心外だわ。私はただ、目の前の非効率を放置すると蕁麻疹が出るだけよ。
さあ、次はあの傾いた水車を直しましょうか。
あれのせいで、村全体の製粉効率が十二パーセントも低下しているもの」
自由を手に入れたレーンの「効率化」という名の暴走は、
彼女の自覚がないまま、着実に周囲を支配し始めていた。
一方、王宮では、アリスティードが三千一枚目の書類を前に、ついに力尽きて机に突っ伏していた。
「レーン……頼む……戻ってきてくれ……。
君の小言なら……いくらでも聞くから……判子だけは……判子だけは押してくれ……」
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