悪役令嬢の婚約破棄は先回り。断罪の時間も惜しいですわ。

夏乃みのり

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「……シャロン。あなたのその包丁捌き、右に〇・五ミリずれているわ。食材の繊維を殺している」

ログハウスの台所。レーンの厳しい指摘が飛ぶ。

「申し訳ありません、レーン様! 
角度の修正にコンマ一秒迷いが生じましたわ!」

シャロンは額の汗を拭い、軍隊のような動きで再び野菜に向き合った。

その様子を、薪を運んできたアリスティードが遠巻きに眺めている。

「……なぁ、ケヴィン。あの子、元々は私に『殿下ぁ、レーン様がいじめるんですぅ』とか甘えていたはずだよな?」

「左様ですね。あの頃の可愛らしいお姿は、もはや塵一つ残っておりません」

側に控えるケヴィンが、無慈悲に事実を告げる。

今、そこにいるのは「レーンの効率教」に入信した狂信者、あるいはストイックなアスリートのようなシャロンだった。

「レーン様! 野菜の細断、予定時間より二秒早く完了いたしました!」

「いいわ。浮いた二秒で、隣にある鍋の灰汁を取りなさい。
……それで、シャロン。あなたに聞きたいことがあるの」

レーンは火加減を調整しながら、淡々と問いかけた。

「何なりと! 私の心拍数から一日の摂取カロリーまで、全て開示いたしますわ!」

「不要よ、そんなデータ。
……なぜ、あなたは王都であんなに執拗に私に絡んできたの?
殿下の隣に座り、私を挑発し、断罪劇まで仕組もうとした。
あなたの『真実の愛』とやらは、一体どこへ消えたのかしら」

アリスティードが耳をそばだてる。
そうだ、自分もそれが気になっていた。あんなに愛を語り合っていたではないか(主にシャロンから)。

シャロンは包丁を置き、深呼吸をした。
そして、かつてないほど真剣な、いや、恍惚とした表情で語り始めた。

「……レーン様。誤解しないでください。
私、最初から殿下のことは、これっぽっちも好きではありませんでしたの」

「……は?」

アリスティードの手から薪が滑り落ちた。

「な、何を言っているんだシャロン!? 
あんなに毎日、甘い言葉を……!」

「殿下、静かになさって。脳の処理速度が落ちますわ。
……レーン様。私は、あなたが大好きだったのです!」

「……情報の整理が必要ね。主語が私?」

レーンですら、わずかに眉を寄せた。

「はい! 私は幼い頃から、完璧に公務をこなし、無駄な贅沢もせず、
氷のような冷徹さで周囲を黙らせるあなたの姿に、心を奪われていたのです!
あぁ、なんて効率的で、なんて美しい生き方なのかしらって!」

シャロンは頬を赤らめ、身を乗り出した。

「でも、あなたは完璧すぎて、私のような下級貴族が近づく隙なんてどこにもなかった。
だから考えましたの。……どうすれば、レーン様に一番近くで注目してもらえるか!」

「……その結論が、私の婚約者を奪うこと?」

「はい! 『愛する男を奪おうとする憎き泥棒猫』としてなら、
あなたは必ず私を視界に入れ、分析し、対処してくださる!
実際、あの廊下であなたが私に向けた『ゴミを見るような冷たい視線』……!
あれを受けた瞬間、私は全身に電流が走り、一週間は食事抜きで動けるほど活力が湧きましたわ!」

「……変態だ。変態がここにいるぞ」

アリスティードが震える声で指摘するが、シャロンは止まらない。

「断罪劇を仕組んだのも、あなたが絶望し、怒り、私に罵声を浴びせてくれるのを期待していたからです。
でも、あなたは私の予想を遥かに超える『失踪』という名の神速の先回りをなさった……!
あの日、もぬけの殻になったお部屋を見て、私、腰が抜けるほど感動いたしました!
『あぁ、やはりレーン様は私の斜め上を爆速で駆け抜けていかれる!』って!」

「シャロン、あなたの行動原理には論理的な一貫性があるけれど、
その前提となる『愛の定義』が著しくバグを起こしているわね」

レーンは冷静に分析結果を下した。

「でも、もう我慢できませんでしたの。
殿下の隣で『レーン様は冷酷ですわぁ』なんて演技をするのは、
私の精神的コストを著しく浪費する作業でした。
だから、あの森であなたに再会した時、決めたのです。
これからは正々堂々と、あなたの弟子として、その背中を追いかけようと!」

「……つまり、私は単なる『近づくための踏み台』だったということか」

アリスティードが地面に膝をつく。
彼のプライドは、今や木っ端微塵だった。

「左様です、殿下。
あなたのことは『レーン様を近くで観察するための定点観測ポイント』程度にしか思っておりませんでしたわ。
あ、でも、今の泥まみれでクワを振るっている殿下は、以前の着飾っていた時より一・二倍ほどマシに見えますわよ。
レーン様の教育効率の高さが証明されましたわね!」

「……フォローになってないぞ、シャロン」

ケヴィンが憐れみの目で王子を見下ろす。

レーンはしばらくシャロンを見つめていたが、やがて短く溜息をついた。

「いいわ。動機がどうあれ、今のあなたの作業精度は、リスよりはマシになった。
これからは『恋のライバル』という無駄なロールプレイを捨て、
私の『演算補助ユニット』として、徹底的にこき使ってあげるわ」

「はい! 喜んで! 全身全霊、あなたの歯車になりますわ!」

シャロンは最高の笑顔で、再び猛スピードで野菜を刻み始めた。

「……なぁ、レーン。私はこれから、どういう顔をしてここにいればいいんだ?」

アリスティードが死んだ魚のような目で尋ねる。

「顔の筋肉を動かすエネルギーがもったいないわ、殿下。
そんなことを考えている暇があるなら、裏庭の排水溝の詰まりを直してきなさい。
私の計算では、あと三十分で雨が降るわ。
雨が降る前に終わらせなければ、あなたの今日の夕食のジャガイモは、一個減らすわよ」

「……分かったよ。やるよ! やればいいんだろ!」

王太子は泣きそうな顔をしながら、雨雲が近づく空の下へと走っていった。

ログハウスの中には、規則正しい包丁の音と、レーンの冷徹な指示だけが残った。

「お嬢様……なんだかんだ言って、賑やかになりましたね」

アンが茶を淹れながら微笑む。

「……賑やか、というより、変数が多すぎて計算が狂うわ。
でも、不思議ね。この非効率な状況が、以前よりわずかに……
一・五パーセントほど、ストレスを感じさせないのが、解せないわ」

レーンは自分自身の感情という名の「未知数」に、ほんの少しだけ戸惑いを感じていた。
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