婚約破棄、どう見ても私の理想なんですが?

夏乃みのり

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「……エーミール。本当に、ここでいいのか?」

王都の一等地にある高級レストラン『ルミエール』。

その重厚な扉の前で、レオニード様が立ち止まった。

彼は今、私が仕立てた最高級のスーツを着こなし、髪をオールバックに撫で付け、洗練された紳士の姿をしている。

すれ違う人々が、思わず振り返るほどの美丈夫だ。

ただし、本人はガチガチに緊張している。

「何を仰いますか。ここは予約が三年待ちと言われる名店ですのよ? コネと金と脅し……いえ、交渉術を駆使して、ようやく席を確保したのです」

「……お前、今『脅し』と言わなかったか?」

「空耳ですわ。さあ、入りますよ。背筋を伸ばして!」

私は彼の背中(岩のように硬い)をバンと叩いた。

ドアマンが恭しく扉を開ける。

「いらっしゃいませ、グライフェン公爵閣下、エーミール様」

店内に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

カチャカチャという食器の音が止まり、食事を楽しんでいた貴族たちの視線が一斉にこちらに集まる。

「……誰だ、あの方?」

「なんて立派な体躯……」

「隣の女性は……まさか、悪役令嬢のエーミール?」

「ということは、あれが『氷の魔公爵』……? 嘘だろう、あんなに美形だったか?」

ひそひそ話が聞こえてくる。

恐怖の囁きではない。

驚嘆と、羨望の眼差しだ。

私は心の中で勝利のポーズをとった。

(ふふん、見たか! これが私の『磨いた原石』よ!)

以前の、髪も髭も伸び放題で、熊の皮を被っていた彼とは違う。

今の彼は、王都のどの貴公子よりも輝いている。

「……見られているな」

レオニード様が、居心地悪そうに身を縮める。

「堂々としていてください。彼らはあなたの美しさに圧倒されているだけです」

「……美しさ、か。俺には『獲物を見る目』に見えるが」

「被害妄想です。さあ、席につきましょう」

私たちは窓際の、夜景が一望できる特等席に通された。

椅子に座ると、レオニード様の巨体でテーブルが少し小さく見える。

「ご注文はいかがなさいますか?」

ウェイターがメニューを差し出す。

私はメニューを開くこともなく、ニッコリと笑って告げた。

「この店にある肉料理を、片っ端から持ってきてちょうだい」

「……は?」

ウェイターがフリーズした。

「え、あ、あの……全種類、でございますか?」

「ええ。サーロイン、フィレ、ラムチョップ、鴨のロースト……あと、付け合わせの野菜は山盛りで。炭水化物は少なめにね」

「エ、エーミール? そんなに誰が食べるんだ?」

レオニード様が慌てて口を挟む。

私は彼を指差した。

「あなたです」

「……俺!?」

「明日は決戦ですのよ? エネルギーが必要です。特にタンパク質は筋肉の源。ストレスで筋肉が分解されるのを防ぐためにも、過剰摂取くらいがちょうどいいのです!」

「……しかし、こんな上品な店で、そんな野蛮な注文を……」

「野蛮? いいえ、『豪快』です」

私はウェイターに向き直った。

「一番高い赤ワインも一本。……以上でよろしくて?」

「か、かしこまりました……!」

ウェイターは逃げるように厨房へ走っていった。



やがて、テーブルの上は肉料理の博覧会場となった。

ジュージューと音を立てるステーキ、香ばしい香りのロースト、肉汁滴るハンバーグ。

周囲の客が「あそこのテーブルだけパーティーか?」と引いているが、気にしない。

「さあ、召し上がれ」

「……いただきます」

レオニード様は、ナイフとフォークを手に取った。

その大きな手には、銀の食器がまるでおままごとの道具のように小さく見える。

カチャ、カチャ。

彼は慎重に肉を切り分け、口に運ぶ。

その動作は、意外にも繊細で美しい。

「……美味い」

「でしょう? ここはソースが絶品なのです」

「だが……俺ばかり食べていては悪い。お前も食べろ」

彼は切り分けた肉の一切れを、私に差し出してくれた。

「あーん」

「……え?」

「あーん、だ」

無表情で、真顔で。

でも耳だけ真っ赤にして、彼はフォークを私の口元に突き出している。

(……破壊力ッ!!)

私は心臓を抑えながら、その肉をパクリと食べた。

「……美味しいです。最高です」

「そうか。なら、もっと食え」

彼は次々と肉を切り分け、私に食べさせようとする。

「ちょ、レオニード様! 私が太ってしまいます! あなたが食べるのです!」

「俺は十分だ。お前の頬がこけているのが気になる」

「こけてなんかいません! これはシェーディング(化粧)です!」

「……シェーディング?」

そんな痴話喧嘩(?)を繰り広げていると、不意に声をかけられた。

「おや、誰かと思えば……」

嫌な予感がして顔を上げると、そこには見覚えのある男が立っていた。

ロベルト殿下の取り巻きの一人、キザ男爵ことバロン男爵だ(名前がややこしい)。

彼はレオニード様を見て、嘲るような笑みを浮かべた。

「噂の『野獣公爵』様じゃありませんか。こんな高級店に、山猿が紛れ込んだのかと思いましたよ」

出た。

典型的な噛ませ犬。

私はナイフを置こうとしたが、その必要はなかった。

レオニード様が、ゆっくりと顔を上げたのだ。

彼は口元をナプキンで拭い、静かに言った。

「……食事中に、騒がしいハエが飛んでいるな」

「なっ……ハエだと!?」

「俺は今、妻との大事な時間を過ごしている。……消えろ」

ドォォォン……!

レオニード様から放たれた威圧感が、物理的な衝撃波となって男爵を襲った。

「ひぃっ!?」

男爵は腰を抜かし、無様に尻餅をついた。

「な、なんだこの殺気は……!? こ、殺される……!」

「……聞こえなかったか? 消えろと言ったんだ」

レオニード様が、肉を切るナイフをギラリと光らせる。

ただのテーブルナイフが、伝説の魔剣に見える瞬間だ。

「す、すみませんでしたぁぁぁ!」

男爵は這いつくばって逃走した。

店内が静まり返る。

そして次の瞬間、誰かが小さく拍手をした。

パチ、パチ、パチ。

それを皮切りに、店中から拍手が湧き起こった。

「ブラボー!」

「素晴らしい迫力だ!」

「あんな失礼な男、追い払って正解だ!」

どうやら、あの男爵は普段から嫌われていたらしい。

レオニード様は、予想外の反応に目を白黒させている。

「……え、なんで拍手?」

「あなたが『正義の鉄槌』を下したからですわ」

私はグラスを掲げた。

「ほら、言ったでしょう? 堂々としていれば、誰もあなたを馬鹿にできません。今のあなたは、誰よりも気高く、強いのですから」

「……エーミール」

彼は少し照れくさそうに、自分のグラスを合わせた。

チン、と澄んだ音が響く。

「……ありがとう。お前のおかげで、俺は少し自信が持てた気がする」

「それは良かったです。……その自信を、明日まで持続させてくださいね」

「ああ。……明日は、いよいよだな」

レオニード様の表情が引き締まる。

「ロベルト殿下と、リリィ嬢。……そして、俺たちを嘲笑ってきた全ての者たち」

「全員まとめて、ギャフンと言わせてやりましょう」

私はニヤリと笑った。

「脚本は完璧です。配役も揃いました。あとは主役である私たちが、最高のパフォーマンスを見せるだけ」

「……楽しみだな」

レオニード様が、肉厚なステーキをフォークで突き刺した。

「あいつらの驚く顔が、最高のデザートになりそうだ」

「ふふ、悪い顔になっていますわよ、旦那様」

「妻に似たのかもしれん」

私たちは顔を見合わせて笑い合った。

決戦前夜。

恐怖も不安もない。

あるのは、確固たる自信と、美味しい肉、そして隣にいる頼もしいパートナーだけ。

「さあ、完食しましょう! 明日は朝からドレスの着付けと、あなたのヘアセットで大忙しですわよ!」

「……ああ。望むところだ」

私たちは残りの肉を平らげ、悠々と店を後にした。

夜風が心地よい。

見上げれば、王宮の窓には明かりが灯っている。

あの中で、ロベルト殿下は今頃、明日の勝利を確信して高笑いしているのだろうか。

(せいぜい笑っていなさい。……明日、その笑顔がどう歪むか、特等席で見せてもらうわ)

私はレオニード様の腕に寄り添い、王宮に向かって小さくウィンクを投げた。

「おやすみなさい、王都。……そして、さようなら、私の黒歴史(もとこんやくしゃ)」

明日は、新しい伝説の幕開けだ。
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