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筋肉痛がようやく心地よい「達成感」に変わり始めた頃、アリステア様から突然の呼び出しがあった。
向かった先は、王宮の裏門。
そこには、いつもの豪華な衣装ではなく、上質な作りながらも目立たない平民風の服を着た王子が立っていた。
「殿下、その格好は……? まさか、夜逃げですか? お供しますよ、食料さえあれば」
「馬鹿を言え。今日は街の視察だ。ナジャ、君もその着ぐるみを脱いで……いや、その窮屈そうなドレスを着替えてこい」
私は急いで、侍女さんに用意してもらった動きやすい外出着に着替えた。
髪もシンプルにまとめ、顔には少しだけ変装用の眼鏡を。
「……よし。これで私も、ただの『パン好きの村人A』に見えるはずです」
「村人Aにしては少し歩き方が堂々としすぎているが……まあいい。行くぞ」
私たちは馬車を途中で降り、賑やかな市場の通りを歩き始めた。
王宮の中とは全く違う、活気あふれる喧騒と、何より素晴らしい「匂い」が立ち込めている。
「くんくん……。殿下、あちらの角から、スパイスと肉が焼ける至高の芳香が漂ってきます!」
「……視察だと言っただろう。まずはこの街の経済状況を……おい、ナジャ! どこへ行く!」
私の足は、意識するよりも先に匂いの源泉へと向かっていた。
着いたのは、炭火で豪快に串焼きを焼いている屋台の前だ。
「おじさん! その一番大きいのを二本ください!」
「あいよ、お嬢ちゃん! 景気がいいね!」
私は焼きたての串焼きを受け取ると、一本をアリステア様に差し出した。
「はい、殿下。経済状況を確認するためには、まず民衆が何を食べているかを知る必要があります。これは重要なフィールドワークですよ」
「……随分と都合の良い理論だな。だが、一理ある」
アリステア様はためらいながらも、串焼きを口にした。
そして、目を見開く。
「……ふむ。濃いめのタレと炭の香りが、肉の旨味を引き立てているな。値段の割に満足度が高い。これは……悪くない」
「でしょう!? さあ、次はあそこの揚げたてポテトです!」
私たちは街を歩き回った。
視察という名目の食べ歩き。
アリステア様は最初こそ眉をひそめていたが、途中からは自分から「あのパイの皮の層はどうなっているんだ?」と興味を示し始めた。
しばらく歩くと、通り沿いに一軒の高級そうな宝飾店が現れた。
ショーウィンドウには、目も眩むような巨大な宝石や、繊細な細工の金細工が並んでいる。
通りがかる令嬢たちが皆、憧れの眼差しで立ち止まる場所だ。
アリステア様はそこで足を止め、私の様子を伺うように言った。
「ナジャ。せっかくの外出だ。何か、宝石でも買ってやろうか? 君は王太子妃候補なのだから、一つくらい高価な装飾品を持っていても罰は当たるまい」
私は、ショーウィンドウをじっと見つめた。
キラキラと輝く、青いサファイア。
情熱的な赤いルビー。
確かに、綺麗だとは思う。
「……そうですね。確かに、一つだけ気になるものがあります」
「ほう、どれだ。あのダイヤモンドのペンダントか?」
「いいえ。あの、ショーウィンドウのガラスに反射して見える……向かい側の店の『特製ベリーソースかけパンケーキ』の看板です」
「…………」
「見てください、殿下。あのソースの照り! あんなに赤く輝いているなんて、ルビーよりもずっと価値がありますよ!」
アリステア様は、深いため息をついた。
しかし、その顔には呆れだけではなく、どこか清々しいような笑みが浮かんでいる。
「……君は本当に、期待を裏切らないな。宝石よりもパンケーキか」
「当たり前です。宝石は胃袋を満たしてくれませんが、パンケーキは私を幸せにしてくれます。美しさは主観ですが、カロリーは客観的な正義ですから!」
「カロリーが正義……。その言葉、教典にでも載せておけ。分かった、パンケーキに行こう」
私たちは宝石店を素通りし、甘い香りの漂うカフェへと足を踏み入れた。
パンケーキを待つ間、アリステア様が不意に口を開いた。
「ナジャ。君を連れ出したのは、正直に言えばテストでもあったんだ」
「テスト、ですか?」
「ああ。豪華な王宮での生活に目が眩み、欲にまみれていないかを確認したかった。だが……安心したよ。君の欲望は、実に健全で、実に『安上がり』だ」
「安上がりとは失礼ですね。私の食費、結構かかりますよ?」
「宝石一つで、パンケーキが何万枚食べられると思っているんだ?」
……確かに。
私は自分の安上がりな胃袋に、少しだけ感謝した。
「でも殿下、ありがとうございます。今日、とっても楽しいです」
「……そうか。ならば、また来よう。視察という名の、カロリー摂取にな」
運ばれてきたパンケーキにフォークを突き立てる私。
それを見て、アリステア様も小さく自分のパンケーキを切り分けた。
宝石よりも輝くシロップの海。
私たちの「初めてのデヱト」は、甘い香りに包まれて更けていった。
……しかし、この平和な時間の影で、不穏な影が私たちの『獲物』を狙っていたことに、私たちはまだ気づいていなかった。
向かった先は、王宮の裏門。
そこには、いつもの豪華な衣装ではなく、上質な作りながらも目立たない平民風の服を着た王子が立っていた。
「殿下、その格好は……? まさか、夜逃げですか? お供しますよ、食料さえあれば」
「馬鹿を言え。今日は街の視察だ。ナジャ、君もその着ぐるみを脱いで……いや、その窮屈そうなドレスを着替えてこい」
私は急いで、侍女さんに用意してもらった動きやすい外出着に着替えた。
髪もシンプルにまとめ、顔には少しだけ変装用の眼鏡を。
「……よし。これで私も、ただの『パン好きの村人A』に見えるはずです」
「村人Aにしては少し歩き方が堂々としすぎているが……まあいい。行くぞ」
私たちは馬車を途中で降り、賑やかな市場の通りを歩き始めた。
王宮の中とは全く違う、活気あふれる喧騒と、何より素晴らしい「匂い」が立ち込めている。
「くんくん……。殿下、あちらの角から、スパイスと肉が焼ける至高の芳香が漂ってきます!」
「……視察だと言っただろう。まずはこの街の経済状況を……おい、ナジャ! どこへ行く!」
私の足は、意識するよりも先に匂いの源泉へと向かっていた。
着いたのは、炭火で豪快に串焼きを焼いている屋台の前だ。
「おじさん! その一番大きいのを二本ください!」
「あいよ、お嬢ちゃん! 景気がいいね!」
私は焼きたての串焼きを受け取ると、一本をアリステア様に差し出した。
「はい、殿下。経済状況を確認するためには、まず民衆が何を食べているかを知る必要があります。これは重要なフィールドワークですよ」
「……随分と都合の良い理論だな。だが、一理ある」
アリステア様はためらいながらも、串焼きを口にした。
そして、目を見開く。
「……ふむ。濃いめのタレと炭の香りが、肉の旨味を引き立てているな。値段の割に満足度が高い。これは……悪くない」
「でしょう!? さあ、次はあそこの揚げたてポテトです!」
私たちは街を歩き回った。
視察という名目の食べ歩き。
アリステア様は最初こそ眉をひそめていたが、途中からは自分から「あのパイの皮の層はどうなっているんだ?」と興味を示し始めた。
しばらく歩くと、通り沿いに一軒の高級そうな宝飾店が現れた。
ショーウィンドウには、目も眩むような巨大な宝石や、繊細な細工の金細工が並んでいる。
通りがかる令嬢たちが皆、憧れの眼差しで立ち止まる場所だ。
アリステア様はそこで足を止め、私の様子を伺うように言った。
「ナジャ。せっかくの外出だ。何か、宝石でも買ってやろうか? 君は王太子妃候補なのだから、一つくらい高価な装飾品を持っていても罰は当たるまい」
私は、ショーウィンドウをじっと見つめた。
キラキラと輝く、青いサファイア。
情熱的な赤いルビー。
確かに、綺麗だとは思う。
「……そうですね。確かに、一つだけ気になるものがあります」
「ほう、どれだ。あのダイヤモンドのペンダントか?」
「いいえ。あの、ショーウィンドウのガラスに反射して見える……向かい側の店の『特製ベリーソースかけパンケーキ』の看板です」
「…………」
「見てください、殿下。あのソースの照り! あんなに赤く輝いているなんて、ルビーよりもずっと価値がありますよ!」
アリステア様は、深いため息をついた。
しかし、その顔には呆れだけではなく、どこか清々しいような笑みが浮かんでいる。
「……君は本当に、期待を裏切らないな。宝石よりもパンケーキか」
「当たり前です。宝石は胃袋を満たしてくれませんが、パンケーキは私を幸せにしてくれます。美しさは主観ですが、カロリーは客観的な正義ですから!」
「カロリーが正義……。その言葉、教典にでも載せておけ。分かった、パンケーキに行こう」
私たちは宝石店を素通りし、甘い香りの漂うカフェへと足を踏み入れた。
パンケーキを待つ間、アリステア様が不意に口を開いた。
「ナジャ。君を連れ出したのは、正直に言えばテストでもあったんだ」
「テスト、ですか?」
「ああ。豪華な王宮での生活に目が眩み、欲にまみれていないかを確認したかった。だが……安心したよ。君の欲望は、実に健全で、実に『安上がり』だ」
「安上がりとは失礼ですね。私の食費、結構かかりますよ?」
「宝石一つで、パンケーキが何万枚食べられると思っているんだ?」
……確かに。
私は自分の安上がりな胃袋に、少しだけ感謝した。
「でも殿下、ありがとうございます。今日、とっても楽しいです」
「……そうか。ならば、また来よう。視察という名の、カロリー摂取にな」
運ばれてきたパンケーキにフォークを突き立てる私。
それを見て、アリステア様も小さく自分のパンケーキを切り分けた。
宝石よりも輝くシロップの海。
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