どうして身代わりとして、私が新たな婚約者候補に?

夏乃みのり

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 パンケーキで胃袋を半分ほど満たした私は、上機嫌で街の路地裏を歩いていた。
 アリステア様は、少し後ろから私の足取りを呆れたように眺めている。

「ナジャ、まだ食うのか? 君の胃袋は異次元に繋がっているのか、それとも中身が空洞なのか」

「殿下、失礼ですね。これは『別腹』という聖域に収納されているのです。それに、見てください、あの行列を!」

 私が指差したのは、路地の突き当たりにある、年季の入った小さなお店だった。
 看板には、掠れた文字で『伝説の揚げパン屋』と書かれている。

「……伝説? 自分で名乗る店に、ろくなものはないと思うが」

「いいえ、殿下。あの香ばしい、油が弾けるような音を聞いてください。あれは間違いなく、本物の伝説です」

 私たちは行列の最後尾に並んだ。
 待つこと十五分。ようやく私の番が回ってきた。
 手に入れたのは、紙袋に包まれた、まだ熱々の揚げパン。
 たっぷりのきな粉がまぶされ、持つだけで指先に幸せな重みが伝わってくる。

「……これです。これこそが、私が学園の裏で食べていたあの味の、原点にして頂点……!」

 私は、宝石を扱うような手つきで袋からパンを取り出した。
 一口、いこうとしたその瞬間――。

「――おい。そこの小娘、いいもん持ってんじゃねえか」

 背後から、ひどく耳障りな、ダミ声が響いた。
 振り返ると、そこにはいかにも「私たちは悪党です」と言わんばかりの、柄の悪い男たちが三人立っていた。

 アリステア様が、スッと私の前に出ようとする。
 しかし、男たちは殿下の存在など気にも留めない様子で、私……というか、私の手元を指差した。

「へっへっへ。俺たちは腹が減ってんだよ。その美味そうなパンをこっちに寄越しな」

「……えっ?」

 私は、自分の耳を疑った。
 今、この男たちは何と言った?
 私の揚げパンを、寄越せ……?

「断ります。これは私が並んで、私のお金で買った、私の人生のパートナーです」

「あぁん!? 生意気な口叩くんじゃねえよ! ほら、さっさと……!」

 男の一人が、強引に私の手元から紙袋を奪い取ろうとした。
 その拍子に、袋の中からきな粉が舞い、揚げパンが地面に落ちそうになる。

 ――その瞬間、私の頭の中で何かが『ブチッ』と音を立てて切れた。

「……触るな」

「あ? なんか言ったか、ブス……ぎゃああああ!?」

 男が言い終わるより早く、私の手足が動いていた。
 
 ユーフェミア様との特訓で培われた、強靭な体幹と大腿四頭筋。
 そして、獲物を逃さない鋭い反射神経。

 私は奪われかけた紙袋を左手でがっしりと守りつつ、右の正拳突きを男のみぞおちに叩き込んだ。

「ふんぬぅぅぅっ!!」

「ごはぁっ!?」

 男の体が、まるでお手玉のように宙を舞い、背後の壁に激突した。
 残りの二人が、信じられないものを見るような顔で固まる。

「て、てめぇ……! ただの小娘じゃねえな!?」

「当たり前です! 私は、揚げパンのためなら国家転覆だって阻止する女ですよ!」

 私はそのまま、二人目の男の足を払い、バランスを崩したところをユーフェミア様直伝の「鉄の抱擁(ベアハッグ)」で締め上げた。

「ぎ、ギブ! ギブアップだ! 骨が、骨が鳴ってる……!」

「私の揚げパンに触れようとした罪は重いですよ! きな粉一粒の重みを知りなさい!」

 三人目の男は、私の形相に怯え、仲間を置いて一目散に逃げ出していった。
 
 私は、無事だった揚げパンを大事に抱え直し、荒い息を整えた。

「……ふぅ。危ないところでした。殿下、パンは無事です!」

 満面の笑みで振り返ると、そこには先ほどまで助けに入ろうとしていたアリステア様が、幽霊でも見たような顔で立ち尽くしていた。

「…………ナジャ」

「はい、殿下。どうかしましたか?」

「……君は、護衛が必要な王太子妃候補だったはずなのだが。今のは、どう見ても君の方が捕食者だったぞ」

「失礼な。私はただの正当防衛です。食べ物の恨みは、冥界まで続くと言いますから」

 アリステア様は、額を押さえて深いため息をついた。

「……ルルの差し金かと思ったが、これでは刺客が不憫でならん。おい、お前ら」

 殿下が合図を送ると、どこからともなく影のような護衛たちが現れ、倒れた男たちを拘束した。

「そいつらを連れて行け。……あ、それと。街のパン屋の警備を強化しておけ。ナジャのような『猛獣』に襲われる店が出ないようにな」

「誰が猛獣ですか! 私はただの、お淑やかな揚げパン愛好家です!」

 私は抗議の声を上げながら、ようやく手に入れた揚げパンにかじりついた。
 
 サクッ……じゅわっ……。
 
 戦いの後の揚げパンは、いつもの数倍、血の味が……いえ、勝利の味がした。

「……うん、やっぱり伝説だわ」

「そうか。……なら、半分寄越せ。君にばかり戦わせて、見ているだけなのも寝覚めが悪い」

「えぇー……。半分ですか? 三分の一なら……」

「半分だ。これは命令だ」

 私たちは路地の隅で、一つの揚げパンを分け合った。
 
 夕暮れの街に、甘いきな粉の香りが漂う。
 
 殿下の隣でパンを齧りながら、私は思った。
 この王子様となら、どんな刺客が来ても、美味しく撃退していけるかもしれない、と。
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