どうして身代わりとして、私が新たな婚約者候補に?

夏乃みのり

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 夕闇が迫る路地裏で、私は最後の一口になった揚げパンを惜しみながら咀嚼していた。
 きな粉の余韻に浸っていると、先ほど逃げ出した男が、今度はもっと質の悪そうな集団を引き連れて戻ってきた。

「おい、あいつだ! あの揚げパン女だ! 俺の仲間をあんなにしやがって!」

 今度は総勢十名ほど。
 しかも、手に持っているのは小汚い棍棒や短刀だ。
 どうやら、ただの「食い物の奪い合い」では済まない雰囲気になってきた。

「……殿下。おかわりが来たようです。しかも、今度はあんまり美味しそうじゃないやつらですね」

 私がパンの袋を丁寧に畳みながら言うと、アリステア様は面白そうに口角を上げた。

「ナジャ。君、さっきは『正当防衛』だと言っていたな?」

「はい。食べ物を守る行為は、生物にとって最も崇高な自衛手段ですから」

「ふむ、なるほど。ならば、私の今の心境も『自衛』で説明がつくかもしれない」

 アリステア様は、着ていた上着のボタンを一つ外すと、それを私の頭にぽいと被せた。
 視界が殿下の香水の匂いで一杯になる。

「ちょっ、殿下? 何をするんですか。前が見えません!」

「そのまま下がっていれ。君の戦いっぷりを見ていたら、どうにも血が騒いでな。……合理的ではないが、たまには『非効率的な遊び』も悪くない」

 アリステア様が一歩前へ出る。
 男たちがせせら笑いながら襲いかかろうとした、その瞬間だった。

 ――速い。

 殿下が動いたと思った瞬間、先頭の男が空中で一回転して地面に叩きつけられた。
 魔法でも剣でもない。ただの、洗練されすぎた体術だ。

「おい、何をしてる! たかが二人だ、囲め!」

 男たちの怒号が響く。
 しかし、アリステア様はまるでお茶会でステップを踏むかのような優雅さで、迫りくる武器を次々とかわしていく。

「遅いな。君たちの動きは、冷めて固まったシチューのように鈍い」

「……殿下、例えがさっきから私の影響を受けていませんか?」

「黙って見ていろ。……ほら、次は右だ」

 アリステア様は、男の腕を軽く捻ったかと思うと、そのまま別の男へと投げ飛ばした。
 ドサドサと、人間がゴミ袋のように積み重なっていく。

 私は、殿下の服の隙間からその光景を眺めていた。
 ……凄い。
 王族の方って、もっとこう、安全な場所でふんぞり返っているものだと思っていた。
 でも、目の前で戦うアリステア様は、誰よりも野性的で、そして……。

「……あ、危ない!」

 一人の男が、倒れたふりをして殿下の足元からナイフを突き出した。
 アリステア様は、避ける素振りも見せない。

 私は反射的に殿下の服を脱ぎ捨てて飛び出した。
 昨日覚えたての『空気椅子による急停止』を応用した、膝蹴りを男の手首に叩き込む。

「人の殿下に、何てことするんですか! この……この、賞味期限切れの生ゴミめ!」

「ぎゃああああっ!?」

 男の手からナイフが弾け飛ぶ。
 私はそのまま、男の胸ぐらを掴んで大きく振りかぶった。

「ナジャ、待て。そいつはもう戦意喪失している」

 アリステア様の手が、私の肩を優しく制した。
 
 見渡せば、路地には無傷で立っている男は一人もいなかった。
 皆、殿下のスマートな攻撃と、私の野生的な一撃によって悶絶している。

「……ふぅ。やれやれ、せっかくの食後の運動が、少し激しくなりすぎましたね」

「ははは! ははははは!」

 突然、アリステア様が声を上げて笑い出した。
 今まで見たこともないような、心底楽しそうな笑い声だ。

「殿下……? 頭でも打ちましたか?」

「いや、違う! 面白いな、君は! まさか、私の加勢に君がさらに加勢してくるとは思わなかった。……合理的だの計算だの言っていた自分が、馬鹿らしくなるほどだ」

 アリステア様は、笑いすぎて少し涙を浮かべながら、私の頭を乱暴に撫でた。

「君を婚約者候補にしたのは、単なる『無害な置物』が欲しかったからだ。だが……前言撤回する」

「えっ、クビですか!? これからの私の朝食はどうなるんですか!」

「違う。……君は、私を退屈させない唯一の『毒』だ。これからは、もっと近くで君の暴走を見守らせてもらう」

「……毒って、ひどくありませんか?」

「最高の褒め言葉だ」

 殿下は、私の手を取ると、そのまま自分の腕に回させた。
 
 先ほどまでの戦いの余熱で、彼の体温が伝わってくる。
 
 路地裏には、影に潜んでいた護衛たちが姿を現し、後始末を始めていた。
 アリステア様は、満足げに鼻歌を歌いながら、私を連れて馬車へと戻り始めた。

「さあ、帰ろう。王宮に戻ったら、夜食に特製のパイを焼かせよう。君の働きに見合うだけの、最高のやつをな」

「特製パイ……! 殿下、一生ついていきます!」

「現金なやつだな」

 帰り道の足取りは、いつになく軽かった。
 
 私はまだ気づいていなかった。
 殿下の視線が、単なる「面白い珍獣を見る目」から、もっと別の、熱を帯びたものに変わり始めていることに。
 
 そして、その「熱」は、狭い馬車の中でさらに加速することになるのである。
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