どうして身代わりとして、私が新たな婚約者候補に?

夏乃みのり

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 ガタゴトと、夜の静寂を切り裂いて馬車が走る。
 街での「乱闘」という名の食後運動を終えた私たちは、帰路についていた。

 馬車の中は、街の喧騒が嘘のように静かだ。
 向かい合わせではなく、なぜか隣同士に座らされたせいで、殿下の体温がダイレクトに伝わってくる。

「……あの、殿下。先ほど仰っていた特製パイですが、中身は何でしょうか。ミートパイですか? それとも、じっくり煮込んだリンゴのコンポートが入ったアップルパイですか?」

 沈黙に耐えきれず、私は一番重要な質問を投げかけた。
 アリステア様は、背もたれに深く体を預け、目を閉じたまま答える。

「……欲張りだな。両方用意させればいいだろう。君がさっきの男たちを投げ飛ばした時の気迫に見合うだけの、最高級の材料を使わせる」

「やった! 両方! 殿下、あなたはやはり神か、あるいは歩く高級食材カタログですね!」

「……例えに悪意を感じるが、まあいい。少し、疲れたな」

 アリステア様の声が、いつもより低く、少しだけ掠れていた。
 よく考えれば、いくら体術に優れているとはいえ、王族が路地裏で十人近くを相手に立ち回ったのだ。
 精神的な疲労も相当なものだろう。

「お疲れ様でした。殿下がいてくださらなければ、私の揚げパンはきな粉ごと踏みにじられていたかもしれません」

「……ふっ。パン一つのために、命をかける婚約者候補など、後にも先にも君だけだろうな」

 アリステア様は、小さく笑った。
 その直後。
 ゆらり、と彼の体がこちらに傾いた。

「えっ……? ちょっ、殿下!?」

 トン、と私の左肩に重みが乗る。
 アリステア様が、私の肩を枕にするようにして寄りかかってきたのだ。

 さらさらとした金髪が私の頬に触れる。
 殿下の、落ち着いた、でも少し早い鼓動が伝わってくるような距離感。
 
 ……近い。
 近すぎる。
 
 揚げパンを十個食べても感じたことのない、妙な動悸が胸の奥で暴れ始めた。

「……殿下、寝てますか? 寝たふりですか? これ、不敬罪で私が訴えられたりしませんか?」

 私は石像のように固まったまま、小声で呼びかけた。
 しかし、返事はない。
 聞こえてくるのは、彼の穏やかな寝息だけだ。

(どうしましょう。ユーフェミア様に『体幹を鍛えろ』と言われたけれど、まさか王子の枕になるための訓練だったなんて……!)

 私は必死に、腹筋と背筋を駆使して姿勢を維持した。
 ここで私が動けば、殿下の貴重な睡眠を妨げてしまう。
 ……というか、この顔を近くで見ていると、なんだか調子が狂う。

 街灯の明かりが時折、車内を照らす。
 まつ毛が長い。肌が信じられないくらい綺麗だ。
 いつもは皮肉ばかり言っている唇も、今は柔らかそうに見える。

「……本当、顔だけは非の打ち所がないんですよね。中身がもう少し、食べ物に寛容なら最高なのに」

 私は溜息をついた。
 同時に、彼の髪から漂う爽やかな香りが鼻をくすぐる。
 
 それは、高級な香油の匂いだったけれど。
 今の私には、なぜか「焼きたてのパン」と同じくらい、抗いがたい誘惑を持っているように感じられた。

「……うぅ。お腹が空いているせいですよね、このドキドキは。きっと、そうに違いないわ」

 自分に言い聞かせながら、私はそっと左手で、殿下が落ちないように彼の背中を支えた。
 意外とがっしりとした、男の人らしい体格。
 
 守られていると思っていたけれど。
 こうして見ると、この人も一人の人間なんだな、なんて当たり前のことを思う。

 馬車が王宮の敷地に入り、速度を落とした。
 その振動で、アリステア様が微かに身じろぎする。

「……ん。……ナジャ?」

「あ、おはようございます、殿下。もうすぐ着きますよ。私の肩のレンタル料、後でパイ三つ分で請求しますからね」

 私は精一杯の虚勢を張って、軽口を叩いた。
 アリステア様はゆっくりと顔を上げると、まだ夢見心地のような瞳で私をじっと見つめた。

「……暖かいな、君は」

「……っ。脂肪が多いって言いたいんですか!」

「……そうではない。……まあいい。パイの約束は守ろう」

 アリステア様は、照れ隠しなのか、すっと視線を逸らした。
 でも、彼の耳の先がほんのりと赤くなっているのを、私は見逃さなかった。

 馬車の扉が開く。
 私は逃げるように先に降りた。
 
 夜風が冷たいはずなのに、肩のあたりだけがずっと熱い。

「ナジャ、待て。そんなに急がなくても、パイは逃げないぞ」

「パイは逃げなくても、私の理性が逃げそうですから! 早く食べて寝ます!」

 私は振り返らずに、自分の離宮へと走り出した。
 
 恋なのか、食欲なのか。
 その答えが出るのは、もう少し先の話になりそうだった。
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