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両親が王宮の客室に落ち着き、さっそく「厨房探検ツアー」に出かけていった午後のこと。
私は離宮のトレーニングルーム(元・優雅なサロン)で、ユーフェミア様と向き合っていた。
今日のメニューは、重い鉄球を持ってのスクワットだ。
足腰がガクガクいうのを、気合と「終わったらシュークリーム」という呪文で耐え忍んでいる。
「はい、背筋を伸ばして! ナジャ様、視線が泳いでいるわよ! 何を見ているのかしら?」
「ひ、ひぃ……。な、何も見ていません……。ただ、窓の外を通り過ぎたアリステア様の横顔が、完璧な焼き加減のトーストの角に似ているな……と思っていただけです……」
ユーフェミア様は、私の答えを聞くとフッと鼻で笑い、鉄球を置くように指示した。
私は床に崩れ落ち、生まれたての小鹿のように震えながら息を整えた。
「ナジャ様。あなた、あいつ……アリステア様のこと、どう思っているの?」
唐突な質問に、私はむせてしまった。
「ごほっ、ごほっ! ど、どうって……。最高の高級食材カタログで、私の胃袋を管理してくれる、言わば『命の恩パン』のような存在ですけど?」
「……食べ物以外の語彙はないのかしら、あなたは」
ユーフェミア様は呆れたように腰に手を当てた。
彼女は汗一つかいていない清々しい顔で、私の隣に座り込んだ。
「いい、ナジャ様。私はね、あの男と何年も婚約者だったから分かるの。アリステア様は、自分以外の人間を『利用価値があるかないか』でしか見ていなかった。あの夜、あなたを指名した時だってそうよ」
「ええ、知っています。私は『無害な置物』だって仰っていましたから」
「でも、今のあの人の目は違うわ。昨日の晩餐会だってそう。あなたが毒(不味いお茶)を飲んだ時、あいつの顔、見た?」
「……いえ。私は不味さに悶絶するのに忙しくて。でも、心配はしてくれていたみたいです」
「心配どころじゃないわよ。あんなに余裕を失ったアリステア様、初めて見たわ。あの後、地下牢に連行された司祭たちのところへ、あいつ自ら出向いて『最高に合理的で冷徹な尋問』を叩き込んだらしいわよ。……主に、あなたの食事を邪魔した罪について」
私は、首を傾げた。
アリステア様が、わざわざ地下牢まで?
あの王子様は、椅子から動かずに命令を下すのが一番似合っているというのに。
「ナジャ様。認めなさい。あんた、あいつのこと好きになってるでしょ」
「…………はい?」
今、ユーフェミア様は何を仰ったのだろうか。
好き。
……好き、という言葉なら知っている。
揚げパンが好き。
ローストビーフが好き。
最近は、王宮の朝食のオムレツも大好きだ。
「恋愛感情としての『好き』よ。心臓が、ハンドミキサーを最強にした時みたいに高速回転したりしない?」
「……あ」
昨夜の馬車の中。
殿下が私の肩に頭を乗せた時の、あの妙な動悸。
あれは、空腹による低血糖ではなく、もしや……。
「……あ、あり得ません! だって、殿下は私を『餌付け』しているだけですし、私も殿下のおかげで美味しいものが食べられているだけで……」
「あら。じゃあ、アリステア様が別の令嬢……例えば、ルルみたいな女を隣に置いて、同じように『あーん』なんてしていても、何とも思わないわけ?」
ユーフェミア様の意地悪な質問に、私の脳内である光景が再生された。
アリステア様が、私以外の女に、あの「特製パイ」を分け与えている。
殿下が、私以外の女の肩で眠り、「温かいな」なんて囁いている。
……。
…………。
「――絶対に許しません!! そのパイは私のものです! その肩の権利も、私の独占契約に含まれています!!」
「ほら、やっぱり独占欲が出てるじゃない」
ユーフェミア様が、ニヤリと勝利の笑みを浮かべた。
私はハッとして、口を押さえた。
「それは、その、食べ物の恨みであって……」
「いいえ。食べ物と、それをくれる人を混同しているだけよ。でもね、ナジャ様。それでもいいの。愛なんて、結局は『この人と一緒にご飯を食べていたい』という気持ちの積み重ねなんだから」
ユーフェミア様は、私の爆発した寝癖を優しく直してくれた。
「あんたみたいな素直な子は、あいつみたいな捻くれ者には毒なのよ。あいつ、もうあんた無しじゃ、何を食べても味がしない体になってるはずよ。自覚しなさい、ナジャ・ローレル。あなたはもう、揚げパン令嬢じゃなくて、『王子の心をお腹いっぱいにさせる女』なんだから」
「…………」
私は、言葉を失った。
心臓が、またトクトクと音を立て始める。
それは、空腹の合図ではなく、もっと別の……熱を孕んだ衝動。
「……自覚、しちゃったみたいですね」
「おめでとう。初恋の味は、どうかしら?」
「……正直に言っていいですか。……なんだか、ものすごくお腹が空いてきました。甘酸っぱい、レモンタルトが食べたい気分です」
「あはは! やっぱりそうなるのね!」
ユーフェミア様の笑い声が、サロンに響く。
私は、火照る頬を両手で押さえた。
殿下の顔を思い出すだけで、胃のあたりがキュッとなる。
これが恋。
人生で一番、高カロリーで、消化に時間がかかりそうな代物だ。
「よし! 自覚したなら話は早いわ。明日の神殿の鑑定、気合を入れていきなさい! あなたのその『恋する胃袋』で、神殿の連中を黙らせるのよ!」
「……頑張ります。恋の力(と、筋肉)があれば、何でも食べられる気がしてきました!」
私は再び鉄球を手に取った。
今度は、先ほどよりもずっと軽く感じられた。
……しかし、そんな私の「乙女の覚醒」を台無しにするような、とんでもない予言が、王宮の占星術師からもたらされようとしていた。
私は離宮のトレーニングルーム(元・優雅なサロン)で、ユーフェミア様と向き合っていた。
今日のメニューは、重い鉄球を持ってのスクワットだ。
足腰がガクガクいうのを、気合と「終わったらシュークリーム」という呪文で耐え忍んでいる。
「はい、背筋を伸ばして! ナジャ様、視線が泳いでいるわよ! 何を見ているのかしら?」
「ひ、ひぃ……。な、何も見ていません……。ただ、窓の外を通り過ぎたアリステア様の横顔が、完璧な焼き加減のトーストの角に似ているな……と思っていただけです……」
ユーフェミア様は、私の答えを聞くとフッと鼻で笑い、鉄球を置くように指示した。
私は床に崩れ落ち、生まれたての小鹿のように震えながら息を整えた。
「ナジャ様。あなた、あいつ……アリステア様のこと、どう思っているの?」
唐突な質問に、私はむせてしまった。
「ごほっ、ごほっ! ど、どうって……。最高の高級食材カタログで、私の胃袋を管理してくれる、言わば『命の恩パン』のような存在ですけど?」
「……食べ物以外の語彙はないのかしら、あなたは」
ユーフェミア様は呆れたように腰に手を当てた。
彼女は汗一つかいていない清々しい顔で、私の隣に座り込んだ。
「いい、ナジャ様。私はね、あの男と何年も婚約者だったから分かるの。アリステア様は、自分以外の人間を『利用価値があるかないか』でしか見ていなかった。あの夜、あなたを指名した時だってそうよ」
「ええ、知っています。私は『無害な置物』だって仰っていましたから」
「でも、今のあの人の目は違うわ。昨日の晩餐会だってそう。あなたが毒(不味いお茶)を飲んだ時、あいつの顔、見た?」
「……いえ。私は不味さに悶絶するのに忙しくて。でも、心配はしてくれていたみたいです」
「心配どころじゃないわよ。あんなに余裕を失ったアリステア様、初めて見たわ。あの後、地下牢に連行された司祭たちのところへ、あいつ自ら出向いて『最高に合理的で冷徹な尋問』を叩き込んだらしいわよ。……主に、あなたの食事を邪魔した罪について」
私は、首を傾げた。
アリステア様が、わざわざ地下牢まで?
あの王子様は、椅子から動かずに命令を下すのが一番似合っているというのに。
「ナジャ様。認めなさい。あんた、あいつのこと好きになってるでしょ」
「…………はい?」
今、ユーフェミア様は何を仰ったのだろうか。
好き。
……好き、という言葉なら知っている。
揚げパンが好き。
ローストビーフが好き。
最近は、王宮の朝食のオムレツも大好きだ。
「恋愛感情としての『好き』よ。心臓が、ハンドミキサーを最強にした時みたいに高速回転したりしない?」
「……あ」
昨夜の馬車の中。
殿下が私の肩に頭を乗せた時の、あの妙な動悸。
あれは、空腹による低血糖ではなく、もしや……。
「……あ、あり得ません! だって、殿下は私を『餌付け』しているだけですし、私も殿下のおかげで美味しいものが食べられているだけで……」
「あら。じゃあ、アリステア様が別の令嬢……例えば、ルルみたいな女を隣に置いて、同じように『あーん』なんてしていても、何とも思わないわけ?」
ユーフェミア様の意地悪な質問に、私の脳内である光景が再生された。
アリステア様が、私以外の女に、あの「特製パイ」を分け与えている。
殿下が、私以外の女の肩で眠り、「温かいな」なんて囁いている。
……。
…………。
「――絶対に許しません!! そのパイは私のものです! その肩の権利も、私の独占契約に含まれています!!」
「ほら、やっぱり独占欲が出てるじゃない」
ユーフェミア様が、ニヤリと勝利の笑みを浮かべた。
私はハッとして、口を押さえた。
「それは、その、食べ物の恨みであって……」
「いいえ。食べ物と、それをくれる人を混同しているだけよ。でもね、ナジャ様。それでもいいの。愛なんて、結局は『この人と一緒にご飯を食べていたい』という気持ちの積み重ねなんだから」
ユーフェミア様は、私の爆発した寝癖を優しく直してくれた。
「あんたみたいな素直な子は、あいつみたいな捻くれ者には毒なのよ。あいつ、もうあんた無しじゃ、何を食べても味がしない体になってるはずよ。自覚しなさい、ナジャ・ローレル。あなたはもう、揚げパン令嬢じゃなくて、『王子の心をお腹いっぱいにさせる女』なんだから」
「…………」
私は、言葉を失った。
心臓が、またトクトクと音を立て始める。
それは、空腹の合図ではなく、もっと別の……熱を孕んだ衝動。
「……自覚、しちゃったみたいですね」
「おめでとう。初恋の味は、どうかしら?」
「……正直に言っていいですか。……なんだか、ものすごくお腹が空いてきました。甘酸っぱい、レモンタルトが食べたい気分です」
「あはは! やっぱりそうなるのね!」
ユーフェミア様の笑い声が、サロンに響く。
私は、火照る頬を両手で押さえた。
殿下の顔を思い出すだけで、胃のあたりがキュッとなる。
これが恋。
人生で一番、高カロリーで、消化に時間がかかりそうな代物だ。
「よし! 自覚したなら話は早いわ。明日の神殿の鑑定、気合を入れていきなさい! あなたのその『恋する胃袋』で、神殿の連中を黙らせるのよ!」
「……頑張ります。恋の力(と、筋肉)があれば、何でも食べられる気がしてきました!」
私は再び鉄球を手に取った。
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