どうして身代わりとして、私が新たな婚約者候補に?

夏乃みのり

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 舞踏会での「公開告白」から一夜明け、王宮内は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
 
 下級貴族の、しかも「揚げパン令嬢」と揶揄されていた私が、正式に次期王太子妃として指名されたのだから当然である。
 
 しかし、当の本人である私はと言えば、アリステア様の執務室で、一枚の羊皮紙を前に眉間に皺を寄せていた。

「……ナジャ。それは、国家予算の修正案か何かか? 随分と深刻な顔をしているが」

 アリステア様が、呆れ半分、愛おしさ半分といった様子で、机越しに私を覗き込んできた。

「深刻ですよ、殿下。これは私の今後の人生……いえ、生存戦略に関わる極めて重要な書類です」

 私は、書き上げたばかりの『ナジャ・ローレル婚約受諾に関する特別付帯条件』を、殿下の前に突きつけた。

「ほう。どれ……『一、毎日の三食に加え、午前十一時と午後三時の間食を義務付けること』。……義務、か」

「当然です。空腹は判断力を鈍らせます。王太子妃という重責を担うには、常に血糖値を一定に保つ必要があるのです」

「『二、おやつは必ず焼きたて、あるいは作りたてであること。前日の残り物は、私の許可なく出してはならない』」

「鮮度は命です。昨日のエクレアより、今日のクッキーです」

「『三、実家のローレル男爵家に対し、生涯にわたる『最高級小麦粉およびバターの無償提供』を約束すること』。……君は、実家のパン事情まで背負うつもりか」

「父様と母様が飢えていては、私は安心してフォアグラを飲み込むことができません」

 アリステア様は、リストを最後まで読み進めると、ふっと声を漏らして笑った。
 その瞳には、以前のような冷徹な計算は微塵も残っていない。

「宝石は? ドレスは? 専用の離宮や、親族への爵位授与などは書かなくていいのか?」

「そんなもの、食べられませんもの。あ、でも、宝石が埋め込まれたスプーンなら少し興味があります。食卓が華やかになりますから」

「……どこまでも徹底しているな。いいだろう、すべて認めよう。私のサイン一つで、君の胃袋の平和は守られた」

 アリステア様は流れるような所作で署名すると、印章を力強く押し当てた。
 
 これで契約成立だ。
 私は、生涯の「美味しいもの食べ放題権」を手に入れたのである。

「よし! これで心置きなく、今夜の祝宴に臨めますわ!」

「待て、ナジャ。私の条件も忘れないでもらおうか」

 アリステア様が、椅子から立ち上がり、私の隣に歩み寄ってきた。
 彼は私の手を取り、その手の甲に優しく唇を落とした。

「私の条件はただ一つ。君が何かを食べる時は、必ず私の隣にいろ。そして、その『幸せそうな顔』を、誰よりも先に私に見せることだ」

「……っ。殿下、それって、私が独り占めでお菓子を食べるのを禁止するってことですか?」

「……解釈が歪んでいる気がするが、概ねそうだ。君のその笑顔は、私の独占物だからな」

 殿下の独占欲が、甘い言葉となって私の耳をくすぐる。
 
 昨夜の告白を思い出し、顔が熱くなる。
 この人は、本気で私という「置物」を、「愛する対象」に変えてしまったのだ。

「……分かりました。殿下が私の食べこぼしを拭いてくださるというのなら、甘んじてお受けします」

「ああ。君の口の周りが砂糖だらけになろうが、ソースまみれになろうが、私が責任を持って綺麗にしてやろう」

「……殿下。今の台詞、ものすごく甘いのに、なんだか私がだらしない子供みたいに聞こえるのは気のせいでしょうか?」

「気のせいではない。……さて、婚約の条件がまとまったところで、昼食にしよう。今日は君の好物、揚げパンの『王宮特別仕様』を試作させてある」

「揚げパンの王宮仕様!? なんですの、その心躍る響きは!」

 私は殿下の腕に抱きつかんばかりの勢いで立ち上がった。

「金箔を散らし、中には最高級のバニラビーンズを使用したカスタードを詰め込んだそうだ」

「……金。金は食べられませんが、バニラは正義です! 行きましょう、殿下! 今すぐ厨房へ!」

 私たちは、王宮の長い廊下を、仲良く(というか、私が殿下を引きずるようにして)食堂へと向かった。

 しかし。
 食堂の扉を開けた瞬間、そこにいた人物を見て、私たちは同時に足を止めた。

「あら、ナジャ! アリステア様! 見てください、王宮のシェフと意気投合して、新しい『プロテイン入り揚げパン』を開発したわよ!」

「……ユーフェミア様。どうしてあなたが、王宮の厨房を占拠しているのですか」

 筋肉の神に愛された元・婚約者が、自慢げに揚がったばかりのパンを掲げていた。
 
 私の幸せな婚約生活は、どうやらまだまだ、一筋縄ではいかないドタバタが続きそうだった。
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