27 / 28
27
王宮のトレーニングルームに、今日も「フンッ!」「ハッ!」という、令嬢のたしなみとは程遠い掛け声が響き渡っていた。
私は今、自重を利用した逆立ちのポーズで静止している。
視界は逆さまだが、脳に血が上る感覚が、不思議と「次の食事への集中力」を高めてくれるような気がしていた。
「……九十八、九十九、百! はい、終了よナジャ様!」
ユーフェミア様の号令で、私は床に着地した。
額から流れる汗を侍女が差し出した上質なタオルで拭い、私は大きく息を吐く。
「……ふぅ。ユーフェミア様、最近、私の広背筋が『もっと美味しい肉を寄越せ』と囁くようになってきたのですが、これは正常な進化でしょうか?」
「ええ、完璧だわ。筋肉が食欲と共鳴し始めた証拠よ。今のあなたなら、不意に背後から刺客に襲われても、広背筋の厚みだけでナイフを跳ね返せるわ」
「それはもう、人間をやめている気がしますけど……」
私は笑いながら、差し出された特製プロテインシェイク(蜂蜜とベリー味)を飲み干した。
ふと見ると、ユーフェミア様が窓の外、遠くの山々を真っ直ぐに見つめていた。
その瞳は、いつになく真剣で、どこか遠い場所を見据えているようだった。
「……ナジャ様。私、この王都を出ることに決めたわ」
「えっ……? ユーフェミア様、領地に帰られるのですか?」
私は驚いてシェイカーを置いた。
彼女がいなくなったら、誰が私の食欲を物理的なパワーに変換してくれるというのか。
「いいえ。領地にも帰らないわ。……私、冒険者になろうと思うの」
「……はい? 冒険者、ですか? 公爵令嬢が?」
「そうよ! この数ヶ月、あなたに妃教育……もとい筋力トレーニングを教えていて気づいたの。私のこの溢れんばかりの筋肉は、貴族社会の狭いサロンに収まるような器ではないって!」
ユーフェミア様は、眩しい朝日を浴びながら、ぐっと力こぶを作った。
その筋肉は、確かに芸術的なまでのキレを見せている。
「世界には、まだ見ぬ強敵や、見たこともない重量の岩があるはずよ。私は自分の限界を、この目で、この筋肉で確かめたいの。……そして、ついでに世界中の『美味しいジビエ』を狩り尽くしてくるわ!」
「……最後の一言、私を誘っていませんか?」
「あはは! バレた? でも、あなたはアリステア様の隣という、世界で一番過酷な『戦場』に残らなきゃいけないものね」
ユーフェミア様は私の肩を、がっしりと、しかし優しく掴んだ。
「ナジャ様。あなたに出会えてよかったわ。……最初はね、ただ婚約破棄を押し付けるための身代わりだと思っていたけれど。いつの間にか、私の方があなたに救われていたみたい」
「救われた……? 私が、ユーフェミア様をですか?」
「ええ。あなたが一生懸命に食べて、一生懸命に笑って、理不尽な運命を『お腹が空いたから』という理由だけで跳ね除ける姿を見て、私も自由になっていいんだって思えたの。……感謝しているわ」
かつての「悪役令嬢」が、これほどまでに清々しい笑顔を浮かべるとは誰が想像しただろう。
そこへ、いつの間にいたのか、アリステア様が影から姿を現した。
「……ユーフェミア。勝手なことを言ってくれるな。公爵家を放り出して冒険者など、叔父上が泣くぞ」
「あら、アリステア様。お父様ならもう、私のベンチプレスの記録を見て『お前はもう、私の手に負える令嬢ではない』と、遠い目で許可をくださったわよ」
「……あの叔父上らしいな」
アリステア様は溜息をつきながらも、一本の古びた、しかし手入れの行き届いた短剣をユーフェミア様に差し出した。
「我が王家に伝わる、魔除けの短剣だ。……道中、もし筋肉で解決できない事態が起きたら、これを使え」
「筋肉で解決できないことなんて、この世にあるかしら? ……でも、ありがたく頂戴するわ。……ふふ、最高の旅の記念品ね」
ユーフェミア様は短剣を受け取ると、それを腰に帯びた。
ドレスではなく、既に彼女は動きやすい革の鎧に着替えていた。
「ナジャ様、アリステア様。……お幸せにね。……あ、ナジャ様。結婚式の引き出物には、必ずプロテイン入りの特製クッキーを詰めなさいよ。私がどこにいても、その匂いを嗅ぎつけてお祝いに駆けつけるから!」
「……分かりました。世界一、筋肉に良いクッキーを用意して待っています!」
ユーフェミア様は、一度だけ大きく手を振ると、振り返ることなくトレーニングルームを後にした。
彼女の背中は、どんな勇者よりも逞しく、そして自由だった。
「……行ってしまったな。……嵐のような女だった」
アリステア様が、ぽつりと呟く。
「……ええ。でも、素敵でしたね。……殿下、私たちも負けていられませんよ」
「ああ、そうだな。……とりあえず、彼女の居なくなった寂しさを埋めるために、少し早い昼食にしよう。……今日は、彼女が仕留めていったという猪のステーキだ」
「ユーフェミア様……! 去り際まで食材を残してくださるなんて、最高のお師匠様です!」
私は、去っていった友への敬意を込めて、その日の昼食をいつもの三割増しで平らげた。
寂しさは、美味しいもので埋める。
それが、私と彼女が共有した、最強の哲学なのだから。
私は今、自重を利用した逆立ちのポーズで静止している。
視界は逆さまだが、脳に血が上る感覚が、不思議と「次の食事への集中力」を高めてくれるような気がしていた。
「……九十八、九十九、百! はい、終了よナジャ様!」
ユーフェミア様の号令で、私は床に着地した。
額から流れる汗を侍女が差し出した上質なタオルで拭い、私は大きく息を吐く。
「……ふぅ。ユーフェミア様、最近、私の広背筋が『もっと美味しい肉を寄越せ』と囁くようになってきたのですが、これは正常な進化でしょうか?」
「ええ、完璧だわ。筋肉が食欲と共鳴し始めた証拠よ。今のあなたなら、不意に背後から刺客に襲われても、広背筋の厚みだけでナイフを跳ね返せるわ」
「それはもう、人間をやめている気がしますけど……」
私は笑いながら、差し出された特製プロテインシェイク(蜂蜜とベリー味)を飲み干した。
ふと見ると、ユーフェミア様が窓の外、遠くの山々を真っ直ぐに見つめていた。
その瞳は、いつになく真剣で、どこか遠い場所を見据えているようだった。
「……ナジャ様。私、この王都を出ることに決めたわ」
「えっ……? ユーフェミア様、領地に帰られるのですか?」
私は驚いてシェイカーを置いた。
彼女がいなくなったら、誰が私の食欲を物理的なパワーに変換してくれるというのか。
「いいえ。領地にも帰らないわ。……私、冒険者になろうと思うの」
「……はい? 冒険者、ですか? 公爵令嬢が?」
「そうよ! この数ヶ月、あなたに妃教育……もとい筋力トレーニングを教えていて気づいたの。私のこの溢れんばかりの筋肉は、貴族社会の狭いサロンに収まるような器ではないって!」
ユーフェミア様は、眩しい朝日を浴びながら、ぐっと力こぶを作った。
その筋肉は、確かに芸術的なまでのキレを見せている。
「世界には、まだ見ぬ強敵や、見たこともない重量の岩があるはずよ。私は自分の限界を、この目で、この筋肉で確かめたいの。……そして、ついでに世界中の『美味しいジビエ』を狩り尽くしてくるわ!」
「……最後の一言、私を誘っていませんか?」
「あはは! バレた? でも、あなたはアリステア様の隣という、世界で一番過酷な『戦場』に残らなきゃいけないものね」
ユーフェミア様は私の肩を、がっしりと、しかし優しく掴んだ。
「ナジャ様。あなたに出会えてよかったわ。……最初はね、ただ婚約破棄を押し付けるための身代わりだと思っていたけれど。いつの間にか、私の方があなたに救われていたみたい」
「救われた……? 私が、ユーフェミア様をですか?」
「ええ。あなたが一生懸命に食べて、一生懸命に笑って、理不尽な運命を『お腹が空いたから』という理由だけで跳ね除ける姿を見て、私も自由になっていいんだって思えたの。……感謝しているわ」
かつての「悪役令嬢」が、これほどまでに清々しい笑顔を浮かべるとは誰が想像しただろう。
そこへ、いつの間にいたのか、アリステア様が影から姿を現した。
「……ユーフェミア。勝手なことを言ってくれるな。公爵家を放り出して冒険者など、叔父上が泣くぞ」
「あら、アリステア様。お父様ならもう、私のベンチプレスの記録を見て『お前はもう、私の手に負える令嬢ではない』と、遠い目で許可をくださったわよ」
「……あの叔父上らしいな」
アリステア様は溜息をつきながらも、一本の古びた、しかし手入れの行き届いた短剣をユーフェミア様に差し出した。
「我が王家に伝わる、魔除けの短剣だ。……道中、もし筋肉で解決できない事態が起きたら、これを使え」
「筋肉で解決できないことなんて、この世にあるかしら? ……でも、ありがたく頂戴するわ。……ふふ、最高の旅の記念品ね」
ユーフェミア様は短剣を受け取ると、それを腰に帯びた。
ドレスではなく、既に彼女は動きやすい革の鎧に着替えていた。
「ナジャ様、アリステア様。……お幸せにね。……あ、ナジャ様。結婚式の引き出物には、必ずプロテイン入りの特製クッキーを詰めなさいよ。私がどこにいても、その匂いを嗅ぎつけてお祝いに駆けつけるから!」
「……分かりました。世界一、筋肉に良いクッキーを用意して待っています!」
ユーフェミア様は、一度だけ大きく手を振ると、振り返ることなくトレーニングルームを後にした。
彼女の背中は、どんな勇者よりも逞しく、そして自由だった。
「……行ってしまったな。……嵐のような女だった」
アリステア様が、ぽつりと呟く。
「……ええ。でも、素敵でしたね。……殿下、私たちも負けていられませんよ」
「ああ、そうだな。……とりあえず、彼女の居なくなった寂しさを埋めるために、少し早い昼食にしよう。……今日は、彼女が仕留めていったという猪のステーキだ」
「ユーフェミア様……! 去り際まで食材を残してくださるなんて、最高のお師匠様です!」
私は、去っていった友への敬意を込めて、その日の昼食をいつもの三割増しで平らげた。
寂しさは、美味しいもので埋める。
それが、私と彼女が共有した、最強の哲学なのだから。
あなたにおすすめの小説
ど天然で超ドジなドアマットヒロインが斜め上の行動をしまくった結果
宝月 蓮
ファンタジー
アリスはルシヨン伯爵家の長女で両親から愛されて育った。しかし両親が事故で亡くなり叔父一家がルシヨン伯爵家にやって来た。叔父デュドネ、義叔母ジスレーヌ、義妹ユゲットから使用人のように扱われるようになったアリス。しかし彼女は何かと斜め上の行動をするので、逆に叔父達の方が疲れ切ってしまうのである。そしてその結果は……?
小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。
表紙に素敵なFAいただきました!
ありがとうございます!
本の通りに悪役をこなしてみようと思います
Blue
恋愛
ある朝。目覚めるとサイドテーブルの上に見知らぬ本が置かれていた。
本の通りに自分自身を演じなければ死ぬ、ですって?
こんな怪しげな本、全く信用ならないけれど、やってやろうじゃないの。
悪役上等。
なのに、何だか様子がおかしいような?
「僕が望んだのは、あなたではありません」と婚約破棄をされたのに、どうしてそんなに大切にするのでしょう。【短編集】
長岡更紗
恋愛
異世界恋愛短編詰め合わせです。
気になったものだけでもおつまみください!
『君を買いたいと言われましたが、私は売り物ではありません』
『悪役令嬢は、友の多幸を望むのか』
『わたくしでは、お姉様の身代わりになりませんか?』
『婿に来るはずだった第五王子と婚約破棄します! その後にお見合いさせられた副騎士団長と結婚することになりましたが、溺愛されて幸せです。 』
『婚約破棄された悪役令嬢だけど、騎士団長に溺愛されるルートは可能ですか?』
他多数。
他サイトにも重複投稿しています。
悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる
竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。
評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。
身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。
悪役令嬢の慟哭
浜柔
ファンタジー
前世の記憶を取り戻した侯爵令嬢エカテリーナ・ハイデルフトは自分の住む世界が乙女ゲームそっくりの世界であり、自らはそのゲームで悪役の位置づけになっている事に気付くが、時既に遅く、死の運命には逆らえなかった。
だが、死して尚彷徨うエカテリーナの復讐はこれから始まる。
※ここまでのあらすじは序章の内容に当たります。
※乙女ゲームのバッドエンド後の話になりますので、ゲーム内容については殆ど作中に出てきません。
「悪役令嬢の追憶」及び「悪役令嬢の徘徊」を若干の手直しをして統合しています。
「追憶」「徘徊」「慟哭」はそれぞれ雰囲気が異なります。
叶えられた前世の願い
レクフル
ファンタジー
「私が貴女を愛することはない」初めて会った日にリュシアンにそう告げられたシオン。生まれる前からの婚約者であるリュシアンは、前世で支え合うようにして共に生きた人だった。しかしシオンは悪女と名高く、しかもリュシアンが憎む相手の娘として生まれ変わってしまったのだ。想う人を守る為に強くなったリュシアン。想う人を守る為に自らが代わりとなる事を望んだシオン。前世の願いは叶ったのに、思うようにいかない二人の想いはーーー
【完結】悪役令嬢はおねぇ執事の溺愛に気付かない
As-me.com
恋愛
完結しました。
自分が乙女ゲームの悪役令嬢に転生したと気付いたセリィナは悪役令嬢の悲惨なエンディングを思い出し、絶望して人間不信に陥った。
そんな中で、家族すらも信じられなくなっていたセリィナが唯一信じられるのは専属執事のライルだけだった。
ゲームには存在しないはずのライルは“おねぇ”だけど優しくて強くて……いつしかセリィナの特別な人になるのだった。
そしてセリィナは、いつしかライルに振り向いて欲しいと想いを募らせるようになるのだが……。
周りから見れば一目瞭然でも、セリィナだけが気付かないのである。
※こちらは「悪役令嬢とおねぇ執事」のリメイク版になります。基本の話はほとんど同じですが、所々変える予定です。
こちらが完結したら前の作品は消すかもしれませんのでご注意下さい。
ゆっくり亀更新です。