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王宮のトレーニングルームに、今日も「フンッ!」「ハッ!」という、令嬢のたしなみとは程遠い掛け声が響き渡っていた。
私は今、自重を利用した逆立ちのポーズで静止している。
視界は逆さまだが、脳に血が上る感覚が、不思議と「次の食事への集中力」を高めてくれるような気がしていた。
「……九十八、九十九、百! はい、終了よナジャ様!」
ユーフェミア様の号令で、私は床に着地した。
額から流れる汗を侍女が差し出した上質なタオルで拭い、私は大きく息を吐く。
「……ふぅ。ユーフェミア様、最近、私の広背筋が『もっと美味しい肉を寄越せ』と囁くようになってきたのですが、これは正常な進化でしょうか?」
「ええ、完璧だわ。筋肉が食欲と共鳴し始めた証拠よ。今のあなたなら、不意に背後から刺客に襲われても、広背筋の厚みだけでナイフを跳ね返せるわ」
「それはもう、人間をやめている気がしますけど……」
私は笑いながら、差し出された特製プロテインシェイク(蜂蜜とベリー味)を飲み干した。
ふと見ると、ユーフェミア様が窓の外、遠くの山々を真っ直ぐに見つめていた。
その瞳は、いつになく真剣で、どこか遠い場所を見据えているようだった。
「……ナジャ様。私、この王都を出ることに決めたわ」
「えっ……? ユーフェミア様、領地に帰られるのですか?」
私は驚いてシェイカーを置いた。
彼女がいなくなったら、誰が私の食欲を物理的なパワーに変換してくれるというのか。
「いいえ。領地にも帰らないわ。……私、冒険者になろうと思うの」
「……はい? 冒険者、ですか? 公爵令嬢が?」
「そうよ! この数ヶ月、あなたに妃教育……もとい筋力トレーニングを教えていて気づいたの。私のこの溢れんばかりの筋肉は、貴族社会の狭いサロンに収まるような器ではないって!」
ユーフェミア様は、眩しい朝日を浴びながら、ぐっと力こぶを作った。
その筋肉は、確かに芸術的なまでのキレを見せている。
「世界には、まだ見ぬ強敵や、見たこともない重量の岩があるはずよ。私は自分の限界を、この目で、この筋肉で確かめたいの。……そして、ついでに世界中の『美味しいジビエ』を狩り尽くしてくるわ!」
「……最後の一言、私を誘っていませんか?」
「あはは! バレた? でも、あなたはアリステア様の隣という、世界で一番過酷な『戦場』に残らなきゃいけないものね」
ユーフェミア様は私の肩を、がっしりと、しかし優しく掴んだ。
「ナジャ様。あなたに出会えてよかったわ。……最初はね、ただ婚約破棄を押し付けるための身代わりだと思っていたけれど。いつの間にか、私の方があなたに救われていたみたい」
「救われた……? 私が、ユーフェミア様をですか?」
「ええ。あなたが一生懸命に食べて、一生懸命に笑って、理不尽な運命を『お腹が空いたから』という理由だけで跳ね除ける姿を見て、私も自由になっていいんだって思えたの。……感謝しているわ」
かつての「悪役令嬢」が、これほどまでに清々しい笑顔を浮かべるとは誰が想像しただろう。
そこへ、いつの間にいたのか、アリステア様が影から姿を現した。
「……ユーフェミア。勝手なことを言ってくれるな。公爵家を放り出して冒険者など、叔父上が泣くぞ」
「あら、アリステア様。お父様ならもう、私のベンチプレスの記録を見て『お前はもう、私の手に負える令嬢ではない』と、遠い目で許可をくださったわよ」
「……あの叔父上らしいな」
アリステア様は溜息をつきながらも、一本の古びた、しかし手入れの行き届いた短剣をユーフェミア様に差し出した。
「我が王家に伝わる、魔除けの短剣だ。……道中、もし筋肉で解決できない事態が起きたら、これを使え」
「筋肉で解決できないことなんて、この世にあるかしら? ……でも、ありがたく頂戴するわ。……ふふ、最高の旅の記念品ね」
ユーフェミア様は短剣を受け取ると、それを腰に帯びた。
ドレスではなく、既に彼女は動きやすい革の鎧に着替えていた。
「ナジャ様、アリステア様。……お幸せにね。……あ、ナジャ様。結婚式の引き出物には、必ずプロテイン入りの特製クッキーを詰めなさいよ。私がどこにいても、その匂いを嗅ぎつけてお祝いに駆けつけるから!」
「……分かりました。世界一、筋肉に良いクッキーを用意して待っています!」
ユーフェミア様は、一度だけ大きく手を振ると、振り返ることなくトレーニングルームを後にした。
彼女の背中は、どんな勇者よりも逞しく、そして自由だった。
「……行ってしまったな。……嵐のような女だった」
アリステア様が、ぽつりと呟く。
「……ええ。でも、素敵でしたね。……殿下、私たちも負けていられませんよ」
「ああ、そうだな。……とりあえず、彼女の居なくなった寂しさを埋めるために、少し早い昼食にしよう。……今日は、彼女が仕留めていったという猪のステーキだ」
「ユーフェミア様……! 去り際まで食材を残してくださるなんて、最高のお師匠様です!」
私は、去っていった友への敬意を込めて、その日の昼食をいつもの三割増しで平らげた。
寂しさは、美味しいもので埋める。
それが、私と彼女が共有した、最強の哲学なのだから。
私は今、自重を利用した逆立ちのポーズで静止している。
視界は逆さまだが、脳に血が上る感覚が、不思議と「次の食事への集中力」を高めてくれるような気がしていた。
「……九十八、九十九、百! はい、終了よナジャ様!」
ユーフェミア様の号令で、私は床に着地した。
額から流れる汗を侍女が差し出した上質なタオルで拭い、私は大きく息を吐く。
「……ふぅ。ユーフェミア様、最近、私の広背筋が『もっと美味しい肉を寄越せ』と囁くようになってきたのですが、これは正常な進化でしょうか?」
「ええ、完璧だわ。筋肉が食欲と共鳴し始めた証拠よ。今のあなたなら、不意に背後から刺客に襲われても、広背筋の厚みだけでナイフを跳ね返せるわ」
「それはもう、人間をやめている気がしますけど……」
私は笑いながら、差し出された特製プロテインシェイク(蜂蜜とベリー味)を飲み干した。
ふと見ると、ユーフェミア様が窓の外、遠くの山々を真っ直ぐに見つめていた。
その瞳は、いつになく真剣で、どこか遠い場所を見据えているようだった。
「……ナジャ様。私、この王都を出ることに決めたわ」
「えっ……? ユーフェミア様、領地に帰られるのですか?」
私は驚いてシェイカーを置いた。
彼女がいなくなったら、誰が私の食欲を物理的なパワーに変換してくれるというのか。
「いいえ。領地にも帰らないわ。……私、冒険者になろうと思うの」
「……はい? 冒険者、ですか? 公爵令嬢が?」
「そうよ! この数ヶ月、あなたに妃教育……もとい筋力トレーニングを教えていて気づいたの。私のこの溢れんばかりの筋肉は、貴族社会の狭いサロンに収まるような器ではないって!」
ユーフェミア様は、眩しい朝日を浴びながら、ぐっと力こぶを作った。
その筋肉は、確かに芸術的なまでのキレを見せている。
「世界には、まだ見ぬ強敵や、見たこともない重量の岩があるはずよ。私は自分の限界を、この目で、この筋肉で確かめたいの。……そして、ついでに世界中の『美味しいジビエ』を狩り尽くしてくるわ!」
「……最後の一言、私を誘っていませんか?」
「あはは! バレた? でも、あなたはアリステア様の隣という、世界で一番過酷な『戦場』に残らなきゃいけないものね」
ユーフェミア様は私の肩を、がっしりと、しかし優しく掴んだ。
「ナジャ様。あなたに出会えてよかったわ。……最初はね、ただ婚約破棄を押し付けるための身代わりだと思っていたけれど。いつの間にか、私の方があなたに救われていたみたい」
「救われた……? 私が、ユーフェミア様をですか?」
「ええ。あなたが一生懸命に食べて、一生懸命に笑って、理不尽な運命を『お腹が空いたから』という理由だけで跳ね除ける姿を見て、私も自由になっていいんだって思えたの。……感謝しているわ」
かつての「悪役令嬢」が、これほどまでに清々しい笑顔を浮かべるとは誰が想像しただろう。
そこへ、いつの間にいたのか、アリステア様が影から姿を現した。
「……ユーフェミア。勝手なことを言ってくれるな。公爵家を放り出して冒険者など、叔父上が泣くぞ」
「あら、アリステア様。お父様ならもう、私のベンチプレスの記録を見て『お前はもう、私の手に負える令嬢ではない』と、遠い目で許可をくださったわよ」
「……あの叔父上らしいな」
アリステア様は溜息をつきながらも、一本の古びた、しかし手入れの行き届いた短剣をユーフェミア様に差し出した。
「我が王家に伝わる、魔除けの短剣だ。……道中、もし筋肉で解決できない事態が起きたら、これを使え」
「筋肉で解決できないことなんて、この世にあるかしら? ……でも、ありがたく頂戴するわ。……ふふ、最高の旅の記念品ね」
ユーフェミア様は短剣を受け取ると、それを腰に帯びた。
ドレスではなく、既に彼女は動きやすい革の鎧に着替えていた。
「ナジャ様、アリステア様。……お幸せにね。……あ、ナジャ様。結婚式の引き出物には、必ずプロテイン入りの特製クッキーを詰めなさいよ。私がどこにいても、その匂いを嗅ぎつけてお祝いに駆けつけるから!」
「……分かりました。世界一、筋肉に良いクッキーを用意して待っています!」
ユーフェミア様は、一度だけ大きく手を振ると、振り返ることなくトレーニングルームを後にした。
彼女の背中は、どんな勇者よりも逞しく、そして自由だった。
「……行ってしまったな。……嵐のような女だった」
アリステア様が、ぽつりと呟く。
「……ええ。でも、素敵でしたね。……殿下、私たちも負けていられませんよ」
「ああ、そうだな。……とりあえず、彼女の居なくなった寂しさを埋めるために、少し早い昼食にしよう。……今日は、彼女が仕留めていったという猪のステーキだ」
「ユーフェミア様……! 去り際まで食材を残してくださるなんて、最高のお師匠様です!」
私は、去っていった友への敬意を込めて、その日の昼食をいつもの三割増しで平らげた。
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