「婚約破棄だ!二度と顔を見せるな!」と言われたので。

夏乃みのり

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「休日出勤手当は、基本給の三割増し。加えて、現地での飲食代は全額経費。よろしいですね?」


王都の目抜き通り。

私は隣を歩く男に、念を押しました。


「ああ、好きにしてくれ。今日は君の機嫌を取るための日だ」


苦笑いしながら答えたのは、クラウス様です。

ただし、いつもの堅苦しい宰相服ではありません。

上質なリネンのシャツに、ラフなジャケット。

トレードマークのモノクルを外し、伊達眼鏡をかけたその姿は、どこからどう見ても『お忍び中の富豪の若旦那』といった風情です。


「それにしても、賑やかですね」


私は周囲を見渡しました。

今日は王都の市場が開かれる日。

露店が立ち並び、香辛料や焼き菓子の香りが漂っています。


「たまには外の空気を吸うのも悪くないだろう? 屋敷に缶詰では、君の素晴らしい脳細胞が腐ってしまう」


「腐りはしませんが、市場調査(マーケティング)は重要です。物価の変動を肌で感じるのも、財務担当の務めですから」


私は店先に並ぶ野菜の値段をチェックし、脳内の帳簿に書き込んでいきます。

(ふむ、キャベツが先週より一割高騰……北部の不作の影響が出始めているわね。輸入関税の調整が必要かも)


そんな色気のないデート(仮)を楽しんでいた、その時です。


「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 誰でも簡単に億万長者になれる、夢のような投資話だよ!」


広場の一角から、威勢の良い声が聞こえてきました。

人だかりができています。


「……『誰でも億万長者』? 詐欺の匂いがプンプンしますね」


「行ってみるか」


私たちは人混みをかき分けて最前列へ進みました。


そこには、派手な衣装を着た胡散臭い男が、台の上で何やら怪しげな壺を掲げていました。


「これは東方の秘境で見つかった『増殖の聖水』が入った壺だ! この水に金貨を浸しておけば、一晩で二枚に増える! 一ヶ月で三十倍! 今なら一口、金貨十枚で出資を受け付けるよ!」


「おおーっ!」


純朴な市民たちが歓声を上げています。

サクラと思われる数人が、「俺はこれで家を建てた!」などと叫んでいます。


「……古典的すぎてあくびが出ますね」


私は冷ややかな目で見つめました。

いわゆるポンジ・スキーム(ねずみ講)の亜種です。


「買います! 私、買います!」

「俺もだ!」


人々が財布を開き始めました。

その中には、生活費を切り詰めていそうな主婦や、なけなしの小遣いを握りしめた若者の姿もあります。


「待ちなさい」


私は群衆の前に進み出ました。

コツコツ、とヒールの音を響かせて、演台の男の前で立ち止まります。


「あ? なんだね嬢ちゃん。あんたも投資したいのか?」


男がニタニタと笑いかけました。


「いくつか質問があります。その『増殖の聖水』の成分は何ですか? 金貨が増えるという化学的根拠(エビデンス)と、過去の運用実績の証明書(トラックレコード)、そして貴方の商会の登記簿謄本を見せていただけますか?」


「は、はい?」


男の顔がひきつりました。

専門用語の羅列に、思考が追いついていないようです。


「金貨が物理的に分裂・増殖するためには、質量保存の法則を無視した強大な魔力が必要です。それを維持するコスト(ランニングコスト)は? 増えた金貨の真贋鑑定は? そもそも、そんなに儲かるならなぜ貴方は自分で独占せずに、他人に教えるのですか? 合理的ではありませんね」


私は畳み掛けました。

扇子で口元を隠し、冷徹な『悪役令嬢』の瞳で男を射抜きます。


「え、いや、それは……みなさんに幸せを分け与えたいという、ボランティア精神で……」


「ボランティア? 怪しい壺を金貨十枚で売ることが? それは搾取と言います」


私は観衆に向き直りました。


「皆様、冷静になりなさい。金貨十枚あれば、堅実な国債を買えば十年で金貨十二枚になります。リスクゼロです。しかし、この男の話に乗れば、明日には金貨ゼロ枚になる確率が九九・九%です。どちらを選びますか?」


「う、うーん……言われてみれば……」


「国債の方が安心か……」


空気が変わりました。

私の理路整然とした(そして金に細かい)説明に、人々が冷静さを取り戻し始めます。


「ちっ、なんだこのアマ! 営業妨害だぞ!」


男が逆上し、私に掴みかかろうとしました。

その瞬間。


ドスッ!


男の足元に、一本の短剣が突き刺さりました。

深々と、石畳をえぐるほどの威力で。


「……私の連れに、指一本でも触れてみろ」


背後から、低く、しかし絶対零度の声が響きました。

クラウス様です。

眼鏡の奥の瞳が、完全に据わっています。

その殺気に、男は「ヒッ」と悲鳴を上げて腰を抜かしました。


「衛兵! この男を連行しろ。詐欺罪と、公爵家関係者への暴行未遂だ」


クラウス様が合図すると、どこからともなく衛兵が現れ、男を引きずっていきました。

広場に拍手が湧き起こります。


「ありがとう、お嬢さん!」

「あんたのおかげで騙されずに済んだよ!」


感謝の言葉が飛び交いますが、私は片手を挙げてそれを制しました。


「感謝は不要です。私はただ、計算の合わない話が嫌いなだけですので」


そして、私はニヤリと笑いました。

ここからが本番です。

集まったカモ……いえ、潜在顧客たちを、みすみす逃す手はありません。


「皆様。浮いたお金で、本当に価値のある投資をしませんか?」


私は鞄から、小さな小瓶を取り出しました。


「これは私が開発した『美肌ローション』です。捨てられるはずだった野菜の皮から抽出した成分と、安価なスライムゼリーを配合した、原価率一割……失礼、革命的な美容液です」


「び、美容液?」


「はい。これを塗れば、肌はツルツル。旦那様もイチコロです。今ならお試し価格、銀貨一枚でご提供します。効果がなければ全額返金保証付き」


「銀貨一枚? 安い!」

「欲しい! 私、買います!」


さっきまで壺を買おうとしていた女性陣が、今度は私に殺到しました。

原価はほぼタダ同然の廃材利用。

しかし、パッケージをお洒落にして『公爵令嬢プロデュース』という付加価値をつければ、爆発的に売れます。


「はい、毎度あり! 並んでください、順番に!」


私はその場で即席の販売会を始めました。

チャリン、チャリンと小銭が増えていく音が、私にとっては何よりの癒やし音楽です。


しばらくして、完売。

私はホクホク顔で売上を計算しました。


「……利益率九十%。ボロいですね」


「たくましいな、君は」


一部始終を見ていたクラウス様が、呆れを通り越して感心したように言いました。


「詐欺師を論破した直後に、自分の商売を始めるとは。転んでもただでは起きないどころか、転んだ場所の土まで売るタイプだ」


「ビジネスチャンスはどこにでも落ちていますから。拾わないのは罪です」


「ふっ……面白い」


クラウス様は、私の手にある小銭袋を指差しました。


「そのビジネス、私が一口乗ろう」


「え?」


「君の商才に投資したい。ハミルトン家の資金力と流通網を使えば、そのローションを国中に、いや世界中に売ることができるぞ?」


「……!」


私の脳内で、桁違いの計算式が弾き出されました。

宰相のコネクションを使えば、王族御用達ブランドにすることも可能です。

そうなれば、利益は今の比ではありません。


「条件は?」


「利益の折半。そして……」


クラウス様は、私の耳元に顔を寄せました。


「次の夜会、私のパートナーとして出席すること。私がプロデュースしたドレスを着てな」


「……それが条件ですか?」


「君という『最高の商品』を、社交界に見せびらかしたいのでね。元婚約者に逃げられた可哀想な令嬢ではなく、国一番の美貌と商才を持つ『私のパートナー』として」


その言葉に、胸がトクンと跳ねました。

甘い言葉なのか、独占欲なのか。

あるいは、これも彼なりの『投資』なのか。


「……ドレス代は経費ですよね?」


「もちろん。最高級のを用意する」


「なら、交渉成立です」


私はクラウス様に手を差し出しました。

彼はその手を握り返すと、今度は手の甲に、騎士の礼のようにキスを落としました。


「契約完了だ。……さて、稼いだ金で美味しいランチでもどうだ?」


「賛成です。一番高い店に行きましょう。貴方の奢りで」


「君の財布の紐は、相変わらず固いな」


私たちは笑い合いながら、再び賑やかな通りへと歩き出しました。

私の手の中には、確かな利益と、ほんの少しの胸の高鳴り。

悪役令嬢の再出発にしては、上々の滑り出しと言えるでしょう。


一方、その頃。

私たちの背後で、みすぼらしい格好をした男が物陰からこちらを睨んでいることには、気づきませんでした。


「ちくしょう……よくも俺の商売を……」


先ほどの詐欺師……ではありません。

フードを目深に被り、薄汚れた服を着ていますが、その整った顔立ちは隠せません。


お忍び(という名の逃亡)中の、ギルバート殿下でした。


「メロメ……あんなに楽しそうに笑って……。それに、あの男はクラウスか? なぜ二人が一緒に……」


殿下のお腹が、グゥ~と鳴りました。

所持金ゼロ。

王宮からは『借金取り(ミミ嬢)』に追われて逃げ出してきたのです。


「腹減った……」


元婚約者の輝かしい成功と、現在の自分の惨めさ。

その対比に涙を流しながら、殿下はトボトボと路地裏へ消えていきました。
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