「婚約破棄だ!二度と顔を見せるな!」と言われたので。

夏乃みのり

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「痛い……指がジンジンする……」


会場の隅で、ギルバート殿下が氷嚢を右手に当てて呻いていました。

その横で、ミミ嬢は退屈そうに欠伸を噛み殺しています。


「もう、ギルバート様ったら大げさですぅ。ただの打撲じゃないですか。スクワット千回すれば治りますよ」


「治るわけないだろう! ああ、メロメ……優しかったメロメ……」


殿下は現実逃避し、虚空を見つめています。

このままでは、夜会がただの『王太子の公開治療ショー』になってしまいます。

しかし、ミミ嬢の興味はすでに、殿下の手から離れていました。

彼女の視線が、会場の警備にあたっている近衛騎士団に向けられたのです。


キラーン。


ミミ嬢の瞳が、獲物を見つけた肉食獣のように輝きました。


「……あ!」


彼女は短い声を上げると、殿下を放置してスタスタと歩き出しました。

向かった先は、壁際に直立不動で立っている、近衛騎士団長のライオネル卿。

彼は身長二メートル近い巨漢で、『王国の鉄壁』と呼ばれる強者です。


「ねえねえ、そこの騎士様!」


「む? ……これは、ミミ男爵令嬢。何か異常でも?」


ライオネル卿が重厚な鎧を鳴らして見下ろしました。

ミミ嬢は、彼の前に立つと、うっとりとした顔で見上げました。


「異常なのは、貴方のその……『大胸筋』ですっ!」


「は?」


「鎧の上からでも分かります! その張り! 厚み! まるで大陸プレートのよう!」


ミミ嬢は興奮のあまり、ライオネル卿の胸板を指先でツンツンしました。


「ちょ、令嬢!? 何を……!」


「ああ、硬い! でも弾力がある! これは『高反発マットレス』級の仕上がりですね!?」


「ま、待て! くすぐったい!」


屈強な騎士団長が、小柄な少女に胸を突かれてたじろぐという、シュールな光景が展開されました。

周囲の貴族たちがざわめき始めます。


「なんだなんだ?」

「殿下の婚約者が、騎士団長に襲いかかっているぞ?」


しかし、ミミ嬢は止まりません。

彼女の筋肉センサーは、会場中の騎士たちにロックオンしていました。


「そっちの副団長さん! 貴方の『僧帽筋』も素晴らしいです! 首がない! 山脈みたい!」


「あっちの若手騎士さん! 貴方の『ふくらはぎ』、最高! 第二の心臓が脈打ってるのが聞こえます!」


ミミ嬢は蝶のように会場を舞い、騎士たちの筋肉を次々と品評し始めました。

触診(ボディタッチ)付きで。


「ひぇっ! 触らないで!」

「お、俺の筋肉が……褒められた……?」

「殿下の婚約者に触れられるなんて……光栄だが、手つきがいやらしい!」


厳格な騎士団が、一人の少女によって崩壊していきます。

会場は完全にカオス状態。

ギルバート殿下が「ミミ! やめろ! 私の筋肉(ないけど)だけを見てくれ!」と叫んでいますが、完全に無視されています。


さて。

この混沌を、バルコニーから眺めていた私とクラウス様。


「……ひどい有様だな。止めなくていいのか?」


クラウス様が呆れ顔で言いました。


「放っておきましょう。あれは一種の災害(ハザード)です。下手に触れると巻き込まれます」


私は冷静に答えました。

そして、ニヤリと口角を上げます。


「それに、これは好機(チャンス)です」


「チャンス?」


「見てください。会場の注目がミミ嬢と騎士たちに集まっています。つまり、その他の貴族たちは『手持ち無沙汰』になっているのです」


私は手元の鞄から、とあるアイテムを取り出しました。


「商売の基本は、暇を持て余した富裕層を狙うこと」


私が取り出したのは、なんの変哲もない、少し古びた『壺』でした。


「……なんだそれは。屋敷の倉庫に転がっていたガラクタじゃないか?」


「シーッ! 『アンティーク・アート』と呼んでください」


私は壺を抱え、ミミ嬢の騒ぎから距離を置いている、年配の貴族たちのグループへ近づきました。

彼らは「嘆かわしい」「最近の若者は」と眉をひそめています。


「皆様、お楽しみのところ失礼いたします」


私は淑女の微笑みを浮かべました。


「あら、メロメ様。……あちらの騒ぎ、大変ですわね」


「ええ。ですが、あのような喧騒の中にいると、心が疲れてしまいますわよね?」


「そうなのよ。頭が痛くなってきて……」


「そこで、これです」


私は壺を掲げました。


「この壺は、東方の賢者が作った『静寂の壺』。これを部屋に置くだけで、精神が統一され、あらゆるストレスから解放されると言われています」


「ま、まあ! 本当?」


「はい。ご覧ください、この歪な形。これは『カオスを吸収する形状』なのです。あちらの騒ぎを見てもイライラしないのは、私がこの壺を持っているおかげです」


大嘘です。

これは先週、庭師が「植木鉢にするには形が悪い」と捨てようとしていた失敗作です。


しかし、人間とは不思議なもので、権威ある者(今の私)が自信満々に言えば、ガラクタも宝物に見えてくるのです。


「確かに……見ているだけで心が落ち着くような……」

「メロメ様がそこまで仰るなら……」


貴族たちは、今の騒々しい状況から逃避したい心理も相まって、私の言葉にすがりつきました。


「実はいま、特別に在庫処分……いえ、限定頒布を行っておりまして。通常なら金貨五十枚ですが、今夜の迷惑料として、半額の二十五枚でいかがでしょう?」


「安い! いただくわ!」

「わしも一つ頼む! 家内の小言を聞くのが辛くてな!」

「私にも! 最近、息子が反抗期で!」


飛ぶように売れました。

ただの土塊(つちくれ)が、金貨の山に変わっていきます。


「はい、ありがとうございます。効果には個人差がありますのでご了承くださいね~」


私は次々と契約書にサインさせ、後日配送の手続きを進めました。

チャリン、チャリン。

脳内の計算機が、心地よい音を奏でます。


一方、会場の中央では。


「さあ! 次は『ポージング』です! もっと筋肉を誇示してください!」


ミミ嬢の指導により、なぜか近衛騎士団が整列し、ボディビル大会のようなポーズをとり始めていました。


「サイドチェスト!」

「「「サイドチェストォォッ!!」」」


騎士たちの野太い声が響きます。

筋肉の圧がすごい。


「素晴らしいですわ! キレてる! デカい! 肩にちっちゃい重機乗せてんのかい!」


ミミ嬢は感動のあまり涙を流しています。

その横で、ギルバート殿下が「私の……私の立場は……」と白く燃え尽きていました。


「……メロメ」


壺を完売させた私が戻ると、クラウス様が腹を抱えて笑っていました。


「君は本当に凄いな。このカオスの中で、ガラクタを高値で売りさばくとは」


「転んでもタダでは起きません。カオスすら商品(商材)にする、それが私の流儀です」


「その壺、原価はいくらだ?」


「粘土代と焼成代で、銅貨五枚くらいですね」


「利益率、五万パーセントか。……悪徳商法スレスレだな」


「顧客満足度は高いので問題ありません。彼らは『安心』を買ったのですから」


私はパンパンに膨らんだ財布を振りました。

重いです。

この重みこそが、正義です。


「さて、そろそろ帰りましょうか。これ以上いると、ミミ嬢に『筋肉チェック』されそうです」


「そうだな。私の筋肉を見せるのは、君だけにしたい」


クラウス様がさらりと爆弾発言をしました。


「……別料金ですよ?」


「いくらでも払おう」


私たちは腕を組み、狂乱の夜会会場を後にしました。

背後からは、まだ「ナイスバルク!」というミミ嬢の声と、騎士たちの雄叫びが聞こえていました。


翌日。

王都の新聞には、『王太子婚約者、騎士団と熱い夜』という見出しとともに、ポージングする騎士たちの写真が掲載され、ギルバート殿下の評判はさらに地に落ちることになったのでした。
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