「婚約破棄だ!二度と顔を見せるな!」と言われたので。

夏乃みのり

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「くそっ……くそぉっ……!」


王宮の廊下に、雑巾が床を擦る音と、王太子の恨み節が響き渡っていました。


「なぜだ! なぜ次期国王たる私が、こんな地べたを這いつくばって掃除をせねばならんのだ!」


ギルバート殿下は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、大理石の床を磨いていました。

その姿は、かつての煌びやかな軍服姿からは想像もつかないほど薄汚れています。


「ギルバート様! 背中が丸まっていますよ! もっと広背筋を意識して!」


隣では、ミミ男爵令嬢が凄まじいスピードで雑巾掛けを往復しています。

シュババババ! という音が聞こえてきそうです。


「雑巾掛けは、全身の筋肉を連動させる最高のトレーニングですぅ! ほら、床もピカピカ! 筋肉もパンプアップ! 一石二鳥ですね!」


「二鳥なものか! 私のプライドはズタズタだ!」


殿下は雑巾を床に叩きつけました。


そこへ。


カツ、カツ、カツ。


規則正しいヒールの音が近づいてきました。

殿下が顔を上げると、そこには数人の大臣と侍女を引き連れ、書類を片手に指示を飛ばす私の姿がありました。


「そこの窓枠、埃が残っています。減点です。やり直し」


私は冷ややかに見下ろしました。


「メ、メロメ……!」


「おやおや殿下。手が止まっていますよ? 時給が発生しないボランティア労働とはいえ、やるからには完璧を求めます」


「貴様……!」


殿下は立ち上がろうとしましたが、長時間の掃除で足が痺れたのか、無様に転びかけました。

それを見た周囲の侍女たちが、プッと吹き出します。


「見た? 殿下、あんな格好で……」

「メロメ様に顎で使われてるわ」

「やっぱり、実権を握っているのはメロメ様ね」


ヒソヒソという嘲笑。

それが、殿下の琴線――いや、すでに切れかかっていた堪忍袋の緒を、完全に断ち切りました。


「うぉぉぉぉぉっ!!」


殿下は野獣のような咆哮を上げ、立ち上がりました。


「ふざけるな! どいつもこいつも、私を馬鹿にしやがって!」


殿下は充血した目で私を指差しました。


「メロメ! 全部お前のせいだ! お前が来てから、何もかもがおかしい!」


「おかしいのは、貴方の金銭感覚と現実認識能力だけですが」


「黙れ! 認めん! 私は認めんぞ!」


殿下は髪を振り乱し、叫びました。


「お前は……『魔女』だ!」


「……はい?」


私は思わず首を傾げました。

魔女?

計算機とペンしか持っていない私が?


「そうでなければ説明がつかん! 父上も、大臣たちも、そしてあのクラウスまでも! みんなお前に洗脳されている!」


殿下は周囲の貴族たちに向かって演説を始めました。


「聞け! 皆の者! この女は危険だ! 怪しげな術を使って、人の心を操っているのだ!」


シン……。


廊下が静まり返りました。


「あんな短時間で王宮の財政を立て直せるわけがない! きっと、黒魔術で数字をごまかしているに違いない!」


「……殿下。それは『複式簿記』という技術です」


「あの地味だった女が、急に美しくなったのもおかしい! あれは幻覚魔法だ!」


「……それは『化粧』と『ドレス』と『自信』です」


「そして、私をこんなに惨めな目に遭わせるのも……私への呪いに違いない!」


「……それはただの『因果応報』です」


私が淡々とツッコミを入れても、殿下は止まりません。

妄想が暴走し、独自のストーリーを構築してしまっています。


「騙されるな! こいつは国を乗っ取ろうとしている悪女だ! 今すぐ捕らえろ! 火炙りにしろ!」


殿下は唾を飛ばして叫びました。

しかし。


誰も動きません。

衛兵も、大臣も、通りすがりの貴族たちも。

彼らの目は、殿下に対して冷ややかな――いわゆる『白い目』を向けていました。


「……殿下、ご乱心か?」

「自分の無能さを棚に上げて、魔女呼ばわりとは……」

「メロメ様がいなければ、我々は今頃、冷たいスープを啜っていたのだぞ?」

「恩知らずにも程があるな」


貴族社会は実利で動きます。

殿下の『愛』や『妄想』よりも、メロメ(私)がもたらした『暖房』と『給料』の方が、彼らにとっては正義なのです。


「な、なぜだ……? なぜ誰も私の言うことを聞かない……?」


殿下は後ずさりしました。

自分が完全に孤立していることに、ようやく気づいたようです。


「ギルバート様……」


そこへ、ミミ嬢が近づきました。

殿下の顔がパッと明るくなります。


「ミミ! お前だけは味方だよな! 私の正しさを証明してくれるよな!」


「……ギルバート様。見損ないました」


「え?」


ミミ嬢は、冷たく言い放ちました。


「自分の失敗を女性のせいにするなんて……筋肉が腐っています! 男らしくないです!」


「な、なにぃ!?」


「お姉様は魔女じゃありません! 合理的で、お金が大好きで、ちょっと性格がドライなだけの、素敵なキャリアウーマンです!」


「それ、褒めているのか?」


私が口を挟むと、ミミ嬢は親指を立てました。


「私はお姉様を尊敬しています! だって、お姉様の計算速度は、私の反復横跳びより速いんですから!」


「比較対象がおかしいですが、まあいいでしょう」


ミミ嬢にまで見放され、殿下は愕然としました。


「う、嘘だ……。ミミ、お前まで……洗脳されたのか……?」


「違います! 私は『強き者』に従うだけです! 今の王宮で一番強いのは、ギルバート様じゃなくてお姉様です!」


ミミ嬢の理論は単純明快でした。

筋肉ヒエラルキーの頂点に、なぜか私が君臨してしまったようです。


「あ、あぁ……」


殿下は膝から崩れ落ちました。


「こんな……こんなはずでは……。私は王太子だぞ……この国の未来だぞ……」


ブツブツと呟くその姿は、哀れを通り越して滑稽です。


私はため息をつき、殿下の前に歩み寄りました。


「殿下。魔女狩りの真似事は、それくらいになさいませ。見苦しいです」


「う、うるさい! 近寄るな! 呪われる!」


殿下は私のスカートの裾に怯えて後ずさります。


「呪いなんてかけませんよ。時間の無駄ですから」


私は計算機を取り出し、パチパチと弾きました。


「今の騒ぎで、私の業務が十分間停止しました。損害賠償として、金貨五枚を追加請求します」


「き、貴様……まだ金を……!」


「当然です。私は魔女ではなく、コンサルタントですから」


私は冷徹に見下ろしました。


「さあ、掃除に戻ってください。夕食までに終わらなければ、貴方の食事は『雑草のスープ』に変更されますよ?」


「ひぃっ!」


殿下は慌てて雑巾を拾い上げました。

王太子のプライドなど、空腹と私の請求書の前では塵のごとき軽さです。


「ち、畜生……覚えてろ……いつか必ず、お前の化けの皮を剥いでやる……!」


捨て台詞を吐きながら、再び床を磨き始める殿下。

その背中には、かつての覇気など微塵もありませんでした。


周囲の貴族たちは、「やれやれ」と肩をすくめ、それぞれの業務へと戻っていきます。

騒動は収束しました。

私の完全勝利です。


……しかし。


私は一つだけ、計算外のことをしていました。


この廊下の曲がり角の向こうで。

一人の男が、この一部始終を聞いていたことを。


「……ほう」


低く、地を這うような声。

ハミルトン公爵、クラウス様です。

彼は壁に寄りかかり、眼鏡の奥の瞳を、凍てつくように細めていました。


「私の大切なメロメを『魔女』呼ばわりとは……。ギルバート殿下も、随分と命知らずなことを言う」


彼の手の中で、持っていた書類がクシャリと握り潰されました。


「魔女? いいや、彼女は女神だ。……それを理解できない愚か者には、相応の『教育』が必要だな」


クラウス様の周囲の空気が、ビリビリと震えています。

それは、私が見たこともないほど激しい、静かなる激怒の予兆でした。


私は気づきませんでした。

私の知らないところで、殿下に対する『最終的な断罪』の準備が、クラウス様の手によって着々と進められていたことに。


殿下の運命のカウントダウンは、もう止まらないところまで来ていたのです。
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