「婚約破棄だ!二度と顔を見せるな!」と言われたので。

夏乃みのり

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「……計算不能です」


ハミルトン公爵邸のバルコニー。

満月の光が降り注ぐ中、私は愛用の計算機を片手に、小さく呟きました。


「どうした? 故障か?」


隣でワイングラスを傾けていたクラウス様が、心配そうに覗き込んできました。


「いいえ。機械は正常です。……私の頭がおかしいのです」


私は計算機をテーブルに置きました。

カタリ、と乾いた音が夜風に溶けます。


今日は、私たちが『永久就職契約(結婚)』を結んでからちょうど一年目の記念日。

私はこの一年の収支決算報告書を作成しようとしていました。

資産の増加、事業の拡大、社会的地位の向上。

数字上の成果は完璧です。

しかし、それらをすべて合算しても、今の私の胸に溢れている『幸福感』の数値に追いつかないのです。


「……クラウス様」


「なんだ」


「私は守銭奴です。損得勘定でしか動けない、可愛げのない女です」


「知っているよ。そこが好きだと言ったはずだ」


クラウス様は穏やかに微笑み、私の髪を夜風から守るように撫でました。


「でも、最近分からなくなってきました。……貴方と一緒にいる時間は、私の計算式に当てはまらないのです」


私は胸に手を当てました。


「例えば、貴方が私のために淹れてくれる紅茶。原価は銀貨数枚ですが、それを飲むと、どんな高級ワインよりも満たされた気持ちになります」


「……」


「貴方が『おかえり』と言ってくれる瞬間。それは単なる音声情報のはずなのに、一日の疲れが一瞬で消えてしまいます。マッサージ代に換算すれば莫大な額です」


「ふふ、なるほど」


「そして今、こうして隣にいるだけで……心臓がうるさくて、思考回路がショートしそうです。これは医療費がかかる案件でしょうか?」


私が真面目な顔で尋ねると、クラウス様は堪えきれないように吹き出しました。


「ははは! メロメ、君は……本当に愛おしいな」


彼はグラスを置き、私の両手を包み込みました。


「それは『愛』だよ。プライスレスなやつだ」


「愛……」


「そうだ。君がずっと『非効率』だと切り捨ててきたものだ」


「……悔しいですが、認めざるを得ません」


私は溜め息をつきました。


「どうやら私は、とっくに『損益分岐点』を超えてしまったようです」


「損益分岐点?」


「はい。貴方への投資(愛情)が、回収(リターン)を上回り……いえ、もう回収できるかどうかなど、どうでもよくなってしまいました」


私はクラウス様を見上げました。


「貴方が破産しても、無職になっても、あるいはギルバート殿下のように筋肉ダルマになっても……私は貴方の側にいたいと思ってしまうのです。これは、経営者としては失格の判断です」


リスク管理ができていない。

将来の保証もない。

ただの感情論。


「でも……」


私は、自分でも驚くほど素直な言葉を口にしました。


「貴方と一緒にいるのが、私の人生にとって『最高の黒字』のようです」


言ってしまった。

顔から火が出そうです。

計算機があれば顔を隠したいところですが、残念ながらテーブルの上です。


クラウス様は、驚いたように目を見開き、それから。

月よりも眩しい、とろけるような笑顔を見せました。


「……参ったな」


彼が低く呟きました。


「私の方こそ、君に完敗だ。そんな風に言われては、もう君を離すことなど不可能だ」


クラウス様が私を引き寄せました。

いつもの強引さではなく、宝物を扱うような優しさで。


「メロメ。約束しよう。君のその『黒字』を、私が永遠に保証する」


「……口約束は信用しませんよ?」


「では、行動で示そう」


クラウス様の唇が、私の唇に触れました。

契約の印でも、挨拶のキスでもない。

ただ互いの存在を慈しむような、長く、深いキス。


頭の中の数字が、すべて消え去りました。

金貨の輝きも、帳簿の数字も、今のこの温もりに比べれば、ただの記号に過ぎません。


(……ああ、やっぱり計算できません)


私は目を閉じ、彼の首に腕を回しました。


この幸せの価値は、無限大(インフィニティ)。

どんなスーパーコンピュータでも弾き出せない、私たちだけの解なのですから。


***


数年後。


「あなた! 大変です!」


私はリビングに飛び込みました。

ソファでくつろいでいたクラウス様が、新聞を置いて顔を上げます。


「どうした、メロメ。また工場が爆発したか?」


「違います! ギルバート様から手紙が!」


「あの『マッスル農園主』からか? また『新種のプロテイン野菜ができたから買い取れ』という営業か?」


「それもありますが、もっと重大なニュースです!」


私は手紙を広げました。


「『この度、ミミ教官と結婚することになった。式場は畑だ。引き出物はダンベルだ』と!」


「……ぶっ!」


クラウス様がコーヒーを吹き出しました。


「畑で結婚式!? 正気か?」


「しかも、『メロメに仲人を頼みたい。祝辞は三十秒以内で頼む(筋肉が冷えるから)』と書いてあります!」


「あいつら……どこまで自由なんだ」


クラウス様は呆れ果てて笑いました。


「どうする? 断るか?」


「まさか! 行きますよ!」


私はニヤリと笑いました。


「農園ウェディング……新しいビジネスモデルの可能性があります。視察を兼ねて、お祝いに行きましょう。ご祝儀の代わりに、我が社の新作『ウェディング用プロテイン』を持って!」


「……君は、相変わらずだな」


「当然です。私はハミルトン公爵夫人にして、メロメ商会の社長ですから」


私は胸を張りました。

私の隣には、呆れつつも愛おしそうに私を見つめる、最高のパートナー。


窓の外には、どこまでも広がる青空。

私たちの人生は、これからも騒がしく、忙しく、そして計算できないほどの幸せに満ちて続いていくでしょう。


「さあ、行きますよクラウス様! 時は金なり、愛も金なりです!」


「やれやれ……。仰せのままに、私の愛しい女王様」


私の手を取るクラウス様の手は、今日も温かく、頼もしい。


これにて、一件落着。

損益分岐点を超えた私たちの愛は、今日も過去最高益を更新中です!
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