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王宮の大広間は、張り詰めた沈黙に包まれていた。
きらびやかなシャンデリアの下、数百人の貴族たちが息を呑んで見守る中、壇上には三人の男女が立っている。
一人は、この国の王太子ジェラルド。
金の髪をなびかせ、正義感に燃える瞳で前を睨みつけている。
その腕に縋り付いているのは、男爵令嬢のリリナ。
桃色のふわふわとした髪を揺らし、小動物のように怯えた仕草でジェラルドを見上げていた。
そして、二人の対面に立っているのが、私――ミリュー・アークライト侯爵令嬢だ。
扇を閉じたまま、私は内心で深く、深く溜め息をついていた。
(……長い)
私の眉間には、今にも皺が刻まれそうだった。
(この茶番が始まってから、すでに十五分が経過しています。私の時給換算で金貨三枚分の損失ですわ)
ジェラルド殿下が私の罪状とやらを読み上げている間、私の頭の中を占めていたのは、明日の朝一で提出しなければならない『王都下水道改修工事における予算配分見直し案』の最終チェックのことだけだった。
「――聞いているのか、ミリュー!」
ジェラルド殿下の怒鳴り声が、私の意識を現実に引き戻す。
「はい、承っております。それで、結論は?」
「貴様……! そのふてぶてしい態度はなんだ! リリナに対する数々の嫌がらせ、さらに公務を放棄して遊び呆けていた怠慢、もはや看過できん!」
公務を放棄?
その言葉に、私のこめかみがピクリと跳ねた。
(誰のせいで私が王太子の執務室に缶詰めになっていたと思っているのですか? 貴方が『文字が多いと頭が痛くなる』と言って放り投げた書類の山を、誰が三日三晩徹夜して片付けたと思っているのですか!)
と言いたいのを、私はぐっと飲み込んだ。
ここで反論して議論になれば、さらに時間がかかる。
それは非効率極まりない。
今の私にとっての最優先事項は、一秒でも早くこの場を去り、フカフカのベッドにダイブすることなのだから。
「申し訳ありません、殿下。私の不徳の致すところです」
私は棒読みで謝罪した。
表情筋を動かすカロリーさえ惜しい。
リリナがジェラルド殿下の腕をぎゅっと抱きしめ、上目遣いで彼に囁く。
「ジェラルド様ぁ……ミリュー様をあまり責めないであげてくださいぃ。きっと、私みたいな身分の低い女がジェラルド様の近くにいるのが、我慢ならなかっただけなんですぅ」
「ああ、リリナ。なんて優しいんだ。君のような清らかな心の持ち主こそ、次期王妃にふさわしい」
ジェラルド殿下はうっとりとリリナを見つめ、それから私に向き直ると、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「ミリュー・アークライト! 心のねじ曲がった女め! もはや貴様のような冷血な女に、国母となる資格はない!」
周囲の貴族たちがざわめき始める。
「まさか……」
「婚約破棄か?」
「アークライト侯爵家との縁を切る気か?」
好奇の視線が私に突き刺さる。
大抵の令嬢なら、ここで顔面蒼白になって泣き崩れるか、必死に無実を訴えるところだろう。
だが、私はドレスの隠しポケットの中で、手帳の端を指で弾きながらカウントダウンをしていた。
(あと三十秒……いえ、この殿下の自己陶酔ぶりからすると、あと一分は演説が続くかしら。非効率ですね。巻いてください、進行役)
「よって、私と貴様との婚約は、たった今をもって破棄とする!」
高らかな宣言が響き渡った。
広間が静まり返る。
誰もが私の反応を待っている。
絶望の悲鳴か、怒りの咆哮か。
私はゆっくりと扇を開き、口元を隠した。
そして、こみ上げてくる感情を抑えきれずに、肩を震わせる。
「う、ううっ……」
「ふん、今さら泣いても遅いぞミリュー!」
ジェラルド殿下が憐れむように私を見下ろす。
けれど。
私の震えは、悲しみによるものではなかった。
「……っと、やっと」
「あ?」
私はバッと扇を放り投げた。
そして両手を天井に向かって突き上げ、大広間の空気を震わせるほどの大声で叫んだ。
「ありがとうございますぅぅぅぅッ!!!」
「は……?」
ジェラルド殿下が口をぽかんと開ける。
リリナが目を丸くする。
会場中の貴族たちが凍り付く。
そんなのお構いなしに、私は満面の笑みを浮かべていた。
いや、笑みなんて生易しいものではない。
十年分の便秘が解消されたかのような、あるいは地獄のデスマーチを終えて長期休暇に入った瞬間のような、人生最高の笑顔だ。
「婚約破棄! なんて甘美な響き! ああ、神よ、ジェラルド殿下よ、感謝します! これで私は自由なのですね!?」
「お、おい、ミリュー? 気が触れたのか?」
「正気ですわ! むしろ今までの人生で一番頭が冴えています! ああ、やっと……やっとあの書類の山から解放される! 王妃教育という名の無意味なマナー講座からも、殿下の尻拭いからも、全部サヨナラできるんですね!」
私はドレスの裾をたくし上げ、ジェラルド殿下に詰め寄った。
「確認ですが、この婚約破棄に撤回はありませんね? 王命にも等しい殿下の宣言、二言はありませんね!?」
「あ、ああ。もちろんだ。貴様のような可愛げのない女など、こちらから願い下げだ!」
「言質、取りましたわ!」
私は懐から一枚の羊皮紙とペンを取り出し、サラサラと凄まじい速度で何かを書き記していく。
「な、何をしているんだ?」
「退職願……ではなく、婚約破棄の同意書です。ここにサインをお願いします。後で『やっぱり嘘だった』なんて言われては、私のライフプランに関わりますので」
「はあ? い、いまここでか?」
「鉄は熱いうちに打て、契約は破棄された瞬間に書面化せよ。これ、常識です」
私は呆然とするジェラルド殿下の手に無理やりペンを握らせ、サインを書かせた。
続いて、リリナにも証人としてのサインを求める。
「え、あ、はい……」
リリナも私の勢いに飲まれ、言われるがままに名前を書いた。
「よし! これにて契約終了!」
私は羊皮紙を丁寧に折りたたみ、再び懐にしまうと、晴れ晴れとした顔で二人を見上げた。
「それでは殿下、リリナ様。末永くお幸せに! どうぞ二人で仲良く、国政の荒波を乗り越えていってくださいませ! 私はこれにて失礼いたします!」
「え、ちょ、待てミリュー! 話はまだ――」
「あ、慰謝料の請求書は後日、代理人を通して実家に送らせていただきますね。過去十年分の労働対価と精神的苦痛への賠償を含みますので、かなり分厚くなると思いますが、ご査収ください」
私は優雅にカーテシーをした。
王族に対する最上級の礼。
これほど心のこもった礼をしたのは、生まれて初めてかもしれない。
「それでは皆様、ごきげんよう! 明日の天気は晴れ、私の未来も快晴です!」
私は踵を返すと、出口に向かって競歩並みの速さで歩き出した。
背後でざわめきが爆発する。
「あのアークライト令嬢が、笑っていたぞ?」
「気が狂ったのか?」
「いや、あの目は本気だった……」
そんな声など、もはや私の耳には届かない。
(帰れる! 帰って寝られる! 明日はアラームをかけずに昼まで寝てやるんです!)
私の足取りは、羽が生えたように軽かった。
大広間の重厚な扉に手をかける。
衛兵が慌てて扉を開けてくれる。
外の冷たい夜風が頬を撫でた。
自由の味だ。
私は夜空に輝く月を見上げ、もう一度小さくガッツポーズをした。
「さて、帰って荷造りをしなくては。三十分……いや、十五分で終わらせて、実家へ馬車を飛ばしましょう」
この時の私は、まだ知らなかったのだ。
この騒動の一部始終を、会場の隅でじっと見つめる、凍てつくような青い瞳があったことを。
そして、私の平穏な隠居計画が、わずか数日で崩れ去ることになるなんて、この時の私は知る由もなかったのである。
きらびやかなシャンデリアの下、数百人の貴族たちが息を呑んで見守る中、壇上には三人の男女が立っている。
一人は、この国の王太子ジェラルド。
金の髪をなびかせ、正義感に燃える瞳で前を睨みつけている。
その腕に縋り付いているのは、男爵令嬢のリリナ。
桃色のふわふわとした髪を揺らし、小動物のように怯えた仕草でジェラルドを見上げていた。
そして、二人の対面に立っているのが、私――ミリュー・アークライト侯爵令嬢だ。
扇を閉じたまま、私は内心で深く、深く溜め息をついていた。
(……長い)
私の眉間には、今にも皺が刻まれそうだった。
(この茶番が始まってから、すでに十五分が経過しています。私の時給換算で金貨三枚分の損失ですわ)
ジェラルド殿下が私の罪状とやらを読み上げている間、私の頭の中を占めていたのは、明日の朝一で提出しなければならない『王都下水道改修工事における予算配分見直し案』の最終チェックのことだけだった。
「――聞いているのか、ミリュー!」
ジェラルド殿下の怒鳴り声が、私の意識を現実に引き戻す。
「はい、承っております。それで、結論は?」
「貴様……! そのふてぶてしい態度はなんだ! リリナに対する数々の嫌がらせ、さらに公務を放棄して遊び呆けていた怠慢、もはや看過できん!」
公務を放棄?
その言葉に、私のこめかみがピクリと跳ねた。
(誰のせいで私が王太子の執務室に缶詰めになっていたと思っているのですか? 貴方が『文字が多いと頭が痛くなる』と言って放り投げた書類の山を、誰が三日三晩徹夜して片付けたと思っているのですか!)
と言いたいのを、私はぐっと飲み込んだ。
ここで反論して議論になれば、さらに時間がかかる。
それは非効率極まりない。
今の私にとっての最優先事項は、一秒でも早くこの場を去り、フカフカのベッドにダイブすることなのだから。
「申し訳ありません、殿下。私の不徳の致すところです」
私は棒読みで謝罪した。
表情筋を動かすカロリーさえ惜しい。
リリナがジェラルド殿下の腕をぎゅっと抱きしめ、上目遣いで彼に囁く。
「ジェラルド様ぁ……ミリュー様をあまり責めないであげてくださいぃ。きっと、私みたいな身分の低い女がジェラルド様の近くにいるのが、我慢ならなかっただけなんですぅ」
「ああ、リリナ。なんて優しいんだ。君のような清らかな心の持ち主こそ、次期王妃にふさわしい」
ジェラルド殿下はうっとりとリリナを見つめ、それから私に向き直ると、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「ミリュー・アークライト! 心のねじ曲がった女め! もはや貴様のような冷血な女に、国母となる資格はない!」
周囲の貴族たちがざわめき始める。
「まさか……」
「婚約破棄か?」
「アークライト侯爵家との縁を切る気か?」
好奇の視線が私に突き刺さる。
大抵の令嬢なら、ここで顔面蒼白になって泣き崩れるか、必死に無実を訴えるところだろう。
だが、私はドレスの隠しポケットの中で、手帳の端を指で弾きながらカウントダウンをしていた。
(あと三十秒……いえ、この殿下の自己陶酔ぶりからすると、あと一分は演説が続くかしら。非効率ですね。巻いてください、進行役)
「よって、私と貴様との婚約は、たった今をもって破棄とする!」
高らかな宣言が響き渡った。
広間が静まり返る。
誰もが私の反応を待っている。
絶望の悲鳴か、怒りの咆哮か。
私はゆっくりと扇を開き、口元を隠した。
そして、こみ上げてくる感情を抑えきれずに、肩を震わせる。
「う、ううっ……」
「ふん、今さら泣いても遅いぞミリュー!」
ジェラルド殿下が憐れむように私を見下ろす。
けれど。
私の震えは、悲しみによるものではなかった。
「……っと、やっと」
「あ?」
私はバッと扇を放り投げた。
そして両手を天井に向かって突き上げ、大広間の空気を震わせるほどの大声で叫んだ。
「ありがとうございますぅぅぅぅッ!!!」
「は……?」
ジェラルド殿下が口をぽかんと開ける。
リリナが目を丸くする。
会場中の貴族たちが凍り付く。
そんなのお構いなしに、私は満面の笑みを浮かべていた。
いや、笑みなんて生易しいものではない。
十年分の便秘が解消されたかのような、あるいは地獄のデスマーチを終えて長期休暇に入った瞬間のような、人生最高の笑顔だ。
「婚約破棄! なんて甘美な響き! ああ、神よ、ジェラルド殿下よ、感謝します! これで私は自由なのですね!?」
「お、おい、ミリュー? 気が触れたのか?」
「正気ですわ! むしろ今までの人生で一番頭が冴えています! ああ、やっと……やっとあの書類の山から解放される! 王妃教育という名の無意味なマナー講座からも、殿下の尻拭いからも、全部サヨナラできるんですね!」
私はドレスの裾をたくし上げ、ジェラルド殿下に詰め寄った。
「確認ですが、この婚約破棄に撤回はありませんね? 王命にも等しい殿下の宣言、二言はありませんね!?」
「あ、ああ。もちろんだ。貴様のような可愛げのない女など、こちらから願い下げだ!」
「言質、取りましたわ!」
私は懐から一枚の羊皮紙とペンを取り出し、サラサラと凄まじい速度で何かを書き記していく。
「な、何をしているんだ?」
「退職願……ではなく、婚約破棄の同意書です。ここにサインをお願いします。後で『やっぱり嘘だった』なんて言われては、私のライフプランに関わりますので」
「はあ? い、いまここでか?」
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私は呆然とするジェラルド殿下の手に無理やりペンを握らせ、サインを書かせた。
続いて、リリナにも証人としてのサインを求める。
「え、あ、はい……」
リリナも私の勢いに飲まれ、言われるがままに名前を書いた。
「よし! これにて契約終了!」
私は羊皮紙を丁寧に折りたたみ、再び懐にしまうと、晴れ晴れとした顔で二人を見上げた。
「それでは殿下、リリナ様。末永くお幸せに! どうぞ二人で仲良く、国政の荒波を乗り越えていってくださいませ! 私はこれにて失礼いたします!」
「え、ちょ、待てミリュー! 話はまだ――」
「あ、慰謝料の請求書は後日、代理人を通して実家に送らせていただきますね。過去十年分の労働対価と精神的苦痛への賠償を含みますので、かなり分厚くなると思いますが、ご査収ください」
私は優雅にカーテシーをした。
王族に対する最上級の礼。
これほど心のこもった礼をしたのは、生まれて初めてかもしれない。
「それでは皆様、ごきげんよう! 明日の天気は晴れ、私の未来も快晴です!」
私は踵を返すと、出口に向かって競歩並みの速さで歩き出した。
背後でざわめきが爆発する。
「あのアークライト令嬢が、笑っていたぞ?」
「気が狂ったのか?」
「いや、あの目は本気だった……」
そんな声など、もはや私の耳には届かない。
(帰れる! 帰って寝られる! 明日はアラームをかけずに昼まで寝てやるんです!)
私の足取りは、羽が生えたように軽かった。
大広間の重厚な扉に手をかける。
衛兵が慌てて扉を開けてくれる。
外の冷たい夜風が頬を撫でた。
自由の味だ。
私は夜空に輝く月を見上げ、もう一度小さくガッツポーズをした。
「さて、帰って荷造りをしなくては。三十分……いや、十五分で終わらせて、実家へ馬車を飛ばしましょう」
この時の私は、まだ知らなかったのだ。
この騒動の一部始終を、会場の隅でじっと見つめる、凍てつくような青い瞳があったことを。
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