悪役令嬢は婚約破棄に歓喜!

夏乃みのり

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「待てと言っているだろう! ミリュー!」


背後から投げつけられた怒声に、私は再び深い、それはもうマリアナ海溝よりも深い溜め息をついた。


(あと三歩。あと三歩でこの会場から出られたというのに)


私は扉の取っ手にかけていた手を離し、極めて緩慢な動作で振り返る。

そこには、顔を真っ赤にしたジェラルド殿下が、肩を怒らせて立っていた。


その横では、リリナが「怖いですぅ」と言いながら、ちゃっかり殿下の腕にしがみついている。

恐怖を感じている人間にしては、随分と密着度が高い。

接着剤か何かだろうか。


「……何か言い残したことでもございますか、殿下。先ほど申し上げた通り、私の時給は高いですよ? 今のこの拘束時間も、もちろん請求させていただきますが」


「貴様、その態度はなんだ! 王族である私に対して、あまりに不敬ではないか!」


「不敬、ですか。婚約破棄を突きつけられた元婚約者に、これ以上の忠誠を求めるとは。殿下はいつからそこまで強欲になられたのですか?」


私が冷ややかに言い放つと、周囲の貴族たちがヒッと息を呑んだ。


これまでの私なら、殿下の顔を立てて殊勝な態度を取っていただろう。

だが、今の私は無敵の一般人(予定)だ。

失うものなど何もない。

あるのは、これから手に入れる莫大な自由時間だけである。


「だ、だいたいな! 貴様のその笑顔が気に食わん! 婚約破棄だぞ? 王太子の妻という、女としての至上の幸福を失ったのだぞ? なぜ絶望しない! なぜ泣いて慈悲を乞わない!」


ジェラルド殿下は地団駄を踏む勢いで喚き散らす。


なるほど。

要するに、自分の振った女が不幸になっていないとプライドが傷つく、ということか。

あまりに器が小さい。

お猪口でももう少し容量があるだろう。


私は扇子で口元を隠し、呆れを通り越して憐れみを含んだ視線を向けた。


「殿下。認識に大きなズレがございます」


「なんだと?」


「私にとって、『王太子の婚約者』という地位は、幸福の座などではありませんでした。それはただの『無給の激務』であり、『二十四時間体制の介護職』であり、そして『終わりのないデスマーチ』だったのです」


「か、介護……? デスマーチ……?」


ジェラルド殿下が目を白黒させる。


私は一歩、また一歩と彼らに歩み寄った。

カツン、カツン、とヒールの音が静まり返った広間に響く。


「よい機会です。リリナ様、よろしいですか?」


「は、はいぃ? なんでしょうかぁ?」


突然話を振られたリリナが、きょとんとした顔をする。


「貴女はこれから、私の後任として殿下の婚約者になられるのですよね?」


「はい! 愛の力で、ジェラルド様を支えてみせますぅ!」


「素晴らしい覚悟です。では、貴女に引き継いでいただく『業務内容』の一部を、ここでお伝えしておきましょう」


私は懐から、先ほどの羊皮紙とは別の、分厚い手帳を取り出した。

そこには私の血と汗と涙のスケジュールがびっしりと書き込まれている。


「まず、朝は四時起きです」


「……へ?」


リリナの愛らしい顔が固まる。


「殿下は朝が弱いので、四時に起こして差し上げ、二度寝を阻止するために三十分間隔で冷たいタオルで顔を拭いて差し上げる必要があります。もちろん、その間に殿下のその日の公務内容をすべて暗記し、朝食の席でレクチャーしなければなりません」


「よ、四時……?」


「その後、八時からは登城して書類の決裁です。殿下は『文字が多いと眠くなる』という特異体質をお持ちですので、上がってきた数百枚の書類をすべて私が要約し、口頭で説明してハンコを押させる作業があります。これが大体、昼の二時までかかります」


「す、数百枚……?」


リリナの顔から血の気が引いていくのが見えた。

だが、私は止まらない。

溜まりに溜まった鬱憤を晴らす好機なのだから。


「午後は各地方からの陳情の処理と、予算編成会議への出席です。殿下は会議中、頻繁に『飽きた』と言って退席しようとされますので、それをなだめすかし、時にはアメを与えて椅子に座らせておく高度なスキルが要求されます」


「……アメ?」


「ええ、文字通りのお菓子です。ちなみに殿下のお気に入りのマカロンは、王都の北にある店でしか買えませんので、毎朝メイドを走らせる手配も忘れないでくださいね」


私はペラペラと手帳をめくりながら、淡々と事実を羅列していく。


「夜は夜会やパーティーへの出席ですが、これはただの社交ではありません。殿下が不用意な発言をして外交問題にならないよう、常に半歩後ろで待機し、殿下の口が滑りそうになった瞬間に会話に割り込んでフォローを入れる反射神経が必要です。私はこれで三回ほど、隣国との戦争を回避しました」


周囲の貴族たちが、畏敬の念を通り越して、何か恐ろしいものを見る目で私を見ている。


「そ、そんなこと……ジェラルド様がなさるはず……」


リリナが震える声で殿下を見上げる。

しかし、ジェラルド殿下はバツが悪そうに視線を逸らした。

図星なのだ。


「そして、これらが終わるのが夜の十一時頃。そこから翌日の準備と、殿下が勝手に購入された高額な美術品の返品手続きや、無計画な寄付金の穴埋め作業などを行い、就寝は大体午前二時です。平均睡眠時間は二時間ですね」


私はパタン、と手帳を閉じた。


そして、ニッコリとリリナに微笑みかける。


「どうです? 『愛の力』があれば、これくらい造作もないことですよね? 明日から頑張ってくださいね、次期王妃様?」


「ひっ……」


リリナが後ずさる。

その顔は真っ青で、小動物のような可愛らしさはどこへやら、幽霊のような形相になっていた。


「そ、そんな……私、そんなの無理ですぅ……」


「おや? おかしいですね。貴女は私のことを『仕事をサボって遊び呆けていた』と仰っていたではありませんか。私が遊んでいる間に、これだけの業務が自然に回っていたとでも?」


「う、うう……」


リリナは言葉に詰まり、助けを求めるようにジェラルド殿下を見る。

しかし、殿下も殿下で、自分の無能さを暴露されて顔を真っ赤にしていた。


「ミ、ミリュー! あることないことベラベラと……! これは私の教育係としての貴様の務めだろう!」


「ええ、務めだと思っておりました。ですから十年間、文句も言わずに遂行してまいりました。ですが!」


私は声を張り上げた。


「本日をもって、その務めは解かれました! これからはリリナ様がその栄誉ある『務め』を担うのです! おめでとうございます!」


ぱちぱちぱち、と私は一人で拍手をした。

会場の誰も拍手についてこないが、気にしない。


「さて、業務引き継ぎの説明も終わりましたし、最後に大切なお金の話をしましょう」


私は懐から、さらに別の紙束を取り出した。

これが本命。

『ジェラルド殿下およびリリナ嬢への請求書(概算)』だ。


「先ほど申し上げた通り、正式な請求書は後日送付いたしますが、何事も予習が大切です。現時点での概算をお伝えしておきますね」


私は紙束を広げ、一番下の合計金額を指差した。


「慰謝料に加え、過去十年間の超過勤務手当、休日出勤手当、深夜労働手当、特殊技能手当、および殿下の私的浪費の立て替え分……合わせて、金貨八億枚になります」


「は……?」


「はち、おく……?」


ジェラルド殿下とリリナの声が重なった。

会場が静まり返る。

金貨八億枚。

それは小国の国家予算に匹敵する金額だ。


「ふ、ふざけるな! そんな金額、払えるわけがないだろう!」


「ふざけてなどおりません。これでも、私の労働単価を市場価格の七掛けで計算した『お友達価格』ですよ? 本来なら、国家反逆罪スレスレの殿下の失態を揉み消したコンサルティング料も含めたいところですが、それは今回はサービスしておきます」


私は請求書の概算をジェラルド殿下の胸ポケットにねじ込んだ。


「支払い期限は一ヶ月以内。分割払いのご相談には応じますが、その場合は法定利息がつきますのでご注意ください。払えない場合は……そうですね、アークライト家が保有する鉱山の採掘場にて、お体で支払っていただくことになりますでしょうか」


「ぐ……っ」


ジェラルド殿下が言葉を失う。

リリナに至っては、もはや白目を剥いて倒れそうだ。


私は胸ポケットに収まった請求書をポンポンと叩き、満足げに頷いた。


「それでは殿下、リリナ様。お支払いを心よりお待ちしております。ああ、ちなみに」


私は去り際に、思い出したように付け加えた。


「明日からリリナ様が業務を担当されるということは、当然、明日の朝四時の『お目覚めタオル』からスタートということですよね? 今はもう夜の九時……明日の予習をする時間は残り少ないですよ? こんなところで呆けていてよろしいのですか?」


「ひぃぃっ!」


リリナが悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、私はそれを見送るだけだ。


今度こそ、本当に終わりだ。

私は踵を返し、扉へと向かった。


今度ばかりは誰も呼び止めなかった。

殿下は放心状態で立ち尽くし、リリナはへたり込み、貴族たちは私という劇薬に触れないよう、モーゼの海割れのように道を開けたからだ。


(勝った……! 完全勝利です!)


心の中で勝利のファンファーレが鳴り響く。

私は背筋を伸ばし、堂々と胸を張って会場を後にした。


廊下に出ると、夜風がいっそう冷たく、そして美味しく感じられた。

これで明日からは、目覚まし時計のない生活。

好きな時に起き、好きな時にお茶を飲み、好きな時に本を読む。

そんな夢のようなスローライフが待っている。


……はずだった。


馬車に乗り込み、御者に実家へ急ぐよう指示を出した直後。

窓の外を流れる景色を見ながら、私はふと、ある違和感を覚えた。


(……あれ?)


先ほどの会場。

私の暴挙とも言える振る舞いを、誰も止めなかった。

衛兵も、他の高位貴族も。


いや、一人だけ。

私の言葉の端々に、微かに反応していた人物がいたような気がする。


壁際に立っていた、長身の男。

黒い礼服に身を包み、氷のように冷徹な眼差しでこちらを見ていた男。


(あれは確か……『氷の公爵』ラシード・ヴァン・クライシス宰相閣下)


彼と目が合った瞬間、彼が何かを呟いたように見えたのは気のせいだろうか。


『……見つけた』


そう、口が動いていたような。


(まさか、ね)


私は首を振って、その思考を追い出した。


あの仕事人間で有名な宰相閣下が、私のような婚約破棄された傷モノに興味を持つはずがない。

きっと、私の計算高い振る舞いを見て、呆れていただけに違いない。


「忘れましょう。今はただ、睡眠のことだけを考えるのです」


私は馬車のシートに深く身を沈め、目を閉じた。

瞼の裏には、フカフカの羽毛布団が浮かんでいる。


しかし、運命の歯車は、私の預かり知らぬところで、音を立てて回り始めていたのである。
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