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アークライト侯爵家の屋敷に到着したのは、日付が変わる少し前のことだった。
門番が驚いた顔で開門するのを横目に、私は馬車から飛び降りるやいなや、玄関ホールへと駆け込んだ。
「ただいま戻りました! お父様、お母様! 緊急のご報告があります!」
深夜にもかかわらず、ホールには明かりがついていた。
階段の上から、ナイトガウン姿の両親が顔を出す。
父のアークライト侯爵は、眠そうな目をこすりながらも、私が深夜に帰宅したことに対して特に驚いた様子はない。
母もまた、「あらあら」と微笑んでいるだけだ。
「ミリュー? こんな時間にどうしたんだい? 王城で夜通しの会議でもあったのか?」
「いいえ、お父様。もっと素晴らしいニュースです!」
私は階段の下から、勝利宣言のように高らかに告げた。
「たった今、ジェラルド殿下より婚約破棄を言い渡されました!」
一瞬の静寂。
使用人たちが息を呑む気配がする。
父と母は顔を見合わせた。
そして――。
「「おお、でかした!」」
二人は手を取り合って喜んだ。
「やっとか! やっとあの無能……いや、手のかかる王太子から解放されたのか!」
「おめでとうミリュー! これで貴女も、普通の人間らしい生活が送れるのね!」
父が階段を駆け下りてきて、私の肩をガシッと掴む。
「正直なところ、王家との縁戚関係なんて面倒事の塊だからな。断るに断れなくて困っていたんだが、向こうから切ってくれるとは! まさに棚から牡丹餅、いや、棚から国債だ!」
「ええ、あなた。慰謝料もふんだくれるのでしょう?」
「もちろんです、お母様。請求書は明日にも発送します。向こう十年は遊んで暮らせる額ですよ」
「素晴らしいわ! さすが私達の娘、転んでもただでは起きないわね!」
アークライト家は、代々「合理主義」を家訓とする一族だ。
感情よりも損得、体面よりも実利。
私がジェラルド殿下の婚約者になったのも、当時の国王陛下に「国の財政を立て直せるのはお前たちの娘しかいない」と泣きつかれたからに過ぎない。
つまり、両親にとっても私は「王家への生贄」だったわけで、それが帰ってきたとなれば祝杯ものなのだ。
「さあ、祝い酒だ! 執事、年代物のワインを開けろ!」
「待ってください、お父様」
私は父の盛り上がりを手で制した。
「お祝いは後日にお願いします。今の私には、やらなければならない最重要ミッションがありますので」
「なんだ? まだ何か仕事が残っているのか?」
「いいえ。――『完全なる隠居環境の構築』です」
私はキリッとした顔で宣言した。
「私はこれから自室に戻り、王宮時代の私物を整理し、明日からのニート生活……いえ、スローライフに向けた準備を行います。目標タイムは三十分。一秒たりとも無駄にはできません」
「お、おお……。相変わらず仕事が早いな」
「では、失礼します!」
私はドレスの裾を翻し、自室へと続く廊下を早歩きで進んだ。
◇
自室に入ると、そこは三年前から時間が止まったかのように、家具が白い布で覆われていた。
王宮に住み込み同然だったため、実家の部屋は物置状態だったのだ。
「さて、始めましょうか」
私は腕まくりをした。
まずは、王宮から持ち帰ったトランクを開ける。
中には、ジェラルド殿下から贈られた数々の品々や、王太子妃教育で使用したテキストなどが詰め込まれている。
「分類開始」
私は部屋の床を三つのエリアに分けた。
『必要』『不要』『換金』の三つだ。
まず手に取ったのは、ジェラルド殿下から贈られた宝石箱。
中には、私の趣味とは程遠い、派手すぎるネックレスや指輪が入っている。
「デザインセンス皆無。しかし素材は本物……よし、『換金』」
迷わず右側のエリアへ投げ入れる。
次は、彼から送られた大量の手紙の束。
内容は『今日の僕は格好良かっただろう?』という自己賛美ポエムが大半だ。
「資源の無駄遣いですね。キャンプファイヤーの薪にしましょう。『不要』」
左側のエリアへポイッ。
さらに、王太子妃教育の教本、マナー講座のノート、王家の家系図。
「二度と見たくない。『不要』」
「トラウマ。『不要』」
「鍋敷きにもならない。『不要』」
私の手は止まらない。
次々とアイテムを仕分けていく速度は、熟練の郵便局員も裸足で逃げ出すレベルだ。
「あら、これは……」
手の中から出てきたのは、私が徹夜で作った『王都都市開発計画書』の控えだった。
これには愛着がある。
私の血と汗の結晶だ。
「これは『必要』……いや、待ちなさい」
私は手を止めた。
これを持っていると、いつかまた「この資料について教えてくれ」などと呼び出される可能性がある。
過去の栄光は、時として足かせになるのだ。
「未練は断ち切るべきです。過去のデータは脳内にありますし」
私は計画書をビリビリと破り捨て、『不要』の山へと放り込んだ。
爽快感が胸を突き抜ける。
開始から二十五分。
トランクの中身は空になり、部屋の片隅には『換金』用の宝石の山と、『不要』なゴミの山ができあがった。
手元に残った『必要』なものは、着替え数枚と、愛用の万年筆、そして安眠用のアイマスクだけだ。
「完璧です」
私は時計を確認して頷いた。
予定より五分早い。
「メイド長! メイド長はいますか!」
私が廊下に向かって声をかけると、すぐに初老のメイド長が現れた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。お呼びでしょうか」
「この『不要』の山は明日の朝一番で焼却炉へ。『換金』の山は商人を呼んで現金化してください。その金で、最高級の羽毛布団と、遮光カーテン、あと肌触りの良いパジャマを十着ほど発注を」
「承知いたしました。……して、そちらのゴミの山の中に、王太子殿下からの贈り物とおぼしき肖像画も混ざっておりますが……」
「ああ、それは魔除けにもならないので、一番強い火力で燃やしてください。灰も残さないように」
「かしこまりました」
メイド長は一礼し、手際よく指示を実行に移していく。
さすが我が家の使用人、無駄な質問はしない。
部屋が片付くと、私は机に向かい、新しい羊皮紙を広げた。
これからの私の人生の指針となる、重要な書類を作成するためだ。
題して『理想的スローライフ実行計画書』。
ペン先にインクをつけ、私は楽しげに書き始めた。
【07:00】 起床……しません。二度寝します。
【09:00】 三度寝。
【11:00】 起床。ベッドの上でブランチ。
【12:00】 庭の木陰で読書(という名の昼寝)。
【15:00】 ティータイム。お茶請けはクッキー缶を抱えて直食い。
【18:00】 夕食。面倒なのでパジャマのまま摂る。
【20:00】 入浴。
【21:00】 就寝。
「……美しい」
書き上がったスケジュールを見て、私はうっとりと溜め息をついた。
空白が多い。
圧倒的に白い。
今までの私のスケジュール帳は、分刻みの予定で黒く塗りつぶされていたというのに、この白さはどうだ。
まるで雪原のようだ。
「これが、明日からの私の日常……!」
私はその紙を額に入れ、ベッドの正面の壁に飾った。
毎朝起きたらこれを拝むのだ。
「さて、準備完了。寝ましょう」
私はベッドにダイブした。
まだ最高級の羽毛布団ではないが、王宮の硬いベッドよりは数倍マシだ。
ふかふかの枕に顔を埋める。
幸せだ。
泥のように眠るというのは、こういうことを言うのだろう。
目を閉じると、意識が急速に沈んでいく。
……はずだった。
(……ん?)
目を閉じて五分後。
私はカッと目を見開いた。
(ね、寝られない……!)
体が、脳が、休息を拒否している。
なぜだ。
こんなに疲れているのに。
私は寝返りを打った。
右を向いても、左を向いても、落ち着かない。
無音の部屋が、逆にうるさく感じる。
いつもの「次、決裁お願いします!」「ミリュー様、至急確認を!」「予算が足りません!」という喧騒がないと、逆に不安で心臓がバクバクするのだ。
(まさか、社畜の習性が骨の髄まで染み付いているとでも……!?)
時計を見る。
深夜一時。
いつもなら、まだ執務室でカフェインを摂取しながら書類と格闘している時間だ。
私の手は、無意識のうちに枕元を探っていた。
何か読むものはないか、処理する書類はないか、と。
「いけない、いけないわミリュー! これは禁断症状よ!」
私は自分の手をぺちんと叩いた。
「貴女はもう自由なの。書類なんてないの。生産性なんて考えなくていいの!」
自分に言い聞かせるように呟き、私は必死に羊を数え始めた。
羊が一匹、羊が二匹……。
「羊一匹の市場価格は金貨五枚、百匹で五百枚、羊毛の年間産出量と飼育コストを差し引くと利益率は約十二パーセント……」
「ああああもう!!」
私は頭を抱えて枕に突っ伏した。
計算してしまう。
無意識に損益分岐点を計算してしまう!
結局、私がまともに眠りにつけたのは、空が白み始めた頃だった。
◇
翌朝。
小鳥のさえずりと共に目覚める……はずが、私が目を覚ましたのは、窓ガラスを叩く激しいノックの音によってだった。
「……なに?」
寝不足で重い瞼を持ち上げる。
時計を見ると、朝の八時。
予定より三時間も早い。
「お嬢様! 大変でございます!」
ドアの外から、メイド長の切羽詰まった声が聞こえる。
「なに、どうしたの……。火事? それともジェラルド殿下がゾンビになって襲ってきた?」
「いいえ、もっと厄介なお客様です!」
メイド長はドアを開け放つと、青ざめた顔で告げた。
「玄関ホールに、『氷の公爵』ラシード様がいらっしゃっています! 『ミリュー嬢に緊急の用件がある』と、ものすごい形相で……!」
「は?」
ラシード?
あの、昨日の夜会で私を見ていた、無口で怖い宰相閣下?
一気に眠気が吹き飛んだ。
「なんで宰相がうちに……まさか、昨日の不敬罪で逮捕しに来たの!?」
「分かりません! ですが、手に何か恐ろしげな黒い鞄をお持ちです! あれは間違いなく、拷問道具か処刑命令書かと!」
「なんてこと……!」
私はガバッとベッドから跳ね起きた。
私のスローライフ一日目は、開始早々、最大の危機を迎えていた。
(三度寝の予定が……!)
絶望と共に、私は着古したパジャマのまま、部屋を飛び出した。
門番が驚いた顔で開門するのを横目に、私は馬車から飛び降りるやいなや、玄関ホールへと駆け込んだ。
「ただいま戻りました! お父様、お母様! 緊急のご報告があります!」
深夜にもかかわらず、ホールには明かりがついていた。
階段の上から、ナイトガウン姿の両親が顔を出す。
父のアークライト侯爵は、眠そうな目をこすりながらも、私が深夜に帰宅したことに対して特に驚いた様子はない。
母もまた、「あらあら」と微笑んでいるだけだ。
「ミリュー? こんな時間にどうしたんだい? 王城で夜通しの会議でもあったのか?」
「いいえ、お父様。もっと素晴らしいニュースです!」
私は階段の下から、勝利宣言のように高らかに告げた。
「たった今、ジェラルド殿下より婚約破棄を言い渡されました!」
一瞬の静寂。
使用人たちが息を呑む気配がする。
父と母は顔を見合わせた。
そして――。
「「おお、でかした!」」
二人は手を取り合って喜んだ。
「やっとか! やっとあの無能……いや、手のかかる王太子から解放されたのか!」
「おめでとうミリュー! これで貴女も、普通の人間らしい生活が送れるのね!」
父が階段を駆け下りてきて、私の肩をガシッと掴む。
「正直なところ、王家との縁戚関係なんて面倒事の塊だからな。断るに断れなくて困っていたんだが、向こうから切ってくれるとは! まさに棚から牡丹餅、いや、棚から国債だ!」
「ええ、あなた。慰謝料もふんだくれるのでしょう?」
「もちろんです、お母様。請求書は明日にも発送します。向こう十年は遊んで暮らせる額ですよ」
「素晴らしいわ! さすが私達の娘、転んでもただでは起きないわね!」
アークライト家は、代々「合理主義」を家訓とする一族だ。
感情よりも損得、体面よりも実利。
私がジェラルド殿下の婚約者になったのも、当時の国王陛下に「国の財政を立て直せるのはお前たちの娘しかいない」と泣きつかれたからに過ぎない。
つまり、両親にとっても私は「王家への生贄」だったわけで、それが帰ってきたとなれば祝杯ものなのだ。
「さあ、祝い酒だ! 執事、年代物のワインを開けろ!」
「待ってください、お父様」
私は父の盛り上がりを手で制した。
「お祝いは後日にお願いします。今の私には、やらなければならない最重要ミッションがありますので」
「なんだ? まだ何か仕事が残っているのか?」
「いいえ。――『完全なる隠居環境の構築』です」
私はキリッとした顔で宣言した。
「私はこれから自室に戻り、王宮時代の私物を整理し、明日からのニート生活……いえ、スローライフに向けた準備を行います。目標タイムは三十分。一秒たりとも無駄にはできません」
「お、おお……。相変わらず仕事が早いな」
「では、失礼します!」
私はドレスの裾を翻し、自室へと続く廊下を早歩きで進んだ。
◇
自室に入ると、そこは三年前から時間が止まったかのように、家具が白い布で覆われていた。
王宮に住み込み同然だったため、実家の部屋は物置状態だったのだ。
「さて、始めましょうか」
私は腕まくりをした。
まずは、王宮から持ち帰ったトランクを開ける。
中には、ジェラルド殿下から贈られた数々の品々や、王太子妃教育で使用したテキストなどが詰め込まれている。
「分類開始」
私は部屋の床を三つのエリアに分けた。
『必要』『不要』『換金』の三つだ。
まず手に取ったのは、ジェラルド殿下から贈られた宝石箱。
中には、私の趣味とは程遠い、派手すぎるネックレスや指輪が入っている。
「デザインセンス皆無。しかし素材は本物……よし、『換金』」
迷わず右側のエリアへ投げ入れる。
次は、彼から送られた大量の手紙の束。
内容は『今日の僕は格好良かっただろう?』という自己賛美ポエムが大半だ。
「資源の無駄遣いですね。キャンプファイヤーの薪にしましょう。『不要』」
左側のエリアへポイッ。
さらに、王太子妃教育の教本、マナー講座のノート、王家の家系図。
「二度と見たくない。『不要』」
「トラウマ。『不要』」
「鍋敷きにもならない。『不要』」
私の手は止まらない。
次々とアイテムを仕分けていく速度は、熟練の郵便局員も裸足で逃げ出すレベルだ。
「あら、これは……」
手の中から出てきたのは、私が徹夜で作った『王都都市開発計画書』の控えだった。
これには愛着がある。
私の血と汗の結晶だ。
「これは『必要』……いや、待ちなさい」
私は手を止めた。
これを持っていると、いつかまた「この資料について教えてくれ」などと呼び出される可能性がある。
過去の栄光は、時として足かせになるのだ。
「未練は断ち切るべきです。過去のデータは脳内にありますし」
私は計画書をビリビリと破り捨て、『不要』の山へと放り込んだ。
爽快感が胸を突き抜ける。
開始から二十五分。
トランクの中身は空になり、部屋の片隅には『換金』用の宝石の山と、『不要』なゴミの山ができあがった。
手元に残った『必要』なものは、着替え数枚と、愛用の万年筆、そして安眠用のアイマスクだけだ。
「完璧です」
私は時計を確認して頷いた。
予定より五分早い。
「メイド長! メイド長はいますか!」
私が廊下に向かって声をかけると、すぐに初老のメイド長が現れた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。お呼びでしょうか」
「この『不要』の山は明日の朝一番で焼却炉へ。『換金』の山は商人を呼んで現金化してください。その金で、最高級の羽毛布団と、遮光カーテン、あと肌触りの良いパジャマを十着ほど発注を」
「承知いたしました。……して、そちらのゴミの山の中に、王太子殿下からの贈り物とおぼしき肖像画も混ざっておりますが……」
「ああ、それは魔除けにもならないので、一番強い火力で燃やしてください。灰も残さないように」
「かしこまりました」
メイド長は一礼し、手際よく指示を実行に移していく。
さすが我が家の使用人、無駄な質問はしない。
部屋が片付くと、私は机に向かい、新しい羊皮紙を広げた。
これからの私の人生の指針となる、重要な書類を作成するためだ。
題して『理想的スローライフ実行計画書』。
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【07:00】 起床……しません。二度寝します。
【09:00】 三度寝。
【11:00】 起床。ベッドの上でブランチ。
【12:00】 庭の木陰で読書(という名の昼寝)。
【15:00】 ティータイム。お茶請けはクッキー缶を抱えて直食い。
【18:00】 夕食。面倒なのでパジャマのまま摂る。
【20:00】 入浴。
【21:00】 就寝。
「……美しい」
書き上がったスケジュールを見て、私はうっとりと溜め息をついた。
空白が多い。
圧倒的に白い。
今までの私のスケジュール帳は、分刻みの予定で黒く塗りつぶされていたというのに、この白さはどうだ。
まるで雪原のようだ。
「これが、明日からの私の日常……!」
私はその紙を額に入れ、ベッドの正面の壁に飾った。
毎朝起きたらこれを拝むのだ。
「さて、準備完了。寝ましょう」
私はベッドにダイブした。
まだ最高級の羽毛布団ではないが、王宮の硬いベッドよりは数倍マシだ。
ふかふかの枕に顔を埋める。
幸せだ。
泥のように眠るというのは、こういうことを言うのだろう。
目を閉じると、意識が急速に沈んでいく。
……はずだった。
(……ん?)
目を閉じて五分後。
私はカッと目を見開いた。
(ね、寝られない……!)
体が、脳が、休息を拒否している。
なぜだ。
こんなに疲れているのに。
私は寝返りを打った。
右を向いても、左を向いても、落ち着かない。
無音の部屋が、逆にうるさく感じる。
いつもの「次、決裁お願いします!」「ミリュー様、至急確認を!」「予算が足りません!」という喧騒がないと、逆に不安で心臓がバクバクするのだ。
(まさか、社畜の習性が骨の髄まで染み付いているとでも……!?)
時計を見る。
深夜一時。
いつもなら、まだ執務室でカフェインを摂取しながら書類と格闘している時間だ。
私の手は、無意識のうちに枕元を探っていた。
何か読むものはないか、処理する書類はないか、と。
「いけない、いけないわミリュー! これは禁断症状よ!」
私は自分の手をぺちんと叩いた。
「貴女はもう自由なの。書類なんてないの。生産性なんて考えなくていいの!」
自分に言い聞かせるように呟き、私は必死に羊を数え始めた。
羊が一匹、羊が二匹……。
「羊一匹の市場価格は金貨五枚、百匹で五百枚、羊毛の年間産出量と飼育コストを差し引くと利益率は約十二パーセント……」
「ああああもう!!」
私は頭を抱えて枕に突っ伏した。
計算してしまう。
無意識に損益分岐点を計算してしまう!
結局、私がまともに眠りにつけたのは、空が白み始めた頃だった。
◇
翌朝。
小鳥のさえずりと共に目覚める……はずが、私が目を覚ましたのは、窓ガラスを叩く激しいノックの音によってだった。
「……なに?」
寝不足で重い瞼を持ち上げる。
時計を見ると、朝の八時。
予定より三時間も早い。
「お嬢様! 大変でございます!」
ドアの外から、メイド長の切羽詰まった声が聞こえる。
「なに、どうしたの……。火事? それともジェラルド殿下がゾンビになって襲ってきた?」
「いいえ、もっと厄介なお客様です!」
メイド長はドアを開け放つと、青ざめた顔で告げた。
「玄関ホールに、『氷の公爵』ラシード様がいらっしゃっています! 『ミリュー嬢に緊急の用件がある』と、ものすごい形相で……!」
「は?」
ラシード?
あの、昨日の夜会で私を見ていた、無口で怖い宰相閣下?
一気に眠気が吹き飛んだ。
「なんで宰相がうちに……まさか、昨日の不敬罪で逮捕しに来たの!?」
「分かりません! ですが、手に何か恐ろしげな黒い鞄をお持ちです! あれは間違いなく、拷問道具か処刑命令書かと!」
「なんてこと……!」
私はガバッとベッドから跳ね起きた。
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