悪役令嬢は婚約破棄に歓喜!

夏乃みのり

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「だ、駄目よ! 絶対に会わないわ!」


私はパジャマの襟を掴んで叫んだ。


「今の私は無職の一般市民! 相手は国の重鎮、宰相閣下! しかも用件が不明なんて、どう考えても『昨日の不敬罪で連行するから準備しろ』という勧告に決まっています!」


「で、ですがお嬢様、先方は玄関でお待ちで……」


「お父様に丸投げして! 『娘は急な環境の変化によるストレス(仮病)で寝込んでおります』と伝えて追い返してちょうだい!」


私はメイド長を部屋から押し出し、鍵をかけた。

そしてベッドに潜り込み、布団を頭から被る。


心臓が早鐘を打っていた。


(甘かった……! ジェラルド殿下との契約解除に浮かれて、国のメンツという変数を計算に入れていませんでした!)


公の場で王太子に恥をかかせたのだ。

アークライト家ごとお取り潰しかもしれない。

スローライフどころか、牢獄ライフの幕開けか?


ガタガタと震えていると、廊下からドタドタと足音が聞こえてきた。

父だ。


「ミリュー! ミリュー、いるか!」


「ひっ……! お、お父様? 憲兵は!? 手錠は!?」


私は恐る恐るドアを開ける。

そこには、困惑した顔の父が立っていた。

その手には、黒塗りの重厚な木箱が握られている。


「いや、帰られたよ」


「え? 逮捕状は?」


「ない。宰相閣下は、玄関先でこの箱を私に押し付けると、『……これを。滋養強壮に効く』とだけ言い残して、逃げるように去っていかれた」


「は?」


私は父の手にある箱を凝視した。

漆黒の箱に、金の箔押しで王家の紋章が入っている。


「滋養強壮……?」


「ああ。『昨夜の彼女は興奮状態にあった。急な解放感は体に毒だ。これを摂取して安静にするように』と、ボソボソ仰っていたが……あの宰相閣下が、随分と早口で、しかも目を合わせずに」


父が首を傾げる。


私は恐る恐る箱を受け取り、蓋を開けた。


そこに入っていたのは、毒薬でも手錠でもなく。


「……これ、最高級のマロングラッセですね」


瓶詰めにされた、琥珀色に輝く大粒の栗。

王都でも一日に十個しか生産されないという、幻の銘菓だ。


「毒入り……ではなさそうだな」


「……なるほど。読めました」


私はポンと手を叩いた。


「これは『口止め料』兼『手切れ金』ですね!」


「なに?」


「国としても、昨日の騒動をこれ以上広げたくないのでしょう。だから私に高級菓子を与えて、『これで大人しく隠居していろ』という無言の圧力です。わざわざ宰相自ら届けに来ることで、事の重大さを演出したのでしょう」


「そ、そうなのか?」


「間違いありません。あの仕事人間で有名なラシード様が、個人的な用事で動くはずがありませんから」


私は深く安堵の息を吐いた。


「よかった……逮捕ではないのなら、こちらのものです。ありがたく頂戴して、二度寝の続きをさせていただきます!」


私はマロングラッセを一粒口に放り込み(極上の甘さだった)、再びベッドへダイブした。


こうして、私のスローライフ最大の危機(勘違い)は去った。

今度こそ、輝かしいニート生活の始まりである。





――1日目。


「暇です」


昼の十二時に起きた私は、リビングのソファで天井を見上げていた。


朝寝坊は達成した。

ブランチも食べた。

マロングラッセも食べた。


そして今、やることがない。


「お嬢様、お紅茶のおかわりはいかがですか?」


メイドが気遣わしげに声をかけてくる。


「……ええ、もらうわ」


メイドがティーポットを傾ける。

その動作を見た瞬間、私の眉がピクリと動いた。


「待って」


「は、はい!?」


「その注ぎ方だと、ポットの角度が急すぎて香りが飛びます。あと、カップまでの距離が三センチ遠い。肘の角度をあと五度下げて、手首のスナップで注ぐと、対流が起きて茶葉のジャンピング効果が持続します」


「へ……?」


「あ、いえ。独り言です。続けて」


メイドは震える手でお茶を注ぎ終え、逃げるように去っていった。


(いけない、いけないわミリュー。口出しは無用。私はただの居候なのだから)


私はクッキーを齧りながら、庭を眺めた。

庭師が薔薇の剪定をしている。


(……あの剪定バサミの入れ方、茎の維管束を潰してるわね。あれじゃあ来月の開花率が二割落ちるわ)


ムズムズする。

喉元まで出かかった指摘を、紅茶と一緒に飲み込む。





――2日目。


私は屋敷の中を徘徊していた。

まるで獲物を探す猛獣のように。


「お、おはようございますお嬢様……」


廊下ですれ違った執事が、ビクッと身を引く。

私は彼の抱えている書類の束を一瞥した。


「執事セバス。その『屋敷修繕費の見積もり』ですが」


「は、はい!」


「一番上の業者は中間マージンを取りすぎです。三枚目の『ドワーフ工務店』の方が、工期は二日長いですが、耐久年数は二倍、コストは三割安いです。採用するならそちらを推奨します」


「えっ!? あ、ありがとうございます! すぐに再検討を……」


「あ、あと厨房の食材発注リスト。肉類の廃棄ロスが先月より五パーセント増えています。保存庫の温度設定を一度下げて、在庫管理を表計算式に切り替えるよう料理長に伝えてください」


「は、はいぃ!」


あ、言ってしまった。

口を塞いだがもう遅い。


執事は涙目で感謝しながら去っていった。


(駄目よ、働いちゃ駄目! 私は怠惰を貪る悪役令嬢になるのよ!)


私は頭を抱えた。

しかし、私の脳は十年間の王城勤務によって、「非効率」を見ると自動的に「改善案」を弾き出すマシーンに改造されてしまっているのだ。





――3日目。


限界だった。


「ああああもう!! 見ていられない!!」


私は朝食のテーブル(午前十一時)で、バン! とナプキンを叩きつけた。


「ミリュー? どうしたんだ、スープがぬるかったか?」


のんびりと新聞を読んでいた父が驚いて顔を上げる。


「違いますお父様! この屋敷のオペレーション、非効率すぎて吐き気がするんです!」


「ええ……?」


「メイドの掃除ルート! なぜ東館から西館へ移動するのに、わざわざ大広間を経由するんですか! 動線が重複しています! 洗濯物の回収も、各部屋を回るより各階にシュート(落とし穴)を設置した方が早いです!」


私は立ち上がり、ドレスの袖をまくり上げた。


「我慢の限界です。これより、アークライト侯爵家・業務改善プロジェクト(カイゼン)を開始します!」


「ミリュー、お前、スローライフは……」


「これが私のスローライフです! ストレスフリーな環境を作るための労働は、労働ではありません! 趣味です!」


私は雄叫びを上げると、執務室からありったけの羊皮紙とインクを持ち出した。


そこからの私の動きは神速だった。


まず、使用人全員をホールに集め、シフト表を白紙撤回。

個々の能力適性に基づいた完全実力主義シフトを組み直した。


次に、屋敷の備品管理をすべて台帳化し、無駄な発注をカット。

浮いた予算で、最新式の魔導掃除機(自走式)を十台導入。


さらに、父の領地経営に関する書類にも赤ペンを入れまくった。

「この治水工事は無意味」「この税収予測は甘い」「この接待費はただの飲み代、却下」


夕方になる頃には、屋敷の中は激変していた。


使用人たちは無駄な動きがなくなり、ロボットのように正確に業務をこなし始めた。

屋敷はピカピカに磨き上げられ、父のデスクの未決裁書類の山は消滅した。


「ふぅ……」


夕日が差し込むリビングで、私は満足げに紅茶を啜った。


「終わった……」


「お嬢様、凄いです……! 今日の業務、定時の二時間前に終わってしまいました!」


メイド長が感動で目を潤ませている。


「当然です。無駄を省けば時間は生まれる。これぞ効率化の魔法です」


私はドヤ顔で言い放った。

しかし。


その直後、虚無感が襲ってきた。


(……あれ?)


屋敷は完璧になった。

使用人たちは暇を持て余してトランプをしている。

父は仕事がなくなって庭でゴルフの素振りをしている。


そして私にも、もうやる仕事がない。


「…………暇だ」


私はガクリと項垂れた。


早すぎたのだ。

私の処理能力に対して、侯爵家の業務規模(キャパシティ)が小さすぎた。

王国の国家予算という巨大な化け物と戦ってきた私にとって、一貴族の家政など、準備運動にもならない。


「足りない……」


私は乾いた唇を舐めた。


「もっと……もっと歯ごたえのある案件を……。複雑怪奇な利権構造とか、破綻寸前のプロジェクトとか、数字の迷宮のような決算書を……!」


私は禁断症状に震えた。

これはもはや病気だ。

「社畜病」という不治の病だ。


その時だった。


玄関のベルが、控えめに、しかし明確な意志を持って鳴り響いたのは。


「こんな時間に誰だ?」


父が首を傾げる。


私はビクリと肩を震わせた。


このタイミングでの来訪者。

私の「仕事への渇望」が呼び寄せた悪魔か、それとも救世主か。


メイドが玄関へ走り、すぐに戻ってきた。

その顔は、初日の朝と同じくらい引きつっていた。


「お、お嬢様! 旦那様!」


「なんだ、誰が来た?」


「あ、あの……再び、『氷の公爵』ラシード様がいらっしゃいました!」


「またか!?」


「しかも、今度は箱だけではありません! 背後に……見たこともないほどの大量の書類を抱えた従者を十名ほど引き連れております!」


「はあ!?」


父が仰天する。


しかし、私の反応は違った。


「書類……?」


私の瞳が、怪しく輝いた。


「大量の……書類?」


私の脳裏に、マロングラッセの甘い味ではなく、インクと古紙の香ばしい匂いが蘇る。


「通して」


「えっ、でもミリュー、逮捕かもしれないぞ!」


「構いません。今の私に必要なのは、安眠ではなく『難題』なのです!」


私は立ち上がった。

パジャマではなく、完璧にプレスされた室内着を翻し、私は玄関へと向かう。


そこに待っていたのは、眉間に深い皺を寄せ、しかしどこか落ち着かない様子の「氷の公爵」ラシードと、彼が連れてきた「極上の餌(仕事の山)」だった。
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