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玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、場の空気温度が氷点下まで下がった気がした。
そこに立っていたのは、この国の宰相であり、王弟殿下でもあるラシード・ヴァン・クライシス公爵その人だった。
背が高い。
見上げるような長身に、漆黒の軍服風の礼装。
銀髪は冷ややかな月光を思わせ、その青い瞳は絶対零度の海のように深く、冷たい。
通称『氷の公爵』。
その視線一つで、歴戦の将軍すら震え上がらせると言われる、生ける伝説だ。
だが、今の私にとって、彼自身の威圧感などどうでもよかった。
私の視線は、彼の背後に釘付けになっていたのだ。
(……なんて……なんて魅力的なの!)
彼の後ろには、十名ほどの従者(というより、死んだ魚のような目をした文官たち)が控えていた。
そして彼らの腕には、山のような書類束が抱えられているではないか。
紐で縛られた羊皮紙の塔。
溢れ出しそうな封筒の山。
中にはインクの染みが見えるものや、端が折れ曲がったものもある。
『整理されていない』
『未決裁』
『カオス』
その事実が、私の脳髄をビリビリと刺激する。
あれは宝の山だ。
片付けがいのある、極上のカオスだ!
「……ミリュー・アークライト嬢か」
地響きのような低音が響いた。
ラシード様が私を見下ろしている。
父が慌てて私の前に立ちふさがった。
「か、閣下! 娘はまだ療養中でして! 昨日の今日で取り調べというのは、あまりにご慈悲がないのでは!」
父の背中が小刻みに震えている。
親心だ。
感動的だ。
でも邪魔だ。
「お父様、どいてください」
私は父の背中をグイと押して前に出た。
「お初にお目にかかります、ラシード・ヴァン・クライシス宰相閣下。ミリュー・アークライトです。本日はどのようなご用件でしょうか。逮捕ですか? 尋問ですか? それとも、その書類の山を焚き火にするための場所をお探しで?」
私は極力、視線が書類に行かないように努力しながら(たぶん目は血走っていたと思う)、淑女の礼をとった。
ラシード様は無表情のまま、私をじっと観察した。
その青い瞳が、私の頭の先から爪先までを舐めるように動く。
(……値踏みされている?)
緊張が走る。
次の瞬間、彼は口を開いた。
「……痩せたな」
「はい?」
予想外の第一声に、私は顔を上げた。
「以前、王城の廊下ですれ違った時より、顔色が悪い。目の下にクマがある。昨夜も寝ていないのか?」
「は、はあ……。少々、今後のライフプランについて羊を数えておりまして」
「そうか。……これを」
ラシード様は懐から、またしても何かを取り出した。
昨日のような箱ではない。
小さなガラス瓶だ。
中には、とろりとした黄金色の液体が入っている。
「……毒薬ですか?」
「最高級の蜂蜜だ。疲労回復に効く。そのまま舐めてもいいし、紅茶に入れてもいい」
「は?」
私は呆気にとられた。
氷の公爵が、わざわざ宰相自ら、蜂蜜を届けに来た?
どういう風の吹き回しだ。
「あ、ありがとうございます……?」
私が恐る恐る瓶を受け取ると、彼はふいっと視線を逸らした。
耳のあたりが僅かに赤い気がするが、部屋の照明のせいだろうか。
「それで、用件とは?」
私が本題を切り出すと、ラシード様の表情が一瞬で『仕事モード』に切り替わった。
眉間に深い皺が刻まれる。
「単刀直入に言おう。ミリュー嬢、君の力が必要だ」
「力、と言いますと? 私の腕力は平均以下ですが」
「とぼけるな。君の『処理能力』のことだ」
ラシード様は背後の文官たちに合図を送った。
文官の一人が、よろめきながら前へ出てくる。
彼が抱えている書類の束から、一枚の羊皮紙がハラリと床に落ちた。
私は反射的にそれを拾い上げた。
「……っ!」
内容を見た瞬間、私の全身に電流が走った。
『王都中央区画整備予算案・修正版(その15)』
タイトルはまともだ。
だが、中身が地獄だった。
数字の桁が合っていない。
項目の分類がバラバラ。
そもそも、前年度の繰越金が計上されていない。
計算式が三箇所間違っている!
「な……なんですか、これは!!」
私は叫んでいた。
蜂蜜の瓶をメイドに放り投げ、懐から(常に携帯している)赤ペンを取り出す。
「この予算案を作成したのは誰ですか! 借方の合計と貸方の合計が一致していませんよ! これでは決算が通りません! それに、ここの土木費! 昨今の資材高騰を反映していない古い単価のままです! これでは工事が止まりますよ!?」
私は床に膝をつき、落ちた書類に赤ペンで修正を書き込み始めた。
止まらない。
手が勝手に動く。
「ああ、ここも! 『雑費』で一括りにしすぎです! 内訳がないと監査で突っ込まれます! 誰ですか、こんなお粗末な書類を作ったのは! 小学校からやり直してきなさい!」
「ひぃっ!」
文官が悲鳴を上げた。
ハッと我に返る。
いけない。
私は今、無職の令嬢。
相手は国の宰相。
これは他所の家の事情。
「……あ、失礼しました。つい、職業病が」
私は慌てて立ち上がり、赤ペンを隠した。
やってしまった。
これで不敬罪確定か。
恐る恐るラシード様の顔を見る。
彼は――笑っていた。
いや、正確には口角がミリ単位で上がっているだけだが、あの氷のような瞳に、熱い光が宿っている。
「素晴らしい」
「へ?」
「その指摘、我が省の経理局長が三日かかっても気づかなかったミスだ。それを君は、わずか三秒で見抜いた」
「はあ……それは単に、局長様の目が節穴なだけでは?」
「違いない」
ラシード様は深く頷いた。
そして、一歩、私に近づく。
強烈なプレッシャーに、私が後ずさる。
「ミリュー・アークライト。君のその頭脳、その目、その手腕……我が公爵家(うち)で腐らせておくには惜しい」
「公爵家……?」
「ジェラルド殿下は君を『可愛げがない』と言って捨てたそうだが、私に言わせれば彼は盲目だ。君ほど『機能美』に溢れた令嬢はいない」
「き、機能美……?」
褒められているのだろうか。
だとしたら、随分と独特な口説き文句だ。
女性に対して使う言葉ではない。
ラシード様は私の目の前まで来ると、私の手を取り、その掌にまた一枚の書類を乗せた。
それは、公的な契約書のようだった。
「場所を移そう。君に提案がある」
「提案?」
「ああ。君の望む『対価』を用意して待っていた」
彼の低い声が、悪魔の囁きのように鼓膜を揺らす。
「君は今、暇なんだろう? 仕事(エサ)に飢えているんだろう?」
図星だった。
ぐうの音も出ない。
私はちらりと背後の書類の山を見た。
あれを片付けたい。
綺麗に分類し、ファイリングし、完璧な状態に仕上げたい。
その欲求が、スローライフへの未練を凌駕しようとしている。
「……お父様」
私は後ろを振り返った。
「お客様を応接室へ。最高級の茶葉で、濃いめのお茶を淹れてちょうだい。長くなりそうだから」
「ミ、ミリュー? 本当にいいのか?」
「ええ。どうやら私は、毒を食らわば皿まで……いえ、仕事を食らわば残業までの性分のようですから」
私は覚悟を決めた顔で、ラシード様に向き直った。
「承知いたしました、宰相閣下。お話、承ります。ただし!」
私は人差し指を立てた。
「私のコンサルティング料は高いですよ? マロングラッセと蜂蜜程度では、割に合いませんので」
「ふっ……心得ている」
ラシード様は不敵に笑うと、背後の文官たちに「運べ」と指示を出した。
文官たちが、よろよろと書類の山を応接室へと運び込んでいく。
まるで蟻の行列だ。
私はその最後尾について歩き出した。
(ああ、あの三番目の彼、封筒の持ち方が危ないわ。中身がこぼれそう……)
気になって仕方がない。
こうして私は、自ら猛獣の檻……もとい、宰相との交渉のテーブルへと向かったのだった。
そこに立っていたのは、この国の宰相であり、王弟殿下でもあるラシード・ヴァン・クライシス公爵その人だった。
背が高い。
見上げるような長身に、漆黒の軍服風の礼装。
銀髪は冷ややかな月光を思わせ、その青い瞳は絶対零度の海のように深く、冷たい。
通称『氷の公爵』。
その視線一つで、歴戦の将軍すら震え上がらせると言われる、生ける伝説だ。
だが、今の私にとって、彼自身の威圧感などどうでもよかった。
私の視線は、彼の背後に釘付けになっていたのだ。
(……なんて……なんて魅力的なの!)
彼の後ろには、十名ほどの従者(というより、死んだ魚のような目をした文官たち)が控えていた。
そして彼らの腕には、山のような書類束が抱えられているではないか。
紐で縛られた羊皮紙の塔。
溢れ出しそうな封筒の山。
中にはインクの染みが見えるものや、端が折れ曲がったものもある。
『整理されていない』
『未決裁』
『カオス』
その事実が、私の脳髄をビリビリと刺激する。
あれは宝の山だ。
片付けがいのある、極上のカオスだ!
「……ミリュー・アークライト嬢か」
地響きのような低音が響いた。
ラシード様が私を見下ろしている。
父が慌てて私の前に立ちふさがった。
「か、閣下! 娘はまだ療養中でして! 昨日の今日で取り調べというのは、あまりにご慈悲がないのでは!」
父の背中が小刻みに震えている。
親心だ。
感動的だ。
でも邪魔だ。
「お父様、どいてください」
私は父の背中をグイと押して前に出た。
「お初にお目にかかります、ラシード・ヴァン・クライシス宰相閣下。ミリュー・アークライトです。本日はどのようなご用件でしょうか。逮捕ですか? 尋問ですか? それとも、その書類の山を焚き火にするための場所をお探しで?」
私は極力、視線が書類に行かないように努力しながら(たぶん目は血走っていたと思う)、淑女の礼をとった。
ラシード様は無表情のまま、私をじっと観察した。
その青い瞳が、私の頭の先から爪先までを舐めるように動く。
(……値踏みされている?)
緊張が走る。
次の瞬間、彼は口を開いた。
「……痩せたな」
「はい?」
予想外の第一声に、私は顔を上げた。
「以前、王城の廊下ですれ違った時より、顔色が悪い。目の下にクマがある。昨夜も寝ていないのか?」
「は、はあ……。少々、今後のライフプランについて羊を数えておりまして」
「そうか。……これを」
ラシード様は懐から、またしても何かを取り出した。
昨日のような箱ではない。
小さなガラス瓶だ。
中には、とろりとした黄金色の液体が入っている。
「……毒薬ですか?」
「最高級の蜂蜜だ。疲労回復に効く。そのまま舐めてもいいし、紅茶に入れてもいい」
「は?」
私は呆気にとられた。
氷の公爵が、わざわざ宰相自ら、蜂蜜を届けに来た?
どういう風の吹き回しだ。
「あ、ありがとうございます……?」
私が恐る恐る瓶を受け取ると、彼はふいっと視線を逸らした。
耳のあたりが僅かに赤い気がするが、部屋の照明のせいだろうか。
「それで、用件とは?」
私が本題を切り出すと、ラシード様の表情が一瞬で『仕事モード』に切り替わった。
眉間に深い皺が刻まれる。
「単刀直入に言おう。ミリュー嬢、君の力が必要だ」
「力、と言いますと? 私の腕力は平均以下ですが」
「とぼけるな。君の『処理能力』のことだ」
ラシード様は背後の文官たちに合図を送った。
文官の一人が、よろめきながら前へ出てくる。
彼が抱えている書類の束から、一枚の羊皮紙がハラリと床に落ちた。
私は反射的にそれを拾い上げた。
「……っ!」
内容を見た瞬間、私の全身に電流が走った。
『王都中央区画整備予算案・修正版(その15)』
タイトルはまともだ。
だが、中身が地獄だった。
数字の桁が合っていない。
項目の分類がバラバラ。
そもそも、前年度の繰越金が計上されていない。
計算式が三箇所間違っている!
「な……なんですか、これは!!」
私は叫んでいた。
蜂蜜の瓶をメイドに放り投げ、懐から(常に携帯している)赤ペンを取り出す。
「この予算案を作成したのは誰ですか! 借方の合計と貸方の合計が一致していませんよ! これでは決算が通りません! それに、ここの土木費! 昨今の資材高騰を反映していない古い単価のままです! これでは工事が止まりますよ!?」
私は床に膝をつき、落ちた書類に赤ペンで修正を書き込み始めた。
止まらない。
手が勝手に動く。
「ああ、ここも! 『雑費』で一括りにしすぎです! 内訳がないと監査で突っ込まれます! 誰ですか、こんなお粗末な書類を作ったのは! 小学校からやり直してきなさい!」
「ひぃっ!」
文官が悲鳴を上げた。
ハッと我に返る。
いけない。
私は今、無職の令嬢。
相手は国の宰相。
これは他所の家の事情。
「……あ、失礼しました。つい、職業病が」
私は慌てて立ち上がり、赤ペンを隠した。
やってしまった。
これで不敬罪確定か。
恐る恐るラシード様の顔を見る。
彼は――笑っていた。
いや、正確には口角がミリ単位で上がっているだけだが、あの氷のような瞳に、熱い光が宿っている。
「素晴らしい」
「へ?」
「その指摘、我が省の経理局長が三日かかっても気づかなかったミスだ。それを君は、わずか三秒で見抜いた」
「はあ……それは単に、局長様の目が節穴なだけでは?」
「違いない」
ラシード様は深く頷いた。
そして、一歩、私に近づく。
強烈なプレッシャーに、私が後ずさる。
「ミリュー・アークライト。君のその頭脳、その目、その手腕……我が公爵家(うち)で腐らせておくには惜しい」
「公爵家……?」
「ジェラルド殿下は君を『可愛げがない』と言って捨てたそうだが、私に言わせれば彼は盲目だ。君ほど『機能美』に溢れた令嬢はいない」
「き、機能美……?」
褒められているのだろうか。
だとしたら、随分と独特な口説き文句だ。
女性に対して使う言葉ではない。
ラシード様は私の目の前まで来ると、私の手を取り、その掌にまた一枚の書類を乗せた。
それは、公的な契約書のようだった。
「場所を移そう。君に提案がある」
「提案?」
「ああ。君の望む『対価』を用意して待っていた」
彼の低い声が、悪魔の囁きのように鼓膜を揺らす。
「君は今、暇なんだろう? 仕事(エサ)に飢えているんだろう?」
図星だった。
ぐうの音も出ない。
私はちらりと背後の書類の山を見た。
あれを片付けたい。
綺麗に分類し、ファイリングし、完璧な状態に仕上げたい。
その欲求が、スローライフへの未練を凌駕しようとしている。
「……お父様」
私は後ろを振り返った。
「お客様を応接室へ。最高級の茶葉で、濃いめのお茶を淹れてちょうだい。長くなりそうだから」
「ミ、ミリュー? 本当にいいのか?」
「ええ。どうやら私は、毒を食らわば皿まで……いえ、仕事を食らわば残業までの性分のようですから」
私は覚悟を決めた顔で、ラシード様に向き直った。
「承知いたしました、宰相閣下。お話、承ります。ただし!」
私は人差し指を立てた。
「私のコンサルティング料は高いですよ? マロングラッセと蜂蜜程度では、割に合いませんので」
「ふっ……心得ている」
ラシード様は不敵に笑うと、背後の文官たちに「運べ」と指示を出した。
文官たちが、よろよろと書類の山を応接室へと運び込んでいく。
まるで蟻の行列だ。
私はその最後尾について歩き出した。
(ああ、あの三番目の彼、封筒の持ち方が危ないわ。中身がこぼれそう……)
気になって仕方がない。
こうして私は、自ら猛獣の檻……もとい、宰相との交渉のテーブルへと向かったのだった。
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