悪役令嬢は婚約破棄に歓喜!

夏乃みのり

文字の大きさ
6 / 28

6

しおりを挟む
応接室のテーブルの上には、うず高く積まれた書類の山が鎮座していた。


もはやテーブルクロスが見えない。

優雅なティータイムを楽しむ場所が、一瞬にして戦場(オフィス)へと変貌している。


私はその書類の山を前に、ゴクリと唾を飲み込んだ。


(……震える。武者震いですわ)


私の手は、膝の上で固く握りしめられていた。

今すぐ飛びかかって、乱雑に積まれた羊皮紙を『緊急度』と『重要度』のマトリクスで分類したい。

クリップの位置がずれているのを直したい。

端が折れているのをアイロンで伸ばしたい!


「……紅茶が冷めるぞ」


対面に座るラシード様の低い声が、私の葛藤を中断させた。


「はっ、失礼いたしました」


私は震える手でティーカップを持ち上げた。

ラシード様は優雅に脚を組み、しかしその青い瞳は、獲物を狙う鷹のように鋭く私を射抜いている。


「さて、ミリュー嬢。本題に入ろう」


「はい。面接……いえ、お話ですね」


私は背筋を伸ばした。

これは戦いだ。

相手は宰相。この国の頭脳。

半端な覚悟では、言いくるめられて不当な労働条件を押し付けられるに決まっている。


ラシード様はコホン、と咳払いをした。

そして、どこか言い淀むように視線を泳がせた後、意を決したように口を開いた。


「単刀直入に言う。……我がクライシス公爵家に来てほしい」


「……ほう」


私は眉をひそめた。

『来てほしい』。

それはつまり、現地採用ということか。


「具体的には、どのようなポジションでの登用でしょうか? 秘書官? それとも家令の補佐ですか?」


「……ポジション?」


ラシード様が怪訝な顔をする。


「いや、地位の話ではない。私の……パートナーとしてだ」


「パートナー」


私は脳内で素早く検索をかけた。

ビジネス用語におけるパートナー。

共同経営者。あるいは、特定のプロジェクトにおける対等な協力者。


(なるほど。単なる部下としてではなく、宰相の補佐役(右腕)としてのヘッドハンティングということですね)


これは予想以上の高評価だ。

私は内心でガッツポーズをした。


「光栄なお話です。私の実務能力をそこまで高く評価していただいているとは」


「ああ、評価している。君のあの、無駄を一切排除した書類さばき……あれは芸術だ」


ラシード様が熱っぽく語り出した。


「王太子の執務室で、君が三つの案件を同時に処理している姿を影から見ていた。右手で決裁印を押し、左手で計算機を叩き、口では部下に指示を飛ばす……あの姿に、私は心奪われたのだ」


「はあ……」


(見られていたんですね、あの千手観音モードを。恥ずかしい)


「ジェラルド殿下は『可愛げがない』と言ったそうだが、とんでもない。私には、君が誰よりも輝いて見えた。あの効率的な動きこそ、至高の美だ」


「恐縮です」


どうやらこの公爵様、相当な『効率厨』らしい。

美的感覚が独特すぎるが、私としては悪い気はしない。

『可愛い』と言われるより、『有能』と言われる方が百倍嬉しいからだ。


「で、君にお願いしたいのは、私の屋敷……いや、公爵領全体の『管理』だ」


「領地の管理、ですか」


話が大きくなってきた。

宰相の補佐どころか、領地経営の代行。

それは実質、領主代行ではないか。


「現在、私の領地は豊かだが、行政システムが旧態依然としている。書類は紙ベース、連絡は伝書鳩、在庫管理は担当者の勘……。正直、限界だ」


「伝書鳩……!?」


私は絶句した。

今どき、伝書鳩?

通信魔法も魔導具も普及しているこの時代に?


「なんて非効率な……! 鳩が寄り道したらどうするんですか! 情報の機密性は!?」


「その通りだ。だからこそ、君の力が必要なんだ。私の領地を、屋敷を、そして私自身の生活を……君の手で、劇的に変えてほしい」


ラシード様は身を乗り出した。

その瞳は真剣そのものだ。


「君になら、すべてを任せられる。私の全財産、全権限、そして私の人生そのものを、君に預けたい」


「人生を、ですか」


(重い……! 責任が重すぎる!)


だが、同時に私の心臓は高鳴っていた。

『全権限委譲』。

なんて甘美な響きだろう。

ジェラルド殿下の時は、私がいくら提案しても「前例がない」「面倒だ」と却下されることが多かった。

しかし、この目の前の男は、「好きにしていい」と言っているのだ。


未開の地を開拓する喜び。

カオスを秩序に変える快感。

それが私を待っている。


「……条件を確認させてください」


私は懐から手帳を取り出した。

ここからはビジネスだ。

感情で動いてはならない。


「勤務地は?」


「王都の公爵邸、および領地の本邸だ」


「転勤あり、ですね。勤務時間は?」


「二十四時間……いや、基本的には君の好きなようにしていい。ただ、夜は私の傍にいてほしいが」


「夜間待機(オンコール)あり、と」


私はサラサラとメモを取る。

要するに住み込みの二十四時間体制。

ブラックの香りがするが、裁量権があるなら悪くない。


「給与は?」


「私の資産のすべてだ。好きなだけ使っていい」


「……はい?」


ペンの手が止まった。


「すべて、ですか? 上限設定(キャップ)なし?」


「ああ。公爵家の金庫の鍵も、領地の税収も、すべて君が管理すればいい。私が使う分は、君から小遣い制で渡してくれればそれでいい」


「正気ですか?」


私はまじまじとラシード様の顔を見た。

初対面に近い人間に、全財産を握らせる?

この人、詐欺に遭いやすいタイプなんじゃないだろうか。


「私は金に執着はない。仕事ができればそれでいいのだ。だが、管理する人間がいなくて困っている。……君が財布の紐を握ってくれるなら、これほど安心なことはない」


ラシード様は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。


(信頼、されている……?)


胸の奥が温かくなる。

いや、これは『信頼』というより『丸投げ』かもしれないが、好条件であることに変わりはない。


「福利厚生は?」


「衣食住は最高級のものを用意する。ドレスも宝石も、君が望むものはすべて揃えよう。休暇も……まあ、君が望むなら取ればいい」


「退職金制度は?」


「……退職?」


ラシード様の眉がピクリと動いた。

空気が凍りつく。


「退職、とは?」


「いえ、契約期間満了後の話ですが……」


「契約期間などない」


ラシード様はきっぱりと言い放った。


「終身雇用(永久就職)だ」


「しゅ、終身……!?」


「死が二人を分かつまで。……いや、死んでも離さないつもりだが」


その眼光の強さに、私は息を呑んだ。

怖い。

目がマジだ。


でも、冷静に考えてみよう。

『終身雇用』『全権限委譲』『予算無制限』『衣食住保証』。

そして上司(夫となる予定だが、ミリューは気づいていない)は、私の能力を高く評価し、口出ししないタイプ。


(……神物件では?)


スローライフという夢は魅力的だ。

でも、暇死しそうになった直後の私にとって、この『やりがいのある職場』は、極上のマロングラッセよりも甘く囁きかけてくる。


私は手帳を閉じた。

そして、ラシード様の目を真っ直ぐに見つめ返した。


「わかりました。そのオファー、前向きに検討させていただきます」


「本当か!?」


ラシード様の表情がぱあっと明るくなった。

氷が溶け、春の日差しが差し込んだような、そんな眩しい笑顔だった。


(うっ……顔が良い)


不覚にもドキッとしてしまった。

黙っていれば美形。

喋ると仕事中毒。

私と相性が良すぎるかもしれない。


「ただし!」


私は人差し指を立てた。


「採用決定の前に、一つだけ『実技試験』をさせていただきたいのです」


「実技試験?」


「はい。口でおっしゃるだけなら簡単です。本当に貴方の職場(屋敷)が、私のスキルを活かせる環境なのか。そして、貴方が本当に私のやり方に口出ししない『理解あるボス』なのか」


私はテーブルの上の書類の山を指差した。


「まずは、この書類の山。……これを私が処理する様を見て、最終判断としていただけますか?」


「……願ってもないことだ」


ラシード様はニヤリと笑った。


「では、試験開始だ。……存分に暴れてくれ」


「承知いたしました」


私は立ち上がった。

腕まくりをする。

髪を後ろで一つに束ねる。


「セバス! インクと羽ペン、あと予備の紙をありったけ持ってきて! お父様は邪魔なのでゴルフに行っていてください!」


私の号令が屋敷に響く。


「さあ、業務開始(ショータイム)ですわ!」


こうして、プロポーズの場は、いつの間にか私の『実力テスト』の場へとすり替わっていた。


ラシード様は満足そうに紅茶を啜りながら、私が猛烈な勢いで書類を片付けていく様を、まるで美しい絵画でも鑑賞するかのように眺めていた。


「……やはり、君しかいない」


彼がボソリと呟いた、

「これでやっと結婚できる」

という言葉は、私の書類をめくる音にかき消されて、耳には届かなかったのである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……

タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。

前世の記憶しかない元侯爵令嬢は、訳あり大公殿下のお気に入り。(注:期間限定)

miy
恋愛
(※長編なため、少しネタバレを含みます) ある日目覚めたら、そこは見たことも聞いたこともない…異国でした。 ここは、どうやら転生後の人生。 私は大貴族の令嬢レティシア17歳…らしいのですが…全く記憶にございません。 有り難いことに言葉は理解できるし、読み書きも問題なし。 でも、見知らぬ世界で貴族生活?いやいや…私は平凡な日本人のようですよ?…無理です。 “前世の記憶”として目覚めた私は、現世の“レティシアの身体”で…静かな庶民生活を始める。 そんな私の前に、一人の貴族男性が現れた。 ちょっと?訳ありな彼が、私を…自分の『唯一の女性』であると誤解してしまったことから、庶民生活が一変してしまう。 高い身分の彼に関わってしまった私は、元いた国を飛び出して魔法の国で暮らすことになるのです。 大公殿下、大魔術師、聖女や神獣…等など…いろんな人との出会いを経て『レティシア』が自分らしく生きていく。 という、少々…長いお話です。 鈍感なレティシアが、大公殿下からの熱い眼差しに気付くのはいつなのでしょうか…? ※安定のご都合主義、独自の世界観です。お許し下さい。 ※ストーリーの進度は遅めかと思われます。 ※現在、不定期にて公開中です。よろしくお願い致します。 公開予定日を最新話に記載しておりますが、長期休載の場合はこちらでもお知らせをさせて頂きます。 ※ド素人の書いた3作目です。まだまだ優しい目で見て頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。 ※初公開から2年が過ぎました。少しでも良い作品に、読みやすく…と、時間があれば順次手直し(改稿)をしていく予定でおります。(現在、146話辺りまで手直し作業中) ※章の区切りを変更致しました。(9/22更新)

「美しい女性(ヒト)、貴女は一体、誰なのですか?」・・・って、オメエの嫁だよ

猫枕
恋愛
家の事情で12才でウェスペル家に嫁いだイリス。 当時20才だった旦那ラドヤードは子供のイリスをまったく相手にせず、田舎の領地に閉じ込めてしまった。 それから4年、イリスの実家ルーチェンス家はウェスペル家への借金を返済し、負い目のなくなったイリスは婚姻の無効を訴える準備を着々と整えていた。 そんなある日、領地に視察にやってきた形だけの夫ラドヤードとばったり出くわしてしまう。 美しく成長した妻を目にしたラドヤードは一目でイリスに恋をする。 「美しいひとよ、貴女は一体誰なのですか?」 『・・・・オメエの嫁だよ』 執着されたらかなわんと、逃げるイリスの運命は?

十年間虐げられたお針子令嬢、冷徹侯爵に狂おしいほど愛される。

er
恋愛
十年前に両親を亡くしたセレスティーナは、後見人の叔父に財産を奪われ、物置部屋で使用人同然の扱いを受けていた。義妹ミレイユのために毎日ドレスを縫わされる日々——でも彼女には『星霜の記憶』という、物の過去と未来を視る特別な力があった。隠されていた舞踏会の招待状を見つけて決死の潜入を果たすと、冷徹で美しいヴィルフォール侯爵と運命の再会! 義妹のドレスが破れて大恥、叔父も悪事を暴かれて追放されるはめに。失われた伝説の刺繍技術を復活させたセレスティーナは宮廷筆頭職人に抜擢され、「ずっと君を探していた」と侯爵に溺愛される——

投資の天才”を名乗る臣民たちよ。 その全財産、確かに受け取った。 我が民のために活かそう』 〜虚飾を砕く女王の経済鉄槌〜

しおしお
恋愛
バブルに沸くアルビオン王国。 「エルドラド株」を持たぬ者は時代遅れ―― そう嘲笑いながら、実体のない海外権益へ全財産を注ぎ込む貴族たち。 自らを“投資の天才”と称し、増税に苦しむ民を見下す日々。 若き女王リリアーナは、その狂騒を静かに見つめていた。 やがて始まる王室監査。 暴かれる虚偽契約。 崩れ落ちる担保。 連鎖する破綻。 昨日まで「時代の勝者」を気取っていた特権階級は、一夜にして無一文へ。 泣きつく彼らに、女王はただ微笑む。 ――“皆様の尊いご投資、確かに受け取りましたわ” 没収された富は国庫へ。 再配分された資源は民へ。 虚飾を砕き、制度を再設計し、王国を立て直す。 これは復讐譚ではない。 清算と再建の物語。 泡沫の王国に、女王の鉄槌が下される。

大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!

古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。 その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。 『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』 昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。 領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。 一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――

処理中です...