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「――終わりました」
私は最後の書類に決済印を押し、それを「処理済み」の箱へ放り込んだ。
パタン、とインクの蓋を閉める音が、静まり返った応接室に響く。
「か、確認する……」
ラシード様が震える手で、私が積み上げた「処理済み」の山を手に取った。
時刻は午後三時。
開始からわずか二時間。
あれだけの山脈が、今や更地と化していた。
「……完璧だ」
ラシード様が書類をめくる手が止まる。
「計算ミスはすべて修正され、関連法規への照合も完了している。懸案事項だった隣接領との水利権問題も、過去の判例を引用して和解案が作成されている……」
彼は信じられないものを見る目で私を見上げた。
「君は……魔法使いか?」
「いいえ、ただの実務家です」
私はティーカップに残っていた冷めた紅茶を飲み干した。
「パターン化できる業務が七割でしたから、フローチャートさえ頭にあれば造作もありません。残りの三割も、前例踏襲で片付く案件ばかり。……正直、期待していたほどの『難問』ではありませんでしたね」
私は少し煽るように言ってみた。
すると、ラシード様の瞳がギラリと光った。
「……そうか。物足りなかったか」
「ええ。もっとこう、脳みそが沸騰するような複雑な利権構造とか、裏帳簿の解読とか、そういう刺激的な案件はないのですか?」
「ある」
ラシード様は即答した。
「公爵領には、まだ手つかずの『開拓事業』や、赤字垂れ流しの『鉱山経営』、そして私が先代から引き継いだまま放置している『謎の地下迷宮(ダンジョン)の管理』など、難題が山積みだ」
「ダンジョン……!?」
「君のその処理能力があれば、あの魔窟さえも黒字化できるかもしれない」
ゴクリ。
喉が鳴った。
ダンジョンの経営再建。
なんて心躍る響きだろう。
王宮では絶対に触らせてもらえなかった、民間ならではのエキサイティングな案件だ。
「……興味深いですね」
私は身を乗り出した。
釣り針に食いついた魚の気分だ。
「では、私の能力は証明できたということでよろしいですね?」
「ああ。文句なしだ。……いや、私の想像を遥かに超えていた」
ラシード様は立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「改めて頼む。ミリュー・アークライト。私の妻として、共に来てくれ」
その言葉に、私は深く頷いた。
しかし、まだ手は取らない。
「お待ちください。契約を結ぶ前に、詳細な労働条件のすり合わせが必要です」
「労働条件?」
「ええ。口約束はトラブルの元。ここで明確にしておきましょう」
私は懐から新しい羊皮紙を取り出し、ペンを構えた。
ジェラルド殿下との一件で学んだのだ。
契約書は、自分の身を守る最強の盾であると。
「私の要求スペック(条件)は以下の三点です」
私は指を一本立てた。
「第一に、『定時退社の厳守』。私はもう、残業はしません。日が沈んだら業務終了。夜はプライベートの時間とし、緊急時以外は一切の業務連絡を遮断します」
「……定時、か」
ラシード様は少し考え込んだが、すぐに頷いた。
「分かった。君の睡眠時間は、私が騎士団を動員してでも守ろう」
「そこまでしなくてもいいですが、確約いただきました」
私は羊皮紙に『定時退社(騎士団による防衛付き)』と書き込んだ。
続いて二本目の指を立てる。
「第二に、『完全週休二日制』。週に二日は休みを頂きます。その日はベッドから一歩も出なくても文句を言わないこと」
「週休二日……。宰相である私でさえ、休みは月に二日あるかないかだが……」
「それは貴方のタイムマネジメントの問題です。私を巻き込まないでください」
「……ぐうの音も出ない。承知した」
「言質、取りました」
『週休二日(絶対厳守)』と書き込む。
そして、最後の三本目。
「第三に、『全権限の委譲』。先ほども仰いましたが、領地経営、屋敷の管理、予算の配分……すべて私の判断で決定させていただきます。貴方であっても、私の決定には事後承諾でサインすること」
これはかなり強気な条件だ。
領主としての実権を奪うに等しい。
普通の貴族なら激怒するところだが……。
「構わない」
ラシード様は秒で答えた。
「むしろ、その方が助かる。私は外交や国政で手一杯だ。家のことは君が好きにしてくれ。……ただし」
「ただし?」
ラシード様は少し言い淀み、視線を逸らした。
「……食事の時だけは、一緒に摂ってほしい。……一人で食べる飯は、味気ないからな」
その言葉に、私はきょとんとした。
なんてささやかな要求だろう。
全財産を預ける条件が、「一緒にご飯を食べる」?
「……それくらいなら、お安い御用です」
私はクスリと笑った。
この人、意外と寂しがり屋なのかもしれない。
「交渉成立ですね」
私は条件を書き込んだ羊皮紙の最後に、サイン欄を作った。
「では、こちらに署名を。これが私たちの雇用契約書……いえ、婚姻届の代わりとなります」
ラシード様は羊皮紙を受け取り、内容を確認することなく、サラサラと流麗な筆記体でサインをした。
『ラシード・ヴァン・クライシス』
その文字を見た瞬間、契約魔法のような魔力が紙から立ち上り、ふわりと消えた。
この世界では、高位貴族同士の誓約には魔力が宿る。
これで、もう後戻りはできない。
「ようこそ、クライシス家へ」
ラシード様が改めて手を差し出す。
今度は、私も迷わずにその手を取った。
彼の大きな手は、見た目とは裏腹に、驚くほど温かかった。
「よろしくお願いいたします、ボス……いえ、旦那様(クライアント)」
「ああ。……大切にする」
彼が私の手を引き寄せ、甲に口づけを落とす。
その仕草があまりに自然で、そして様になっていたので、私は思わず心拍数が跳ね上がるのを計算外の変数(バグ)として処理した。
(不整脈かしら? やはり昨日の睡眠不足が響いているのね)
◇
「というわけで、お父様、お母様。私、再就職(けっこん)が決まりましたので」
リビングに戻った私は、ゴルフから帰ってきた父に事後報告をした。
「は? えっ? 誰と?」
「ラシード宰相閣下とです」
「ぶふぉっ!?」
父が飲んでいた水を吹き出した。
「き、昨日婚約破棄されたばかりだろう!? しかも相手はあの氷の公爵!? お前、何か弱みでも握ったのか!?」
「人聞きの悪い。ヘッドハンティングですよ。私の実務能力が高く評価されたのです」
私はエッヘンと胸を張った。
「荷物はすでにまとめてあります。それでは、行ってまいります」
「え、今から!? 結納とか、式とかは!?」
「形式(プロトコル)は後回しです。現地では解決すべきタスクが山積みですので」
私は呆然とする両親に別れを告げ、ラシード様のエスコートで馬車に乗り込んだ。
公爵家の紋章が入った漆黒の馬車は、最高級のサスペンションを搭載しており、揺れ一つない。
「快適……」
私はシートに深く沈み込んだ。
向かいの席にはラシード様が座っている。
彼は窓の外を見ているふりをして、チラチラとこちらを見ているのが分かった。
(さて、これから向かう公爵邸……一体どんな惨状(カオス)が待っているのかしら)
不安?
いいえ。
私の胸にあるのは、掃除用具を手にした時の高揚感だけだ。
「楽しみですね、ラシード様」
「……ああ、私もだ」
彼の言う「楽しみ」と、私の「楽しみ」の意味が、決定的に食い違っていることに気づかないまま。
馬車は石畳を滑るように進み、やがて王都の一等地にある、威圧感たっぷりの巨大な屋敷の前で止まった。
「着いたぞ。ここが君の新しい職場(いえ)だ」
扉が開く。
そこに広がっていた光景を見て、私は思わず歓喜の声を上げた。
「わあ……! 素晴らしい!」
「……素晴らしい?」
ラシード様が首を傾げるのも無理はない。
目の前の庭園は雑草が伸び放題でジャングルと化し、屋敷の窓ガラスは曇り、玄関前にはなぜか壊れた馬車の車輪が放置されている。
まさに荒れ屋敷。
お化け屋敷一歩手前だ。
だが、私には見える。
このカオスの下に眠る、ポテンシャルの輝きが。
「やりがいしかありませんわ!」
私はドレスの裾をたくし上げ、戦場へと続く階段を駆け上がった。
「さあ、業務開始(おそうじ)の時間よ!」
私の第二の人生――『公爵夫人という名の社畜ライフ』が、今ここに幕を開けたのである。
私は最後の書類に決済印を押し、それを「処理済み」の箱へ放り込んだ。
パタン、とインクの蓋を閉める音が、静まり返った応接室に響く。
「か、確認する……」
ラシード様が震える手で、私が積み上げた「処理済み」の山を手に取った。
時刻は午後三時。
開始からわずか二時間。
あれだけの山脈が、今や更地と化していた。
「……完璧だ」
ラシード様が書類をめくる手が止まる。
「計算ミスはすべて修正され、関連法規への照合も完了している。懸案事項だった隣接領との水利権問題も、過去の判例を引用して和解案が作成されている……」
彼は信じられないものを見る目で私を見上げた。
「君は……魔法使いか?」
「いいえ、ただの実務家です」
私はティーカップに残っていた冷めた紅茶を飲み干した。
「パターン化できる業務が七割でしたから、フローチャートさえ頭にあれば造作もありません。残りの三割も、前例踏襲で片付く案件ばかり。……正直、期待していたほどの『難問』ではありませんでしたね」
私は少し煽るように言ってみた。
すると、ラシード様の瞳がギラリと光った。
「……そうか。物足りなかったか」
「ええ。もっとこう、脳みそが沸騰するような複雑な利権構造とか、裏帳簿の解読とか、そういう刺激的な案件はないのですか?」
「ある」
ラシード様は即答した。
「公爵領には、まだ手つかずの『開拓事業』や、赤字垂れ流しの『鉱山経営』、そして私が先代から引き継いだまま放置している『謎の地下迷宮(ダンジョン)の管理』など、難題が山積みだ」
「ダンジョン……!?」
「君のその処理能力があれば、あの魔窟さえも黒字化できるかもしれない」
ゴクリ。
喉が鳴った。
ダンジョンの経営再建。
なんて心躍る響きだろう。
王宮では絶対に触らせてもらえなかった、民間ならではのエキサイティングな案件だ。
「……興味深いですね」
私は身を乗り出した。
釣り針に食いついた魚の気分だ。
「では、私の能力は証明できたということでよろしいですね?」
「ああ。文句なしだ。……いや、私の想像を遥かに超えていた」
ラシード様は立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「改めて頼む。ミリュー・アークライト。私の妻として、共に来てくれ」
その言葉に、私は深く頷いた。
しかし、まだ手は取らない。
「お待ちください。契約を結ぶ前に、詳細な労働条件のすり合わせが必要です」
「労働条件?」
「ええ。口約束はトラブルの元。ここで明確にしておきましょう」
私は懐から新しい羊皮紙を取り出し、ペンを構えた。
ジェラルド殿下との一件で学んだのだ。
契約書は、自分の身を守る最強の盾であると。
「私の要求スペック(条件)は以下の三点です」
私は指を一本立てた。
「第一に、『定時退社の厳守』。私はもう、残業はしません。日が沈んだら業務終了。夜はプライベートの時間とし、緊急時以外は一切の業務連絡を遮断します」
「……定時、か」
ラシード様は少し考え込んだが、すぐに頷いた。
「分かった。君の睡眠時間は、私が騎士団を動員してでも守ろう」
「そこまでしなくてもいいですが、確約いただきました」
私は羊皮紙に『定時退社(騎士団による防衛付き)』と書き込んだ。
続いて二本目の指を立てる。
「第二に、『完全週休二日制』。週に二日は休みを頂きます。その日はベッドから一歩も出なくても文句を言わないこと」
「週休二日……。宰相である私でさえ、休みは月に二日あるかないかだが……」
「それは貴方のタイムマネジメントの問題です。私を巻き込まないでください」
「……ぐうの音も出ない。承知した」
「言質、取りました」
『週休二日(絶対厳守)』と書き込む。
そして、最後の三本目。
「第三に、『全権限の委譲』。先ほども仰いましたが、領地経営、屋敷の管理、予算の配分……すべて私の判断で決定させていただきます。貴方であっても、私の決定には事後承諾でサインすること」
これはかなり強気な条件だ。
領主としての実権を奪うに等しい。
普通の貴族なら激怒するところだが……。
「構わない」
ラシード様は秒で答えた。
「むしろ、その方が助かる。私は外交や国政で手一杯だ。家のことは君が好きにしてくれ。……ただし」
「ただし?」
ラシード様は少し言い淀み、視線を逸らした。
「……食事の時だけは、一緒に摂ってほしい。……一人で食べる飯は、味気ないからな」
その言葉に、私はきょとんとした。
なんてささやかな要求だろう。
全財産を預ける条件が、「一緒にご飯を食べる」?
「……それくらいなら、お安い御用です」
私はクスリと笑った。
この人、意外と寂しがり屋なのかもしれない。
「交渉成立ですね」
私は条件を書き込んだ羊皮紙の最後に、サイン欄を作った。
「では、こちらに署名を。これが私たちの雇用契約書……いえ、婚姻届の代わりとなります」
ラシード様は羊皮紙を受け取り、内容を確認することなく、サラサラと流麗な筆記体でサインをした。
『ラシード・ヴァン・クライシス』
その文字を見た瞬間、契約魔法のような魔力が紙から立ち上り、ふわりと消えた。
この世界では、高位貴族同士の誓約には魔力が宿る。
これで、もう後戻りはできない。
「ようこそ、クライシス家へ」
ラシード様が改めて手を差し出す。
今度は、私も迷わずにその手を取った。
彼の大きな手は、見た目とは裏腹に、驚くほど温かかった。
「よろしくお願いいたします、ボス……いえ、旦那様(クライアント)」
「ああ。……大切にする」
彼が私の手を引き寄せ、甲に口づけを落とす。
その仕草があまりに自然で、そして様になっていたので、私は思わず心拍数が跳ね上がるのを計算外の変数(バグ)として処理した。
(不整脈かしら? やはり昨日の睡眠不足が響いているのね)
◇
「というわけで、お父様、お母様。私、再就職(けっこん)が決まりましたので」
リビングに戻った私は、ゴルフから帰ってきた父に事後報告をした。
「は? えっ? 誰と?」
「ラシード宰相閣下とです」
「ぶふぉっ!?」
父が飲んでいた水を吹き出した。
「き、昨日婚約破棄されたばかりだろう!? しかも相手はあの氷の公爵!? お前、何か弱みでも握ったのか!?」
「人聞きの悪い。ヘッドハンティングですよ。私の実務能力が高く評価されたのです」
私はエッヘンと胸を張った。
「荷物はすでにまとめてあります。それでは、行ってまいります」
「え、今から!? 結納とか、式とかは!?」
「形式(プロトコル)は後回しです。現地では解決すべきタスクが山積みですので」
私は呆然とする両親に別れを告げ、ラシード様のエスコートで馬車に乗り込んだ。
公爵家の紋章が入った漆黒の馬車は、最高級のサスペンションを搭載しており、揺れ一つない。
「快適……」
私はシートに深く沈み込んだ。
向かいの席にはラシード様が座っている。
彼は窓の外を見ているふりをして、チラチラとこちらを見ているのが分かった。
(さて、これから向かう公爵邸……一体どんな惨状(カオス)が待っているのかしら)
不安?
いいえ。
私の胸にあるのは、掃除用具を手にした時の高揚感だけだ。
「楽しみですね、ラシード様」
「……ああ、私もだ」
彼の言う「楽しみ」と、私の「楽しみ」の意味が、決定的に食い違っていることに気づかないまま。
馬車は石畳を滑るように進み、やがて王都の一等地にある、威圧感たっぷりの巨大な屋敷の前で止まった。
「着いたぞ。ここが君の新しい職場(いえ)だ」
扉が開く。
そこに広がっていた光景を見て、私は思わず歓喜の声を上げた。
「わあ……! 素晴らしい!」
「……素晴らしい?」
ラシード様が首を傾げるのも無理はない。
目の前の庭園は雑草が伸び放題でジャングルと化し、屋敷の窓ガラスは曇り、玄関前にはなぜか壊れた馬車の車輪が放置されている。
まさに荒れ屋敷。
お化け屋敷一歩手前だ。
だが、私には見える。
このカオスの下に眠る、ポテンシャルの輝きが。
「やりがいしかありませんわ!」
私はドレスの裾をたくし上げ、戦場へと続く階段を駆け上がった。
「さあ、業務開始(おそうじ)の時間よ!」
私の第二の人生――『公爵夫人という名の社畜ライフ』が、今ここに幕を開けたのである。
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