悪役令嬢は婚約破棄に歓喜!

夏乃みのり

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「……素晴らしい」


玄関ホールに足を踏み入れた私は、思わず感嘆の声を漏らしていた。


広い。

無駄に広い。


床は大理石だが、埃でうっすらと灰色にくすんでいる。

天井のシャンデリアは蜘蛛の巣が張ってハロウィン仕様。

壁に飾られた名画は傾き、高価そうな花瓶はなぜか床に直置きされている。


そして極めつけは、整列して出迎えてくれた使用人たちの姿だ。


「お、お帰りなさいませ、旦那様……」


一列に並んでいるものの、背筋は曲がり、服のボタンは掛け違えられ、何より全員の目に生気がない。

まるでブラック企業で三連勤した後の社員のような、どんよりとしたオーラを纏っている。


「すまない、ミリュー」


隣でラシード様がバツが悪そうに顔を覆った。


「見ての通りだ。私は仕事にかまけて、屋敷の管理を執事に丸投げしていたのだが……その執事が先月、腰を痛めて引退してしまってな。それ以来、統制が取れなくなっている」


「なるほど。指揮官不在による組織の崩壊、およびモチベーションの低下ですね」


私はキラキラと目を輝かせた。


「最高です」


「……え?」


「これほど『改善の余地(のびしろ)』がある現場は、そうそうお目にかかれません! ああ、指が震えてきました。どこから手をつければいいのか、選択肢が多すぎて!」


私はうっとりと頬を染めた。

ラシード様が引いているが、気にしない。


私はツカツカと使用人たちの前へ進み出た。

彼らがビクッと身を縮める。

「新しい奥様だ……」

「怖そうな人だ……」

「また厳しくなるのか……」

そんな心の声が聞こえてきそうだ。


「皆様、初めまして。本日よりこの屋敷の『総務兼経理兼業務改善担当責任者(公爵夫人)』に就任しました、ミリューです」


私はニッコリと、営業用スマイル全開で挨拶した。


「堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。私が皆様に求めることは一つだけ。『効率』です」


「こ、こうりつ……?」


メイドの一人がおずおずと聞き返す。


「ええ。楽をして、早く仕事を終わらせ、たっぷり寝る。そのための『効率』です」


「寝る……?」


使用人たちがざわめいた。


「この屋敷の惨状を見るに、皆様は無駄な労働に追われていますね? 例えばそこの貴方、なぜその重い銀食器を一つずつ手で運んでいるのですか? ワゴンを使えば一度で済むのに」


「あ……ワゴンは車輪が壊れていて……」


「修理の発注は?」


「ど、どこに頼めばいいのか分からなくて……前任の執事様しか業者を知らなくて……」


「なるほど、業務の属人化が原因ですね。マニュアルが存在しない、と」


私はパチンと指を鳴らした。


「分かりました。私がすべて解決します。明日から皆様は、私の指示通りに動くだけで、労働時間が半分になります。空いた時間は昼寝に充てて構いません」


「えっ!? ほ、本当ですか!?」


死んだ魚のようだった使用人たちの目に、微かに光が宿る。


「嘘はつきません。私は無駄が嫌いですが、無意味な根性論はもっと嫌いです。さあ、まずは現状把握(ヒアリング)から始めましょうか!」


私は腕まくりをして、ズカズカと屋敷の奥へと進んでいく。


「あ、ミリュー、待ってくれ」


ラシード様が慌てて追いかけてくる。


「君に見せたい場所があるんだ。おそらく、君が一番気にするであろう場所が……」


「一番気にする場所?」


キッチン?

それとも倉庫?


ラシード様は重厚な扉の前で立ち止まり、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「……私の執務室だ」


「ああ、なるほど」


宰相閣下の仕事場。

この国の機密情報が集まる場所。

さぞかし厳重な警備と、整然とした書類棚があるのだろう。


「覚悟してくれ」


ラシード様がゆっくりと扉を開けた。


ギィィィ……と重い音がして、部屋の中が露わになる。


「…………」


私は言葉を失った。


そこは、雪国だった。


いや、違う。

床一面を覆い尽くしているのは、雪ではなく、白い紙の山だ。


足の踏み場がない。

デスクが見えない。

窓の高さまで書類が積み上がり、壁という壁が羊皮紙の地層で埋め尽くされている。


「これは……」


「……忙しくてな。とりあえず放り込んでいたら、こうなった」


「放り込んだ、とは?」


「文字通りだ。入り口から投げ入れた」


ラシード様が遠い目をする。


私は震える足で、その紙の海に一歩踏み出した。

カサリ、と音がする。


拾い上げた一枚を見る。

『重要:隣国との通商条約・原案』


「……重要書類が、床に落ちています」


もう一枚拾う。

『至急:国王陛下からの親書』


「……陛下の親書が、コースター代わりに使われた形跡があります」


さらにもう一枚。

『極秘:ラシード宰相の健康診断結果(再検査要)』


「……プライバシーが漏洩し放題です」


私は振り返り、ラシード様を見た。


彼はまるで、悪戯が見つかった子供のように縮こまっていた。


「怒るか? やはり、呆れたか?」


「…………」


私は書類を胸に抱きしめ、プルプルと震えた。


そして。


「ふ、ふふふ……」


「ミリュー?」


「あははははは!!」


私は高笑いをした。

笑いが止まらない。


「すごい! すごいですわラシード様! これぞカオス! これぞ混沌! 私が求めていた『やりがい』の具現化です!」


「ええ……?」


「見てください、この無秩序! ここから必要な情報をサルベージし、分類し、体系化する……想像しただけで脳汁が出そうです!」


私は紙の山にダイブしたい衝動を抑えきれず、ガサガサと書類の海を泳ぎ始めた。


「あ、これ! 三年前の未解決案件! こっちは昨日の決済書類! 時系列がバラバラ! パズルみたいで楽しい!」


「た、楽しいのか?」


「ええ! これなら三日は楽しめます! ありがとうございます、最高のプレゼントです!」


私は満面の笑みでラシード様に感謝を伝えた。

彼はポカンとしていたが、やがて安堵したようにふっと表情を緩めた。


「……君が喜んでくれるなら、散らかしておいた甲斐があったというものだ(違)」


「さあ、まずは雪かきならぬ紙かきからです! セバス(仮)! 誰か! 大きなカゴを十個持ってきて!」


私はドレスが汚れるのも構わず、猛然と仕分け作業を開始した。


私のスローライフ計画は、開始数時間にして完全に崩壊していた。

だが、今の私にそんなことを気にしている暇はない。


目の前に「整理されるのを待っている可哀想な書類たち」がいるのだから。


「この『公爵邸の惨状』……私が三日で『公爵邸の奇跡』に変えてみせますわ!」


宣言と共に、私はインクの匂いが染み付いた紙の山へと埋もれていった。
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