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翌朝。
公爵邸の執務室は、劇的なビフォーアフターを遂げていた。
「……これは、幻術か?」
朝の光が差し込む部屋に足を踏み入れたラシード様は、入り口で立ち尽くしていた。
昨夜まで雪山のように積もっていた書類の山は消滅していた。
床は磨き上げられ、大理石が鏡のように光を反射している。
壁際には、年代別・重要度別・案件別に分類されたファイルが整然と並び、デスクの上には「本日決裁すべき案件」だけが、うやうやしくトレイに乗せられていた。
そして、そのデスクの向こう側には。
「おはようございます、ラシード様(ボス)。定時より五分早い出勤、感心です」
私がいた。
朝日を背に浴び、湯気の立つコーヒーを片手に、優雅に微笑む私。
完璧だ。
これぞ『デキる秘書(兼・公爵夫人)』の朝である。
「ミリュー……君は、寝たのか?」
「ええ、きっちり六時間。快眠でした。この部屋の空気が浄化されたおかげで、マイナスイオン効果抜群でしたから」
嘘ではない。
昨夜、私はゾーンに入り、深夜二時には全ての片付けを終えていたのだ。
その後、勝利の美酒(白湯)を飲んで泥のように眠った。
ラシード様は恐る恐る部屋に入り、自分のデスクに近づいた。
「信じられん……あのカオスが、たった一晩で……」
「カオスを秩序(コスモス)に変える。それが私の仕事です」
私はトレイを差し出した。
「さあ、朝の決裁タイムです。上から順にハンコを押していけば、午前中の業務は三十分で終わります」
「さ、三十分? いつもは昼までかかっていたが……」
「要約(サマリー)をつけておきました。長い本文を読む必要はありません。私の要約を読んで『承認』か『却下』を判断するだけです」
ラシード様は一番上の書類を手に取った。
そこには付箋で、
『案件:北の森の伐採許可』
『推奨:承認』
『理由:木材価格高騰中のため、今売れば利益20%増。環境影響評価もクリア済み』
と、簡潔かつ完璧なメモが貼られていた。
「……分かりやすい」
ラシード様が震えた。
「いちいち難解な法文を読み解かなくていい……結論と根拠が一目で分かる……」
「でしょう? さあ、次へ行きましょう」
ポン、ポン、ポン。
小気味よい音が室内に響く。
ラシード様が決裁印を押すスピードが、次第に乗ってきた。
「早い……! 思考が止まらない! まるで氷の上を滑るようだ!」
「その調子です! 素晴らしいハンドリングです、閣下!」
三十分後。
「……終わった」
ラシード様は呆然と空になったトレイを見つめた。
「本当に終わってしまった。まだ朝の九時だぞ?」
「はい。ですので、ここからはフリータイムです。視察に行くもよし、趣味のチェスをするもよし、二度寝するもよし」
私はニッコリと微笑んだ。
すると、ラシード様が立ち上がり、私のデスクへと歩み寄ってきた。
その瞳は、いつになく熱っぽい。
「ミリュー」
「はい?」
彼は私の机に手をつき、至近距離で私を見下ろした。
整った顔立ちが迫る。
長い睫毛の一本一本まで数えられそうだ。
(お、怒られるのでしょうか? 勝手に模様替えしたことを)
少し身構える私に、彼は低い声で囁いた。
「……美しいな」
「へ?」
美しい?
部屋が?
それとも私の整理術が?
「君のその……無駄のない指の動き。そして、情報を処理する時の、あの冷徹なまでに澄んだ瞳。……見惚れてしまう」
「は、はあ……」
(えっと……それは褒め言葉と受け取ってよろしいので?)
「特に、この右手の小指の角度がいい」
ラシード様は私の右手をそっと取り、まじまじと観察し始めた。
「ペンを持つ時に、小指が僅かに浮くことで重心バランスを取っているのだろう? その機能美……たまらない」
「き、機能美……」
「ああ。君の存在そのものが、私の理想とする『効率の極致』だ。君を見ていると、複雑な数式が解けた時のような、至高の快感を覚える」
ラシード様はうっとりと私の手を撫でた。
私は困惑した。
これ、口説かれているのだろうか?
それとも、新型のロボットか何かとして評価されているのだろうか?
「あ、ありがとうございます……? ラシード様にそう言っていただけて、私のスペックも本望です」
「ミリュー」
彼はさらに顔を近づけてきた。
青い瞳が揺れている。
「時間が空いたなら……どうだ?」
「どうだ、と言いますと?」
「二人で……その、検証作業を行わないか?」
「検証作業?」
私は首を傾げた。
業務フローの見直しだろうか?
「庭園だ。……君と一緒に、庭園の……環境保全状況の視察を行いたい」
ラシード様は視線を逸らしながら、早口で言った。
「君という高度なセンサーを通して、我が家の庭が最適化されているか確認したいんだ。……二人きりで」
(なるほど!)
私はポンと手を打った。
「現地調査(フィールドワーク)ですね! いいですね、現場百回! 会議室で数字を見ているだけでは分からない問題点も見つかるはずです!」
「……あ、ああ。そうだ。フィールドワークだ」
ラシード様は少し肩を落としたようだが、私は気づかなかった。
私の頭の中は、すでに「荒れ放題の庭をどう効率的に再生させるか」というプランで一杯だったからだ。
◇
私たちは屋敷の中庭に出た。
そこは予想通りの惨状だった。
伸び放題の雑草。
剪定されていない薔薇。
水が濁った噴水。
「ひどい……」
私は絶句した。
これでは庭園というより、原生林だ。
「すまない。庭師が高齢で引退してから、誰も手入れをしていないんだ」
ラシード様が申し訳なさそうに言う。
「いえ、謝る必要はありません。むしろ燃えます」
私は拳を握りしめた。
「まずは除草からですね。人海戦術は非効率なので、除草剤の散布と、土壌改良魔法の併用を提案します」
私は手帳を取り出し、ガシガシとメモを取りながら歩き回る。
ラシード様は、そんな私の後ろを静かについてきていた。
「ミリュー」
「はい! あ、あそこの木、枝が腐りかけています! 伐採して薪にした方が燃料費の節約になりますね!」
「……君は、花は好きか?」
不意に、ラシード様が問いかけた。
「花ですか? ええ、嫌いではありません。季節感を演出するインテリアとして有用ですし、種類によっては薬草や香料としても換金できますから」
「……そうか」
ラシード様は立ち止まり、足元の雑草の中に紛れて咲いていた、一輪の青い花を摘み取った。
そして、それを私の髪にそっと挿した。
「え?」
私は驚いて動きを止めた。
ラシード様の手が、私の髪を優しく梳く。
「……この花の色は、君の瞳の色とは少し違うが……君の知的さを引き立てるアクセントとしては、悪くない」
「ア、アクセント……?」
「君という素材(キャンバス)が優秀だからな。どんな装飾も、君の機能を阻害することなく、むしろ相乗効果を生んでいる」
彼は真顔で言った。
眉間に皺を寄せ、まるで重要な論文を読み上げるかのようなトーンで。
「つまり……とても、似合っていると言いたい」
カアアアッ。
私の顔から火が出た。
最後の一言。
それだけは、事務的な評価ではなく、純粋な感想に聞こえたからだ。
(な、なによ今の……不意打ち!?)
私は慌てて髪の花に触れた。
野花だ。
売り物にもならない雑草の花。
でも、氷の公爵が、自ら摘んでくれた花。
「……こ、コストゼロのプレゼントですね。経済的でよろしいかと」
私は照れ隠しで、可愛げのないことを言ってしまった。
ああ、私の口が憎い。
もっと「嬉しいです」とか「素敵です」とか言えばいいのに。
しかし、ラシード様はそんな私の反応を見て、ふっと口元を緩めた。
「君らしい評価だ。……安心した」
「へ?」
「君が、ただ着飾ってニコニコしているだけの令嬢だったら、私はここまで惹かれなかっただろう」
彼は私の手帳を取り上げ、パラパラとめくった。
そこには『雑草駆除計画』『肥料コスト試算』などの文字が躍っている。
「この手帳こそが、君の美しさの証明だ。……愛おしい」
彼は手帳に口づけを落とした。
私に、ではなく。
私の書いた『文字』に。
(……この人、本当に変人だわ)
私は確信した。
私以上に仕事人間で、私以上に効率厨で、そして致命的にズレている。
でも。
胸の奥が、なんだかむず痒い。
ジェラルド殿下には「可愛げがない」と捨てられた手帳。
それを「愛おしい」と言ってくれる人が、目の前にいる。
「……お返しします」
私は真っ赤になりながら手帳を奪い返した。
「さ、さあ! 視察の続きです! 次は温室を見に行きますよ! 温度管理システムが故障していないかチェックしないと!」
私は逃げるように歩き出した。
背後で、ラシード様がクスクスと笑う気配がする。
氷の公爵が、あんなに温かい声で笑うなんて知らなかった。
「ああ、どこまでもついて行くよ。私の頼もしいパートナー」
◇
こうして、私たちの奇妙なデート(現地調査)は続いた。
私は気づいていなかった。
彼が私に向ける「機能美への称賛」が、彼なりの精一杯の「愛の告白」であることに。
そして彼もまた、不器用すぎて自分の気持ちが全く伝わっていないことに、気づいていなかった。
そんなすれ違いながらも穏やかな時間は、しかし、長くは続かなかった。
屋敷に戻った私たちを待っていたのは、慌てふためいた様子の執事セバス(仮・本名はトマスと判明)だった。
「旦那様! 奥様! 大変でございます!」
「どうした、トマス。騒々しい」
ラシード様が瞬時に『宰相』の顔に戻る。
「王城より緊急の使者が参りました! 王太子ジェラルド殿下の……側近の方です!」
「ジェラルド?」
私は眉をひそめた。
あのバカ殿下が、今さら何の用だろうか。
トマスは青ざめた顔で続けた。
「王太子殿下の執務室が……『機能停止した』とのことです。至急、ミリュー様に戻ってきてほしいと……!」
その言葉を聞いた瞬間。
ラシード様の周囲の温度が、一気に氷点下まで下がったのを、私は肌で感じた。
「……ほう?」
ラシード様が低く、地を這うような声で唸る。
「私が手に入れた『最高傑作』を、壊して捨てた分際で……今さら返せ、だと?」
彼の瞳から、ハイライトが消えていた。
これは――激怒している。
私は背筋が凍るのを感じながらも、どこかで冷静に計算していた。
(来ましたね。想定内(シナリオ通り)のトラブル発生です)
私は髪に挿した青い花を指で触れ、ニヤリと笑った。
「ラシード様。ここは一つ、倍返し……いえ、正規料金での『請求』を行うチャンスではありませんか?」
公爵邸の執務室は、劇的なビフォーアフターを遂げていた。
「……これは、幻術か?」
朝の光が差し込む部屋に足を踏み入れたラシード様は、入り口で立ち尽くしていた。
昨夜まで雪山のように積もっていた書類の山は消滅していた。
床は磨き上げられ、大理石が鏡のように光を反射している。
壁際には、年代別・重要度別・案件別に分類されたファイルが整然と並び、デスクの上には「本日決裁すべき案件」だけが、うやうやしくトレイに乗せられていた。
そして、そのデスクの向こう側には。
「おはようございます、ラシード様(ボス)。定時より五分早い出勤、感心です」
私がいた。
朝日を背に浴び、湯気の立つコーヒーを片手に、優雅に微笑む私。
完璧だ。
これぞ『デキる秘書(兼・公爵夫人)』の朝である。
「ミリュー……君は、寝たのか?」
「ええ、きっちり六時間。快眠でした。この部屋の空気が浄化されたおかげで、マイナスイオン効果抜群でしたから」
嘘ではない。
昨夜、私はゾーンに入り、深夜二時には全ての片付けを終えていたのだ。
その後、勝利の美酒(白湯)を飲んで泥のように眠った。
ラシード様は恐る恐る部屋に入り、自分のデスクに近づいた。
「信じられん……あのカオスが、たった一晩で……」
「カオスを秩序(コスモス)に変える。それが私の仕事です」
私はトレイを差し出した。
「さあ、朝の決裁タイムです。上から順にハンコを押していけば、午前中の業務は三十分で終わります」
「さ、三十分? いつもは昼までかかっていたが……」
「要約(サマリー)をつけておきました。長い本文を読む必要はありません。私の要約を読んで『承認』か『却下』を判断するだけです」
ラシード様は一番上の書類を手に取った。
そこには付箋で、
『案件:北の森の伐採許可』
『推奨:承認』
『理由:木材価格高騰中のため、今売れば利益20%増。環境影響評価もクリア済み』
と、簡潔かつ完璧なメモが貼られていた。
「……分かりやすい」
ラシード様が震えた。
「いちいち難解な法文を読み解かなくていい……結論と根拠が一目で分かる……」
「でしょう? さあ、次へ行きましょう」
ポン、ポン、ポン。
小気味よい音が室内に響く。
ラシード様が決裁印を押すスピードが、次第に乗ってきた。
「早い……! 思考が止まらない! まるで氷の上を滑るようだ!」
「その調子です! 素晴らしいハンドリングです、閣下!」
三十分後。
「……終わった」
ラシード様は呆然と空になったトレイを見つめた。
「本当に終わってしまった。まだ朝の九時だぞ?」
「はい。ですので、ここからはフリータイムです。視察に行くもよし、趣味のチェスをするもよし、二度寝するもよし」
私はニッコリと微笑んだ。
すると、ラシード様が立ち上がり、私のデスクへと歩み寄ってきた。
その瞳は、いつになく熱っぽい。
「ミリュー」
「はい?」
彼は私の机に手をつき、至近距離で私を見下ろした。
整った顔立ちが迫る。
長い睫毛の一本一本まで数えられそうだ。
(お、怒られるのでしょうか? 勝手に模様替えしたことを)
少し身構える私に、彼は低い声で囁いた。
「……美しいな」
「へ?」
美しい?
部屋が?
それとも私の整理術が?
「君のその……無駄のない指の動き。そして、情報を処理する時の、あの冷徹なまでに澄んだ瞳。……見惚れてしまう」
「は、はあ……」
(えっと……それは褒め言葉と受け取ってよろしいので?)
「特に、この右手の小指の角度がいい」
ラシード様は私の右手をそっと取り、まじまじと観察し始めた。
「ペンを持つ時に、小指が僅かに浮くことで重心バランスを取っているのだろう? その機能美……たまらない」
「き、機能美……」
「ああ。君の存在そのものが、私の理想とする『効率の極致』だ。君を見ていると、複雑な数式が解けた時のような、至高の快感を覚える」
ラシード様はうっとりと私の手を撫でた。
私は困惑した。
これ、口説かれているのだろうか?
それとも、新型のロボットか何かとして評価されているのだろうか?
「あ、ありがとうございます……? ラシード様にそう言っていただけて、私のスペックも本望です」
「ミリュー」
彼はさらに顔を近づけてきた。
青い瞳が揺れている。
「時間が空いたなら……どうだ?」
「どうだ、と言いますと?」
「二人で……その、検証作業を行わないか?」
「検証作業?」
私は首を傾げた。
業務フローの見直しだろうか?
「庭園だ。……君と一緒に、庭園の……環境保全状況の視察を行いたい」
ラシード様は視線を逸らしながら、早口で言った。
「君という高度なセンサーを通して、我が家の庭が最適化されているか確認したいんだ。……二人きりで」
(なるほど!)
私はポンと手を打った。
「現地調査(フィールドワーク)ですね! いいですね、現場百回! 会議室で数字を見ているだけでは分からない問題点も見つかるはずです!」
「……あ、ああ。そうだ。フィールドワークだ」
ラシード様は少し肩を落としたようだが、私は気づかなかった。
私の頭の中は、すでに「荒れ放題の庭をどう効率的に再生させるか」というプランで一杯だったからだ。
◇
私たちは屋敷の中庭に出た。
そこは予想通りの惨状だった。
伸び放題の雑草。
剪定されていない薔薇。
水が濁った噴水。
「ひどい……」
私は絶句した。
これでは庭園というより、原生林だ。
「すまない。庭師が高齢で引退してから、誰も手入れをしていないんだ」
ラシード様が申し訳なさそうに言う。
「いえ、謝る必要はありません。むしろ燃えます」
私は拳を握りしめた。
「まずは除草からですね。人海戦術は非効率なので、除草剤の散布と、土壌改良魔法の併用を提案します」
私は手帳を取り出し、ガシガシとメモを取りながら歩き回る。
ラシード様は、そんな私の後ろを静かについてきていた。
「ミリュー」
「はい! あ、あそこの木、枝が腐りかけています! 伐採して薪にした方が燃料費の節約になりますね!」
「……君は、花は好きか?」
不意に、ラシード様が問いかけた。
「花ですか? ええ、嫌いではありません。季節感を演出するインテリアとして有用ですし、種類によっては薬草や香料としても換金できますから」
「……そうか」
ラシード様は立ち止まり、足元の雑草の中に紛れて咲いていた、一輪の青い花を摘み取った。
そして、それを私の髪にそっと挿した。
「え?」
私は驚いて動きを止めた。
ラシード様の手が、私の髪を優しく梳く。
「……この花の色は、君の瞳の色とは少し違うが……君の知的さを引き立てるアクセントとしては、悪くない」
「ア、アクセント……?」
「君という素材(キャンバス)が優秀だからな。どんな装飾も、君の機能を阻害することなく、むしろ相乗効果を生んでいる」
彼は真顔で言った。
眉間に皺を寄せ、まるで重要な論文を読み上げるかのようなトーンで。
「つまり……とても、似合っていると言いたい」
カアアアッ。
私の顔から火が出た。
最後の一言。
それだけは、事務的な評価ではなく、純粋な感想に聞こえたからだ。
(な、なによ今の……不意打ち!?)
私は慌てて髪の花に触れた。
野花だ。
売り物にもならない雑草の花。
でも、氷の公爵が、自ら摘んでくれた花。
「……こ、コストゼロのプレゼントですね。経済的でよろしいかと」
私は照れ隠しで、可愛げのないことを言ってしまった。
ああ、私の口が憎い。
もっと「嬉しいです」とか「素敵です」とか言えばいいのに。
しかし、ラシード様はそんな私の反応を見て、ふっと口元を緩めた。
「君らしい評価だ。……安心した」
「へ?」
「君が、ただ着飾ってニコニコしているだけの令嬢だったら、私はここまで惹かれなかっただろう」
彼は私の手帳を取り上げ、パラパラとめくった。
そこには『雑草駆除計画』『肥料コスト試算』などの文字が躍っている。
「この手帳こそが、君の美しさの証明だ。……愛おしい」
彼は手帳に口づけを落とした。
私に、ではなく。
私の書いた『文字』に。
(……この人、本当に変人だわ)
私は確信した。
私以上に仕事人間で、私以上に効率厨で、そして致命的にズレている。
でも。
胸の奥が、なんだかむず痒い。
ジェラルド殿下には「可愛げがない」と捨てられた手帳。
それを「愛おしい」と言ってくれる人が、目の前にいる。
「……お返しします」
私は真っ赤になりながら手帳を奪い返した。
「さ、さあ! 視察の続きです! 次は温室を見に行きますよ! 温度管理システムが故障していないかチェックしないと!」
私は逃げるように歩き出した。
背後で、ラシード様がクスクスと笑う気配がする。
氷の公爵が、あんなに温かい声で笑うなんて知らなかった。
「ああ、どこまでもついて行くよ。私の頼もしいパートナー」
◇
こうして、私たちの奇妙なデート(現地調査)は続いた。
私は気づいていなかった。
彼が私に向ける「機能美への称賛」が、彼なりの精一杯の「愛の告白」であることに。
そして彼もまた、不器用すぎて自分の気持ちが全く伝わっていないことに、気づいていなかった。
そんなすれ違いながらも穏やかな時間は、しかし、長くは続かなかった。
屋敷に戻った私たちを待っていたのは、慌てふためいた様子の執事セバス(仮・本名はトマスと判明)だった。
「旦那様! 奥様! 大変でございます!」
「どうした、トマス。騒々しい」
ラシード様が瞬時に『宰相』の顔に戻る。
「王城より緊急の使者が参りました! 王太子ジェラルド殿下の……側近の方です!」
「ジェラルド?」
私は眉をひそめた。
あのバカ殿下が、今さら何の用だろうか。
トマスは青ざめた顔で続けた。
「王太子殿下の執務室が……『機能停止した』とのことです。至急、ミリュー様に戻ってきてほしいと……!」
その言葉を聞いた瞬間。
ラシード様の周囲の温度が、一気に氷点下まで下がったのを、私は肌で感じた。
「……ほう?」
ラシード様が低く、地を這うような声で唸る。
「私が手に入れた『最高傑作』を、壊して捨てた分際で……今さら返せ、だと?」
彼の瞳から、ハイライトが消えていた。
これは――激怒している。
私は背筋が凍るのを感じながらも、どこかで冷静に計算していた。
(来ましたね。想定内(シナリオ通り)のトラブル発生です)
私は髪に挿した青い花を指で触れ、ニヤリと笑った。
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