毒舌悪役令嬢、婚約破棄されて素に戻る。君の罵倒が最高の癒やし?

夏乃みのり

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「くく……ははは! ああ、腹が痛い。駄目だ、止まらない」

静寂に包まれた大広間で、その男の笑い声だけが朗々と響き渡っていた。

アイザック・ル・グラン。

隣国ガレリア帝国の若き公爵であり、冷徹な外交手腕から「氷の公爵」と恐れられる人物だ。

彼が笑うところなど、誰も見たことがないはずだった。

それなのに、今の彼は目尻に涙を浮かべ、肩を震わせている。

私は呆気に取られながら、その美貌の公爵を見つめた。

(……噂と随分違うわね。氷どころか、沸点が低すぎて溶けてるじゃない)

レジナルド殿下が、顔を真っ赤にして叫んだ。

「ア、アイザック殿! 何がおかしいのですか! 他国の王族が侮辱されているのですよ!?」

アイザック公爵は、ようやく笑いを収めると、涙を指で拭いながらゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。

その優雅な身のこなしは、さながら獲物に近づく黒豹のようだ。

「失敬。あまりにも爽快な論破だったものでね。レジナルド殿下、彼女の言う通りではありませんか」

「なっ……!?」

「先日の通商条約の件だ。貴殿が提示してきた修正案があまりにも完璧で、論理的かつ双方の利益を損なわない素晴らしいものだったので驚いていたのだが……」

公爵はそこで言葉を切り、私の方を見てニヤリと笑った。

その瞳は、面白がる子供のように輝いている。

「あれを書いたのは、貴殿ではなかったということですな。どうりで、今日の会議で条文の意図を尋ねても、しどろもどろだったわけだ」

殿下の顔色が、赤から青、そして白へと変わっていく。

「そ、それは……! 僕は全体を監修しただけで……細部は部下に任せて……」

「監修? はんこを押しただけの間違いでは?」

私が横から口を挟むと、殿下は「ひいっ」と情けない声を上げた。

アイザック公爵がまた肩を震わせる。

「くく……手厳しいな。だが、その通りだ。私は無能な働き者よりも、有能な毒舌家の方が好みでね」

公爵は私の目の前で足を止めると、恭しく一礼した。

「初めまして、クリム・ベルベット嬢。素晴らしい演説だった。長年の便秘が解消したような気分だよ」

「……それは恐縮ですわ、公爵様。私の言葉が下剤代わりになったようで何よりです」

私がすかさず切り返すと、周囲の貴族たちが「ひっ」と息を呑む音が聞こえた。

相手は隣国の重鎮だ。不敬罪で斬られても文句は言えない。

しかし、アイザック公爵は斬りかかるどころか、さらに嬉しそうに目を細めた。

「ははは! いい、すごくいい。君、本当に面白いな。猫を被っていた時とは別人のようだ」

「あら、ご存知でしたの?」

「以前、夜会で一度見かけたことがある。その時は壁の花のように大人しく、退屈そうな顔をしていたからな。まさか中身がこれほど猛獣だとは思いもしなかった」

「猛獣とは失礼な。私はただ、理不尽に対して正当防衛をしているだけですわ」

私が胸を張って答えると、公爵は満足そうに頷いた。

その時だ。

蚊帳の外に置かれていたモモが、空気を読まずに割り込んできた。

「あのぉ、公爵様ぁ? そんな意地悪な人の味方をするなんて変ですよぉ。クリム様は悪役令嬢なんですよ? レジ様をいじめたんですよ?」

モモは上目遣いで公爵の腕に触れようとする。

しかし。

アイザック公爵の纏う空気が、一瞬にして絶対零度まで下がった。

「……触るな」

「え?」

「香水の匂いがきつい。鼻が曲がりそうだ」

冷え冷えとした声。

先ほどまで私に見せていた楽しげな表情は消え失せ、そこには噂通りの「氷の公爵」がいた。

モモがびくりと震えて後ずさる。

「ひっ……ご、ごめんなさい……」

「それに、勘違いをしているようだが」

公爵は冷ややかな瞳でレジナルド殿下とモモを見下ろした。

「私は彼女の味方をしたわけではない。ただ、事実を陳列したまでだ。無実の者を証拠もなく断罪し、あまつさえその能力を理解せずに切り捨てる……。ガレリア帝国ならば、貴様らは即刻廃嫡だぞ」

その言葉の重みに、会場中が静まり返る。

隣国の公爵からの、実質的な「無能宣告」だ。

レジナルド殿下はわなわなと震え、何か言い返そうとするが、言葉が出てこない。

私は心の中で拍手喝采を送った。

(ナイスアシストですわ、公爵様! 私が言うとただの悪口ですが、貴方様が言うと外交問題になりますものね!)

これ以上の長居は無用だ。

私はスカートの裾をつまみ、優雅にカーテシーをした。

相手は元婚約者ではなく、アイザック公爵に対してだ。

「助太刀、感謝いたしますわ。おかげでスムーズに退場できそうです」

「礼には及ばない。良い余興を見せてもらった」

「では、私はこれにて。……ああ、最後に一つだけ」

私はくるりと振り返り、レジナルド殿下を見た。

「殿下。婚約破棄の書類ですが、明日の朝一番で王城に届けさせますわ。サインを忘れないでくださいね? もし渋るようなら……」

私はにっこりと微笑んだ。

「これまでの殿下の『公務サボり記録』と『架空経費の使い込みリスト』、それにモモ様への『恥ずかしいポエム集』を製本して、国民全員に配布いたしますので」

「ひいいいいいっ! わ、わかった! すぐ書く! すぐ書くからあぁぁ!!」

殿下の悲鳴を背中で受け止めながら、私は大広間の扉へと向かった。

背筋を伸ばし、堂々と。

左右に割れる貴族たちの視線が、侮蔑から畏怖へと変わっているのが肌でわかる。

扉を開けると、夜の冷たい風が頬を撫でた。

「……あー、すっきりした!!」

誰もいない廊下に出た瞬間、私は大きく伸びをした。

終わった。

ついに終わったのだ。

地獄のような王妃教育も、胃がキリキリするような王子のお守りも、猫を被り続ける窮屈な日々も。

これからは自由だ。

田舎の領地に引きこもって、好きなだけ本を読み、昼まで寝て、美味しいものを食べるのだ。

「待て」

浮かれる私の背後に、低い声がかかった。

振り返ると、そこには先ほどのアイザック公爵が立っていた。

護衛もつけず、一人で追いかけてきたようだ。

「……何か? まだ私の悪口芸が聞き足りないので?」

「いや、そうではない。……いや、それもあるが」

公爵は少しだけバツが悪そうに視線を逸らし、それから真剣な眼差しで私を見た。

「クリム嬢。君、これからどうするつもりだ?」

「どうするも何も、実家に帰ってニート……いえ、悠々自適なスローライフを送る予定ですが」

「侯爵家がそれを許すかな? 王家に恥をかかせた娘だ。修道院送りか、あるいは……」

「あるいは?」

「どこかの好色な老貴族の後妻にでも売り飛ばされるのがオチだろう」

私は眉をひそめた。

確かに、父は世間体を気にするタイプだ。

私がさっきあんな大立ち回りをしたことは、すぐに父の耳に入るだろう。

そうなれば、「傷物」になった娘を厄介払いしようとする可能性は高い。

(……む。計算外だったわね。勢いでやっちゃったけど、帰る場所がないかもしれない?)

私が渋い顔をしていると、アイザック公爵が一歩近づいてきた。

「そこでだ、クリム嬢。君に提案がある」

「提案?」

「君、ガレリアに来ないか?」

「は?」

唐突なスカウトに、私は素っ頓狂な声を上げた。

「ガレリアって……隣国のですか? 私を亡命させるおつもりで?」

「亡命ではない。就職だ」

公爵は懐から一枚の名刺……のような、金箔押しのカードを取り出した。

「私の補佐官を探していてね。条件は『度胸があること』『頭が回ること』そして『私を恐れずに意見できること』だ。今のところ、君以上の適任者はいない」

「補佐官……?」

「給与は弾む。王妃教育を受けていたなら、事務処理能力もマナーも完璧だろう。衣食住は保証するし、君の実家には私がうまく圧力をかけておく」

なんて魅力的な条件だろう。

実家からの追放や修道院行きを回避できる上に、高待遇の就職先。

しかも、相手はあの「氷の公爵」。

普通の令嬢なら、「公爵様の側にお仕えできるなんて!」と失神するレベルの話だ。

しかし、私はクリム・ベルベットだ。

うまい話には裏があることを知っている。

私は疑り深い目で公爵を見上げた。

「……公爵様。貴方様ほどの方が、なぜ私のような『傷物』の令嬢を? まさか、夜のお相手も込みで、なんて仰るつもりじゃありませんよね?」

私の毒を含んだ問いに、公爵はきょとんとし、それからまた楽しそうに笑った。

「くく……発想まで飛び抜けているな。安心してくれ、私は公私混同はしない主義だ。それに、今の君を見て欲情する男がいたら、それはよほどのマゾヒストだろう」

「あら、それは残念。私の魅力が伝わらないとは」

「減らず口もそこまで回れば才能だ。……で、どうする? このまま実家に帰って説教されるか、私と一緒に来てその才能を活かすか」

公爵は手を差し出した。

その手は大きく、剣だこがあり、武人の手だった。

私は少し考えた。

レジナルド殿下の顔は見たくない。

父上の説教も聞きたくない。

この国には、もう未練なんてこれっぽっちもない。

だったら、新天地で好き勝手に生きるのも悪くないかもしれない。

何より、この公爵。

私の毒舌を聞いて笑った、世界で初めての変人だ。

彼の下でなら、少なくとも退屈はしなそうだ。

私はニヤリと笑うと、パチンと音を立ててその手を取った。

「交渉成立ですわ、雇い主様(ボス)。ただし、残業代はきっちり請求させていただきますからね!」
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