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国境を越える馬車の旅は、予想に反して快適そのものだった。
振動を吸収する魔法仕掛けのサスペンション、最高級の羽毛を使ったクッション、そして備え付けの保冷庫には冷えたシャンパンとフルーツ。
「……公爵様。一つ質問してもよろしいですか」
私はクリスタルグラスを傾けながら、向かいの席で優雅に本を読んでいるアイザック公爵に声をかけた。
公爵は顔を上げ、爽やかな笑みを向ける。
「なんだい? 空調が寒いか? それともおやつが足りない?」
「いいえ。この待遇があまりに良すぎるので、逆に不安になっているのです」
私はジト目で彼を見た。
「『タダより高いものはない』と言いますわ。これほどの高待遇……到着した瞬間に『実は借金返済のためにマグロ漁船に乗ってもらう』とか、『地下闘技場でモンスターと戦ってもらう』とか言い出しませんよね?」
公爵はまたしても面白そうに吹き出した。
「くく……君の想像力は本当に豊かだな。安心してくれ。私は君を戦わせるつもりはない。……肉体的にはな」
「肉体的には? 含みのある言い方ですね」
「精神的な戦場には立ってもらうかもしれないが」
公爵はパタンと本を閉じ、真面目な顔になった。
「さて、移動の暇つぶしに、君の仕事内容(ジョブ・ディスクリプション)について説明しておこうか」
「ええ、是非。場合によってはここで飛び降りますので」
「早まらないでくれ。……君に頼みたいのは、私の『筆頭補佐官』としての業務だ」
「筆頭? いきなりトップですか? 貴方様の部下たちから背中を刺されませんか?」
「大丈夫だ。私の部下たちは優秀だが……致命的な欠点があってね」
公爵は遠い目をした。
「彼らは私を『完璧超人』だと思い込んでいるのだ。『公爵閣下の仰ることは絶対だ』『閣下の排出した二酸化炭素すら尊い』といった具合に、信仰が過ぎる」
「うわぁ……」
私は思わず顔をしかめた。
「宗教団体ですか? 気持ち悪いですね」
「はっきり言うな君は。……まあ、否定はしない。そのせいで、私が何か冗談を言っても『深淵なる叡智が含まれているに違いない』と深読みされ、会議が迷走するのだ。私が『今日は暑いな』と言っただけで、翌日には城中の暖炉が撤去されかけたこともある」
「……それはもう、忠誠心というより嫌がらせの域では?」
「だろう? だから私は求めていたのだ。私に対して物怖じせず、間違っていることは間違っていると言い、私の冗談に『つまらない』とツッコミを入れてくれる人材を」
公爵は身を乗り出し、私の目をじっと見つめた。
「つまり君の主な仕事は、私を崇拝するイエスマンたちを正論で黙らせ、そして時々暴走しかける私を毒舌で罵倒して止めることだ」
私は呆れて口を開けた。
「……要約すると、『猛獣使い』兼『ツッコミ役』ということですか?」
「その通り。給与は王国の大臣クラスの三倍出そう」
「やります」
私は即答した。
「現金だな」
「お金は裏切りませんから。それに、イエスマンばかりの会議なんて、聞いているだけで蕁麻疹が出そうです。私がその腐った空気を換気して差し上げましょう」
「頼もしい限りだ。……ああ、それともう一つ」
公爵は少し声を潜めた。
「我がガレリア帝国には、少々厄介な『害虫』が多くてね」
「害虫? シロアリ駆除も業務範囲内ですか?」
「似たようなものだ。……古狸のような貴族や、私の足を引っ張ろうとする他国のスパイ、そして……私に見合い写真を送りつけてくる大量の女性たちだ」
公爵はげっそりとした顔をした。
「特に女性関係が面倒だ。『氷の公爵』などと呼ばれているせいで、逆に『私がその氷を溶かしてみせるわ!』と燃え上がる令嬢が多くてな。執務室まで突撃してくる者もいる」
「なるほど。つまり私は『魔除け』の役割も果たせと」
「言い方はあれだが、そうだ。君のその切れ味鋭い毒舌で、彼女たちの恋心を粉砕してほしい」
私はニヤリと笑った。
それは得意分野だ。
「お任せください。恋に恋するお花畑な脳みそを現実に引き戻すのは、私のライフワークです。泣いて実家に帰るまで、論理的に追い詰めて差し上げますわ」
「……敵に回さなくて本当によかったよ」
公爵が苦笑いをした時、馬車が大きく揺れた。
窓の外を見ると、巨大な城壁が見えてきた。
「見えてきたぞ。あれが私の居城、白嶺(はくれい)城だ」
霧の向こうにそびえ立つのは、実家の屋敷など比較にならないほど巨大で荘厳な城だった。
尖塔が天を突き、城壁は雪のように白い。
まさに「北の大国」の威容だ。
「ほう……。なかなか悪くない物件ですね。日当たりは良さそうですし」
「感想が不動産屋だな」
馬車は城門をくぐり、広大な前庭へと入っていく。
そこには、整列した兵士たちと、ずらりと並んだ使用人たちが待ち構えていた。
馬車が止まり、従者が扉を開ける。
「到着だ、クリム嬢。ようこそ、ガレリアへ」
公爵が先に降り、私に手を差し出した。
私はその手を取り、ステップを降りる。
その瞬間。
「「「「閣下!! おかえりなさいませ!!!」」」」
数百人の使用人たちが一斉に頭を下げた。
その声の大きさは、地響きかと思うほどだ。
そして、最前列にいた執事らしき初老の男性が、涙を流しながら駆け寄ってきた。
「おお……閣下! ご無事で! 隣国へ単身乗り込まれたと聞き、爺(じい)は心配で夜も眠れず、枕を三つも濡らしましたぞ!」
「大げさだ、セバスチャン。散歩に行ってきただけだ」
「散歩!? 隣国への不法侵入を散歩とは……さすが閣下! 常人には計り知れぬスケール! そこに痺れる憧れるゥ!」
……なるほど。
これが「信仰が過ぎる」部下たちか。
私は冷めた目でその光景を見ていた。
すると、セバスチャンと呼ばれた執事が、ようやく私の存在に気づいた。
「ん? 閣下、その後ろの女性は……?」
公爵が私を紹介しようと口を開きかけた時、私は一歩前に出た。
「初めまして。本日より閣下の『精神安定剤』兼『害虫駆除担当』として着任いたしました、クリム・ベルベットと申します」
私は優雅にカーテシーをした。
「以後、よろしくお願いいたしますわ。……ところで、そこの爺や」
「は、はい?」
「閣下の帰還に感動するのは結構ですが、鼻水が出ていますわよ。主人の出迎えにその身だしなみは、三流のすることです」
私がハンカチを差し出すと、セバスチャンは鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まった。
周囲の使用人たちも「えっ……あのセバスチャン様に……」「初対面で説教……?」とざわめいている。
セバスチャンは震える手でハンカチを受け取り、鼻をかんだ。
そして、目を輝かせて私を見た。
「……素晴らしい!!」
「はい?」
「私のような古株にも臆せず、的確な指摘! しかもハンカチを貸すという慈悲深さ! 閣下! 素晴らしい方を連れてこられましたな! まさに『氷の公爵』にふさわしい、『氷の女神』でございます!」
「……は?」
私は呆気にとられた。
公爵を見ると、彼は「だから言っただろう?」という顔で肩をすくめている。
「彼らは、私に関係するものなら何でも肯定するんだ。……君の苦労がわかったかい?」
「……ええ、骨身に沁みてわかりました」
私は頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。
「どうやら、害虫駆除の前に、まずはこの『お花畑』の土壌改良から始めなければならないようですね」
「頼んだよ、私の最強の補佐官」
こうして、私のガレリアでの新生活は幕を開けた。
予想以上にカオスで、そしてやりがい(ストレス)のありそうな職場で。
振動を吸収する魔法仕掛けのサスペンション、最高級の羽毛を使ったクッション、そして備え付けの保冷庫には冷えたシャンパンとフルーツ。
「……公爵様。一つ質問してもよろしいですか」
私はクリスタルグラスを傾けながら、向かいの席で優雅に本を読んでいるアイザック公爵に声をかけた。
公爵は顔を上げ、爽やかな笑みを向ける。
「なんだい? 空調が寒いか? それともおやつが足りない?」
「いいえ。この待遇があまりに良すぎるので、逆に不安になっているのです」
私はジト目で彼を見た。
「『タダより高いものはない』と言いますわ。これほどの高待遇……到着した瞬間に『実は借金返済のためにマグロ漁船に乗ってもらう』とか、『地下闘技場でモンスターと戦ってもらう』とか言い出しませんよね?」
公爵はまたしても面白そうに吹き出した。
「くく……君の想像力は本当に豊かだな。安心してくれ。私は君を戦わせるつもりはない。……肉体的にはな」
「肉体的には? 含みのある言い方ですね」
「精神的な戦場には立ってもらうかもしれないが」
公爵はパタンと本を閉じ、真面目な顔になった。
「さて、移動の暇つぶしに、君の仕事内容(ジョブ・ディスクリプション)について説明しておこうか」
「ええ、是非。場合によってはここで飛び降りますので」
「早まらないでくれ。……君に頼みたいのは、私の『筆頭補佐官』としての業務だ」
「筆頭? いきなりトップですか? 貴方様の部下たちから背中を刺されませんか?」
「大丈夫だ。私の部下たちは優秀だが……致命的な欠点があってね」
公爵は遠い目をした。
「彼らは私を『完璧超人』だと思い込んでいるのだ。『公爵閣下の仰ることは絶対だ』『閣下の排出した二酸化炭素すら尊い』といった具合に、信仰が過ぎる」
「うわぁ……」
私は思わず顔をしかめた。
「宗教団体ですか? 気持ち悪いですね」
「はっきり言うな君は。……まあ、否定はしない。そのせいで、私が何か冗談を言っても『深淵なる叡智が含まれているに違いない』と深読みされ、会議が迷走するのだ。私が『今日は暑いな』と言っただけで、翌日には城中の暖炉が撤去されかけたこともある」
「……それはもう、忠誠心というより嫌がらせの域では?」
「だろう? だから私は求めていたのだ。私に対して物怖じせず、間違っていることは間違っていると言い、私の冗談に『つまらない』とツッコミを入れてくれる人材を」
公爵は身を乗り出し、私の目をじっと見つめた。
「つまり君の主な仕事は、私を崇拝するイエスマンたちを正論で黙らせ、そして時々暴走しかける私を毒舌で罵倒して止めることだ」
私は呆れて口を開けた。
「……要約すると、『猛獣使い』兼『ツッコミ役』ということですか?」
「その通り。給与は王国の大臣クラスの三倍出そう」
「やります」
私は即答した。
「現金だな」
「お金は裏切りませんから。それに、イエスマンばかりの会議なんて、聞いているだけで蕁麻疹が出そうです。私がその腐った空気を換気して差し上げましょう」
「頼もしい限りだ。……ああ、それともう一つ」
公爵は少し声を潜めた。
「我がガレリア帝国には、少々厄介な『害虫』が多くてね」
「害虫? シロアリ駆除も業務範囲内ですか?」
「似たようなものだ。……古狸のような貴族や、私の足を引っ張ろうとする他国のスパイ、そして……私に見合い写真を送りつけてくる大量の女性たちだ」
公爵はげっそりとした顔をした。
「特に女性関係が面倒だ。『氷の公爵』などと呼ばれているせいで、逆に『私がその氷を溶かしてみせるわ!』と燃え上がる令嬢が多くてな。執務室まで突撃してくる者もいる」
「なるほど。つまり私は『魔除け』の役割も果たせと」
「言い方はあれだが、そうだ。君のその切れ味鋭い毒舌で、彼女たちの恋心を粉砕してほしい」
私はニヤリと笑った。
それは得意分野だ。
「お任せください。恋に恋するお花畑な脳みそを現実に引き戻すのは、私のライフワークです。泣いて実家に帰るまで、論理的に追い詰めて差し上げますわ」
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公爵が苦笑いをした時、馬車が大きく揺れた。
窓の外を見ると、巨大な城壁が見えてきた。
「見えてきたぞ。あれが私の居城、白嶺(はくれい)城だ」
霧の向こうにそびえ立つのは、実家の屋敷など比較にならないほど巨大で荘厳な城だった。
尖塔が天を突き、城壁は雪のように白い。
まさに「北の大国」の威容だ。
「ほう……。なかなか悪くない物件ですね。日当たりは良さそうですし」
「感想が不動産屋だな」
馬車は城門をくぐり、広大な前庭へと入っていく。
そこには、整列した兵士たちと、ずらりと並んだ使用人たちが待ち構えていた。
馬車が止まり、従者が扉を開ける。
「到着だ、クリム嬢。ようこそ、ガレリアへ」
公爵が先に降り、私に手を差し出した。
私はその手を取り、ステップを降りる。
その瞬間。
「「「「閣下!! おかえりなさいませ!!!」」」」
数百人の使用人たちが一斉に頭を下げた。
その声の大きさは、地響きかと思うほどだ。
そして、最前列にいた執事らしき初老の男性が、涙を流しながら駆け寄ってきた。
「おお……閣下! ご無事で! 隣国へ単身乗り込まれたと聞き、爺(じい)は心配で夜も眠れず、枕を三つも濡らしましたぞ!」
「大げさだ、セバスチャン。散歩に行ってきただけだ」
「散歩!? 隣国への不法侵入を散歩とは……さすが閣下! 常人には計り知れぬスケール! そこに痺れる憧れるゥ!」
……なるほど。
これが「信仰が過ぎる」部下たちか。
私は冷めた目でその光景を見ていた。
すると、セバスチャンと呼ばれた執事が、ようやく私の存在に気づいた。
「ん? 閣下、その後ろの女性は……?」
公爵が私を紹介しようと口を開きかけた時、私は一歩前に出た。
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私は優雅にカーテシーをした。
「以後、よろしくお願いいたしますわ。……ところで、そこの爺や」
「は、はい?」
「閣下の帰還に感動するのは結構ですが、鼻水が出ていますわよ。主人の出迎えにその身だしなみは、三流のすることです」
私がハンカチを差し出すと、セバスチャンは鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まった。
周囲の使用人たちも「えっ……あのセバスチャン様に……」「初対面で説教……?」とざわめいている。
セバスチャンは震える手でハンカチを受け取り、鼻をかんだ。
そして、目を輝かせて私を見た。
「……素晴らしい!!」
「はい?」
「私のような古株にも臆せず、的確な指摘! しかもハンカチを貸すという慈悲深さ! 閣下! 素晴らしい方を連れてこられましたな! まさに『氷の公爵』にふさわしい、『氷の女神』でございます!」
「……は?」
私は呆気にとられた。
公爵を見ると、彼は「だから言っただろう?」という顔で肩をすくめている。
「彼らは、私に関係するものなら何でも肯定するんだ。……君の苦労がわかったかい?」
「……ええ、骨身に沁みてわかりました」
私は頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。
「どうやら、害虫駆除の前に、まずはこの『お花畑』の土壌改良から始めなければならないようですね」
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