毒舌悪役令嬢、婚約破棄されて素に戻る。君の罵倒が最高の癒やし?

夏乃みのり

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一方その頃。

私が快適なブラック職場(公爵城)でポエムと格闘していた時、捨ててきた祖国では、予言通り「地獄」の蓋が開いていた。

場所は王城、第一王子の執務室。

「違う! これじゃない! 僕が欲しいのは昨年度の予算案だと言っているだろう!!」

レジナルド殿下の悲鳴にも似た怒号が響き渡った。

彼は髪を振り乱し、目の下に濃いクマを作り、まるで数日間遭難した登山家のような形相で机にしがみついていた。

「えぇ~……レジ様ぁ、怒らないでくださいよぉ」

部屋の隅で、ヒロインのモモがめそめそと泣いている。

「だってぇ、字がいっぱい書いてあって、どれが予算案か分かんないんですぅ。私、難しいこと分かんなぁい」

「分からないじゃない! 表紙に大きく『予算案』と書いてあるだろう! 文字も読めないのか!」

「ひどぉい! レジ様、昔は『君は何も知らなくていい、その無垢な笑顔があればいい』って言ってくれたのにぃ!」

「笑顔で書類仕事が終わるなら苦労はしないんだよ!!」

レジナルドはバン! と机を叩いた。

以前の彼なら、モモの涙を見ればすぐにデレデレしていただろう。

だが、三日三晩徹夜をして、カフェインだけで生き延びている今の彼に、そんな余裕は微塵もない。

「くそっ……どうなっているんだ! クリムがいた頃は、僕が『あれ』と言えば書類が出てきたし、『これ』と言えばお茶が出てきたぞ!」

彼は無意識に比較していた。

クリム・ベルベット。

あのにっくき悪役令嬢。

彼女は可愛げこそなかったが、仕事においては完璧だった。

レジナルドが席に着く前に、必要な資料は順序よく並べられ、重要なポイントには付箋が貼られ、羽ペンのインクは補充されていた。

それが「当たり前」だと思っていた。

小人が夜中にやってくれているのだと本気で思っていた時期さえある。

だが、小人はいなかった。

いたのは、徹夜で準備をしていたクリムだけだったのだ。

「……失礼します」

重苦しい空気の中、初老の宰相が入室してきた。

その顔は、死刑判決を読み上げる裁判官のように厳しい。

「……殿下。例の『隣国との通商条約』の件ですが」

「あ、ああ! どうなった? うまくいったか?」

「……破談になりました」

「は?」

レジナルドの手からペンが滑り落ちた。

「は、破談? なぜだ! 僕が監修した完璧な条約案だったはずだぞ!」

「先方の担当者がこう言ったそうです。『以前の担当者(クリム嬢)が作った修正案は素晴らしかったが、今回送られてきた最終案は論理が破綻している。小学生の作文かと思った』と」

「しょ、小学生……っ!?」

「さらに、国内の貴族たちからも苦情が殺到しております。『夜会の手配ミスで招待状が届いていない』『祝賀パレードの警備計画がずさんすぎる』『そもそも殿下のスピーチ原稿がつまらない』……全て、以前はクリム嬢が裏で調整していた案件です」

宰相は冷ややかな目で王子を見下ろした。

「殿下。はっきり申し上げますが、今の殿下の政務能力は、クリム嬢の補佐があって初めて成り立っていたものです。彼女を追放した今、貴方様は……言葉を選ばずに言えば、『ただの飾り』です」

「な、な……っ!!」

レジナルドは顔を真っ赤にして立ち上がった。

「無礼な! 僕は王子だぞ! クリムごときがいなくたって……!」

「では、この書類の山を今日中に処理してください。期限は日没まで。出来なければ、陛下にご報告いたします」

宰相は冷たく言い放ち、部屋を出て行った。

残されたのは、絶望的な量の書類と、役に立たないモモ、そしてプライドだけが高い王子。

「……う、うう……」

レジナルドはガクリと膝をついた。

認めなくない。

あんな生意気で、可愛げのない女に、自分が支えられていたなんて。

「レジ様ぁ……お腹すきましたぁ。ケーキ食べに行きましょうよぉ」

「黙れ!!」

レジナルドは叫んだ。

その時だ。

机の上に放置されていた一通の報告書が、風でめくれた。

それは、国境警備隊からの報告だった。

『報告:先日、隣国のアイザック・ル・グラン公爵が極秘裏に越境し、ベルベット侯爵令嬢クリム様を連れ去ったとの情報あり』

「……え?」

レジナルドは、その紙をひったくるように手に取った。

「アイザック……? あの『氷の公爵』が……クリムを連れ去った?」

彼の脳内で、都合の良い変換が行われる。

クリムは自分の意思で出ていったのではない。

あの冷酷無比な公爵に、無理やり拉致されたのだ。

そうでなければ、自分という素晴らしい婚約者を捨てていくはずがない!

「そ、そうか……! そうだったのか!」

レジナルドの目に、狂気じみた光が戻った。

「クリムは被害者なんだ! あの悪魔のような公爵に騙され、脅され、連れ去られたに違いない!」

「ええっ? そうなのぉ?」

モモが首を傾げる。

「だってぇ、あの公爵様、かっこよかったしぃ。クリム様、自分から『ボス』とか呼んで楽しそうでしたよぉ?」

「それは洗脳だ! 可哀想なクリム……きっと今頃、冷たい地下牢で泣きながら僕の助けを待っているんだ!」

レジナルドは立ち上がった。

彼の現実逃避(妄想)は、限界突破していた。

今の無能さを棚に上げ、「さらわれた元婚約者を助けに行く悲劇の王子」というシナリオに酔いしれ始めたのだ。

「モモ! 支度をしろ! 隣国へ行くぞ!」

「えぇ~? 仕事はぁ?」

「知るか! クリムを取り戻せば、こんな仕事は全部あいつがやってくれるんだ! 僕たちはまた、お茶を飲んで笑っていればいいんだよ!」

「あ、それなら賛成~! 行きましょ~!」

二人は手を取り合った。

その思考回路は、どこまでもポジティブで、そしてどこまでも他力本願だった。

「待っていろクリム! 今、僕が助けてやるからな! そして戻ってきたら、泣いて詫びさせて、一生僕のために働かせてやる!」

レジナルドは窓を開け、北の空に向かって叫んだ。

その背中には、国の未来を放り出した無責任さが輝いていた。

こうして。

「勘違い王子」と「お花畑ヒロイン」の、迷惑極まりない隣国への旅が始まったのである。

……ちなみに、宰相は彼らが城を抜け出したのを見て、安堵のため息をついていた。

「今のうちに、優秀な第二王子を呼び戻すか……。あの馬鹿王子、そのまま帰ってこなければいいのに」

祖国の命運は、皮肉にも彼らが去ったことで好転しようとしていた。
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