毒舌悪役令嬢、婚約破棄されて素に戻る。君の罵倒が最高の癒やし?

夏乃みのり

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「……ボス。いつまで手を握っているおつもりですか?」

夕暮れに染まる帰り道。

城への坂道を登りながら、私は隣の男をジト目で睨みつけた。

市場を抜けてからもう三十分は経っている。

なのに、アイザック公爵は私の手を、まるで迷子の子供を引率する保育士のようにしっかりと握ったままだ。

「ん? ああ、すまない。君の手が小さくて柔らかいものだから、つい握っていることを忘れていたよ」

「忘れていた? 握力計の数値を測るようにガッチリ握っておいて? 血流が止まって壊死するかと思いましたわ」

「ははは! 大袈裟だなあ」

公爵は悪びれもせず笑って、ようやく手を離した。

解放された私の手は、心なしか熱を持っていた。

(……なによ、この変な感じ)

私は手をパタパタと振って、その熱を追い払おうとした。

今日の視察(デートではない)は、予想以上に収穫があった。

路地裏の整備計画、若者の雇用対策、そして市場のボッタクリ規制。

私の手帳はメモで埋まり、公爵も満足げだ。

「しかし、驚いたな」

公爵がふと、足を止めた。

見晴らしの良い丘の上。

眼下には、オレンジ色に輝く城下町が広がっている。

「君があそこまで、民のことに親身になるとは思わなかった。チンピラに説教をし、市場の老婆の荷物を持ち、泣いている子供に飴をやる……」

「誤解しないでください。老婆の荷物は私の通行の邪魔だったからですし、子供の泣き声は騒音公害だったからです」

私はツンと顔を背けた。

「すべては、私の快適な職場環境と、安眠を守るための合理的行動です。慈悲とか優しさとか、そういうふわっとした成分は私には含まれておりません」

「そうかな?」

公爵が、一歩近づいてきた。

逆光になって、彼の表情がよく見えない。

ただ、その声だけが、妙に優しく響いた。

「私には、君が誰よりも情に厚く、そして不器用なだけに見えるがね」

「……眼科に行かれることを強く推奨します。視神経が腐っているかもしれません」

いつものように憎まれ口を叩いて、距離を取ろうとした。

その時だ。

ふわり。

大きくて温かい手が、私の頭の上に乗せられた。

「……え?」

思考が停止した。

公爵の手が、私の髪をゆっくりと、優しく撫でる。

子供をあやすような、あるいは愛しいものを愛でるような手つきで。

「いい子だ、クリム」

「は……?」

「君は、本当によくやっているよ。私の無茶ぶりに応え、部下を指導し、こうして私の目となり手となってくれている。……ありがとう」

至近距離で見下ろす彼の瞳は、いつもの面白がっている色ではなく、真剣そのものだった。

「君が来てくれて、本当によかった」

ドクン。

心臓が、嫌な音を立てた。

いや、嫌な音ではない。

大きく、激しく、耳障りなほどに高鳴っている。

顔が熱い。

全身の血液が、一気に顔面に集中したかのような感覚。

(な、な、なによこれ!?)

これまで、レジナルド殿下には「可愛げがない」と言われ、父には「道具」として扱われ、周囲には「悪役令嬢」と恐れられてきた。

褒められることなんてなかった。

ましてや、こんな風に、無防備な頭を撫でられるなんて。

「……っ!」

私は何か言い返そうとした。

いつものように、「気安く触るな」とか「手油がつきます」とか、辛辣な言葉を投げて、この空気をぶち壊すべきなのだ。

なのに。

「あ……う……」

口からは、情けない空気の漏れる音しか出てこない。

頭の中が真っ白になって、語彙の引き出しが開かないのだ。

「ん? どうした? 顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」

公爵が心配そうに顔を覗き込んでくる。

その整った顔が、近い。

近すぎる。

「ひゃ……っ!」

私は短く悲鳴を上げ、バッと後ろに飛び退いた。

「ち、ちちち、違います!! 夕日のせいです!! 西日が! 紫外線が! 私の皮膚組織に炎症を起こしているのです!!」

「紫外線? もう日は沈みかけているが……」

「うるさい!! とにかく、触らないでください!! セクハラです!! 訴えますよ!! 慰謝料請求しますよ!!」

支離滅裂だ。

自分でも何を言っているのか分からない。

公爵は、そんな私のパニックぶりを見て、きょとんとし……それから、ぷっと吹き出した。

「くく……ははは!」

「な、なにが可笑しいんですか!!」

「いや、すまない。……そうか、君はそういう攻撃(スキンシップ)には弱いのか」

公爵はニヤニヤと悪い笑みを浮かべた。

「あの無敵の毒舌家クリム嬢にも、弱点があったとはな。これはいい情報を手に入れた」

「わ、忘れてください! 今のデータは削除してください! 上書き保存もしないで!!」

「無理だね。今の君の顔、最高に可愛かったからな」

「か、かかか、可愛い……!?」

ボンッ。

頭から湯気が出た音がした気がした。

私はもう限界だった。

これ以上ここにいたら、心臓が爆発して死ぬ。

「さ、先に戻ります!! 残業がありますので!! 失礼!!」

私はスカートを捲り上げ、脱兎のごとく駆け出した。

「あ、おい! 待ってくれクリム! 置いていかないでくれ!」

背後で公爵が笑いながら呼んでいるが、振り返る余裕なんてない。

(なんなのよ、あいつ! なんなのよ、私!!)

坂道を駆け上がりながら、私は自分の頬をペチペチと叩いた。

熱い。まだ熱い。

あんな子供騙しの「いい子いい子」で、ときめくなんて。

(私は悪役令嬢よ!? 鋼のメンタルを持った毒舌家よ!? あんな……あんな天然タラシの攻撃なんて、効いてないんだから!!)

城門を駆け抜け、使用人たちの驚く視線を無視して、自室に飛び込む。

ベッドにダイブし、枕に顔を埋めた。

『いい子だ、クリム』

『君が来てくれて、よかった』

耳の奥で、あの低い声がリフレインする。

「……ううぅ~~~!!」

私は枕をバンバンと殴った。

「バカ! バカボス! 調子狂うじゃない……!」

どうやら私の新生活は、業務上のストレスだけでなく、もっと厄介な「不整脈」との戦いになりそうだった。



一方その頃。

国境付近の街道を、一台の豪奢(だが泥だらけの)馬車が走っていた。

「くそっ、なんだこの道は! 揺れすぎる!」

馬車の中で、レジナルド殿下が悪態をついていた。

「レジ様ぁ、気持ち悪いですぅ……。もう帰りましょうよぉ」

隣では、モモが青い顔をしてぐったりしている。

「何を言うんだ! あと少しでガレリアの王都だ! クリムが待っているんだぞ!」

レジナルドは地図を広げた(逆さまだが気づいていない)。

「見てろよ、アイザック。僕の大事なクリムを洗脳した罪、償わせてやる……!」

彼らの「救出作戦」という名の迷惑行為が、すぐそこまで迫っていた。

そして、私の心臓も、別の意味で危機を迎えていた。
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