毒舌悪役令嬢、婚約破棄されて素に戻る。君の罵倒が最高の癒やし?

夏乃みのり

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「……ボス。ペン先が止まっていますよ」

夜の執務室。
静寂の中で、私の指摘が響いた。

「インクが乾いてしまいます。その万年筆は私の月給より高いのですから、大切に扱ってください」

「……ああ、すまない」

アイザック公爵はハッとして顔を上げ、ペンを置いた。
だが、書類に向かう気配はない。
彼はさっきからずっと、窓の外の月を眺めたり、ため息をついたり、私の顔をじっと見つめてきたりと、挙動不審だ。

「……どうしました? ガルガ将軍からの『アマゾネス最高! 毎日が死闘で楽しい!』という手紙が羨ましかったのですか? なら、貴方も送り込みますよ?」

「違う。……いや、少し羨ましい気もするが」

公爵は苦笑し、椅子から立ち上がった。
そして、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってくる。

「クリム。仕事は終わりだ。少し……付き合ってくれないか」

「残業ですか? 割り増し料金になりますが」

「金なら払う。……場所を変えたい。バルコニーへ」

彼の真剣な眼差しに、私は茶化すのをやめてペンを置いた。
いつになくシリアスだ。
また魔王軍が来たのか、それとも皇帝から無理難題が来たのか。

「……分かりました。聞きましょう」



夜のバルコニーは、冷たく澄んだ空気に包まれていた。
眼下には、平和な城下町の灯りが広がっている。
魔王軍騒動も落ち着き、ストーカー王子も隔離され、この国にはようやく本当の平和が訪れていた。

公爵は手すりに寄りかかり、しばらく無言で夜景を見ていた。
私はその隣に立ち、次の言葉を待った。

「……クリム」

「はい」

「君がこの城に来て、もう三ヶ月か」

「そうですね。体感では三年くらい戦った気分ですが」

「はは、違いない」

公爵は笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
そして、私に向き直った。

「……単刀直入に言う」

「はい。……また銅像を作りたいとか、変なポエム大会を開きたいとか、そういう案件なら却下ですが」

「違う。……契約の話だ」

「契約?」

私は首を傾げた。

「雇用契約の見直しですか? 確かに、最近の業務量は当初の想定を上回っています。給与ベースアップの交渉なら歓迎ですが」

「……ああ、ベースアップだ。大幅なな」

公爵は一歩、私に近づいた。
その青い瞳が、月明かりを受けて揺れている。

「クリム・ベルベット。君との『補佐官契約』を、本日付で破棄したい」

「……は?」

思考が停止した。
契約破棄?
クビということ?

「……理由を伺っても? 私の業務に不備がありましたか? それとも、やはり可愛げのない女は職場の華として不適切だと?」

胸の奥が、ズキンと痛んだ。
平気な顔を装ったが、声が少し震えたかもしれない。
あんなに「離さない」と言っていたのに。
結局、貴族の気まぐれだったのか。

私が唇を噛み締めると、公爵は慌てて首を振った。

「違う! そうじゃない! クビではないんだ!」

「では、なんですか」

「契約変更だ。……補佐官としてではなく」

公爵は私の手を取り、その場に片膝をついた。
騎士が、姫に忠誠を誓うポーズ。

「……私の『妻』として、一生そばにいてほしい」

「……」

時が止まった。
風の音も、虫の声も聞こえなくなった。
あるのは、目の前の男の、真っ直ぐすぎる視線だけ。

「……つま、とは。あの、戸籍上の配偶者のことですか?」

「それ以外に何がある」

「……正気ですか? 私は毒舌で、可愛げがなくて、貴方を『ボス』とか『泥団子』とか呼ぶ女ですよ?」

「知っている。そこがいい」

「家事もできませんよ? 料理を作らせれば炭になるし、掃除をさせれば花瓶を割ります」

「使用人がいる。君は座って紅茶を飲んでいてくれればいい」

「……お金にがめついですよ? 貴方の資産を勝手に道路工事に使いますよ?」

「私の資産は全て君のものだ。好きに使ってくれ」

「……っ」

反論の弾切れだ。
何を言っても、全て「肯定」で返ってくる。
この男、完全に防衛ラインを突破してきている。

「……なんで、私なんですか。帝都には綺麗な令嬢が沢山いたでしょう」

「宝石(いし)ころに興味はない。私は……」

公爵は私の手を両手で包み込み、頬に寄せた。

「君という『劇薬』がないと、もう生きていけない体になってしまったんだ」

「……薬物中毒者のような言い方はやめてください」

「事実だ。君の毒舌がないと退屈で死にそうだし、君の笑顔を見ないと調子が出ない。……君を愛している、クリム」

愛している。
その言葉が、直球で胸に突き刺さった。

顔が熱い。
心臓がうるさい。
いつもの減らず口が出てこない。

「……不当な契約です」

私はやっとの思いで、震える声を絞り出した。

「……そちらに不利すぎます。私のような面倒な女を抱え込むなんて、経営判断として間違っています」

「構わない。私は愚かな公爵だからな。……損をしてでも、君が欲しい」

「……バカボス」

私はため息をつき、彼の手を握り返した。

「……分かりました。契約内容の変更、受理します」

「! 本当か!?」

公爵がパァッと顔を輝かせて立ち上がった。
大型犬が尻尾を振っている幻影が見える。

「ただし! 特約条項がつきます!」

私は人差し指を突きつけた。

「一つ! 私の毒舌を制限しないこと! 妻になっても猫は被りません!」

「もちろん! 毎日罵ってくれ!」

「二つ! 公爵家の家計は私が握ります! 無駄な銅像は二度と作らせません!」

「財布の紐は君に預ける!」

「三つ! ……もし、貴方が浮気をしたり、私を裏切ったりしたら……」

私はニヤリと笑った。

「その時は、慰謝料としてこの国を半分いただきます。あと、貴方を物理的に氷漬けにして海に沈めます」

「……肝に銘じよう。君以外を見るつもりはないがな」

公爵は優しく微笑むと、私を引き寄せ、抱きしめた。

「……ありがとう、クリム。私の可愛い毒舌姫」

「……ふん。調子に乗らないでください」

彼の腕の中は、温かくて、安心できて。
私は観念して、その背中に腕を回した。

「……これからは『旦那様』って呼ばなきゃいけないんですか?」

「いや、二人きりの時は『あなた』と呼んでほしいな」

「……善処します。……あなた」

私が蚊の鳴くような声で呟くと、公爵は嬉しそうに私の髪にキスをした。

月が綺麗だった。
こうして、私は「悪役令嬢」から「公爵夫人(予定)」へと、華麗なるジョブチェンジを果たしたのである。

……だが。
私たちは忘れていた。
結婚するには、まだ越えなければならない「最大の壁」があることを。

「……ボス。いえ、あなた」

「なんだい、マイハニー」

「……私の実家への挨拶、どうします?」

「……あ」

公爵が固まった。
私の父、ベルベット侯爵。
かつて花瓶を投げつけ、公爵に脅されて土下座した、あの父だ。

「……気まずいな」

「気まずいどころじゃありませんよ。胃薬、追加注文しておきましょうか」

私たちの「幸せな結婚」への道は、まだまだ前途多難のようだった。
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