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囚われの朝、残された熱に溺れる
天鵞絨(てんがじゅう)のカーテンの隙間から、容赦なく差し込む朝陽が、マリアンヌの重い瞼を刺激した。
意識が浮上するよりも先に、全身を支配していたのは、節々の重だるさと、肌のいたるところに残る「熱」の記憶だった。
……昨夜、何が起きたのか。
断片的な記憶が、焼けるような羞恥とともに脳裏をかすめる。
強引に奪われた唇。ドレスを剥ぎ取った大きな手。そして、身代わりの令嬢であるはずの自分を、まるでこの世で唯一の宝物であるかのように貪った、あの黄金の瞳。
(私は、なんてことを……)
マリアンヌは震える指先で、首元まで引き上げられた絹のシーツを握りしめた。
シーツ越しに触れる自分の肌は、まだ誰かの体温を覚えているかのように熱い。ふと横を向くと、広大なベッドの片側はすでに空席になっていた。だが、そこには確かに人がいたという証拠に、深く沈み込んだ跡と、あのクロード皇帝が纏っていた煙草と鉄の残り香が、濃厚に漂っている。
愛さないでほしいと願った。
形式だけの妻として、影のように生きていくつもりだった。
なのに、彼はその願いを嘲笑うかのように、一晩かけてマリアンヌの体の隅々にまで、消えない烙印を刻みつけたのだ。
「目が覚めたか、小鳥」
不意に、低く深く、耳の奥を震わせる声が響いた。
マリアンヌが跳ね起きようとすると、身体の奥が疼き、思わず小さな呻きを漏らしてシーツに沈み込む。
視線の先――窓際に、着崩したシャツ姿のクロードが立っていた。朝陽を背負った彼のシルエットは、神話の軍神のように神々しく、同時に、手負いの獣のような危うさを孕んでいる。
「……陛下……」
「無理に動くな。昨夜は、お前にしては少々過酷だっただろうからな」
クロードがゆっくりと歩み寄り、ベッドの縁に腰を下ろす。重みでマットレスが傾き、マリアンヌの体が自然と彼の方へ滑り落ちる。彼はそれを当然のように受け止め、逞しい腕で彼女の肩を抱き寄せた。
薄いシーツ一枚を隔てて伝わる、彼の剥き出しの鼓動。
マリアンヌは顔を真っ赤に染め、視線を泳がせた。
「あ、あの……昨夜のことは、あくまで『儀式』として……」
「儀式だと?」
クロードの指が、マリアンヌの乱れた髪を優しく、だが逃げ場を塞ぐようにすくい上げる。彼の瞳は昨日よりもさらに深く、粘りつくような執着を湛えていた。
「あれほど俺を求めて鳴き、指先一つで震えていた女が、朝になれば『儀式』と抜かすか。マリアンヌ、お前はよほど俺を怒らせるのが上手いらしい」
「怒らせるつもりなど……っ、ひゃ」
首筋に、彼の熱い唇が触れた。
吸い上げるような、確かな痛みを伴う愛撫。
マリアンヌの細い肩が大きく跳ねる。彼が唇を離したあとには、白磁のような肌に、鮮やかな紅色の痕が花のように咲いていた。
「……これは、罰だ。お前が昨夜の熱を忘れようとするたびに、俺が何度でも思い出させてやる」
「どうして……どうして、私なのですか。私はアレテール姉様の代わりでしかないのに。陛下なら、もっと美しく、魔力にあふれた令嬢などいくらでも……」
マリアンヌの問いに、クロードは一瞬だけ瞳を細めた。
彼はそのまま、マリアンヌの華奢な手を取り、自分の左胸――心臓が脈打つ場所に押し当てた。
ドク、ドク、と。服越しでも分かるほどに、彼の鼓動は激しく、猛々しい。
「魔力など、俺には余るほどある。女の家柄も、美貌も、俺にとっては掃いて捨てるほど価値のないものだ」
彼はマリアンヌの指先に、慈しむように接吻を落とした。
「俺が求めているのは、俺の瞳を見て、恐怖ではなく『絶望』を分かち合える魂だ。……マリアンヌ。お前の目は、ベルモンドのあの欲深い家族とは違う。何も持たず、何にも期待せず、ただ一人で嵐が過ぎるのを待つ者の目だ」
その言葉は、マリアンヌの心の最も深い、誰にも触れさせなかった場所に、真っ直ぐに届いてしまった。
地味だと言われ、おまけだと言われ、誰の記憶にも残らないようにひっそりと生きてきた日々。その孤独を、この初対面の男が、帝国の頂点に立つ「化け物」と称される男が、肯定したのだ。
「……私は、あなたの期待に応えられるような人間ではありません」
「期待などしていない。俺が望むのは、お前のすべてをこの城に閉じ込め、俺以外の誰にも触れさせないことだけだ」
クロードの手が、マリアンヌの頬を包み込む。
その手のひらは驚くほど大きく、温かく、そして拒絶できないほど強引だった。
彼の顔が近づき、鼻尖が触れ合うほどの距離で、熱い吐息が混じり合う。
「愛さなくていいと言ったな? ああ、構わない。その代わりに、俺に執着され、俺に依存し、俺なしでは生きられぬ女になれ。それが、身代わりとしてこの城に入ったお前の、唯一の義務だ」
マリアンヌは、こみ上げる熱い何かに目を閉じ、彼の胸にそっと額を預けた。
それは、服従の誓いだったのか。それとも、初めて自分を見つけてくれた男への、密やかな甘えだったのか。
窓の外では、昨夜の雨が嘘のように晴れ渡り、新緑の匂いが風に乗って運ばれてくる。
しかし、マリアンヌにとっての世界は、もうこの四柱天蓋のベッドの中と、彼女を抱きしめる皇帝の腕の中だけになってしまった。
「……陛下、お苦しいです」
「黙れ。朝の公務をすべて放り出してきたんだ。もう少し、こうしていさせろ」
甘えるような彼の言葉とは裏腹に、マリアンヌの腰を抱く手の力は、決して彼女を逃さないという意志を示すように、ますます強くなっていく。
身代わりの花嫁として死にに来たはずの場所で、マリアンヌは皮肉にも、生まれて初めての「居場所」を見つけ始めていた。
しかし、この平穏は長くは続かない。
国を跨いだ詐欺に近い「身代わり」の事実は、やがて帝国の貴族たちの知るところとなり、アレテールの、そしてベルモンド家のどろりとした執念が、この城へと忍び寄ろうとしていた。
マリアンヌはまだ、自分の価値を知らない。
そしてクロードが、彼女を守るためならば世界をも焼き尽くす準備ができていることも。
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