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第六話:亡国の贖罪と、血塗られた親書
エルドール王国の王城は、もはやかつての栄華を留めてはいなかった。
夜空を覆う結界は消失し、代わりに立ち昇るのは、街を焼き尽くす黒煙と、魔物たちの耳を刺す咆哮だ。窓から差し込む月光は不吉な赤色を帯び、豪華な絨毯には、逃げ遅れた侍女や騎士たちの血が黒ずんだシミを作っていた。
その玉座の間で、国王は独り、震える手で羽根ペンを握っていた。
王冠は床に転がり、彫り込まれた宝石は砕けている。彼は、先ほどまで外から聞こえていた怒号の正体を知っていた。それは、魔物に追われた民たちが、自分たちを見捨てて逃げ回る皇太子を、そしてそれを見過ごしてきた王家を呪う絶叫だった。
「……愚かであった。救いようのないほどに……」
国王の脳裏には、数日前にこの謁見の間から去っていったアリアの背中が焼き付いて離れない。
彼女の細い肩に、どれほどの重責を背負わせていたか。それを受け取り、守るべき立場にあった息子――アレルジャンが、どれほど無惨にその献身を蹂躙したか。
不貞、婚約破棄、さらには無実の罪を捏造しての追放。
神の代弁者である聖女に対し、一国の王子がしていいことではなかった。それは神罰を招くのと同義であり、今のこの惨状は、王家が招いた当然の報いだった。
「アリア……。聖女が、この国を、私を許すはずもない」
国王は自嘲の笑みを浮かべた。
今さら「戻ってきてくれ」と請うたところで、誰が応じるだろうか。自分たちを泥に叩きつけた者のために、再び身を削って祈る聖女など、この世にいるはずがない。
エルドール王国が生き延びる道は、もはや一つしかなかった。
自立した国家としての誇りを捨て、隣国――ゼノス帝国の軍門に下ること。帝国に統治を委ね、帝国の庇護下にあるアリアに、この地の「浄化」を願うしかない。
しかし、ただ「助けてくれ」と叫ぶだけで、冷徹なゼノス皇帝が動くはずもなかった。
「……対価が必要だ。この国の未来を買うための、最も重い対価が」
国王は、書き終えたばかりの親書を、血の混じった蝋で封じた。
そこには、エルドール王国の全領土を帝国に譲渡する旨、そして、聖女アリアへの謝罪と、彼女の慈悲を乞う言葉が綴られていた。
そして――彼は、傍らに控える沈黙した近衛騎士に、短く命じた。
「持ってこい。……我が国の、最大の汚物を」
重厚な扉が開かれ、数人の男たちによって「それ」が引きずり込まれた。
「や、やめろ! 父上! 離せ! 俺様をどうするつもりだ!」
それは、貧民街で民衆に捕らえられ、見るも無惨な姿に成り果てたアレルジャンだった。
かつての金髪は泥と吐瀉物にまみれ、豪奢だった衣服は襤褸(ぼろ)のように裂けている。民衆に引き回された際に折られたのか、右足は不自然な方向に曲がり、顔は腫れ上がって人相も定かではない。
「アレルジャン。……お前が愛でていた女は、魔物に喰われて死んだ。お前が愛を誓った結果、この国も死んだ」
「し、知らない! 俺のせいじゃない! 結界が消えたのはあの女のせいだ! アリアの……あぐっ!」
国王が立ち上がり、実の息子の顔を力任せに踏みつけた。
冷たい石畳に顔を押し付けられたアレルジャンは、もはや叫ぶこともできず、ただ泡を吹いて呻いている。
「お前は、どこまでも救いようのない愚か者だ。……我が息子ながら、反吐が出る」
国王の瞳には、もはや慈悲の色など一滴も残っていなかった。
彼は、卓の上に置かれた一本の鋭い短剣を手に取った。
「アリアへの贖罪。そして、民が明日を生きるための貢物だ。……死して、この国に貢献せよ」
「ひ、ひぃ……あ、あああああぁぁぁ!!」
絶叫が玉座の間に響き渡り、やがて――鈍い肉を断つ音とともに、沈黙が訪れた。
---
数日後。
ゼノス帝国の王宮では、いつになく緊張した空気が流れていた。
エルドール王国からの特使が、一つの大きな木箱を携えて現れたからだ。
「……ゼノス帝国皇帝ガリウス陛下。そして、聖女アリア様」
特使は、震える声で告げた。
「我が王、エルドール国王より親書をお預かりいたしました。併せて……アリア様を侮辱し、国を滅びに追いやった大罪人への『処罰』の証もここに」
アリアは、傍らに立つゼクスの腕をぎゅっと掴んだ。
ゼクスは彼女を守るように引き寄せ、皇帝に頷いた。
箱が、ゆっくりと開かれる。
中に入っていたのは、氷漬けにされ、絶望と恐怖で顔を歪めたまま固まった――アレルジャンの「首」であった。
「……っ」
アリアは息を呑み、思わず目を背けた。
かつて自分を嘲笑い、ゴミのように捨てた婚約者。その末路は、あまりにも無惨で、あまりにも虚しいものだった。
皇帝ガリウスが、国王からの親書を読み上げる。
そこには、エルドール王国の完全な無条件降伏と、全領土の譲渡。そして、アリア個人への、魂を削るような謝罪が綴られていた。
『聖女よ。我が息子は、その首をもって罪を購わせた。願わくば、この国に残された無実の民を、貴女の慈悲で救ってはいただけないだろうか。もはやエルドールという名は不要だ。ただ、人が生きられる大地を……』
静まり返った謁見の間。
アリアは、アレルジャンの首を見つめることはしなかった。ただ、ゼクスの温かな手のひらが、自分の肩を優しく撫でているのを感じていた。
「アリア。……お前はどうしたい」
ゼクスの低い声が、彼女の耳に届く。
「もうあの国にお前の義務はない。嫌だと言うなら、俺がその首を、今の嘆きごと虚空へ放り捨ててやろう」
アリアは、ゆっくりと顔を上げた。
自分を虐げ、捨てた国。けれど、そこには自分を馬車に乗せてくれた優しい御者や、名もなき市井の民たちが、今も魔物の影に怯えながら生きている。
「……私は」
アリアは、ゼクスの瞳をまっすぐに見つめた。
「私は、帝国の一部となったその土地を、守りたいと思います。……アレルジャン様のためではなく、陛下やゼクス様が治める、新しい国の一部として」
それは、聖女としての使命感ではなく、自分を受け入れてくれた新しい故郷への、彼女なりの愛の形だった。
「……いいだろう。アリア、貴殿の慈悲は、我が帝国の至宝だ」
皇帝ガリウスが厳かに宣言した。
「エルドール王国は本日をもって消滅した。今後は帝国の北領として、我が軍が魔物を掃討し、アリアがその地に再び結界を張る。……反逆の皇太子の首は、国境の門に晒せ。不敬の末路としてな」
アリアは、そっと目を閉じた。
遠く、母国の空に、自分の祈りが再び銀色の糸となって広がっていく未来が見えた。
けれど、もうそこには孤独はない。
振り返れば、自分を狂おしいほどに愛し、誰からも守り抜こうとする「氷の死神」が、常に側にいてくれるのだから。
捨てられた聖女は、亡国の血と、新しい愛の誓いの中で。
真の意味での「聖女」へと、その翼を広げ始めた。
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