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3.焚火のほとり
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あら?
──パチ、パチ。
乾いた音が夜の静寂を裂いて、耳の奥で小さく弾ける。
これは……木がはぜる音?
ゆっくりと、まぶたを持ち上げた。視界に飛び込んできたのは、揺らめく焚火の淡い橙。夜の帳に包まれた世界の中で、それだけが確かな光だった。
肌にじんわりと伝わってくる熱。
指先から少しずつ感覚が戻り、凍りついた身体がようやく現実に引き戻されていく。それでも、芯まで染み込んだ冷えは簡単には去ってくれなかった。
朦朧とする意識のまま、私は身体をゆっくりと起こす。その瞬間、低く、よく通る男の人の声が飛び込んできた。
「起きたか? 通りかかった俺がいなかったら、お前、今頃、狼の餌になってたぞ」
焚火の向こう側で木を組み直していた男の人が、こちらを見もせずに笑っている。その言葉に反応するように、遠くで狼の遠吠えが響いた。
夜を切り裂くような、鋭く長い鳴き声。
私は思わず肩をすくめ、薄く震える。
「狼の餌……」
でもーー。
「ふふ、お腹の空いた狼の餌になって神の御許へ還るのも、また運命だったのかもしれない。神は、きっと温かく迎えてくれるわ」
希望とも諦めともつかない想いが、冷たく澄んだ夜の空気にふわりと溶けていった。吐いた息は白く、言葉とともにそっと消えてゆく。
焚き火の橙色の光が、静かに頬を撫でた。けれどその明かりは暖かいというより、誰かの墓前にともる蝋燭のように、静かで、どこか寂しげだった。
そのとき、焚き火をじっと見つめていた男が、ふと手を止めた。眉をわずかにひそめ、戸惑いを隠せない表情でこちらを見る。
「神の御許? 聖職者か?」
私は、少しだけ視線を下げて頷いた。
「ええ。聖女です。『光耀の癒聖』と呼ばれていました」
「ふーん。聖女ってのは、そんなに神の御許へ急ぎたがるものなのか?」
男の人は冗談めかして笑った。けれど、その声の奥には小さな引っかかりがあった。きっと気づいてしまったのだろう。私が、本気で言っていることに。
「……ええと。違うと思いますわ。でも――運命に逆らってはいけない、と」
焚き火の揺らぐ炎が、彼の頬に柔らかな影を落とす。
「教えてほしいことがあるのです。あなたは……どうして、生きているのですか? 生きるというのは、寂しく辛く……ありませんか?」
男は怪訝そうに目を細め、少し考え込んだ。
「は? どうして生きているか? 考えたこともなかったな……朝起きたら、生きてた。だから生きてるんだろうな」
彼の声は穏やかだった。日常の延長のように淡々としていたけれど、その言葉には、奇妙な重みがあった。
それでも、私は尋ねずにはいられなかった。
「……仕方なく、生きておられるのですか?」
自分の声が、遠くで響いているようだった。どこか他人事のようで、それでも心の奥のどこかに微かに滲む痛み。私はこの数日で、「生きる」ということに疑問を持ってしまったのかもしれない。
男の人は少し呆れたように頭をかき、焚火にくべた木の枝をひとつ動かす。
その仕草は何気ないのに、不思議と目を引いた。
粗末な旅装のはずなのに、指先の動きや背筋の伸ばし方には、どこか育ちの良さを感じさせた。声は素朴でも、言葉の選び方や間合いには、ささやかな品が滲んでいた。
焚火の光が彼の横顔を照らすたび、ふとした瞬間にそれが浮かび上がる。
長く旅に生きながら、もともとの身分や教養を、どこかに置き忘れていないような――そんな雰囲気。
「なんだ。聖女のくせに、悲観的だな。生きていたくない理由でもあるのか?」
私は答えられなかった。視線を足元へ落とし、唇をゆっくりと開いた。
「理由……強いて言うなら、靴が、ないのです。こんな足では、どこにも行けません。このまま、ここで朽ちて……神のもとへ――」
足元には、赤黒く汚れた裸足。傷は治したが、乾いた土と血と草が、足にこびりついている。もう、立ち上がる力は残っていなかった。
「おいおい、話が飛びすぎだろ。命を捨てるほどのことじゃない」
焚火のぱちぱちと弾ける音に混ざって届いた彼の声は、少し呆れたようでいて、それ以上に優しかった。深い夜に沈みかけた私の心を、そっと引き戻してくれるような響きだった。
彼は鞄をごそごそ探ると、一足の布靴を差し出した。
「履いてみろ。――よし、ぴったりだ。ほら、これで、どこへでも行けるだろ?」
古びた靴だった。けれど足を包み込む温もりは、不思議なほど柔らかく、安心感があった。
「……ありがとうございます。でも、私……」
何かを言いかけた私の言葉を、彼は軽く遮って、茶化すように笑った。
「今日死ぬ理由があっても、それは俺のために明日に延ばせ。靴のお礼、貰わないといけないからな」
冗談めかしたその言葉が、不思議と胸の奥にまっすぐ届いた。
その夜、私は靴を得て、火を分けてもらい――なにより、人の優しさに触れた。
彼は自分を「テオ」と名乗った。
小さな商会を営む行商人で、地方を巡っているのだという。
私が巡礼に出ていると話すと、荷物の担ぎ方、焚火の起こし方、野草の見分け方――旅に必要なことを、惜しみなく教えてくれた。
「……何も知らないんだな。よくそれで一人で巡礼なんか……」
「できることも、あります! ただ……旅が、少しだけ不慣れなだけで……」
この人も、私のことを「世間知らずの聖女様」と思ったかしら。
「何も知らないってことは、これからたくさん知れるってことだ。急ぐ旅でもなさそうだし、のんびり付き合ってやるよ」
「……どういう意味でしょうか?」
「巡礼について行ってやる。巡礼地の近くで仕入れたい品もあるしな」
「そんな……悪いです」
「いいんだよ。だいたい、聖女様に供がいないなんておかしいだろ? それに、聖女様を見捨てたらばちが当たりそうだ。靴のお礼も気長に待ってやるって」
そう言うと、彼は少しだけ真面目な声で言った。
「ということで、まず名前を教えてくれ」
名前。記憶の中の両親であろう二人が、馬車の中の私に向かって呼んでいた名前。
言ってもいいのかしら? でもーー
「……私の名前は、リイナです」
「リイナ? リイナか……。ああ、いい名前だ」
いい名前……ふふ、名前を呼ばれるって、なんだか恥ずかしい。
そんなふうに思いながら、その夜、私は安心して、焚火のそばで目を閉じた。
テオの隣で、誰かと一緒にいるという感覚を、胸に抱きながら。
──パチ、パチ。
乾いた音が夜の静寂を裂いて、耳の奥で小さく弾ける。
これは……木がはぜる音?
ゆっくりと、まぶたを持ち上げた。視界に飛び込んできたのは、揺らめく焚火の淡い橙。夜の帳に包まれた世界の中で、それだけが確かな光だった。
肌にじんわりと伝わってくる熱。
指先から少しずつ感覚が戻り、凍りついた身体がようやく現実に引き戻されていく。それでも、芯まで染み込んだ冷えは簡単には去ってくれなかった。
朦朧とする意識のまま、私は身体をゆっくりと起こす。その瞬間、低く、よく通る男の人の声が飛び込んできた。
「起きたか? 通りかかった俺がいなかったら、お前、今頃、狼の餌になってたぞ」
焚火の向こう側で木を組み直していた男の人が、こちらを見もせずに笑っている。その言葉に反応するように、遠くで狼の遠吠えが響いた。
夜を切り裂くような、鋭く長い鳴き声。
私は思わず肩をすくめ、薄く震える。
「狼の餌……」
でもーー。
「ふふ、お腹の空いた狼の餌になって神の御許へ還るのも、また運命だったのかもしれない。神は、きっと温かく迎えてくれるわ」
希望とも諦めともつかない想いが、冷たく澄んだ夜の空気にふわりと溶けていった。吐いた息は白く、言葉とともにそっと消えてゆく。
焚き火の橙色の光が、静かに頬を撫でた。けれどその明かりは暖かいというより、誰かの墓前にともる蝋燭のように、静かで、どこか寂しげだった。
そのとき、焚き火をじっと見つめていた男が、ふと手を止めた。眉をわずかにひそめ、戸惑いを隠せない表情でこちらを見る。
「神の御許? 聖職者か?」
私は、少しだけ視線を下げて頷いた。
「ええ。聖女です。『光耀の癒聖』と呼ばれていました」
「ふーん。聖女ってのは、そんなに神の御許へ急ぎたがるものなのか?」
男の人は冗談めかして笑った。けれど、その声の奥には小さな引っかかりがあった。きっと気づいてしまったのだろう。私が、本気で言っていることに。
「……ええと。違うと思いますわ。でも――運命に逆らってはいけない、と」
焚き火の揺らぐ炎が、彼の頬に柔らかな影を落とす。
「教えてほしいことがあるのです。あなたは……どうして、生きているのですか? 生きるというのは、寂しく辛く……ありませんか?」
男は怪訝そうに目を細め、少し考え込んだ。
「は? どうして生きているか? 考えたこともなかったな……朝起きたら、生きてた。だから生きてるんだろうな」
彼の声は穏やかだった。日常の延長のように淡々としていたけれど、その言葉には、奇妙な重みがあった。
それでも、私は尋ねずにはいられなかった。
「……仕方なく、生きておられるのですか?」
自分の声が、遠くで響いているようだった。どこか他人事のようで、それでも心の奥のどこかに微かに滲む痛み。私はこの数日で、「生きる」ということに疑問を持ってしまったのかもしれない。
男の人は少し呆れたように頭をかき、焚火にくべた木の枝をひとつ動かす。
その仕草は何気ないのに、不思議と目を引いた。
粗末な旅装のはずなのに、指先の動きや背筋の伸ばし方には、どこか育ちの良さを感じさせた。声は素朴でも、言葉の選び方や間合いには、ささやかな品が滲んでいた。
焚火の光が彼の横顔を照らすたび、ふとした瞬間にそれが浮かび上がる。
長く旅に生きながら、もともとの身分や教養を、どこかに置き忘れていないような――そんな雰囲気。
「なんだ。聖女のくせに、悲観的だな。生きていたくない理由でもあるのか?」
私は答えられなかった。視線を足元へ落とし、唇をゆっくりと開いた。
「理由……強いて言うなら、靴が、ないのです。こんな足では、どこにも行けません。このまま、ここで朽ちて……神のもとへ――」
足元には、赤黒く汚れた裸足。傷は治したが、乾いた土と血と草が、足にこびりついている。もう、立ち上がる力は残っていなかった。
「おいおい、話が飛びすぎだろ。命を捨てるほどのことじゃない」
焚火のぱちぱちと弾ける音に混ざって届いた彼の声は、少し呆れたようでいて、それ以上に優しかった。深い夜に沈みかけた私の心を、そっと引き戻してくれるような響きだった。
彼は鞄をごそごそ探ると、一足の布靴を差し出した。
「履いてみろ。――よし、ぴったりだ。ほら、これで、どこへでも行けるだろ?」
古びた靴だった。けれど足を包み込む温もりは、不思議なほど柔らかく、安心感があった。
「……ありがとうございます。でも、私……」
何かを言いかけた私の言葉を、彼は軽く遮って、茶化すように笑った。
「今日死ぬ理由があっても、それは俺のために明日に延ばせ。靴のお礼、貰わないといけないからな」
冗談めかしたその言葉が、不思議と胸の奥にまっすぐ届いた。
その夜、私は靴を得て、火を分けてもらい――なにより、人の優しさに触れた。
彼は自分を「テオ」と名乗った。
小さな商会を営む行商人で、地方を巡っているのだという。
私が巡礼に出ていると話すと、荷物の担ぎ方、焚火の起こし方、野草の見分け方――旅に必要なことを、惜しみなく教えてくれた。
「……何も知らないんだな。よくそれで一人で巡礼なんか……」
「できることも、あります! ただ……旅が、少しだけ不慣れなだけで……」
この人も、私のことを「世間知らずの聖女様」と思ったかしら。
「何も知らないってことは、これからたくさん知れるってことだ。急ぐ旅でもなさそうだし、のんびり付き合ってやるよ」
「……どういう意味でしょうか?」
「巡礼について行ってやる。巡礼地の近くで仕入れたい品もあるしな」
「そんな……悪いです」
「いいんだよ。だいたい、聖女様に供がいないなんておかしいだろ? それに、聖女様を見捨てたらばちが当たりそうだ。靴のお礼も気長に待ってやるって」
そう言うと、彼は少しだけ真面目な声で言った。
「ということで、まず名前を教えてくれ」
名前。記憶の中の両親であろう二人が、馬車の中の私に向かって呼んでいた名前。
言ってもいいのかしら? でもーー
「……私の名前は、リイナです」
「リイナ? リイナか……。ああ、いい名前だ」
いい名前……ふふ、名前を呼ばれるって、なんだか恥ずかしい。
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