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橋本くんへの想い
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***沙織***
アパートで自殺未遂などおこして、本当に申し訳ないことをしたと思ってる。
それに、こんなに長居をするつもりでアパートへ来たわけでもなかった。
だけどあの日、遼ちゃんが口にした別れの理由……。
『わかって欲しいんだ、沙織。おまえのことは本当に好きだったんだよ。だけど、彩矢ちゃんは……彩矢ちゃんは俺にとって特別なんだ。子供もいるし』
特別……。
松田彩矢は特別。
その残酷すぎる言葉は、鋭利な刃物のように、少し立ち直りかけていた私の心にグサリと突き刺さった。
その傷は未だに癒されず、血を流し続けている。
” 沙織、おまえとは別れたくなかった。だけど彩矢ちゃんには俺の子供がいる。だから、わかって欲しい ”
なぜ、そう言ってくれなかったの?
嘘だっていい。そんな言い訳だったら耐えられたと思う。
特別な存在にはなれなかった私は一体なに?
遼ちゃんにとって私はなんだったの?
……私のことなど誰も愛してくれない。
誰も私を特別などと思ってくれたりもしない。
私を必要としてくれる人などいない。
ひとりも……。
アパートへ転がりこんでから、一週間が過ぎた。
優しく気遣ってくれる人がそばにいるという、この安心感。
だけどいつまでもいられるわけもない。
私の体調を心配して優しくしてくれるのは、早く回復してマンションへ帰って欲しいから。
早く精神科の病院へ行ったほうがいいと言われ、ここのアパートから徒歩十分の心療内科に通院している。
医師からは鬱病と診断され、薬を処方されたけれど、毎日飲むふりをして捨てている。
……治りたくない。
遼ちゃんと一緒にいられるなら、一生治らなくていい。
優しいけれど、気の短いところもある遼ちゃんは、時々苛立ちを爆発させる。
洗濯物を畳んでしまってあげただけなのに……。
「洗濯は自分でするからいいって言っただろう! 俺のことは何もしなくていい。自分の病気のことだけ心配してくれよ!」
「ついでなんだからいいでしょう。水道代だって節約できるし、前は喜んでたじゃない」
「前とは違うんだよっ!……沙織、わかってくれよ。俺たちは一緒に暮らしてるけど、以前とは違う。それはもう説明しただろう。今はただの同居人なんだ」
……ただの同居人。
数週間前、私たちはラブラブだったのに。
遼ちゃんの心に私への気持ちはもう少しも残ってないのね。100%松田彩矢で占められているのね。
こんなことまで言われても、アパートを出ていく勇気とプライドのない自分が哀しい。
「……い、居候は肩身がせまいでしょ。なにか役に立たちたかったの」
泣き出しそうな気持ちをこらえてやっと言った。
「そう思うなら一日も早く回復してくれよ。そのために同居してるんだから」
苛立ったその言い方に、少しもいたわりの気持ちは感じられなかった。
そう、そんなに邪魔なのね。
今や私は厄介な邪魔者で、元気になったら一日も早くオサラバしたいってわけね。
「わかったわよ………もういいわ。早く出て行って欲しいんでしょ!」
ソファから立ちあがり、ボストンバッグに着替えなどを詰め込んだ。
こんなにまで言われてしがみつくなんて、あまりにも惨めすぎる。
遼ちゃんも言いすぎたと思ったのか、暗い顔をしてうつむいていた。
お出かけ用の服に着替え、脱いだ部屋着もバッグに詰めた。
「じゃあ、お世話になりました」
ボストンバッグをさげ、顔も見ずに玄関へ向かった。
「沙織、ごめん。やっぱりもう少しいてくれないか? こんな別れ方は嫌なんだ」
追いかけてきた佐野さんは、さっきまでの高飛車な態度はなくなって、懇願するように私を見つめた。
「優しいのか冷たいのかよくわからない人だわ、遼ちゃんは。私の心配をしてくれてるわけじゃないでしょう。また可笑しなマネをされたら自分が困るからなんでしょう?」
「……確かに俺は自分のことしか考えてなかった。そんなんで沙織が元気になれるはずないのにイライラしてばかりいて」
「中途半端に優しくされるくらいなら、初めから何もしてくれないほうがいいわ!」
泣きながらシューズボックスからサンダルをつかんで出した。
「頼むよ、待ってくれ。そうだな、俺は利己的だった。沙織のために同居していたつもりだったのに。許してくれないかな? 今度は沙織が元気になれるように努力する。だから、もう少しだけいてくれよ」
「もういい、わかってるの。……遼ちゃんの心には私なんか少しもないってこと。ここに居たら迷惑だってこと」
遼ちゃん、もう引き止めないで。
でないとまた期待してしまうから。
もう、このアパートから出て行けなくなってしまうから。
「沙織、気持ちが少しもないはずないだろう。だけど二人は選べないんだ。わかってくれよ、本当は俺だって辛いんだよ」
やるせない様子でそう言うと、泣きながらサンダルを履いていた私を抱きしめた。
少しは私のことも想ってくれるの?
本当にまだ居ていいの?
遼ちゃんはとっても真面目で理性的な潔癖症。
同情で二度ほどハグされただけで、それ以上のことは何も起こらない。私が隣に寝ていてもだ。
もう二度とラブラブだった頃には戻れないのね。
以前より言葉づかいは優しく丁寧。でも日が経つにつれ、二人の親密さはどんどん低下していった。
本当にただの同居人。
私が誤解をしないように、懸命に友人として接しようとする涙ぐましい努力が哀しい。
そのことから、どれほど松田彩矢を大切に想っているのかがわかる。
浮気なんて……絶対にしないんだ、遼ちゃんは。
橋本くんに立て替えてもらった入院費をまだ返してなかった。
呆れているだろうな。
佐野さんのアパードで自殺未遂などを起こした私を、どう思っているんだろう。
いつも親切にされっぱなしで、私からは何にもしてあげてない。
そんな橋本くんには会いたいけれど、これまでの経緯などを考えると、気まずい重さがある。
だけど、いい加減に入院費だけでも返さないと。
LINEで連絡をし、仕事帰りの六時半に札幌駅で待ち合わせをした。
夏のボーナスも出たばかりなので、少し奮発をしてGUCCIのネクタイを買った。
橋本くん、気に入ってくれるかな?
遼ちゃんにも買ってあげたかったけれど、元カノからのプレゼントなど、邪魔に違いないから。
札幌駅と直結しているDAIMARUの出入口に、橋本くんがキョロキョロと落ち着きない様子で立っていた。
「ごめ~ん、待った?」
何事もなかったかのように、おちゃらけた風を装って手をあげた。
「沙織さん、なんか痩せちゃいましたね。もう大丈夫なんですか? 」
いつもとびきりの笑顔を向けてくれる。それは私だけではなく、誰に対してもそうなのだろう。
いいなぁ、好感度が抜群で。どんな人とでも仲良くなれるから。
正反対のタイプなのに、私を気に入ってくれるのは何故?
「迷惑かけて本当にごめんなさい。これ入院費とお詫びのプレゼント」
封筒とネクタイの入った紙袋を渡した。
「そんな、、お詫びのプレゼントって水臭いなぁ、沙織さんは。でも、ありがとうございます。えっ、これってGUCCIじゃないですか。こんな高いもの僕に似合うかな?」
手に下げた紙袋を持ち上げて見つめながら、橋本くんは少し困ったような顔をした。
「とっても渋くて素敵なネクタイなのよ。橋本くんに絶対に似合うはずよ」
「なんか申し訳ないなぁ。あ、あの、夕食とか誘ってもいいのかな? すぐに帰りたいですか?」
「いつもは食欲ないんだけど、橋本くんの顔を見たら、なんだかお腹が空いてきちゃったわ」
「やった! 沙織さん食べたいものってありますか?」
嘘のない嬉しげな様子に癒される。私と一緒にいて喜んでくれる人など、今や橋本くんただ一人かも………。
「お寿司がいいな」
「いいですね。美味しいお店知ってます。沙織さんと行ってみたかったんです」
橋本くんの車で円山にあるそのお寿司屋さんへ行った。
引き戸を開けて入った瞬間、かなりの高級店であることが感じられた。端正な白木で設えられた八席のみのカウンターのお店。
大丈夫かな? いくらボーナスが出たばかりだからって……。
道内産に拘る札幌屈指の寿司処の名店らしい。
「おっ、橋本くんじゃない。どうしたの? 今日は綺麗な女の子なんか連れてきて。やっと彼女ができたのかい?」
カウンター越しに無愛想じゃないほうの職人さんが、冷やかすように微笑んだ。
「残念ながら職場の同僚です。大将の目の保養に連れてきました」
「ハハハッ、それは有難いな。いつもいかついのとばっかり来るもんな」
「僕はお酒を飲まないから、ドクターたちの足にされてるんですよ。美味しいお寿司を奢ってもらえるから嬉しいですけどね」
だからこんな高級なお店を知ってるのね。
橋本くんは一緒にいて疲れない人だし、ドクターたちからも可愛がられているから。
「沙織さん、苦手なのってありますか? 適当に頼んじゃって大丈夫ですか?」
「ええ、任せるわ。よく知ってるみたいだから。好き嫌いはないわ」
鮑のウニ乗せ、ホッキ貝、鮪、金目鯛と続く。
ネタの魅力を際立たせる職人の繊細な技術が感じられた。巧みな手つき、絶妙な提供の間合い。隅々まで行き届いた心配り。
たまご焼きや、干瓢巻きも信じられないほど美味しい。
どれもバランス良く、レベルの高い極上な仕上がりになっていた。巧みな仕事はスマートで美しく、握っている様子さえも楽しめる。
そして、素敵な余韻。
どの握りも、細やかな仕事ぶりが随所に盛り込まれていた。
「沙織さん、今日は静かですね」
「ここのお寿司って美味しすぎるんだもの。びっくりしすぎて庶民には上手くコメントなんてできないわ。それにあまり喋らないほうがいい女に見えるでしょ」
大将たちには聞こえないように、ヒソヒソと言った。
「ハハハッ、僕はそんなこと気にしないけどな。いつもの沙織さんでいいのに」
「………… 」
橋本くんはいつもありのままの私を受け入れてくれる。
満ち足りた気分でお店を出た。
「あー、美味しかった! こんなに食べたのって何日ぶりかな? 橋本くんと一緒にいると私、おデブになっちゃうわ」
「えーっ、じゃあ、今日はもうおしまいですか? もう一軒行こうかと思ってたのに」
少しがっかりしたように微笑みながら、橋本くんは私を見つめた。
「お酒はまだ飲めないの。でもご飯を美味しく食べられるってステキね。なんだか久しぶりに幸せな気分。いいなぁ、橋本くんの奥さんになる人って、とっても幸せな人よ」
それは嘘ではなくて、本当にそう思ったのだけど、言ってしまってから嫌味に聞こえなかっただろうかと、ちょっと心配になった。
一ヶ月ほど前、橋本くんから告白されたことを思い出したから。
「沙織さんが元気になってくれて本当に良かった。……もうあんなことしないですよね?」
少ししんみりと橋本くんは話の内容を変えた。
「ごめんなさい。バカな真似して恥ずかしいわ、本当に」
うなだれたまま駐車場に停めた車の助手席に座る。
「その後、お父さんの具合は?」
「……聞いてないの。何かあったら義兄から電話があると思うけど、父はもう死んでいるのと同じだったの。……あとは時間の問題よ」
「たった一人の身内なんですよね。ショックでおかしくなっても無理ないですよ。でも、もう絶対にあんな事はしないで。僕で良かったらいつでも力になります。あ、そういえば僕、病院の人に沙織さんの親戚だって嘘をついてしまって、すみませんでした」
「いいわよ。橋本くんみたいな人が親戚だったら本当に嬉しいな」
本当にこんな人が身内だったら、どんなにか心強いだろう。
「……佐野さんは、佐野さんは優しくしてくれる?」
アクセルを踏んで、車をスタートさせた橋本くんは、前方を見つめながら聞いた。
「………… 遼ちゃんは私がまたバカなマネをするんじゃないかって、心配をしているの。それで仕方なく一緒に居てくれるだけよ。もう恋人でもなんでもないの。元気になったからそろそろ出て行くわ。もう一人で暮らしても平気よ……多分ね」
「…………」
陽気でおしゃべりな橋本くんが黙ったので、なんとなく気まずい空気が流れた。
「橋本くんはどうして彼女作らないの? とってもモテるのに」
「……モテませんよ、僕は。佐野さんみたいなイケメンでもないし。友達以上には思ってもらえないタイプなんですよ。色気がないんだろうなぁ」
「プッ、色気? 男の人でもそんなことで悩むのね、クスクスッ。でも私よりは色気があるわよ。人を暖かい気持ちにさせるもの。シーンとしらけさせたりしないだけマシだわ」
大切なのは、男も女も色気より愛嬌ね。
「僕は好きですけどね。沙織さんのブラックジョーク。アハハッ!」
「ジョークじゃなくて本音と嫌味なのよ。どうしても言わずにはいられなくなるの」
「僕にはあまり言ってくれないんですね。聞きたいなぁ。言ってくださいよ、嫌味」
「じゃあ、もっとカチンとくることを言ってよ。だけど嫌味が聞きたいなんて勝者のセリフね。人間関係で揉めたことなんてないでしょ、橋本くんは。羨ましいわ」
仕事に戻るとまたトラブルだらけの人間関係が待っている。慣れているとはいえ、やはりうんざりした。
「仕事にはいつ戻るんですか? 本当にもう良くなったんですか?」
「仕事は来週からにする。でも……佐野さんのアパートは今日でおしまいにするわ」
円山からだと佐野さんのアパートまで、あと五分ほどで着いてしまう。
もっと一緒に居たい。
今一緒にいて欲しいのは佐野さんじゃなくて、橋本くんだった。
「じゃあ、ありがとう。お寿司本当に美味しかったわ。なんだか今日一日で生き返ったみたいな気分よ」
「僕の方こそありがとうございます。GUCCIのネクタイなんかもらってしまって」
「そうだ。ねぇ、開けてみてよ。気に入らなかったら交換できるのよ。グレーのを買ったんだけど、ピンクにしようかどうかちょっと迷ったの」
「センスのいい沙織さんが選んだんだから、気に入らないはずないですよ。でもせっかくだから開けてみます」
アパートの駐車場は暗くて、橋本くんは車内灯をつけた。そして紙袋から取り出した縦長のGUCCIの箱を開けた。
「おおっ、やっぱり僕が持ってるのとはまるで違うな。なんだかこれ、佐野さんに似合いそうだなぁ」
橋本くんは少し照れたように笑った。
「そんなことないよ、これは橋本くんに似合うと思って買ったんだから」
箱からネクタイを取り出し、ふざけて橋本くんの首に掛けてみた。
「フフフッ、ほら、やっぱり似合ってる!」
「………… 」
橋本くんが急に真面目顔で押し黙ったので、車内に緊張感がただよった。
慌てて橋本くんの首に掛けたネクタイから手を離した。
「あれれ? もしかして気に入らなかった?」
ドギマギしていることを悟られないように、明るくおどけた。
橋本くんは黙って車内灯を消すと、少し怖い顔で私を見つめた。
「橋本くん……?」
肩を引き寄せられてキスをされた。
軽く触れただけのフレンチキスにひどくドキドキしていた。
まるで初恋の人でもあるかのように。
「ごめん、、沙織さん」
橋本くんは小声で囁くように謝った。
「謝らなくていいわ。嫌じゃなかったもの、、少しも嫌じゃなかったもの……」
焦ってそんなことを言ってしまい、顔が火照ってくるのがわかった。
急に恥ずかしくなり、助手席のドアを開けて外へ出た。
そして、アパートの階段を一気に駆けあがった。
アパートで自殺未遂などおこして、本当に申し訳ないことをしたと思ってる。
それに、こんなに長居をするつもりでアパートへ来たわけでもなかった。
だけどあの日、遼ちゃんが口にした別れの理由……。
『わかって欲しいんだ、沙織。おまえのことは本当に好きだったんだよ。だけど、彩矢ちゃんは……彩矢ちゃんは俺にとって特別なんだ。子供もいるし』
特別……。
松田彩矢は特別。
その残酷すぎる言葉は、鋭利な刃物のように、少し立ち直りかけていた私の心にグサリと突き刺さった。
その傷は未だに癒されず、血を流し続けている。
” 沙織、おまえとは別れたくなかった。だけど彩矢ちゃんには俺の子供がいる。だから、わかって欲しい ”
なぜ、そう言ってくれなかったの?
嘘だっていい。そんな言い訳だったら耐えられたと思う。
特別な存在にはなれなかった私は一体なに?
遼ちゃんにとって私はなんだったの?
……私のことなど誰も愛してくれない。
誰も私を特別などと思ってくれたりもしない。
私を必要としてくれる人などいない。
ひとりも……。
アパートへ転がりこんでから、一週間が過ぎた。
優しく気遣ってくれる人がそばにいるという、この安心感。
だけどいつまでもいられるわけもない。
私の体調を心配して優しくしてくれるのは、早く回復してマンションへ帰って欲しいから。
早く精神科の病院へ行ったほうがいいと言われ、ここのアパートから徒歩十分の心療内科に通院している。
医師からは鬱病と診断され、薬を処方されたけれど、毎日飲むふりをして捨てている。
……治りたくない。
遼ちゃんと一緒にいられるなら、一生治らなくていい。
優しいけれど、気の短いところもある遼ちゃんは、時々苛立ちを爆発させる。
洗濯物を畳んでしまってあげただけなのに……。
「洗濯は自分でするからいいって言っただろう! 俺のことは何もしなくていい。自分の病気のことだけ心配してくれよ!」
「ついでなんだからいいでしょう。水道代だって節約できるし、前は喜んでたじゃない」
「前とは違うんだよっ!……沙織、わかってくれよ。俺たちは一緒に暮らしてるけど、以前とは違う。それはもう説明しただろう。今はただの同居人なんだ」
……ただの同居人。
数週間前、私たちはラブラブだったのに。
遼ちゃんの心に私への気持ちはもう少しも残ってないのね。100%松田彩矢で占められているのね。
こんなことまで言われても、アパートを出ていく勇気とプライドのない自分が哀しい。
「……い、居候は肩身がせまいでしょ。なにか役に立たちたかったの」
泣き出しそうな気持ちをこらえてやっと言った。
「そう思うなら一日も早く回復してくれよ。そのために同居してるんだから」
苛立ったその言い方に、少しもいたわりの気持ちは感じられなかった。
そう、そんなに邪魔なのね。
今や私は厄介な邪魔者で、元気になったら一日も早くオサラバしたいってわけね。
「わかったわよ………もういいわ。早く出て行って欲しいんでしょ!」
ソファから立ちあがり、ボストンバッグに着替えなどを詰め込んだ。
こんなにまで言われてしがみつくなんて、あまりにも惨めすぎる。
遼ちゃんも言いすぎたと思ったのか、暗い顔をしてうつむいていた。
お出かけ用の服に着替え、脱いだ部屋着もバッグに詰めた。
「じゃあ、お世話になりました」
ボストンバッグをさげ、顔も見ずに玄関へ向かった。
「沙織、ごめん。やっぱりもう少しいてくれないか? こんな別れ方は嫌なんだ」
追いかけてきた佐野さんは、さっきまでの高飛車な態度はなくなって、懇願するように私を見つめた。
「優しいのか冷たいのかよくわからない人だわ、遼ちゃんは。私の心配をしてくれてるわけじゃないでしょう。また可笑しなマネをされたら自分が困るからなんでしょう?」
「……確かに俺は自分のことしか考えてなかった。そんなんで沙織が元気になれるはずないのにイライラしてばかりいて」
「中途半端に優しくされるくらいなら、初めから何もしてくれないほうがいいわ!」
泣きながらシューズボックスからサンダルをつかんで出した。
「頼むよ、待ってくれ。そうだな、俺は利己的だった。沙織のために同居していたつもりだったのに。許してくれないかな? 今度は沙織が元気になれるように努力する。だから、もう少しだけいてくれよ」
「もういい、わかってるの。……遼ちゃんの心には私なんか少しもないってこと。ここに居たら迷惑だってこと」
遼ちゃん、もう引き止めないで。
でないとまた期待してしまうから。
もう、このアパートから出て行けなくなってしまうから。
「沙織、気持ちが少しもないはずないだろう。だけど二人は選べないんだ。わかってくれよ、本当は俺だって辛いんだよ」
やるせない様子でそう言うと、泣きながらサンダルを履いていた私を抱きしめた。
少しは私のことも想ってくれるの?
本当にまだ居ていいの?
遼ちゃんはとっても真面目で理性的な潔癖症。
同情で二度ほどハグされただけで、それ以上のことは何も起こらない。私が隣に寝ていてもだ。
もう二度とラブラブだった頃には戻れないのね。
以前より言葉づかいは優しく丁寧。でも日が経つにつれ、二人の親密さはどんどん低下していった。
本当にただの同居人。
私が誤解をしないように、懸命に友人として接しようとする涙ぐましい努力が哀しい。
そのことから、どれほど松田彩矢を大切に想っているのかがわかる。
浮気なんて……絶対にしないんだ、遼ちゃんは。
橋本くんに立て替えてもらった入院費をまだ返してなかった。
呆れているだろうな。
佐野さんのアパードで自殺未遂などを起こした私を、どう思っているんだろう。
いつも親切にされっぱなしで、私からは何にもしてあげてない。
そんな橋本くんには会いたいけれど、これまでの経緯などを考えると、気まずい重さがある。
だけど、いい加減に入院費だけでも返さないと。
LINEで連絡をし、仕事帰りの六時半に札幌駅で待ち合わせをした。
夏のボーナスも出たばかりなので、少し奮発をしてGUCCIのネクタイを買った。
橋本くん、気に入ってくれるかな?
遼ちゃんにも買ってあげたかったけれど、元カノからのプレゼントなど、邪魔に違いないから。
札幌駅と直結しているDAIMARUの出入口に、橋本くんがキョロキョロと落ち着きない様子で立っていた。
「ごめ~ん、待った?」
何事もなかったかのように、おちゃらけた風を装って手をあげた。
「沙織さん、なんか痩せちゃいましたね。もう大丈夫なんですか? 」
いつもとびきりの笑顔を向けてくれる。それは私だけではなく、誰に対してもそうなのだろう。
いいなぁ、好感度が抜群で。どんな人とでも仲良くなれるから。
正反対のタイプなのに、私を気に入ってくれるのは何故?
「迷惑かけて本当にごめんなさい。これ入院費とお詫びのプレゼント」
封筒とネクタイの入った紙袋を渡した。
「そんな、、お詫びのプレゼントって水臭いなぁ、沙織さんは。でも、ありがとうございます。えっ、これってGUCCIじゃないですか。こんな高いもの僕に似合うかな?」
手に下げた紙袋を持ち上げて見つめながら、橋本くんは少し困ったような顔をした。
「とっても渋くて素敵なネクタイなのよ。橋本くんに絶対に似合うはずよ」
「なんか申し訳ないなぁ。あ、あの、夕食とか誘ってもいいのかな? すぐに帰りたいですか?」
「いつもは食欲ないんだけど、橋本くんの顔を見たら、なんだかお腹が空いてきちゃったわ」
「やった! 沙織さん食べたいものってありますか?」
嘘のない嬉しげな様子に癒される。私と一緒にいて喜んでくれる人など、今や橋本くんただ一人かも………。
「お寿司がいいな」
「いいですね。美味しいお店知ってます。沙織さんと行ってみたかったんです」
橋本くんの車で円山にあるそのお寿司屋さんへ行った。
引き戸を開けて入った瞬間、かなりの高級店であることが感じられた。端正な白木で設えられた八席のみのカウンターのお店。
大丈夫かな? いくらボーナスが出たばかりだからって……。
道内産に拘る札幌屈指の寿司処の名店らしい。
「おっ、橋本くんじゃない。どうしたの? 今日は綺麗な女の子なんか連れてきて。やっと彼女ができたのかい?」
カウンター越しに無愛想じゃないほうの職人さんが、冷やかすように微笑んだ。
「残念ながら職場の同僚です。大将の目の保養に連れてきました」
「ハハハッ、それは有難いな。いつもいかついのとばっかり来るもんな」
「僕はお酒を飲まないから、ドクターたちの足にされてるんですよ。美味しいお寿司を奢ってもらえるから嬉しいですけどね」
だからこんな高級なお店を知ってるのね。
橋本くんは一緒にいて疲れない人だし、ドクターたちからも可愛がられているから。
「沙織さん、苦手なのってありますか? 適当に頼んじゃって大丈夫ですか?」
「ええ、任せるわ。よく知ってるみたいだから。好き嫌いはないわ」
鮑のウニ乗せ、ホッキ貝、鮪、金目鯛と続く。
ネタの魅力を際立たせる職人の繊細な技術が感じられた。巧みな手つき、絶妙な提供の間合い。隅々まで行き届いた心配り。
たまご焼きや、干瓢巻きも信じられないほど美味しい。
どれもバランス良く、レベルの高い極上な仕上がりになっていた。巧みな仕事はスマートで美しく、握っている様子さえも楽しめる。
そして、素敵な余韻。
どの握りも、細やかな仕事ぶりが随所に盛り込まれていた。
「沙織さん、今日は静かですね」
「ここのお寿司って美味しすぎるんだもの。びっくりしすぎて庶民には上手くコメントなんてできないわ。それにあまり喋らないほうがいい女に見えるでしょ」
大将たちには聞こえないように、ヒソヒソと言った。
「ハハハッ、僕はそんなこと気にしないけどな。いつもの沙織さんでいいのに」
「………… 」
橋本くんはいつもありのままの私を受け入れてくれる。
満ち足りた気分でお店を出た。
「あー、美味しかった! こんなに食べたのって何日ぶりかな? 橋本くんと一緒にいると私、おデブになっちゃうわ」
「えーっ、じゃあ、今日はもうおしまいですか? もう一軒行こうかと思ってたのに」
少しがっかりしたように微笑みながら、橋本くんは私を見つめた。
「お酒はまだ飲めないの。でもご飯を美味しく食べられるってステキね。なんだか久しぶりに幸せな気分。いいなぁ、橋本くんの奥さんになる人って、とっても幸せな人よ」
それは嘘ではなくて、本当にそう思ったのだけど、言ってしまってから嫌味に聞こえなかっただろうかと、ちょっと心配になった。
一ヶ月ほど前、橋本くんから告白されたことを思い出したから。
「沙織さんが元気になってくれて本当に良かった。……もうあんなことしないですよね?」
少ししんみりと橋本くんは話の内容を変えた。
「ごめんなさい。バカな真似して恥ずかしいわ、本当に」
うなだれたまま駐車場に停めた車の助手席に座る。
「その後、お父さんの具合は?」
「……聞いてないの。何かあったら義兄から電話があると思うけど、父はもう死んでいるのと同じだったの。……あとは時間の問題よ」
「たった一人の身内なんですよね。ショックでおかしくなっても無理ないですよ。でも、もう絶対にあんな事はしないで。僕で良かったらいつでも力になります。あ、そういえば僕、病院の人に沙織さんの親戚だって嘘をついてしまって、すみませんでした」
「いいわよ。橋本くんみたいな人が親戚だったら本当に嬉しいな」
本当にこんな人が身内だったら、どんなにか心強いだろう。
「……佐野さんは、佐野さんは優しくしてくれる?」
アクセルを踏んで、車をスタートさせた橋本くんは、前方を見つめながら聞いた。
「………… 遼ちゃんは私がまたバカなマネをするんじゃないかって、心配をしているの。それで仕方なく一緒に居てくれるだけよ。もう恋人でもなんでもないの。元気になったからそろそろ出て行くわ。もう一人で暮らしても平気よ……多分ね」
「…………」
陽気でおしゃべりな橋本くんが黙ったので、なんとなく気まずい空気が流れた。
「橋本くんはどうして彼女作らないの? とってもモテるのに」
「……モテませんよ、僕は。佐野さんみたいなイケメンでもないし。友達以上には思ってもらえないタイプなんですよ。色気がないんだろうなぁ」
「プッ、色気? 男の人でもそんなことで悩むのね、クスクスッ。でも私よりは色気があるわよ。人を暖かい気持ちにさせるもの。シーンとしらけさせたりしないだけマシだわ」
大切なのは、男も女も色気より愛嬌ね。
「僕は好きですけどね。沙織さんのブラックジョーク。アハハッ!」
「ジョークじゃなくて本音と嫌味なのよ。どうしても言わずにはいられなくなるの」
「僕にはあまり言ってくれないんですね。聞きたいなぁ。言ってくださいよ、嫌味」
「じゃあ、もっとカチンとくることを言ってよ。だけど嫌味が聞きたいなんて勝者のセリフね。人間関係で揉めたことなんてないでしょ、橋本くんは。羨ましいわ」
仕事に戻るとまたトラブルだらけの人間関係が待っている。慣れているとはいえ、やはりうんざりした。
「仕事にはいつ戻るんですか? 本当にもう良くなったんですか?」
「仕事は来週からにする。でも……佐野さんのアパートは今日でおしまいにするわ」
円山からだと佐野さんのアパートまで、あと五分ほどで着いてしまう。
もっと一緒に居たい。
今一緒にいて欲しいのは佐野さんじゃなくて、橋本くんだった。
「じゃあ、ありがとう。お寿司本当に美味しかったわ。なんだか今日一日で生き返ったみたいな気分よ」
「僕の方こそありがとうございます。GUCCIのネクタイなんかもらってしまって」
「そうだ。ねぇ、開けてみてよ。気に入らなかったら交換できるのよ。グレーのを買ったんだけど、ピンクにしようかどうかちょっと迷ったの」
「センスのいい沙織さんが選んだんだから、気に入らないはずないですよ。でもせっかくだから開けてみます」
アパートの駐車場は暗くて、橋本くんは車内灯をつけた。そして紙袋から取り出した縦長のGUCCIの箱を開けた。
「おおっ、やっぱり僕が持ってるのとはまるで違うな。なんだかこれ、佐野さんに似合いそうだなぁ」
橋本くんは少し照れたように笑った。
「そんなことないよ、これは橋本くんに似合うと思って買ったんだから」
箱からネクタイを取り出し、ふざけて橋本くんの首に掛けてみた。
「フフフッ、ほら、やっぱり似合ってる!」
「………… 」
橋本くんが急に真面目顔で押し黙ったので、車内に緊張感がただよった。
慌てて橋本くんの首に掛けたネクタイから手を離した。
「あれれ? もしかして気に入らなかった?」
ドギマギしていることを悟られないように、明るくおどけた。
橋本くんは黙って車内灯を消すと、少し怖い顔で私を見つめた。
「橋本くん……?」
肩を引き寄せられてキスをされた。
軽く触れただけのフレンチキスにひどくドキドキしていた。
まるで初恋の人でもあるかのように。
「ごめん、、沙織さん」
橋本くんは小声で囁くように謝った。
「謝らなくていいわ。嫌じゃなかったもの、、少しも嫌じゃなかったもの……」
焦ってそんなことを言ってしまい、顔が火照ってくるのがわかった。
急に恥ずかしくなり、助手席のドアを開けて外へ出た。
そして、アパートの階段を一気に駆けあがった。
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その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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