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第1章
余命三ヶ月!
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*修二*
いい年をして、どこまでも甘ったれたお坊っちゃまだ。
いたたまれないほど恥ずかしかったのだ、僕は。
あんなに厳しい環境のもとで、ひたむきに生きようとしている夏帆さんを前にして。
なにもかも見透かしているかのように言う、彼女の視線が恐ろしくて。
“ お願い、わたしにはもう時間がないの! ”
彼女の余命はあとどれくらいなのか。
あの切羽詰まった様子では、年内に逝ってしまうのかも知れない。
もう公園に来られなくなる日も近いだろう。
こんな僕が、彼女になにをしてあげられるというのか。
自分のことで精一杯なこの僕が……。
翌日、やはり彼女は公園にいなかった。
熱はまだ下がらないのか。
しばらくの間ルパンを遊ばせ、夏帆さんが来るのを待っていた。
お昼も過ぎて諦めかけていたら、ポメラニアンを連れた女性が一人、公園へ入ってきた。
犬につけられていた首輪は雪と同じ物だ。
雪を散歩させている女性は、夏帆さんと同じくらいの年頃に見えた。
ランニングが趣味なのだろうか。
明るいナイキのウェアがスリムな体型にフィットしていた。ポニーテールを揺らして、軽やかに走る姿が、なんとなく目に浮かぶ。
友人なのだろうか?
買い物や掃除をしてくれる、家政婦さんかも知れない。
園内を見まわしいた彼女は、ベンチから立ち上がった僕と目が合った。
僕とルパンを交互に見ながら、彼女はこちらに近づいてきた。
「あの~? もしかして谷 修二さんでしょうか?」
スポーツウェアが似合う彼女は、さわやかな笑顔で僕を見つめた。
「そうだけど、君は? その犬は雪だね」
「ええ、わたしは夏帆の友人で佐々木というものです。近所に住んでいて、夏帆とは幼なじみなんです」
「そうですか。夏帆さんの具合はどうですか? 昨日はまだ熱があったみたいだけれど」
「熱はさがったんですけどね。雪の散歩はまだ無理みたいで。それでこれをあなたに渡して欲しいって頼まれたんですけど、、」
彼女はウェアのポケットから小さな手紙を取り出して、僕に渡した。
「こんなこと、私がお願いするのもなんですけど、ときどき夏帆を訪ねてあげてくれませんか? 」
「彼女はもう、ここへは来られないってこと?」
「それはわかりません。でも……いつ急変してもおかしくないですから」
「彼女の余命はどれくらいなんですか?」
「多分、3ヶ月くらいかと……」
「さ、3ヶ月!!」
年内かもしれないとは思っていたが、あまりに短すぎる。
「夏帆は子供の頃から、あまり幸福とは言えない環境で育っているんです。
控えめで、いつも相手の要求に応えてばかりいる子で。
お母さんは子育てを放棄しているとしか思えない人だったし、お婆ちゃんはとっても厳しい人で……。
子供ながらに私も夏帆にはずいぶん同情していたんです。
だからいつか必ず幸せになってもらいたいと思っていたんですけど、あんな若さで癌になってしまうなんて……」
足もとでリードに繋がれた雪がくるくると動きまわって、歩きだす主人を待っていた。
「そうでしたか。だけど、僕が彼女の力になれるとは思えないな。逆に傷つけてしまうことになるかもしれない」
「なぜ? ……夏帆、ここ一ヶ月くらい前からとってもウキウキしていたんですよ。何かいいことでもあったの?って聞いたら、“ わたし今、恋をしてるの ” って。あんなに幸せそうな顔をした夏帆を見たのって、初めてかもしれないです」
「彼女と知り合ったのはつい最近で、先週ここで声をかけられたばかりなんだけど……」
「本当に? 夏帆のほうから声をかけたんですか?」
「えっ? あ、そうだけど」
「へーっ、凄い! 夏帆やるなぁ」
友人の佐々木さんは、大袈裟に見えるほど目を大きく見ひらいた。
「彼女自身も、そう言ってたけどね。自分から男性に声をかけるなんて出来ないと思ってたって」
「やっぱり本気なんだなぁ、夏帆。………お願いします。今、好きな人がいないなら、少しでいいから、夏帆に優しくしてくれませんか? ダメですか?」
好きな人がいないなら、か………。
僕の好きな人は多分もう、永遠に変わらないような気がする。
有紀……。
どんなに好きだって、僕から連絡など取れるわけもない。
君はもう僕になんの未練もないだろう。
あんなにひどく傷つけたあと、麗奈を選んだ僕のことなど。
家に帰り、佐々木さんから渡された手紙を開いた。
谷 しゅうじ様
昨日は、わざわざ家まで送ってくださって、ありがとうございました。
なのに、知り合ったばかりのあなたに対して、あまりに図々しい申し出でした。
よく知りもしないことで不快な思いをさせ、申し訳なく思っています。本当にごめんなさい。
中山 夏帆
ライラックの花模様がついた封筒と便箋。
彼女を訪問してみようかという気になった。
僕のことで今も気に病んでいるとしたら、申し訳ない気がした。
大人気なく取り乱して、酷いことを言ったのは、むしろ僕のほうだろう。
軽く昼食を済ませ、家のガレージへ向かった。
母が以前使っていた白のベンツに乗り込む。
あの屋敷には車を停めるスペースが十分すぎるほどあった。
老朽化した家屋には、さほどの資産価値はなさそうだが、土地はかなりのものだろう。
不幸な幼少期を過ごしたようだが、金銭的な不自由はなかったように思える。
それとも、厳しい祖母だったらしいから、お小遣いなどは無しか。
手ぶらで訪問するのも気がひけて、途中花屋に寄る。
あまり目にしたことのない、薄いピンクのゴージャスな品種の薔薇を選んだ。女店員がアレコレと組み合わせて、素敵にアレンジしてくれた。
あの家の庭にもたくさんの花が咲いていたから、花束はそれほど喜ばれないかも知れない。
食べ物よりはいいだろう。
中山家に着き、広い庭の敷地に車を停めた。
夏帆さんはまだ臥せっているかも知れない。
玄関のブザーを押す。
「はい、どちら様でしょう?」
夏帆さんではない中年女性の声がした。
「あの、谷と申します。夏帆さんのお見舞いに伺ったのですが」
「少々お待ちください」
ほどなくして玄関のドアが開けられた。
インターホンに出た中年女性ではなく、夏帆さん本人だったので、少し驚いた。
彼女はひどく驚いたように、大きな目を見開いたまま僕を見つめていた。
夏帆さんのとなりまで走ってきた雪が 、
“ わん、わん!! " と吠えた。
「あ、具合はどう? もしかして寝ているところを起こしてしまったのかな?」
「い、いえ、まさか訪ねてくださるなんて思ってもみませんでした。あ、ど、どうぞ、おあがりになって。今日はわたし一人じゃありませんから」
病人を玄関に立たせておくのもよくない気がして、素直に靴を脱いだ。
20畳ほどのリビングはリフォームされていて、外観のように古めかしくなかった。
若い女性が好みそうなアジアンティストの家具や調度品。
夏帆さんは熱が下がったのか、パジャマでもルームウェアでもなかった。
ブラウスにフレアースカートという、散歩のときと変わらないカジュアルな装い。
以前より少し衰弱しているようだけれど、気分が高揚しているせいか、元気に見えた。
「あ、この花どこに置いたらいいかな? 花なんて庭にたくさん咲いてるから、いらなかったかな?」
少し頭をかき、夏帆さんに手わたす。
お見舞いだとしても、女性に花を贈るというのは、かなり照れくさいものがある。
「ありがとうございます。こんな素敵なバラを見たのは初めてだわ。ガーデニングは亡くなった祖母の趣味で、うちの庭には古い品種の花しかありませんから」
「確かに君は土いじりなんかは向いてなさそうだな。趣味なんかはないのかい?」
「わたしは花を育てるより、描くほうが好きなんです。わ~ なんていい香り! あ、どうぞ、掛けてください。あ、コーヒーで良かったですか? 庭のハーブで作ったティーもありますけど」
「さっき飲んできたばかりなんだ。気を使わないで」
編み込まれた天然素材の籐椅子に腰を下ろした。
彼女は受け取ったバラの香りを嗅ぎながら、キッチンのほうへ向かった。
そして、花瓶に入れた花をセンターテーブルに飾った。
「とっても素敵なお花だわ。本当にありがとうございます。知り合ったばかりなのに、こんなにしていただいて」
「そんなに喜んでくれて嬉しいよ。君が描いた絵を見せてくれないかな?」
「あ、それは、ちょっと、、そんなに上手くもないですから、……お見せできるようなものじゃないです」
夏帆さんは少し戸惑ったようにうつむいた。
「無理にとは言わないけど、見たいな。描くのは静物画が多いのかい?」
「い、いえ、人物画も風景画も描きますよ」
「これって、まさか君が描いた絵じゃないよね?」
リビングに飾られていた風景画は、いつもの公園から見下ろした、札幌の街並みだ。
それは構図も色調も、独自の個性が感じられるセンスの良いものだった。
「それは高校生のときに描いたもので、アートコンテストで優秀賞を頂いて、」
「そうか、すごいな。才能があるんだね」
「才能はないんです。美大で学んで十分に思い知らされました。趣味にしかなりませんけど、描くのは好きなので、、」
彼女は少し恥じらうように謙遜した。
「確かに絵描きで食べていくのは難しいと思うけど、才能はあると思うな。僕は好きだよ、この絵」
「本当ですか? ……あ、あの、やっぱり他の絵も見てもらっても良いですか?」
彼女はひどく感激したように顔を輝かせた。
「見せてもらえたら嬉しいけど」
リビングの隣がアトリエになっていた。
祖父母がいなくなってから、使いやすいようにリフォームしたのかも知れない。
南向きの陽射しが入る、明るいアトリエ。
油絵の具の匂いがツンと鼻をついた。
アトリエは乱雑と言うほどではなかったが、描きかけのものや完成した絵が、あちらこちらと立て掛けられていた。
最近書きかけたものだろうか、イーゼルに掛けられたキャンバスには、犬を連れた男性が描かれていた。
その絵は僕とルパンに違いなく、間違えようがないほど似ていた。
「ご、ごめんなさい。勝手に描いてしまって……。」
彼女はひどくオドオドと恐縮していた。
「うまく特徴を捉えているね。僕とルパンだってすぐにわかったよ」
「あの、怒ってませんか? この絵描きあげたらもらってくださいませんか?」
「僕にくれるのかい? それは願ってもないことだけど」
「嬉しいです。頑張って描きます!」
絵を描くことが、今の彼女の生きがいになっているのかも知れない。
「あまり無理はしないで。体を悪くしたら大変だ。だけど、本当に素晴らしいよ。個展なんかはやらないのかい?」
「知人のお店でたまに……何点か買ってくださる方もいましたけど、無名ですから」
「生きているときは無名でも、そのあと巨匠になった画家は沢山いるよ」
言ってしまってから、死後の話しなどを口走ったことに気づき、後悔する。
「有名になんかなれなくていいわ。あなたのお部屋に飾っていただけるなら」
涙ぐんでいる夏帆さんになんと言って良いのかわからず、壁に立て掛けられていた絵を見てまわった。
「どの絵も素敵だなぁ。僕、この絵を買いたいな」
S4のキャンバスに、夏帆さんと戯れた雪が描かれていた。
余命3ヶ月と言われている彼女は、いつまで描き続けられるのか。
僕はこの先、夏帆さんに何をしてあげられるだろう。
ポメラニアンの雪が足元にすり寄ってきたので、抱きあげた。
ペロペロと顔を舐められ、それを見ていた夏帆さんが涙を拭きながら、フフフッと笑った。
いい年をして、どこまでも甘ったれたお坊っちゃまだ。
いたたまれないほど恥ずかしかったのだ、僕は。
あんなに厳しい環境のもとで、ひたむきに生きようとしている夏帆さんを前にして。
なにもかも見透かしているかのように言う、彼女の視線が恐ろしくて。
“ お願い、わたしにはもう時間がないの! ”
彼女の余命はあとどれくらいなのか。
あの切羽詰まった様子では、年内に逝ってしまうのかも知れない。
もう公園に来られなくなる日も近いだろう。
こんな僕が、彼女になにをしてあげられるというのか。
自分のことで精一杯なこの僕が……。
翌日、やはり彼女は公園にいなかった。
熱はまだ下がらないのか。
しばらくの間ルパンを遊ばせ、夏帆さんが来るのを待っていた。
お昼も過ぎて諦めかけていたら、ポメラニアンを連れた女性が一人、公園へ入ってきた。
犬につけられていた首輪は雪と同じ物だ。
雪を散歩させている女性は、夏帆さんと同じくらいの年頃に見えた。
ランニングが趣味なのだろうか。
明るいナイキのウェアがスリムな体型にフィットしていた。ポニーテールを揺らして、軽やかに走る姿が、なんとなく目に浮かぶ。
友人なのだろうか?
買い物や掃除をしてくれる、家政婦さんかも知れない。
園内を見まわしいた彼女は、ベンチから立ち上がった僕と目が合った。
僕とルパンを交互に見ながら、彼女はこちらに近づいてきた。
「あの~? もしかして谷 修二さんでしょうか?」
スポーツウェアが似合う彼女は、さわやかな笑顔で僕を見つめた。
「そうだけど、君は? その犬は雪だね」
「ええ、わたしは夏帆の友人で佐々木というものです。近所に住んでいて、夏帆とは幼なじみなんです」
「そうですか。夏帆さんの具合はどうですか? 昨日はまだ熱があったみたいだけれど」
「熱はさがったんですけどね。雪の散歩はまだ無理みたいで。それでこれをあなたに渡して欲しいって頼まれたんですけど、、」
彼女はウェアのポケットから小さな手紙を取り出して、僕に渡した。
「こんなこと、私がお願いするのもなんですけど、ときどき夏帆を訪ねてあげてくれませんか? 」
「彼女はもう、ここへは来られないってこと?」
「それはわかりません。でも……いつ急変してもおかしくないですから」
「彼女の余命はどれくらいなんですか?」
「多分、3ヶ月くらいかと……」
「さ、3ヶ月!!」
年内かもしれないとは思っていたが、あまりに短すぎる。
「夏帆は子供の頃から、あまり幸福とは言えない環境で育っているんです。
控えめで、いつも相手の要求に応えてばかりいる子で。
お母さんは子育てを放棄しているとしか思えない人だったし、お婆ちゃんはとっても厳しい人で……。
子供ながらに私も夏帆にはずいぶん同情していたんです。
だからいつか必ず幸せになってもらいたいと思っていたんですけど、あんな若さで癌になってしまうなんて……」
足もとでリードに繋がれた雪がくるくると動きまわって、歩きだす主人を待っていた。
「そうでしたか。だけど、僕が彼女の力になれるとは思えないな。逆に傷つけてしまうことになるかもしれない」
「なぜ? ……夏帆、ここ一ヶ月くらい前からとってもウキウキしていたんですよ。何かいいことでもあったの?って聞いたら、“ わたし今、恋をしてるの ” って。あんなに幸せそうな顔をした夏帆を見たのって、初めてかもしれないです」
「彼女と知り合ったのはつい最近で、先週ここで声をかけられたばかりなんだけど……」
「本当に? 夏帆のほうから声をかけたんですか?」
「えっ? あ、そうだけど」
「へーっ、凄い! 夏帆やるなぁ」
友人の佐々木さんは、大袈裟に見えるほど目を大きく見ひらいた。
「彼女自身も、そう言ってたけどね。自分から男性に声をかけるなんて出来ないと思ってたって」
「やっぱり本気なんだなぁ、夏帆。………お願いします。今、好きな人がいないなら、少しでいいから、夏帆に優しくしてくれませんか? ダメですか?」
好きな人がいないなら、か………。
僕の好きな人は多分もう、永遠に変わらないような気がする。
有紀……。
どんなに好きだって、僕から連絡など取れるわけもない。
君はもう僕になんの未練もないだろう。
あんなにひどく傷つけたあと、麗奈を選んだ僕のことなど。
家に帰り、佐々木さんから渡された手紙を開いた。
谷 しゅうじ様
昨日は、わざわざ家まで送ってくださって、ありがとうございました。
なのに、知り合ったばかりのあなたに対して、あまりに図々しい申し出でした。
よく知りもしないことで不快な思いをさせ、申し訳なく思っています。本当にごめんなさい。
中山 夏帆
ライラックの花模様がついた封筒と便箋。
彼女を訪問してみようかという気になった。
僕のことで今も気に病んでいるとしたら、申し訳ない気がした。
大人気なく取り乱して、酷いことを言ったのは、むしろ僕のほうだろう。
軽く昼食を済ませ、家のガレージへ向かった。
母が以前使っていた白のベンツに乗り込む。
あの屋敷には車を停めるスペースが十分すぎるほどあった。
老朽化した家屋には、さほどの資産価値はなさそうだが、土地はかなりのものだろう。
不幸な幼少期を過ごしたようだが、金銭的な不自由はなかったように思える。
それとも、厳しい祖母だったらしいから、お小遣いなどは無しか。
手ぶらで訪問するのも気がひけて、途中花屋に寄る。
あまり目にしたことのない、薄いピンクのゴージャスな品種の薔薇を選んだ。女店員がアレコレと組み合わせて、素敵にアレンジしてくれた。
あの家の庭にもたくさんの花が咲いていたから、花束はそれほど喜ばれないかも知れない。
食べ物よりはいいだろう。
中山家に着き、広い庭の敷地に車を停めた。
夏帆さんはまだ臥せっているかも知れない。
玄関のブザーを押す。
「はい、どちら様でしょう?」
夏帆さんではない中年女性の声がした。
「あの、谷と申します。夏帆さんのお見舞いに伺ったのですが」
「少々お待ちください」
ほどなくして玄関のドアが開けられた。
インターホンに出た中年女性ではなく、夏帆さん本人だったので、少し驚いた。
彼女はひどく驚いたように、大きな目を見開いたまま僕を見つめていた。
夏帆さんのとなりまで走ってきた雪が 、
“ わん、わん!! " と吠えた。
「あ、具合はどう? もしかして寝ているところを起こしてしまったのかな?」
「い、いえ、まさか訪ねてくださるなんて思ってもみませんでした。あ、ど、どうぞ、おあがりになって。今日はわたし一人じゃありませんから」
病人を玄関に立たせておくのもよくない気がして、素直に靴を脱いだ。
20畳ほどのリビングはリフォームされていて、外観のように古めかしくなかった。
若い女性が好みそうなアジアンティストの家具や調度品。
夏帆さんは熱が下がったのか、パジャマでもルームウェアでもなかった。
ブラウスにフレアースカートという、散歩のときと変わらないカジュアルな装い。
以前より少し衰弱しているようだけれど、気分が高揚しているせいか、元気に見えた。
「あ、この花どこに置いたらいいかな? 花なんて庭にたくさん咲いてるから、いらなかったかな?」
少し頭をかき、夏帆さんに手わたす。
お見舞いだとしても、女性に花を贈るというのは、かなり照れくさいものがある。
「ありがとうございます。こんな素敵なバラを見たのは初めてだわ。ガーデニングは亡くなった祖母の趣味で、うちの庭には古い品種の花しかありませんから」
「確かに君は土いじりなんかは向いてなさそうだな。趣味なんかはないのかい?」
「わたしは花を育てるより、描くほうが好きなんです。わ~ なんていい香り! あ、どうぞ、掛けてください。あ、コーヒーで良かったですか? 庭のハーブで作ったティーもありますけど」
「さっき飲んできたばかりなんだ。気を使わないで」
編み込まれた天然素材の籐椅子に腰を下ろした。
彼女は受け取ったバラの香りを嗅ぎながら、キッチンのほうへ向かった。
そして、花瓶に入れた花をセンターテーブルに飾った。
「とっても素敵なお花だわ。本当にありがとうございます。知り合ったばかりなのに、こんなにしていただいて」
「そんなに喜んでくれて嬉しいよ。君が描いた絵を見せてくれないかな?」
「あ、それは、ちょっと、、そんなに上手くもないですから、……お見せできるようなものじゃないです」
夏帆さんは少し戸惑ったようにうつむいた。
「無理にとは言わないけど、見たいな。描くのは静物画が多いのかい?」
「い、いえ、人物画も風景画も描きますよ」
「これって、まさか君が描いた絵じゃないよね?」
リビングに飾られていた風景画は、いつもの公園から見下ろした、札幌の街並みだ。
それは構図も色調も、独自の個性が感じられるセンスの良いものだった。
「それは高校生のときに描いたもので、アートコンテストで優秀賞を頂いて、」
「そうか、すごいな。才能があるんだね」
「才能はないんです。美大で学んで十分に思い知らされました。趣味にしかなりませんけど、描くのは好きなので、、」
彼女は少し恥じらうように謙遜した。
「確かに絵描きで食べていくのは難しいと思うけど、才能はあると思うな。僕は好きだよ、この絵」
「本当ですか? ……あ、あの、やっぱり他の絵も見てもらっても良いですか?」
彼女はひどく感激したように顔を輝かせた。
「見せてもらえたら嬉しいけど」
リビングの隣がアトリエになっていた。
祖父母がいなくなってから、使いやすいようにリフォームしたのかも知れない。
南向きの陽射しが入る、明るいアトリエ。
油絵の具の匂いがツンと鼻をついた。
アトリエは乱雑と言うほどではなかったが、描きかけのものや完成した絵が、あちらこちらと立て掛けられていた。
最近書きかけたものだろうか、イーゼルに掛けられたキャンバスには、犬を連れた男性が描かれていた。
その絵は僕とルパンに違いなく、間違えようがないほど似ていた。
「ご、ごめんなさい。勝手に描いてしまって……。」
彼女はひどくオドオドと恐縮していた。
「うまく特徴を捉えているね。僕とルパンだってすぐにわかったよ」
「あの、怒ってませんか? この絵描きあげたらもらってくださいませんか?」
「僕にくれるのかい? それは願ってもないことだけど」
「嬉しいです。頑張って描きます!」
絵を描くことが、今の彼女の生きがいになっているのかも知れない。
「あまり無理はしないで。体を悪くしたら大変だ。だけど、本当に素晴らしいよ。個展なんかはやらないのかい?」
「知人のお店でたまに……何点か買ってくださる方もいましたけど、無名ですから」
「生きているときは無名でも、そのあと巨匠になった画家は沢山いるよ」
言ってしまってから、死後の話しなどを口走ったことに気づき、後悔する。
「有名になんかなれなくていいわ。あなたのお部屋に飾っていただけるなら」
涙ぐんでいる夏帆さんになんと言って良いのかわからず、壁に立て掛けられていた絵を見てまわった。
「どの絵も素敵だなぁ。僕、この絵を買いたいな」
S4のキャンバスに、夏帆さんと戯れた雪が描かれていた。
余命3ヶ月と言われている彼女は、いつまで描き続けられるのか。
僕はこの先、夏帆さんに何をしてあげられるだろう。
ポメラニアンの雪が足元にすり寄ってきたので、抱きあげた。
ペロペロと顔を舐められ、それを見ていた夏帆さんが涙を拭きながら、フフフッと笑った。
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