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第1章
言いだしかねて
しおりを挟む*修二*
午後2時過ぎにホスピスの個室に入り、身のまわりの日用品をロッカーや消灯台におさめた。
「無事にホスピスに来られてよかった。おトイレに行くのも辛くなってたから」
片付けを終えてベッドに横になった夏帆が、安堵して微笑んだ。
「毎日僕の料理じゃ寂しいしね。確かにここのほうが快適だな」
「修二さんのお料理、美味しかったわ。センスがいいもの。お母様ゆずりなのね」
肩で息をひとつ吐いて夏帆は目を閉じた。最近では話をすることさえ、しんどいようだ。
「疲れただろう。寒くないかい?」
肩が出ていたので、毛布を首まで引っ張りあげた。
「ありがとう。車椅子でもこんなに動いたのは久しぶりね。少し寝るわ。修二さんも好きなことをしてね。ずっとここにいなくて大丈夫よ」
「僕の仕事はパソコンさえあれば出来ることだから、どこにいても同じだよ。日中は夏帆のそばにいるよ」
夏帆が目を覚ましたときには、いつでも側にいられるようにしたかった。
個室だけれど、ここのホスピスは基本的に夜間の付き添いが出来ないことになっている。
なので夜は原則8時までしかいられない。
いつまでも有紀と美冬を放っておくわけにもいかないわけで、その規則には助けられたと言うべきかも知れない。
夏帆が眠ったようなので、デイルームへ行き、久しぶりに有紀に電話をした。
「あ、有紀ちゃん。今晩やっと帰れることになったよ。これから列車に乗るから家に着くのは多分、夜の8時を過ぎると思うけど」
『本当? じゃあ、今日は実家には帰らないで、ここで待ってる。気をつけて帰ってきてね!』
「うん、じゃあ、あとで、」
有紀の喜ぶ声を聞くことができて、正直ホッとした。これで有紀の不安と疑惑も少しは解消されるだろう。
だけど、いつ急変してもおかしくない夏帆を、一人病室へおいて帰ることに不安がぬぐえなかった。
モルヒネも使っているけれど、常に痛みやだるさ、不快感と闘っている夏帆の眠りは浅い。
配膳された夕食も、ほとんど手をつけずに下げてしまった。
以前なら一口でも頑張って食べさせようとしていたけれど、もうそんな努力も無駄に思えた。
今はできる限り我慢などせずに、少しでも快適に過ごせるようにしてあげるだけだ。
僕にできる事はただそばにいてあげること。
「修二さん、もう帰ってくれていいわ。私もう眠るから。明日また来てくれるでしょう?」
「もちろん来るよ。僕は夏帆の寝顔を見ているのが好きだから、もう少しいるよ」
「もう、帰ってあげて。……待ってるでしょう」
「……夏帆」
幻覚でも見ているのだろうか。それともこんな状況でさえ、女性の第六感というのは働くのか。
夏帆の骨ばった手を握った。
なんとか少しでも励ましたくて。
どんなにか君を深く愛しているかを伝えたくて。
虚ろな目をかすかに開けて夏帆はつぶやく。
「ありが、とう。も、もう、帰って。……修二さん、大好きよ、、」
「無理に話さなくていいよ。じゃあ、夏帆が眠ったら帰るから」
そう言うと安心したのか、もしかしてタヌキ寝入りなのか、夏帆は本当に寝てしまったように見えた。
「夏帆?……」
十分ほど夏帆の寝顔を見つめ、ほおにキスをして病室を出た。
いつ急変して死んでもおかしくない状況なのに、心の準備は少しも出来てはいない。
結婚したのは、夏帆のために少しでも役立ちたかったからだ。
だけど支えられていたのはむしろ僕のほうだったのかも知れない。
こんな気持ちを引きずったまま、なに食わぬ顔をして有紀と再婚など出来るのだろうか。
有紀と美冬は僕にとって、かけがえのない存在には違いない。
だけど、もう嘘をつき通す気力さえも無くなりかけていた。
久しぶりに宮の森の実家に戻る。
目を潤ませて僕を迎えた有紀があまりに気の毒に思えて、たった今釧路から帰ったような演技をした。
「ただいま。遅くなってごめん。慌てて帰ったものだから、お土産もなくて、、」
「お疲れ様。寒かったでしょう。晩ご飯は食べちゃった?」
「そんなにおなかは空いてないけど、まだ食べてないんだ」
有紀は懐かしく僕を見つめ、母から料理を教わったこと、ずいぶんと腕が上がったのだと自慢した。
テーブルには煮魚や酢の物、薬膳のスープに煮物など、一見地味な和食が多かったけれど、それは僕の身体が一番求めていたメニューだった。
ここしばらくの間、惣菜屋の弁当ばかり食べていただけに、料理はどれも素晴らしく美味しかった。
だけど、一口も食事が摂れない夏帆を思うと、せっかくの美味しい料理も中々楽しむ気分にはなれなれなかった。
お袋さんよりも才能がありそうだと有紀を褒めちぎり、全ての料理を少しづつよそって食べた。
今日は父も僕より早く帰宅していた。
母が抱っこしている美冬を目を細めて見ていた。
「ご馳走さま。釧路も新鮮で美味しい海鮮料理がたくさんあったけど、それよりもずっと美味しかったよ」
「うわ~~ 嬉しい!!」
僕の褒め方は少し大袈裟だったけれど、手を叩いて飛び上がらんばかりに喜ぶ有紀のリアクションには負ける。
食事を終えるのを待っていたかのように、母は僕に告げた。
「挙式のことは二人の考えに任せるわ。だけど、籍だけは一日も早く入れてちょうだいね。婚姻届の用紙も用意しておいたわ。あなたの名前を書けばいいだけだから」
「う、うん、わかってる。届出は僕がしておくよ。じゃあ、お風呂に入って来る」
母が差し出した婚姻届の用紙をバッグにしまい、バスルームへ向かった。
有紀はキッチンにいて、聞こえてないかのように神妙な顔で後片づけをしていた。
お風呂に入る前、LINEを確認してみたが、夏帆からは何の連絡もなかった。
「何かあったら、すぐに行くから連絡して。じゃあ、また明日。おやすみ」
お風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かしたあと、またLINEをみたけれど、夏帆からの返信はなかった。
もう、スタンプを送る気力さえないのだろうか。それともぐっすり眠っているのか。
もう、夜の10時半も過ぎているから、寝ていたとしても不思議ではないけれど。
スマホも見られないほど具合が悪くなっている気がして、落ち着かなくなる。
変な焦りを感じて、すぐにでも病院へ引き返したほうが良いような気もする。
急変したら、病院からはすぐに連絡が来ることにはなっているけれど。
ーー夏帆のそばにいてやりたい。
二階へあがり、有紀と美冬のいる寝室をノックした。
「はい?」
有紀の声が聞こえてドアが開けられた。
有紀はレースのついたコットン素材の、ルームワンピースを着ていた。
「もう寝るんだろう? 美冬を見てもいい? 起こしてしまうかな?」
「ぐっすり寝てるから大丈夫よ。私もまだ寝ないし。下からビールかなにか持って来ましょうか?」
「いや、いいよ。食べたばかりでお腹がいっぱいだし」
有紀は緊張しているようで、そわそわと落ち着きがなかった。
寝ている美冬のそばへ行き、寝顔を見つめた。こんなにゆっくりと美冬を観察したのは初めてのような気がした。
僕に似ていて、有紀にも似た顔を持つ美冬に、今更のように驚く。
「寝顔がとっても可愛いね」
おしゃべりしている時のほうが、もっともっと可愛いと有紀は言った。
本当に子供が大好きなんだな。
というか、人間全般が好きなのだろう。有紀のそんな心の広さに僕は惹かれたのだ。
人として成熟した女性に惹かれるのは、僕が未熟だからなのか。
夏帆と有紀は全くタイプが違うけれど、共通する部分は多い。
どちらも母親のような慈愛と芯の強さを兼ね備えている。そして僕は、そんな彼女たちの寛容さに甘えているのだった。
でも有紀はまだ、僕のことを信じきれてはいないようだった。
" 作家は家で仕事をするものかと思った ” と言った有紀の言葉に動揺する。
「色々と調べたりすることが多くてね。家だと資料が少ないものだから」
「そうなのね。あ、、それから修二さんの住んでいるアパート見たいんだけど……」
視線をそらせて遠慮がちに言う有紀。
ポケットからマンションのカードキーを取り出して、有紀に渡した。
夏帆のものはすべて中山家へ運び込んだし、二人で暮らしたような痕跡は多分ないはずだ。
「ねえ、このお部屋ステキでしょう。お母様が用意してくださったの。まるでスィートルームみたいだわ。こんなにして頂いて申し訳ないわ」
確かに美しくリフォームされた部屋は、母の感謝の気持ちで溢れていた。
家具やリネン、置かれている小物類の全てに、洗練された上質さが感じられた。
壁紙も明るい色調の柄に張り替えられている。
「有紀にはどんなことをしたって、し足りないよ。本当に感謝している」
たった一人で勇敢にこの子を守った有紀に、知らずにいた申し訳なさがあらためて込みあげた。
それと同時になんとも言えない誇らしい感情が押し寄せる。
「有紀……」
離婚歴があっても、こわばった顔で恥ずかしげにうつむいた有紀は、以前と変わらず可憐で初々しい。
片思いをしていた頃を思い出し、切なさと愛おしさが込みあげた。
強く抱きしめ、夢中でキスをしてベッドへ倒れ込んだ。
ーー夏帆、有紀、僕を許してくれないか。
自分でも、どうすることが一番良いことなのかわからない。
長いキスを交わしているうちに、僕はいつの間にか泣いていた。
「……修二さん? どうしたの」
有紀に気づかれ、手で涙をぬぐった。
「ご、ごめん。有紀、……僕は君にひどいことをしている」
「……修二さん、もう忘れて。私は大丈夫よ、気にしてないわ。美冬がいてくれてこんなに幸せなんだもの」
レイプのことを気に病んでいると、有紀は勘違いをしたのだろう。
僕は過去にあんなことをして、更に罪を重ねようとしている。
「ごめん、有紀……」
僕は今、夏帆の夫だ。
死にゆく妻を看取ってからでなければ、再婚することはできない。
「ゆ、有紀……」
喉まで出かかったその言葉が、どうしても言えず、ベッドから降りて立ちあがった。
「ごめん、ゆっくり休んで。おやすみ」
有紀の顔を見ることもできずに部屋を出た。
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