11 / 38
本編 雌花の章
第十一話 剣道のマメ
しおりを挟む
部屋に静けさが戻った頃、椎奈は男の手の中に意識的に手を差し入れた。ほどなく彼は椎奈の手を握った。男らしい、硬い指先が椎奈の手のひらをくすぐり撫でている。
「あれ」
「え?」
彼の指は、椎奈の左手の、小指の付け根を何度かなぞった。
「あなたは剣道をしていたのか?」
「え……うん」
そうか。マメの名残を確認していたのか。
「意外だ」
「どうして?」
「あなたの性格からして、進んで習ったようには思えなかった」
椎奈は苦笑した。
「今思えば、私もそう思う。こどもの時は、そういうことって分からないでしょう。私の両親が二人とも剣道の経験者で、特に母に憧れていたのよ。だから習った。で、あなたの考え通り、練習は嫌じゃなかったけど、試合になったら足が竦んで、結局一度も勝てなかった」
「あなたは、ああいう武道での勝負ごとが苦手な方だろう」
「そう」
椎奈は男の左手の、小指の付け根辺りを探った。
「あなたにもある」
「ああ。俺は親父に憧れて習ったわけではなくて、ほぼ強制でたたき込まれた。親父が憎々しいほどに強くてな」
「あなたも強そうだわ」
彼は椎奈のうなじに手を差し入れ、そこを撫で始めた。あたたかくてきもちよく、椎奈の口元は緩んでしまう。
「いつか親父を越えたいんだけどな。未だに勝てる気がしない」
「そんなに、お父様はお強いの?」
「単に俺が未熟なだけってのもあるが……親父は大会で三」
不自然な沈黙が流れた。
彼は何かを言いかけた。恐らく、言ってしまうと身元が分かる可能性があるのだ。大会と言った。例えば、全国大会で三連覇などしたとすると、偉業として記録が簡単に辿れる。
椎奈の中で黒い不安が渦巻く。椎奈が発する緊張を感じ取ったのだろう。男は椎奈を抱きしめたまま、ごろんと体を返し、椎奈に覆い被さった。
「俺のことはいい」
「……そう」
「俺はあなたのことが知りたい。今日はどうしたんだ?」
彼は椎奈のひたいを撫で、顔にかかっていた髪を脇に流してくれた。
「あなたは、面倒くさいことに首をつっこみたがる人なのね」
「煩わしいか?」
「どうかしら。あなたの方が、私のこと、煩わしくない?」
「どうだろうな」
はぐらかしを、そのまま返された。言葉を扱うのが上手い。
未ださっきの、不安が心に残っている。何かが引っかかっている。
でも、彼に弱音を吐いてしまいたくもあった。悔いを聞いてほしい。一昨日のように別の世界を見せてほしい。
許されたいのだ。私はできるだけのことをしたと、慰められたい。
この人に甘え、甘やかされたい。
「わたし……今朝の新聞の一面の事件の、被害者の男の子……に、会っていたかもしれないの」
男の体に、一気に緊張が走った。椎奈はそれを重ねられたからだ越しに感じた。彼の変化はそれほどに劇的だった。
「警察には」
声音も変化している。さっきまであった緩やかな空気は一切、消えた。どうして、ここまで真剣になるのか。
「今日、警察署に話にいった。私」
いいかけたとき、彼は不意にあっと声をあげた。
「それで、資料室に行けと……」
「は?」
椎奈が見上げる前で、男は舌打ちした。そっぽを向いてしまい、椎奈と視線を合わせようとしない。
失態だ。それもとても大きな。
椎奈も、見逃すことができなかった。
剣道。父親が三連覇。強制で習わされた。
激務に、眠る時間さえ満足に取れないときもある。
昨日の彼は沈んでいた。今朝、母も彼とよく似た悲壮感を背負っていた。伯父への急な呼び出しもあった。
彼らの管轄で、未成年の少年が殺されて遺棄されるという、酷い事件があったからだ。
なにより、どうして気が付かなかった。
この地の見合いは、親のつてで、互いの子らを会わせるのが通例なのに。
菊野家は両親も、伯父も、伯父側の従兄弟たち全員、警察官という家系であるが、通常、武家同士では見合いは組まれない。大昔では家名の存続、有力者同士の婚姻での権力の集中を避ける、という理由であった。近年は、家名を残さねばという思想が薄れ、女性の進出が認められるようになり、一時、武家同士とのお見合いも組まれる時期があったそうだ。ところがそれはそれで、両親が警察官だと、万が一の時に子供が残されてしまう場合もあるという理由で、再び避けられるようになった。親が見合いの相手に選ばなくなってきている。
だから油断していた。椎奈の相手は警察官ではないだろうと。
しかし、椎奈は警察官ではない。
自分が半端者であり、そのせいで常に抱えていた劣等感を、ようやく解放できるのかもしれないと期待していたのに。
結局、警察官になれなかったせいで、最悪の状況になってしまった。
今日ほど、自分の至らなさを呪ったことはない。
「あなた、警察官なのね」
声が震えた。男に覆い被されている体も。椎奈は彼から距離を取ろうとした。だが男の方が、反応が早かった。椎奈が逃げそうだから、反射でまず留めたに違いない。男の、しかも本職の警官に取り押さえられ、素人である女の椎奈が、彼から距離を取れるはずがなかった。
「相手の身元を探るのは御法度だぞ」
その通りだ。椎奈は黙っておくべきだった。黙って、去ればよかった。
私はやはり、愚かだ。
「何があった」
「なにも」
「そんな言葉を、俺が納得して受け入れると本当に思ってるのか?」
思っていない。我ながら震えの混じった情けない声を出したと自覚している。
「お願いです」
「なんだ」
「もう、ここには来ないでください」
男の胸が大きくふくらみ、元に戻った。それが何度か繰り返された。
「何故」
絞り出された声には怒りもある。椎奈は竦み、瞼を震わせた。
怒るのは当然だ。それを彼は抑えようとしてくれている。優しさに対して申し訳ないと思う気持ちもあるが、彼の怒気も恐ろしい。椎奈の手が震えそうになり、拳を握った。
「言えない。身元がわかるような話は、駄目って、さっき、あなたが言った」
「そうだな。同じことを初日、あなたも言った。にも関わらず俺のことは探った」
「私はあなたを探ったわけじゃない」
彼は鼻で嗤った。
「ああ、確かにな。俺が勝手に自滅した」
椎奈は男から顔を背け、目を閉じた。
「帰って」
「なあ」
椎奈は泣いてしまいたかった。それは本当に悪辣な行為だ。それだけは、彼の前でしてはいけない。耐えなければならない。彼も、怒りをおさえてくれているのに。
「教えてくれ。何があった」
「……なにも」
「ほんのさっきまで、俺の腕の中で、俺を信頼して、俺に完全にからだを委ねていたあなたが、俺が警察官だと知ったとたんに拒絶するのは何故だ」
椎奈は黙って顔を背けたままでいた。
「俺が警察を辞めればいいのか?」
ぎょっとして、椎奈は彼の腕を取った。
「駄目よ、そんなの!」
半ば叫びの椎奈の返答に、男は一瞬気圧されたようだったが、椎奈の手を握り返した。
「駄目よ。……あなたは、辞めては」
「ならどうすればいいんだ。俺はあなたを諦めたくない」
またも椎奈は黙り込んだ。
「教えてくれ」
椎奈は首を左右に振った。
やがて、彼は椎奈から離れた。下着と、襦袢を身に着けていく。帰る準備をしているのだ。着物を着る前、彼は裸のまま身動きせず横たわっている椎奈に、彼女の浴衣をかけてくれた。
「優しくしないで」
そっけなく手を振っても、男は椎奈の前でかがみ込んだままでいる。
「明日の天気を知っているか?」
「え?」
椎奈は思わず顔を上げてしまった。その顎を、彼は椎奈を逃さないように抱えた。
「夜は雨になる」
「……それが、なに?」
「俺は明日も来るぞ。ここに。雨が降ろうと雷が落ちようと」
椎奈は目を見開いた。
「来ないでって、言っているでしょう」
「いいや。俺は明日もあなたをここで、玄関先で待つ。雨に打たれっぱなしの俺を、あなたは見捨てておけないはずだ。そういう女だ」
椎奈は眉をつり上げた。
「あなたは夏の雨程度で風邪をひくようなひとじゃないでしょう」
「どうかな。一晩中だったら、さすがに自信がない」
「狡いわ」
椎奈は彼女なりに怒りを込め彼を睨んでも、男は平然としていた。
「狡いのはあなただ。俺はそれに見合った返しをしているだけだ」
椎奈は左右を見渡した。彼の懐紙入れを見つけ、手を伸ばそうとした。
「そこには裏門の鍵はないぞ。俺が持ってる」
こういった風習の見合い制度故に、この地域の家には、正門と裏門と、門扉がふたつある。裏門は見合いの時にしか使われない。
見合いの男は、親から相手の住所とともに裏門の鍵を渡される。見合いが成立しようがしまいが、最終的に裏門の鍵は、男の側の親を経て女の家へ戻る。
通常、女が部屋を留守にした翌朝に、男は親に女の家の、裏門の鍵を返すしきたりとなっている。
「鍵を返して!」
椎奈は半ば叫びながら手を伸ばした。
「取り返してみろ。できるならな」
椎奈は相手の挑発に乗ってしまった。かっとなって、飛びかかり彼の襟を掴もうとした。手が届く前に、足がよろけ腰が砕けた。布団の上に突いた手を、彼に取られて引かれ、椎奈は男に、羽交い締めのように抱きしめられた。
「あっ!」
椎奈の足のあいだから流れ出たものが、彼の着物を汚してしまった。
「は、離して」
「驚いた。なるほど、踏み込みの鋭さは剣道で鍛えたものだな……だが無謀にも程がある」
「お願い、離して、あなたの着物が、汚れるから」
彼は鼻で嗤った。
「そんなこと、男は気にしない」
椎奈は口付けされた。何の予感さえ与えず、彼は椎奈の口腔内へ侵入している。行為の余韻が残ったからだに、快感が走った。
「……あ……な、なにを」
「俺のために臆病でいてくれと俺は言った。あなた自身を大切にしてほしいからだ。それなのにあなたは、よりにもよってキレ気味の男に挑もうとしたな。自殺行為だ」
「だってあなたは……っあ」
椎奈の耳が、男の舌で犯されている。
信じられない。こんなことで、感じてしまうなんて。
彼は椎奈の敏感な部分を的確に攻め陥落させていく。
「ま、待って、こんな……あ……っん」
顎を捉えられ、椎奈は口付けをされている。
からだに力が入らない。
現職の警官に素人の椎奈が敵うわけがない。それは分かっていたが、まさかこんなふうに堕とされるなんて。
狡いと思ったが、先に手を出したのは椎奈だ。彼の言う通り無謀だったのだ。
さらに忌々しいことに、椎奈の本能は彼の口付けを受け喜んでいる。彼も、自身の快楽より椎奈の快感を引き出そうと、椎奈の口腔内で丁寧でありながら、淫らに動いている。椎奈のからだは彼を受け入れたいと切望しはじめた。
昨日、後背位で抱かれた。淫猥であり、野性味のある体位は、椎奈に密やかな悦びをもたらした。膝を立て、尻を突き出し、濡れた秘裂を露わにし、交わりたいと誘うのだ。
この瞬間だけでなく、この先、何度も。
椎奈は疼くからだを持て余し、足を動かした。足の先は敷布団の上から出て、畳を軽くひっかいた。
その音と、不愉快な感覚で椎奈は我に返った。
なんて不甲斐ない。言葉で去れと言いながら、触れられると従順に反応して、続きを乞うている。
恥ずかしさと悔しさで涙が滲んだ。掴んでいた彼の襟を離し、椎奈は彼の肩を押した。
「いや……」
自分自身への罵りだった。不平を吐いた瞬間、男は離れた。彼も何か言葉を吐き、椎奈を布団の上に降ろし、一人立ち上がった。
椎奈は顔を上げられなかった。
「今日はこれで帰る。明日も来る」
彼は去った。椎奈の弱い、来ないでという言葉は、閉じられた戸に跳ね返って消えた。
「あれ」
「え?」
彼の指は、椎奈の左手の、小指の付け根を何度かなぞった。
「あなたは剣道をしていたのか?」
「え……うん」
そうか。マメの名残を確認していたのか。
「意外だ」
「どうして?」
「あなたの性格からして、進んで習ったようには思えなかった」
椎奈は苦笑した。
「今思えば、私もそう思う。こどもの時は、そういうことって分からないでしょう。私の両親が二人とも剣道の経験者で、特に母に憧れていたのよ。だから習った。で、あなたの考え通り、練習は嫌じゃなかったけど、試合になったら足が竦んで、結局一度も勝てなかった」
「あなたは、ああいう武道での勝負ごとが苦手な方だろう」
「そう」
椎奈は男の左手の、小指の付け根辺りを探った。
「あなたにもある」
「ああ。俺は親父に憧れて習ったわけではなくて、ほぼ強制でたたき込まれた。親父が憎々しいほどに強くてな」
「あなたも強そうだわ」
彼は椎奈のうなじに手を差し入れ、そこを撫で始めた。あたたかくてきもちよく、椎奈の口元は緩んでしまう。
「いつか親父を越えたいんだけどな。未だに勝てる気がしない」
「そんなに、お父様はお強いの?」
「単に俺が未熟なだけってのもあるが……親父は大会で三」
不自然な沈黙が流れた。
彼は何かを言いかけた。恐らく、言ってしまうと身元が分かる可能性があるのだ。大会と言った。例えば、全国大会で三連覇などしたとすると、偉業として記録が簡単に辿れる。
椎奈の中で黒い不安が渦巻く。椎奈が発する緊張を感じ取ったのだろう。男は椎奈を抱きしめたまま、ごろんと体を返し、椎奈に覆い被さった。
「俺のことはいい」
「……そう」
「俺はあなたのことが知りたい。今日はどうしたんだ?」
彼は椎奈のひたいを撫で、顔にかかっていた髪を脇に流してくれた。
「あなたは、面倒くさいことに首をつっこみたがる人なのね」
「煩わしいか?」
「どうかしら。あなたの方が、私のこと、煩わしくない?」
「どうだろうな」
はぐらかしを、そのまま返された。言葉を扱うのが上手い。
未ださっきの、不安が心に残っている。何かが引っかかっている。
でも、彼に弱音を吐いてしまいたくもあった。悔いを聞いてほしい。一昨日のように別の世界を見せてほしい。
許されたいのだ。私はできるだけのことをしたと、慰められたい。
この人に甘え、甘やかされたい。
「わたし……今朝の新聞の一面の事件の、被害者の男の子……に、会っていたかもしれないの」
男の体に、一気に緊張が走った。椎奈はそれを重ねられたからだ越しに感じた。彼の変化はそれほどに劇的だった。
「警察には」
声音も変化している。さっきまであった緩やかな空気は一切、消えた。どうして、ここまで真剣になるのか。
「今日、警察署に話にいった。私」
いいかけたとき、彼は不意にあっと声をあげた。
「それで、資料室に行けと……」
「は?」
椎奈が見上げる前で、男は舌打ちした。そっぽを向いてしまい、椎奈と視線を合わせようとしない。
失態だ。それもとても大きな。
椎奈も、見逃すことができなかった。
剣道。父親が三連覇。強制で習わされた。
激務に、眠る時間さえ満足に取れないときもある。
昨日の彼は沈んでいた。今朝、母も彼とよく似た悲壮感を背負っていた。伯父への急な呼び出しもあった。
彼らの管轄で、未成年の少年が殺されて遺棄されるという、酷い事件があったからだ。
なにより、どうして気が付かなかった。
この地の見合いは、親のつてで、互いの子らを会わせるのが通例なのに。
菊野家は両親も、伯父も、伯父側の従兄弟たち全員、警察官という家系であるが、通常、武家同士では見合いは組まれない。大昔では家名の存続、有力者同士の婚姻での権力の集中を避ける、という理由であった。近年は、家名を残さねばという思想が薄れ、女性の進出が認められるようになり、一時、武家同士とのお見合いも組まれる時期があったそうだ。ところがそれはそれで、両親が警察官だと、万が一の時に子供が残されてしまう場合もあるという理由で、再び避けられるようになった。親が見合いの相手に選ばなくなってきている。
だから油断していた。椎奈の相手は警察官ではないだろうと。
しかし、椎奈は警察官ではない。
自分が半端者であり、そのせいで常に抱えていた劣等感を、ようやく解放できるのかもしれないと期待していたのに。
結局、警察官になれなかったせいで、最悪の状況になってしまった。
今日ほど、自分の至らなさを呪ったことはない。
「あなた、警察官なのね」
声が震えた。男に覆い被されている体も。椎奈は彼から距離を取ろうとした。だが男の方が、反応が早かった。椎奈が逃げそうだから、反射でまず留めたに違いない。男の、しかも本職の警官に取り押さえられ、素人である女の椎奈が、彼から距離を取れるはずがなかった。
「相手の身元を探るのは御法度だぞ」
その通りだ。椎奈は黙っておくべきだった。黙って、去ればよかった。
私はやはり、愚かだ。
「何があった」
「なにも」
「そんな言葉を、俺が納得して受け入れると本当に思ってるのか?」
思っていない。我ながら震えの混じった情けない声を出したと自覚している。
「お願いです」
「なんだ」
「もう、ここには来ないでください」
男の胸が大きくふくらみ、元に戻った。それが何度か繰り返された。
「何故」
絞り出された声には怒りもある。椎奈は竦み、瞼を震わせた。
怒るのは当然だ。それを彼は抑えようとしてくれている。優しさに対して申し訳ないと思う気持ちもあるが、彼の怒気も恐ろしい。椎奈の手が震えそうになり、拳を握った。
「言えない。身元がわかるような話は、駄目って、さっき、あなたが言った」
「そうだな。同じことを初日、あなたも言った。にも関わらず俺のことは探った」
「私はあなたを探ったわけじゃない」
彼は鼻で嗤った。
「ああ、確かにな。俺が勝手に自滅した」
椎奈は男から顔を背け、目を閉じた。
「帰って」
「なあ」
椎奈は泣いてしまいたかった。それは本当に悪辣な行為だ。それだけは、彼の前でしてはいけない。耐えなければならない。彼も、怒りをおさえてくれているのに。
「教えてくれ。何があった」
「……なにも」
「ほんのさっきまで、俺の腕の中で、俺を信頼して、俺に完全にからだを委ねていたあなたが、俺が警察官だと知ったとたんに拒絶するのは何故だ」
椎奈は黙って顔を背けたままでいた。
「俺が警察を辞めればいいのか?」
ぎょっとして、椎奈は彼の腕を取った。
「駄目よ、そんなの!」
半ば叫びの椎奈の返答に、男は一瞬気圧されたようだったが、椎奈の手を握り返した。
「駄目よ。……あなたは、辞めては」
「ならどうすればいいんだ。俺はあなたを諦めたくない」
またも椎奈は黙り込んだ。
「教えてくれ」
椎奈は首を左右に振った。
やがて、彼は椎奈から離れた。下着と、襦袢を身に着けていく。帰る準備をしているのだ。着物を着る前、彼は裸のまま身動きせず横たわっている椎奈に、彼女の浴衣をかけてくれた。
「優しくしないで」
そっけなく手を振っても、男は椎奈の前でかがみ込んだままでいる。
「明日の天気を知っているか?」
「え?」
椎奈は思わず顔を上げてしまった。その顎を、彼は椎奈を逃さないように抱えた。
「夜は雨になる」
「……それが、なに?」
「俺は明日も来るぞ。ここに。雨が降ろうと雷が落ちようと」
椎奈は目を見開いた。
「来ないでって、言っているでしょう」
「いいや。俺は明日もあなたをここで、玄関先で待つ。雨に打たれっぱなしの俺を、あなたは見捨てておけないはずだ。そういう女だ」
椎奈は眉をつり上げた。
「あなたは夏の雨程度で風邪をひくようなひとじゃないでしょう」
「どうかな。一晩中だったら、さすがに自信がない」
「狡いわ」
椎奈は彼女なりに怒りを込め彼を睨んでも、男は平然としていた。
「狡いのはあなただ。俺はそれに見合った返しをしているだけだ」
椎奈は左右を見渡した。彼の懐紙入れを見つけ、手を伸ばそうとした。
「そこには裏門の鍵はないぞ。俺が持ってる」
こういった風習の見合い制度故に、この地域の家には、正門と裏門と、門扉がふたつある。裏門は見合いの時にしか使われない。
見合いの男は、親から相手の住所とともに裏門の鍵を渡される。見合いが成立しようがしまいが、最終的に裏門の鍵は、男の側の親を経て女の家へ戻る。
通常、女が部屋を留守にした翌朝に、男は親に女の家の、裏門の鍵を返すしきたりとなっている。
「鍵を返して!」
椎奈は半ば叫びながら手を伸ばした。
「取り返してみろ。できるならな」
椎奈は相手の挑発に乗ってしまった。かっとなって、飛びかかり彼の襟を掴もうとした。手が届く前に、足がよろけ腰が砕けた。布団の上に突いた手を、彼に取られて引かれ、椎奈は男に、羽交い締めのように抱きしめられた。
「あっ!」
椎奈の足のあいだから流れ出たものが、彼の着物を汚してしまった。
「は、離して」
「驚いた。なるほど、踏み込みの鋭さは剣道で鍛えたものだな……だが無謀にも程がある」
「お願い、離して、あなたの着物が、汚れるから」
彼は鼻で嗤った。
「そんなこと、男は気にしない」
椎奈は口付けされた。何の予感さえ与えず、彼は椎奈の口腔内へ侵入している。行為の余韻が残ったからだに、快感が走った。
「……あ……な、なにを」
「俺のために臆病でいてくれと俺は言った。あなた自身を大切にしてほしいからだ。それなのにあなたは、よりにもよってキレ気味の男に挑もうとしたな。自殺行為だ」
「だってあなたは……っあ」
椎奈の耳が、男の舌で犯されている。
信じられない。こんなことで、感じてしまうなんて。
彼は椎奈の敏感な部分を的確に攻め陥落させていく。
「ま、待って、こんな……あ……っん」
顎を捉えられ、椎奈は口付けをされている。
からだに力が入らない。
現職の警官に素人の椎奈が敵うわけがない。それは分かっていたが、まさかこんなふうに堕とされるなんて。
狡いと思ったが、先に手を出したのは椎奈だ。彼の言う通り無謀だったのだ。
さらに忌々しいことに、椎奈の本能は彼の口付けを受け喜んでいる。彼も、自身の快楽より椎奈の快感を引き出そうと、椎奈の口腔内で丁寧でありながら、淫らに動いている。椎奈のからだは彼を受け入れたいと切望しはじめた。
昨日、後背位で抱かれた。淫猥であり、野性味のある体位は、椎奈に密やかな悦びをもたらした。膝を立て、尻を突き出し、濡れた秘裂を露わにし、交わりたいと誘うのだ。
この瞬間だけでなく、この先、何度も。
椎奈は疼くからだを持て余し、足を動かした。足の先は敷布団の上から出て、畳を軽くひっかいた。
その音と、不愉快な感覚で椎奈は我に返った。
なんて不甲斐ない。言葉で去れと言いながら、触れられると従順に反応して、続きを乞うている。
恥ずかしさと悔しさで涙が滲んだ。掴んでいた彼の襟を離し、椎奈は彼の肩を押した。
「いや……」
自分自身への罵りだった。不平を吐いた瞬間、男は離れた。彼も何か言葉を吐き、椎奈を布団の上に降ろし、一人立ち上がった。
椎奈は顔を上げられなかった。
「今日はこれで帰る。明日も来る」
彼は去った。椎奈の弱い、来ないでという言葉は、閉じられた戸に跳ね返って消えた。
11
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
課長と私のほのぼの婚
藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。
舘林陽一35歳。
仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。
ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。
※他サイトにも投稿。
※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる