なつのよるに弐 叢雨のあと

まへばらよし

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本編 雌花の章

第十一話 剣道のマメ

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 部屋に静けさが戻った頃、椎奈は男の手の中に意識的に手を差し入れた。ほどなく彼は椎奈の手を握った。男らしい、硬い指先が椎奈の手のひらをくすぐり撫でている。
「あれ」
「え?」
 彼の指は、椎奈の左手の、小指の付け根を何度かなぞった。
「あなたは剣道をしていたのか?」
「え……うん」
 そうか。マメの名残を確認していたのか。
「意外だ」
「どうして?」
「あなたの性格からして、進んで習ったようには思えなかった」
 椎奈は苦笑した。
「今思えば、私もそう思う。こどもの時は、そういうことって分からないでしょう。私の両親が二人とも剣道の経験者で、特に母に憧れていたのよ。だから習った。で、あなたの考え通り、練習は嫌じゃなかったけど、試合になったら足が竦んで、結局一度も勝てなかった」
「あなたは、ああいう武道での勝負ごとが苦手な方だろう」
「そう」
 椎奈は男の左手の、小指の付け根辺りを探った。
「あなたにもある」
「ああ。俺は親父に憧れて習ったわけではなくて、ほぼ強制でたたき込まれた。親父が憎々しいほどに強くてな」
「あなたも強そうだわ」
 彼は椎奈のうなじに手を差し入れ、そこを撫で始めた。あたたかくてきもちよく、椎奈の口元は緩んでしまう。
「いつか親父を越えたいんだけどな。未だに勝てる気がしない」
「そんなに、お父様はお強いの?」
「単に俺が未熟なだけってのもあるが……親父は大会で三」
 不自然な沈黙が流れた。

 彼は何かを言いかけた。恐らく、言ってしまうと身元が分かる可能性があるのだ。大会と言った。例えば、全国大会で三連覇などしたとすると、偉業として記録が簡単に辿れる。
 椎奈の中で黒い不安が渦巻く。椎奈が発する緊張を感じ取ったのだろう。男は椎奈を抱きしめたまま、ごろんと体を返し、椎奈に覆い被さった。
「俺のことはいい」
「……そう」
「俺はあなたのことが知りたい。今日はどうしたんだ?」
 彼は椎奈のひたいを撫で、顔にかかっていた髪を脇に流してくれた。
「あなたは、面倒くさいことに首をつっこみたがる人なのね」
「煩わしいか?」
「どうかしら。あなたの方が、私のこと、煩わしくない?」
「どうだろうな」
 はぐらかしを、そのまま返された。言葉を扱うのが上手い。

 未ださっきの、不安が心に残っている。何かが引っかかっている。
 でも、彼に弱音を吐いてしまいたくもあった。悔いを聞いてほしい。一昨日のように別の世界を見せてほしい。
 許されたいのだ。私はできるだけのことをしたと、慰められたい。
 この人に甘え、甘やかされたい。
「わたし……今朝の新聞の一面の事件の、被害者の男の子……に、会っていたかもしれないの」
 男の体に、一気に緊張が走った。椎奈はそれを重ねられたからだ越しに感じた。彼の変化はそれほどに劇的だった。
「警察には」
 声音も変化している。さっきまであった緩やかな空気は一切、消えた。どうして、ここまで真剣になるのか。
「今日、警察署に話にいった。私」
 いいかけたとき、彼は不意にあっと声をあげた。
「それで、資料室に行けと……」
「は?」
 椎奈が見上げる前で、男は舌打ちした。そっぽを向いてしまい、椎奈と視線を合わせようとしない。
 失態だ。それもとても大きな。
 椎奈も、見逃すことができなかった。

 剣道。父親が三連覇。強制で習わされた。
 激務に、眠る時間さえ満足に取れないときもある。
 昨日の彼は沈んでいた。今朝、母も彼とよく似た悲壮感を背負っていた。伯父への急な呼び出しもあった。
 彼らの管轄で、未成年の少年が殺されて遺棄されるという、酷い事件があったからだ。
 なにより、どうして気が付かなかった。
 この地の見合いは、親のつてで、互いの子らを会わせるのが通例なのに。


 菊野家は両親も、伯父も、伯父側の従兄弟たち全員、警察官という家系であるが、通常、武家同士では見合いは組まれない。大昔では家名の存続、有力者同士の婚姻での権力の集中を避ける、という理由であった。近年は、家名を残さねばという思想が薄れ、女性の進出が認められるようになり、一時、武家同士とのお見合いも組まれる時期があったそうだ。ところがそれはそれで、両親が警察官だと、万が一の時に子供が残されてしまう場合もあるという理由で、再び避けられるようになった。親が見合いの相手に選ばなくなってきている。
 だから油断していた。椎奈の相手は警察官ではないだろうと。

 しかし、椎奈は警察官ではない。
 自分が半端者であり、そのせいで常に抱えていた劣等感を、ようやく解放できるのかもしれないと期待していたのに。
 結局、警察官になれなかったせいで、最悪の状況になってしまった。

 今日ほど、自分の至らなさを呪ったことはない。


「あなた、警察官なのね」
 声が震えた。男に覆い被されている体も。椎奈は彼から距離を取ろうとした。だが男の方が、反応が早かった。椎奈が逃げそうだから、反射でまず留めたに違いない。男の、しかも本職の警官に取り押さえられ、素人である女の椎奈が、彼から距離を取れるはずがなかった。
「相手の身元を探るのは御法度だぞ」
 その通りだ。椎奈は黙っておくべきだった。黙って、去ればよかった。
 私はやはり、愚かだ。
「何があった」
「なにも」
「そんな言葉を、俺が納得して受け入れると本当に思ってるのか?」
 思っていない。我ながら震えの混じった情けない声を出したと自覚している。
「お願いです」
「なんだ」
「もう、ここには来ないでください」

 男の胸が大きくふくらみ、元に戻った。それが何度か繰り返された。
「何故」
 絞り出された声には怒りもある。椎奈は竦み、瞼を震わせた。
 怒るのは当然だ。それを彼は抑えようとしてくれている。優しさに対して申し訳ないと思う気持ちもあるが、彼の怒気も恐ろしい。椎奈の手が震えそうになり、拳を握った。
「言えない。身元がわかるような話は、駄目って、さっき、あなたが言った」
「そうだな。同じことを初日、あなたも言った。にも関わらず俺のことは探った」
「私はあなたを探ったわけじゃない」
 彼は鼻で嗤った。
「ああ、確かにな。俺が勝手に自滅した」
 椎奈は男から顔を背け、目を閉じた。
「帰って」
「なあ」
 椎奈は泣いてしまいたかった。それは本当に悪辣な行為だ。それだけは、彼の前でしてはいけない。耐えなければならない。彼も、怒りをおさえてくれているのに。
「教えてくれ。何があった」
「……なにも」
「ほんのさっきまで、俺の腕の中で、俺を信頼して、俺に完全にからだをゆだねていたあなたが、俺が警察官だと知ったとたんに拒絶するのは何故だ」
 椎奈は黙って顔を背けたままでいた。
「俺が警察を辞めればいいのか?」
 ぎょっとして、椎奈は彼の腕を取った。
「駄目よ、そんなの!」
 半ば叫びの椎奈の返答に、男は一瞬気圧されたようだったが、椎奈の手を握り返した。
「駄目よ。……あなたは、辞めては」
「ならどうすればいいんだ。俺はあなたを諦めたくない」
 またも椎奈は黙り込んだ。
「教えてくれ」
 椎奈は首を左右に振った。

 やがて、彼は椎奈から離れた。下着と、襦袢を身に着けていく。帰る準備をしているのだ。着物を着る前、彼は裸のまま身動きせず横たわっている椎奈に、彼女の浴衣をかけてくれた。
「優しくしないで」
 そっけなく手を振っても、男は椎奈の前でかがみ込んだままでいる。
「明日の天気を知っているか?」
「え?」
 椎奈は思わず顔を上げてしまった。その顎を、彼は椎奈を逃さないように抱えた。
「夜は雨になる」
「……それが、なに?」
「俺は明日も来るぞ。ここに。雨が降ろうと雷が落ちようと」
 椎奈は目を見開いた。
「来ないでって、言っているでしょう」
「いいや。俺は明日もあなたをここで、玄関先で待つ。雨に打たれっぱなしの俺を、あなたは見捨てておけないはずだ。そういう女だ」
 椎奈は眉をつり上げた。
「あなたは夏の雨程度で風邪をひくようなひとじゃないでしょう」
「どうかな。一晩中だったら、さすがに自信がない」
「狡いわ」
 椎奈は彼女なりに怒りを込め彼を睨んでも、男は平然としていた。
「狡いのはあなただ。俺はそれに見合った返しをしているだけだ」
 椎奈は左右を見渡した。彼の懐紙入れを見つけ、手を伸ばそうとした。
「そこには裏門の鍵はないぞ。俺が持ってる」

 こういった風習の見合い制度故に、この地域の家には、正門と裏門と、門扉がふたつある。裏門は見合いの時にしか使われない。
 見合いの男は、親から相手の住所とともに裏門の鍵を渡される。見合いが成立しようがしまいが、最終的に裏門の鍵は、男の側の親を経て女の家へ戻る。
 通常、女が部屋を留守にした翌朝に、男は親に女の家の、裏門の鍵を返すしきたりとなっている。

「鍵を返して!」
 椎奈は半ば叫びながら手を伸ばした。
「取り返してみろ。できるならな」
 椎奈は相手の挑発に乗ってしまった。かっとなって、飛びかかり彼の襟を掴もうとした。手が届く前に、足がよろけ腰が砕けた。布団の上に突いた手を、彼に取られて引かれ、椎奈は男に、羽交い締めのように抱きしめられた。
「あっ!」
 椎奈の足のあいだから流れ出たものが、彼の着物を汚してしまった。
「は、離して」
「驚いた。なるほど、踏み込みの鋭さは剣道で鍛えたものだな……だが無謀にも程がある」
「お願い、離して、あなたの着物が、汚れるから」
 彼は鼻で嗤った。
「そんなこと、男は気にしない」
 椎奈は口付けされた。何の予感さえ与えず、彼は椎奈の口腔内へ侵入している。行為の余韻が残ったからだに、快感が走った。
「……あ……な、なにを」
「俺のために臆病でいてくれと俺は言った。あなた自身を大切にしてほしいからだ。それなのにあなたは、よりにもよってキレ気味の男に挑もうとしたな。自殺行為だ」
「だってあなたは……っあ」
 椎奈の耳が、男の舌で犯されている。
 信じられない。こんなことで、感じてしまうなんて。
 彼は椎奈の敏感な部分を的確に攻め陥落させていく。
「ま、待って、こんな……あ……っん」
 顎を捉えられ、椎奈は口付けをされている。
 からだに力が入らない。
 現職の警官に素人の椎奈が敵うわけがない。それは分かっていたが、まさかこんなふうに堕とされるなんて。
 狡いと思ったが、先に手を出したのは椎奈だ。彼の言う通り無謀だったのだ。
 さらに忌々しいことに、椎奈の本能は彼の口付けを受け喜んでいる。彼も、自身の快楽より椎奈の快感を引き出そうと、椎奈の口腔内で丁寧でありながら、淫らに動いている。椎奈のからだは彼を受け入れたいと切望しはじめた。
 昨日、後背位で抱かれた。淫猥であり、野性味のある体位は、椎奈に密やかな悦びをもたらした。膝を立て、尻を突き出し、濡れた秘裂を露わにし、交わりたいと誘うのだ。
 この瞬間だけでなく、この先、何度も。
 椎奈はうずくからだを持て余し、足を動かした。足の先は敷布団の上から出て、畳を軽くひっかいた。
 その音と、不愉快な感覚で椎奈は我に返った。
 なんて不甲斐ない。言葉で去れと言いながら、触れられると従順に反応して、続きを乞うている。
 恥ずかしさと悔しさで涙が滲んだ。掴んでいた彼の襟を離し、椎奈は彼の肩を押した。
「いや……」
 自分自身への罵りだった。不平を吐いた瞬間、男は離れた。彼も何か言葉を吐き、椎奈を布団の上に降ろし、一人立ち上がった。
 椎奈は顔を上げられなかった。
「今日はこれで帰る。明日も来る」
 彼は去った。椎奈の弱い、来ないでという言葉は、閉じられた戸に跳ね返って消えた。

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