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本編 雌花の章
第十話 転機、ふたたび
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「大丈夫か?」
椎奈ははっとした。椎奈も眠ってしまっていたのだ。
驚いた。確かに体力を使い果たした交わりだったが、誰かがそばにいて、起こされるまで眠っていたことは、ここ最近なかったから。
彼はゆっくり、名残惜しげに椎奈から離れた。椎奈に掛布を宛がい、視線を合わせたあと、ごく短い口付けを落とした。
「シャワーを先に使って」
「……いや、もう戻らなければ」
彼は立ち上がり着物を身に着けている。起き上がって手伝おうと思ったが、腰を上げられなかった。どうしようと椎奈が迷っているあいだに、彼は着替えを終えた。無言で出ようとするので、その背に椎奈は、身を横たえたままで声をかけた。
「明日も、来て。お願い」
男は振り返った。掠れた声しか出なかったのに、彼の耳はそれを拾った。
「ああ。来る……ありがとう。感謝している」
襖が閉じられ、向こうで草履を履いている音がしている。引き戸を開けた音を、椎奈は聞きながら目を閉じた。
椎奈が目覚めたとき、はじめに気になったのは輪っぱの弁当箱だった。置いた場所になかった。彼は持って帰ってくれたのだ。ほんのり、あたたかいものがお腹に入ったような気がした。
椎奈はシャワーブースで体を洗ったあと、家に戻った。裏の勝手口から入ると、台所に郁がいた。彼女はテーブルに肘を付き、額に手を宛て項垂れていた。母の視線の先に、今朝の朝刊がある。
「おはよう……お母さん、どうしたの?」
椎奈は見合いがあったから、郁がいつここに戻ったのか分からない。椎奈と入れ違いで戻ったわけではなさそうだ。郁の目の下には隈があった。
副署長の勝明伯父も、昨日の夕方、非番だったのに署に向かった。そして母のこの様子。
椎奈の背に悪寒が走った。
「何があったの?」
「椎奈、あなたに署に来てほしい」
郁は手元の新聞の、一面トップにある記事を指さしてから、それを椎奈に手渡してきた。内容を読み、椎奈は瞠目した。
市内河川敷で、中学二年生の男児の死体が発見されたという見だしがそこにあった。
一昨日、どどいつと朝の散歩の途中で出会った少年を思い出した。朝早くに、公園のベンチで横になっていた彼を。
手が震えてきた。椎奈は自分の手首を、もう片方の手で握った。
「……私が一昨日に会った……あの、男の子、なの?」
「今のところ断定できない。椎奈の話の内容から、年が近いし特徴が似ているわ。だから椎奈が一昨日に会った男の子の話を、正式に署で聞きたいの」
椎奈は出社したものの、心ここにあらずであった。敢えて単調な仕事をずっとこなし、事件のことはなるべく考えないように努力した。
昼食メンバーの三人が椎奈を誘いに来たが、断った。彼女らは構えず椎奈の断りを受け入れてくれ、椎奈は昼食を一人で食べた。よくよく考えれば皆と他愛もない話をした方がよかったのだ。一人だとずっと考えてしまう。何を食べても味がせず、喉を通すことさえ辛かった。
定時に出社し、帰宅の途中で郁と合流し、椎奈は警察署へ向かった。そこで、一昨日の朝に出会った少年のことを話した。
椎奈と郁が帰宅したとき、家では蕗子が椎奈たち家族四人の夕食を用意してくれていた。
「蕗子さん、いつもありがとうございます」
「いいのよ。あなた達の方が大変なんだから。椎奈ちゃんもびっくりしたでしょう」
何故だろう。驚いたという次元などではないのに、蕗子に穏やかにそう言われると心が安らぐ。対する相手との相性もあろうが、椎奈は伯母のこういう気質にたいてい救われている。
同時に、無性に一人になりたかった。
郁は管轄の署に戻った。椎奈は上の空でご飯を食べていた。奈月と香月が一緒に食事を摂ったのかよく覚えていない。
自分が出会っていた少年が、殺されたのかもしれない。
あのとき、声をかけていれば。
保護をしていれば、もしかしたら……?
埒もない考えだ。そもそも警察署で話はしたが、相手の刑事の反応は全くなかった。機械と話をしているようで、それが嫌だったわけではないが、強く印象に残った。事務的で、熱が入っていないように感じた。だから、椎奈があの早朝に出会った彼ではないかもしれない。
そう思い込みたくて、何度も何度も考えている。こんなことをずっと抱えたくないのに。
一人になりたい。離れに行きたい。
いや。
一人になりたいわけではないのだ。
椎奈は目を閉じた。
彼に会いたい。一昨日のように全てを忘れ、彼の腕の中で眠りたい。
「……いやだ」
これは恋心だけでない。安らぎも欲しいのだ。
一生の安寧が。
馬鹿馬鹿しい。そんなものはこの世にはないのに。
もしそんなものがあったなら、父は今も存命のはずだ。
あんなふうに背中を丸め、虚空を見つめることもなかった。
椎奈は項垂れた。
安らぎがないのは、この世に存在しないからではない──私が、何もできないからだ。
椎奈は現実から逃げたくて、一時間も前から離れに来て、暗闇で横になっていた。眠ってしまわないかと、自分の心配もしたが、そんなことはなかった。後悔がずっと脳にこびりついていて、寝入りを妨げている。
結局、不安からも悔恨からも逃げられなかった。
時間になり、男はやってきた。
「こんばんは」
「こんばんは」
男は曲げわっぱの弁当箱を持っていた。差し出されたので手に取ると、軽くはあったが、中に何かが入っているようだ。
「あ……」
そういえば、今日は何も用意していない。無言になった椎奈の焦りを察したのか、彼は小首を傾げた。
「どうした?」
「え、あ、あの、今日は何も作ってなくて……どうしよ」
彼は笑った。今日は、初日のような快活な彼だ。それには安心したが、椎奈は自分の感情の処理で手一杯だった。時間があったのに何もしなかったことを悔やみ、落ち込みそうになっている。
「気にしないでくれ。それに飯は食ってきた。昨日の寿司、ありがとう。美味かった」
肩を軽くポンポンと叩かれた。
「よかった」
「それで、弁当箱にお返しを入れてある。適当に食ってくれ」
「そうなの?」
中が見えるわけではないけれど、椎奈は目元まで弁当箱を持ち上げた。
「冷蔵庫に入れておいた方がいい?」
「煎餅だ。室温でいいはずだ」
「おせんべい」
椎奈は弁当箱をごく軽く振った。個別の包装がある煎餅なのだろう、がさがさと音がしている。
「ありがとう。嬉しい。どうぞ入って」
椎奈が促すと、男は椎奈に続いて奥の部屋まで入ってきた。
彼は敷かれた布団を一瞥し、椎奈に話しかけてきた。
「随分前からここに入っていたんだな」
「え」
「考え事をしていたのか?」
椎奈は答えるのを躊躇った。その通り、当たっているからこそ、椎奈は怯んでしまった。
「そういうことは、精神面でよくない。一人になりたいなら明るい場所がいい。横になって何もしないというのは一番悪いらしいぞ。特にあなたのような、繊細で考えすぎる質のひとは」
言葉を返せなかった。
彼は鋭く人を観察している。今なら、お見合いの二日目に彼が、椎奈を末っ子か独りっ子と断言していた会話は、椎奈を笑わせリラックスさせる嘘だったのだと推測できる。
元々そういう人なのか、それとも後天的に会得したものか。
椎奈の中にモヤモヤとしたものが膨らんできた。
彼は何者?
彼の職は──なに?
「ははあ。今日も、何かあったんだな」
彼は、椎奈が立ち尽くしている前まで来てから、指でちょいと椎奈の顎をつついた。
「なあ。俺に全部、白状してしまう気はないか?」
どうして、この人は私のことを知りたがるのだろう。こんな面倒なことさえ聞こうとする。椎奈は偏見と承知しつつも、若い男性が女性の悩みを聞きたがるなど絶対ないと思っていた。
「……あなた、私のことが、好き?」
「何を今更。俺がこうして毎晩通っているのは、あなたに惚れているからだぞ」
「それはそうなんだけど」
「あなたも、俺と一緒になりたいからここにいるんだろう?」
椎奈はうなずいた。
「あなたのことが好きです。でも、私、あなたといるとほっとするのが……単に保護者を欲しているだけなのか、よく分からなくて」
「それの何が悪い?」
「見返りがほしいのか、って。それって、なんとなく、あなたに悪い気がする」
男は鼻で嗤ったようだ。
「昨日、あなたを利用した俺に、遠回しに説教をしたいのか?」
声が半笑いになっている。自嘲も混じっているようだ。
「そんなわけない」
「だろう? だからあなたも俺を頼ってくれ。一緒になったら、こういう日もあると、あなたが言ってくれたじゃないか」
彼は椎奈から弁当箱を取り上げ、小さな冷蔵庫の上にそれを置いた。
それから再び椎奈の前に立ち、椎奈の肩を引き寄せ抱きしめた。
椎奈も力を抜き、されるがまま彼に体を預けた。相変わらず、力強い心音がしている。
「今だけでいいから、俺のすることだけを考えて、感じてくれ。今日あったことは、思い出さなくていいように俺がする……昨日、あなたがしてくれたことを、俺にもさせてほしい」
椎奈は広い男の背に手を回し、顔を上げた。
「あなたがここでいますぐ眠りたいなら、俺はずっとどうでもいいような、眠くなる話をし続けることもできる」
「そんなことができるの?」
それはそれで椎奈に興味が湧いた。どんな話になるのだろう。
でも、それは別の機会でいい。
「おねがい、抱いて」
彼の手が動いた。慈愛に満ちていたあたたかい手が、椎奈の背をつと撫でていく。うなじに辿り着いたときには、それは肉欲を湧かせる起爆剤と変わっていた。
「……あ」
背から下腹にかけしびれが走った。
「なあ」
「はい?」
「今日も、つけなくて、いいよな」
椎奈は肯定の意味を込め、踵を上げ、彼へ口付けた。
応じてくれた彼の優しい口付けは、すぐに深く激しいものにとって変わった。
椎奈は横抱きに抱え上げられ、褥へと運ばれた。
「……わざとなの?」
「ん?」
「こんな、……物語みたいな」
恋愛小説のようなとは、照れて言えなかった。彼に覆い被され、帯が解かれていく。椎奈も彼の袴の結びを解いた。お互いの肌が露わになり、匙のようにぴたりと重なったとき、椎奈は快感の声を漏らした。
じわじわと、椎奈のからだに触れることで、彼は椎奈から負の思考を奪って消していく。指先から足の先まで、全てが敏感になり、男との触れ合いを悦び、彼を受け入れたくて腹の奥が逸っている。
「すごいな……」
彼が感心しているのは、椎奈が感じ過ぎていることか。
それとも、蜜をあふれさせていることか。
彼は椎奈の秘裂の奥を、指でこなさず、雄を早々に挿してきた。椎奈にも痛みはない。波のように快感がおしよせてきている。距離を縮め、椎奈に沿おうとしている男の肩へ手を伸ばし、椎奈は逞しい体躯を抱きしめた。
「あっ……」
彼が全て入れる前に椎奈は達してしまった。そこから一気に貫かれ、さらなる大きな波が椎奈を覆った。
からだだけでなく、椎奈のうちにあった満たされない思いが埋められている。
二人はその体勢のまま、動きを止めた。
からだが包まれている。完全に、彼に絡め取られている。身動きが取れなくても、不安など少しもなかった。
時間感覚が分からない。男を受け入れ、椎奈から大きな波が過ぎたあとから、どのくらい経ったのか。
自分のからだに埋められている、猛々しい彼の感覚にずっと圧倒されている。椎奈は男の存在に集中し、脳から手足の指先まで、全身で彼を味わっている。
接合し、じっとして動かないのに、じわじわと快感がからだを覆っている。今、動かれると、弾けてしまう。それで終わってしまうのは、余りにも惜しい。
男は、椎奈の背とお尻の境界あたりに指を滑らせた。ぴくんと自分のからだが反応し、下腹が不随意に動いた。椎奈のからだが彼自身を締め、男は声を漏らした。彼の、色欲に溺れた声を聞くと、椎奈の内腔は益々悦びを示していく。
とうとう、椎奈は越えた。鼻に抜けた嬌声に、彼のうめき声が重なった。
彼はまだ硬い。椎奈は三度も果てたのに。
言質の通り、彼は椎奈に、情欲以外のなにも考えさせないようにしてくれている。
「あなたの好きなように、して」
「……今日は、あなたが、してほしいことを、言ってくれ」
途切れ途切れの掠れた声を、彼は意識して出しているのだろうか。
それがどれほど、椎奈を悦ばせているのか、分かっているのだろうか。
「だから、して……あなたの、好きなように、されたいの」
ぐるりと、椎奈の背に男の腕が回った。抱き上げられ、男の上に椎奈は腰掛ける体勢になった。昨晩とは違った奥まで、彼がきている。
「ンあ……」
彼は腕だけで椎奈を動かし、彼女の内腔をかき回すように行き来した。
波が来た。反射で、男のからだに回していた椎奈の腕に力がこもった。
「あっ」
男も、椎奈を抱く腕の力を強くした。椎奈のなかで、彼が果てたのが分かる。それが、椎奈をさらなる高みに追い詰めた。
からだの奥が悦びで震えている。すぐには収まりそうにない。彼を抱きしめていないと、椎奈を形つくるものが溶けてなくなってしまう、そんな錯覚さえある。
腕の力がなくなってきた。自分のからだが重く感じるようになり、椎奈が腕を緩めると、椎奈の中から男の分身が抜けた。彼は椎奈を布団の上にゆっくり仰臥させ、彼もその隣で横になった。
男は椎奈を引き寄せ抱きしめた。
あたたかい。
このなかにいれば、たとえつかの間であっても、何もかも忘れることができる。
怖い事件も、辛い過去も、自分を苛む劣等感も。
椎奈ははっとした。椎奈も眠ってしまっていたのだ。
驚いた。確かに体力を使い果たした交わりだったが、誰かがそばにいて、起こされるまで眠っていたことは、ここ最近なかったから。
彼はゆっくり、名残惜しげに椎奈から離れた。椎奈に掛布を宛がい、視線を合わせたあと、ごく短い口付けを落とした。
「シャワーを先に使って」
「……いや、もう戻らなければ」
彼は立ち上がり着物を身に着けている。起き上がって手伝おうと思ったが、腰を上げられなかった。どうしようと椎奈が迷っているあいだに、彼は着替えを終えた。無言で出ようとするので、その背に椎奈は、身を横たえたままで声をかけた。
「明日も、来て。お願い」
男は振り返った。掠れた声しか出なかったのに、彼の耳はそれを拾った。
「ああ。来る……ありがとう。感謝している」
襖が閉じられ、向こうで草履を履いている音がしている。引き戸を開けた音を、椎奈は聞きながら目を閉じた。
椎奈が目覚めたとき、はじめに気になったのは輪っぱの弁当箱だった。置いた場所になかった。彼は持って帰ってくれたのだ。ほんのり、あたたかいものがお腹に入ったような気がした。
椎奈はシャワーブースで体を洗ったあと、家に戻った。裏の勝手口から入ると、台所に郁がいた。彼女はテーブルに肘を付き、額に手を宛て項垂れていた。母の視線の先に、今朝の朝刊がある。
「おはよう……お母さん、どうしたの?」
椎奈は見合いがあったから、郁がいつここに戻ったのか分からない。椎奈と入れ違いで戻ったわけではなさそうだ。郁の目の下には隈があった。
副署長の勝明伯父も、昨日の夕方、非番だったのに署に向かった。そして母のこの様子。
椎奈の背に悪寒が走った。
「何があったの?」
「椎奈、あなたに署に来てほしい」
郁は手元の新聞の、一面トップにある記事を指さしてから、それを椎奈に手渡してきた。内容を読み、椎奈は瞠目した。
市内河川敷で、中学二年生の男児の死体が発見されたという見だしがそこにあった。
一昨日、どどいつと朝の散歩の途中で出会った少年を思い出した。朝早くに、公園のベンチで横になっていた彼を。
手が震えてきた。椎奈は自分の手首を、もう片方の手で握った。
「……私が一昨日に会った……あの、男の子、なの?」
「今のところ断定できない。椎奈の話の内容から、年が近いし特徴が似ているわ。だから椎奈が一昨日に会った男の子の話を、正式に署で聞きたいの」
椎奈は出社したものの、心ここにあらずであった。敢えて単調な仕事をずっとこなし、事件のことはなるべく考えないように努力した。
昼食メンバーの三人が椎奈を誘いに来たが、断った。彼女らは構えず椎奈の断りを受け入れてくれ、椎奈は昼食を一人で食べた。よくよく考えれば皆と他愛もない話をした方がよかったのだ。一人だとずっと考えてしまう。何を食べても味がせず、喉を通すことさえ辛かった。
定時に出社し、帰宅の途中で郁と合流し、椎奈は警察署へ向かった。そこで、一昨日の朝に出会った少年のことを話した。
椎奈と郁が帰宅したとき、家では蕗子が椎奈たち家族四人の夕食を用意してくれていた。
「蕗子さん、いつもありがとうございます」
「いいのよ。あなた達の方が大変なんだから。椎奈ちゃんもびっくりしたでしょう」
何故だろう。驚いたという次元などではないのに、蕗子に穏やかにそう言われると心が安らぐ。対する相手との相性もあろうが、椎奈は伯母のこういう気質にたいてい救われている。
同時に、無性に一人になりたかった。
郁は管轄の署に戻った。椎奈は上の空でご飯を食べていた。奈月と香月が一緒に食事を摂ったのかよく覚えていない。
自分が出会っていた少年が、殺されたのかもしれない。
あのとき、声をかけていれば。
保護をしていれば、もしかしたら……?
埒もない考えだ。そもそも警察署で話はしたが、相手の刑事の反応は全くなかった。機械と話をしているようで、それが嫌だったわけではないが、強く印象に残った。事務的で、熱が入っていないように感じた。だから、椎奈があの早朝に出会った彼ではないかもしれない。
そう思い込みたくて、何度も何度も考えている。こんなことをずっと抱えたくないのに。
一人になりたい。離れに行きたい。
いや。
一人になりたいわけではないのだ。
椎奈は目を閉じた。
彼に会いたい。一昨日のように全てを忘れ、彼の腕の中で眠りたい。
「……いやだ」
これは恋心だけでない。安らぎも欲しいのだ。
一生の安寧が。
馬鹿馬鹿しい。そんなものはこの世にはないのに。
もしそんなものがあったなら、父は今も存命のはずだ。
あんなふうに背中を丸め、虚空を見つめることもなかった。
椎奈は項垂れた。
安らぎがないのは、この世に存在しないからではない──私が、何もできないからだ。
椎奈は現実から逃げたくて、一時間も前から離れに来て、暗闇で横になっていた。眠ってしまわないかと、自分の心配もしたが、そんなことはなかった。後悔がずっと脳にこびりついていて、寝入りを妨げている。
結局、不安からも悔恨からも逃げられなかった。
時間になり、男はやってきた。
「こんばんは」
「こんばんは」
男は曲げわっぱの弁当箱を持っていた。差し出されたので手に取ると、軽くはあったが、中に何かが入っているようだ。
「あ……」
そういえば、今日は何も用意していない。無言になった椎奈の焦りを察したのか、彼は小首を傾げた。
「どうした?」
「え、あ、あの、今日は何も作ってなくて……どうしよ」
彼は笑った。今日は、初日のような快活な彼だ。それには安心したが、椎奈は自分の感情の処理で手一杯だった。時間があったのに何もしなかったことを悔やみ、落ち込みそうになっている。
「気にしないでくれ。それに飯は食ってきた。昨日の寿司、ありがとう。美味かった」
肩を軽くポンポンと叩かれた。
「よかった」
「それで、弁当箱にお返しを入れてある。適当に食ってくれ」
「そうなの?」
中が見えるわけではないけれど、椎奈は目元まで弁当箱を持ち上げた。
「冷蔵庫に入れておいた方がいい?」
「煎餅だ。室温でいいはずだ」
「おせんべい」
椎奈は弁当箱をごく軽く振った。個別の包装がある煎餅なのだろう、がさがさと音がしている。
「ありがとう。嬉しい。どうぞ入って」
椎奈が促すと、男は椎奈に続いて奥の部屋まで入ってきた。
彼は敷かれた布団を一瞥し、椎奈に話しかけてきた。
「随分前からここに入っていたんだな」
「え」
「考え事をしていたのか?」
椎奈は答えるのを躊躇った。その通り、当たっているからこそ、椎奈は怯んでしまった。
「そういうことは、精神面でよくない。一人になりたいなら明るい場所がいい。横になって何もしないというのは一番悪いらしいぞ。特にあなたのような、繊細で考えすぎる質のひとは」
言葉を返せなかった。
彼は鋭く人を観察している。今なら、お見合いの二日目に彼が、椎奈を末っ子か独りっ子と断言していた会話は、椎奈を笑わせリラックスさせる嘘だったのだと推測できる。
元々そういう人なのか、それとも後天的に会得したものか。
椎奈の中にモヤモヤとしたものが膨らんできた。
彼は何者?
彼の職は──なに?
「ははあ。今日も、何かあったんだな」
彼は、椎奈が立ち尽くしている前まで来てから、指でちょいと椎奈の顎をつついた。
「なあ。俺に全部、白状してしまう気はないか?」
どうして、この人は私のことを知りたがるのだろう。こんな面倒なことさえ聞こうとする。椎奈は偏見と承知しつつも、若い男性が女性の悩みを聞きたがるなど絶対ないと思っていた。
「……あなた、私のことが、好き?」
「何を今更。俺がこうして毎晩通っているのは、あなたに惚れているからだぞ」
「それはそうなんだけど」
「あなたも、俺と一緒になりたいからここにいるんだろう?」
椎奈はうなずいた。
「あなたのことが好きです。でも、私、あなたといるとほっとするのが……単に保護者を欲しているだけなのか、よく分からなくて」
「それの何が悪い?」
「見返りがほしいのか、って。それって、なんとなく、あなたに悪い気がする」
男は鼻で嗤ったようだ。
「昨日、あなたを利用した俺に、遠回しに説教をしたいのか?」
声が半笑いになっている。自嘲も混じっているようだ。
「そんなわけない」
「だろう? だからあなたも俺を頼ってくれ。一緒になったら、こういう日もあると、あなたが言ってくれたじゃないか」
彼は椎奈から弁当箱を取り上げ、小さな冷蔵庫の上にそれを置いた。
それから再び椎奈の前に立ち、椎奈の肩を引き寄せ抱きしめた。
椎奈も力を抜き、されるがまま彼に体を預けた。相変わらず、力強い心音がしている。
「今だけでいいから、俺のすることだけを考えて、感じてくれ。今日あったことは、思い出さなくていいように俺がする……昨日、あなたがしてくれたことを、俺にもさせてほしい」
椎奈は広い男の背に手を回し、顔を上げた。
「あなたがここでいますぐ眠りたいなら、俺はずっとどうでもいいような、眠くなる話をし続けることもできる」
「そんなことができるの?」
それはそれで椎奈に興味が湧いた。どんな話になるのだろう。
でも、それは別の機会でいい。
「おねがい、抱いて」
彼の手が動いた。慈愛に満ちていたあたたかい手が、椎奈の背をつと撫でていく。うなじに辿り着いたときには、それは肉欲を湧かせる起爆剤と変わっていた。
「……あ」
背から下腹にかけしびれが走った。
「なあ」
「はい?」
「今日も、つけなくて、いいよな」
椎奈は肯定の意味を込め、踵を上げ、彼へ口付けた。
応じてくれた彼の優しい口付けは、すぐに深く激しいものにとって変わった。
椎奈は横抱きに抱え上げられ、褥へと運ばれた。
「……わざとなの?」
「ん?」
「こんな、……物語みたいな」
恋愛小説のようなとは、照れて言えなかった。彼に覆い被され、帯が解かれていく。椎奈も彼の袴の結びを解いた。お互いの肌が露わになり、匙のようにぴたりと重なったとき、椎奈は快感の声を漏らした。
じわじわと、椎奈のからだに触れることで、彼は椎奈から負の思考を奪って消していく。指先から足の先まで、全てが敏感になり、男との触れ合いを悦び、彼を受け入れたくて腹の奥が逸っている。
「すごいな……」
彼が感心しているのは、椎奈が感じ過ぎていることか。
それとも、蜜をあふれさせていることか。
彼は椎奈の秘裂の奥を、指でこなさず、雄を早々に挿してきた。椎奈にも痛みはない。波のように快感がおしよせてきている。距離を縮め、椎奈に沿おうとしている男の肩へ手を伸ばし、椎奈は逞しい体躯を抱きしめた。
「あっ……」
彼が全て入れる前に椎奈は達してしまった。そこから一気に貫かれ、さらなる大きな波が椎奈を覆った。
からだだけでなく、椎奈のうちにあった満たされない思いが埋められている。
二人はその体勢のまま、動きを止めた。
からだが包まれている。完全に、彼に絡め取られている。身動きが取れなくても、不安など少しもなかった。
時間感覚が分からない。男を受け入れ、椎奈から大きな波が過ぎたあとから、どのくらい経ったのか。
自分のからだに埋められている、猛々しい彼の感覚にずっと圧倒されている。椎奈は男の存在に集中し、脳から手足の指先まで、全身で彼を味わっている。
接合し、じっとして動かないのに、じわじわと快感がからだを覆っている。今、動かれると、弾けてしまう。それで終わってしまうのは、余りにも惜しい。
男は、椎奈の背とお尻の境界あたりに指を滑らせた。ぴくんと自分のからだが反応し、下腹が不随意に動いた。椎奈のからだが彼自身を締め、男は声を漏らした。彼の、色欲に溺れた声を聞くと、椎奈の内腔は益々悦びを示していく。
とうとう、椎奈は越えた。鼻に抜けた嬌声に、彼のうめき声が重なった。
彼はまだ硬い。椎奈は三度も果てたのに。
言質の通り、彼は椎奈に、情欲以外のなにも考えさせないようにしてくれている。
「あなたの好きなように、して」
「……今日は、あなたが、してほしいことを、言ってくれ」
途切れ途切れの掠れた声を、彼は意識して出しているのだろうか。
それがどれほど、椎奈を悦ばせているのか、分かっているのだろうか。
「だから、して……あなたの、好きなように、されたいの」
ぐるりと、椎奈の背に男の腕が回った。抱き上げられ、男の上に椎奈は腰掛ける体勢になった。昨晩とは違った奥まで、彼がきている。
「ンあ……」
彼は腕だけで椎奈を動かし、彼女の内腔をかき回すように行き来した。
波が来た。反射で、男のからだに回していた椎奈の腕に力がこもった。
「あっ」
男も、椎奈を抱く腕の力を強くした。椎奈のなかで、彼が果てたのが分かる。それが、椎奈をさらなる高みに追い詰めた。
からだの奥が悦びで震えている。すぐには収まりそうにない。彼を抱きしめていないと、椎奈を形つくるものが溶けてなくなってしまう、そんな錯覚さえある。
腕の力がなくなってきた。自分のからだが重く感じるようになり、椎奈が腕を緩めると、椎奈の中から男の分身が抜けた。彼は椎奈を布団の上にゆっくり仰臥させ、彼もその隣で横になった。
男は椎奈を引き寄せ抱きしめた。
あたたかい。
このなかにいれば、たとえつかの間であっても、何もかも忘れることができる。
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