なつのよるに弐 叢雨のあと

まへばらよし

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本編 雌花の章

第九話 好意と、与えたいもの

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 母も、椎奈が離れへいく時間になっても戻らなかった。香月と奈月はそれぞれ普段と変わらない様子に見えた。二人とも高校生なのだ。椎奈が夜に不在になったとしても、問題はなさそうだ。それにどどいつもいる。
 そもそも、椎奈自身が、この家で一番不安になっている。
 そんな小心者である自分がいやになる。
 今から、見合いでかの男に会うというのに、彼のせいでなく気分が落ち込んでいる。益々もって申し訳ないと、負のスパイラルに入り込んだ。
 会いたいのに。気分良く、彼と話をしたいのに。
 どうして、私はこんなにも。

 椎奈は早めに家を出て、離れへ向かう前に伯父宅へ入った。蕗子は、椎奈が見合い相手のために作った夜食を持ってきてくれた。
 蕗子は微笑んでいる。表面上は何も変わらない気がする。
「蕗子伯母さんは、不安になったりしない?」
 つい口にしてしまった。今から見合いだというのに、どうして、こんなことを聞いてしまったのか。
「ごめんなさい、変なことを聞いてしまって。……いってきます」
 蕗子は驚いたのか、考えているのか、間を置いてから、振り返りかけた椎奈に応えた。
「大切な人がいるかぎり、ずっと不安なの。そういうものよ。きっと」
 そういうもの。
「そうなのね」
 椎奈は蕗子に頭を下げ、裏口を出て、見合いの場の離れに向かった。
 歩きながら、徐々に驚愕が湧いてきた。さっきはあっけなくそういうものなのだと受け入れたくせに、蕗子の言葉について、今になって考え込んでしまっている。内容がではなく、蕗子でさえそう言うのかと。椎奈を慰めるでなく、達観が入っているでもなく、あの、気配りができる、何に対しても、いい面を見ようとしている伯母でさえ。
 そういうものと、苦い顔をするのだ。


 時間ぴったりに彼はやってきた。挨拶もせず、無言で入ってきた男を見、椎奈は息を止めた。別人が入ってきたと思い込み、椎奈は身構えて足を引いた。
 背格好は一昨日、昨日と全く同じだというのに、男の背負う雰囲気が違っている。
「あなたなの?」
 思わず聞いてしまった。その椎奈の怯えが含まれた声に、相手も自分の放つものに気付いたようだ。
「俺だ。……悪い」
 彼は玄関口から敷居をまたいたが、上がろうとしない。土間で立ったまま、下を向いてしまった。
「なにかあったの?」
 男は椎奈に目を合わせず、その体勢のままで話を始めた。
「見合いがあるから、ここに来たけど、正直あなたを抱きたいという気分になれない」
 椎奈は硬直した。
 頭から血が引いていくのが分かる。全身にしびれのようなものが走った。
 男は、はっとしたように顔を上げた。
「違う。あなたが嫌なんじゃない。俺の、俺だけの問題で、あなたとここにいても、あなたと楽しむことに集中できる気がしないんだ。それはあなたに失礼過ぎて、申し訳ない」
 彼の言葉には、誤解されるのは困る、という焦りが感じられる。椎奈の恐怖はゆっくりと去り、だんだん、彼の言いたいことが飲み込めてきた。心臓の鼓動が落ち着いていないが、気持ちは落ち着いてきた。
「何か、あなたに関わることで大きなトラブルがあったのね?」
「ああ。大雑把に言えば、そういうことだ」
「あなたの体調が悪くなった?」
「違う。俺は昨日と変わらない健康体だ……なんと表現したらいいのか……不機嫌にはなってる」
 男は黙った。しばらく突っ立っていた。椎奈も、彼が何か行動を起こすのをじっと待った。
 彼は自分の目元を手で覆った。
「本心を言うとだな。ここに残りたい」
「え」
「あなたに失礼であるのは承知の上だ。それでも……あなたを抱いて、没頭して、全て忘れたい、本当は」
 彼の声は微かに震えていた。

 昨晩、椎奈が無理をして笑っていたとき、彼は言った。明るかったら分からなかったかもしれないと。
 彼の言ったことが今、理解できたといえばいいのか。椎奈も同じ感想に至った。
 彼の言った不機嫌の奥にある、深い悲しみの存在を感じる。椎奈が、彼の代わりに泣けそうなくらい、彼は感情を揺さぶられ、持て余している。

 椎奈も常に感じていることだ。日々、自己嫌悪につきまとわれている。自己肯定感を高めよう、という見だしや記事を目にする度に、できることならとっくにそうしたいと、苦々しい思いになり、そんな自分に嫌気がさす。
 苦々しい記憶を捨ててしまいたい。忘れてしまいたいのに、何も忘れられない。生きてきてこれまで、楽しい記憶も沢山あったはずなのに、何かをきっかけに思い出してしまうのは、常にマイナスの感情の記憶だ。
 それが辛いことは、嫌というほど知っている。
 同じことを、彼も思うことがあるのだ。

「悪かった。忘れてくれ。じゃあ……」
 男は帰る挨拶のつもりか、頭を下げた。
「あ、待って」
 椎奈は離れに、見合いの相手の夜食のために持参していた曲げわっぱを掴んだ。
「これ、お寿司なの」
「……は?」
「あなたに、あとで食べてもらいたくて、用意してたの。料理の上手な同僚のお勧めレシピだし、多めに作った分を伯母さんにも食べてもらって、美味しいってお墨付きだから、もって」
 椎奈は言いたいことを最後まで伝える前に、椎奈は男の腕の中にいた。彼が好きだという椎奈のうなじに手を挿し入れられ、引き寄せられている。お弁当箱が邪魔になって、椎奈は横向きに抱きしめられていた。
 彼の小さな悪態が聞こえた。
「触れないつもりだったのに」
「どう、して」
「あなたを抱きたいから。我慢できなくなりそうだ」
 彼の、男の葛藤が分かる気がする。椎奈は女で、知識だけのものだとしても。
「いいのよ」
 彼の抱いているやるせなさを、すでに椎奈も抱いているような気になっている。椎奈も彼と夜を共にし、それを分かち合い、二人で昇華したい。
「駄目だ」
「あなたが、私を心配してくれていることも分かってる。そんなあなたが、辛いことから、たとえ一瞬でも離れることができるなら、私は大丈夫」
 二人は額を重ねた。
「何故……あなたはそんなに、俺に」
 男の声は苦さを堪えているように思えた。
「もし、縁があって私とあなたが夫婦になったなら、そういう日だって、あるでしょう?」
 闇の中で、間近で、椎奈は相手に、懸命に視線を合わせようとした。
 伝わればいいのに、と思いながら。
「あなたをはけ口として利用しろと?」
「そうして甘えることは、悪いことなの?」
「だ」
「私は、昨日、あなたに甘えきって、癒やされたわ。あなたのために臆病でいいんだと知って、体が軽くなった気がした。嬉しかったの。それと同じだと思う。……私は、あなたの感情に飲まれて、悲しい気持ちになってる……あなたも、私を、慰めて」
 椎奈の唇に優しいものが触れた。彼の唇だ。なじみ感覚になったのだ。
「……本当に、いいんだな?」
 椎奈はお弁当箱を持ったまま、男が許可を取るために離した唇に、自分の唇を重ねた。
 涙が零れた。
「私を抱いて」
「俺は今日、あれを……避妊具を用意していない」
「その方がいい。あなたを直に知りたい。お願いよ。あなたがほしい……私」
 椎奈は抱き上げられ、襖向こうの褥に寝かされた。持っていた弁当箱は彼が取り上げしとねの横に置いた。膝立ちで袴の紐を解いている。椎奈も、自らの帯を緩めていると、その途中で顎を取られた。
 性急に入ってきた男の舌を迎え入れ、椎奈も同じ器官を差し出し絡めた。襟が広げられ、彼の大きな手が椎奈の胸を掴み、柔らかなからだは形を変えた。
 優しい人が、たがが外れてしまったように、無作法に椎奈のからだをまさぐっている。にも関わらず、椎奈のからだは悦びに震えた。

 椎奈も彼の下腹に手を伸ばし、堅くなりつつある分身を指で撫で、握った。
「それはいい。今日はするな」
 思いがけないきつい言葉に、椎奈は手を離した。
「い、痛かった?」
「俺のことより、あなたの準備が先だ。……今日、俺は多分、荒っぽい。あなたを痛がらせることだけは、したくない」
 大丈夫だから、と椎奈は伝えたかった。その言葉を発する前に、彼は椎奈の足のあいだに顔を埋めていた。
「はあっ……」
 足が震えた。一気に高み付近まで押し上げられ、男の軛が挿し入れられた。
「っああ!」
 強烈な刺激に、背を弓なりに反らせてしまう。
 男の動作には容赦も繊細さもない。きつさより痛みが勝ったが、椎奈はできるだけからだの力を抜こうとした。

 余りにも激しい動きに、二人の結合が外れた。椎奈はうつ伏せにされ、腰を持ち上げられた。再び男が椎奈の中へ入ってくる。未知の快感が椎奈を覆い、震えを我慢できず、肘がかくりと曲がった。敷布の上に額を付き、止まらない男のからだを受け入れながら、椎奈は喘いだ。
 体勢を保つのが苦しくなってきた。椎奈が手を敷布の上で滑らせたとき、腹に腕を回されてからだを持ち上げられた。膣に彼を含ませたまま、椎奈は背から抱きしめられている。
 まるで、軽い人形のように扱われていても、恐怖も嫌悪感もなかった。彼の慰めになるなら、それでいいと、満足感さえある。
 何度も突かれ、結合部が少し痛い。これ以上、続くと我慢できるかどうか、というとき、彼の軛が膨れ、椎奈は苦痛の声を漏らした。
 男が果てたのだ。椎奈の中で、力をなくしていく。

 彼は激しい息を繰り返しながらも、椎奈の肩から首筋に唇を這わせて動かした。
「すまない」
 熱の籠もった、掠れた声を耳にしたとき、椎奈は彼の苦悩に深く感応してしまった。知らずのうちに、頬に涙が伝い、顎から落ちて零れていく。
「……あやまらないで……わたしは」
 うれしい、という囁きを、聞いた瞬間、男は椎奈を強く抱きしめた。

 辛い現実からあなたを解放できたなら、それが私の悦びとなり、からだを巡る。

 椎奈を抱えたまま、男はゆっくりと横臥し、そのまま動かなくなった。
「……だいじょうぶ?」
 椎奈の囁きに男は反応しなかった。眠ってしまったようだ。椎奈はできるだけ彼に衝撃を与えないように、敷布を引き寄せた。彼の肩から腰に掛けていく。
 二人は絡み合って抱き合い、シーツに包まれじっとしている。小さな巣で営みを終えたひとつがいの動物のようだ。

 互いの遺伝子の半分を合わせ、ひとつにさせ、子を残し、そのあとは朽ちていく。生き物は、何故このように命をつなぐ方法を、選択をしたのか。

 何故、その行為に感情を交差させるヒトという生物が生まれたのか。

 何故、自分を抱きしめる相手の、寝息が愛おしくて涙が出るほど、誰かを好きになり、同じ量の苦悩を背負うことになるのか。

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