なつのよるに弐 叢雨のあと

まへばらよし

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本編 雌花の章

第八話 善意と、返ってくるもの

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 男は椎奈から離れた。彼は避妊具の処理をした後、どさりと音を立てて椎奈の隣に伏した。二人して仰向けに寝転がっている。椎奈は指一本さえ動かせそうにない。下腹では快感の余韻も残っており、それに浸っていた。
 男の横で、彼の分厚い胸が上下しているのを横目で見ていると、何故か分からないが鼻の奥がツンとしてきた。
 悲しくはない。嬉しいとも違うような気がする。何かに感激して、泣きそうになっている。
 見合いの相手と情を交わしただけなのに。
 よくある、男女の交わりなのに。
 とうとう我慢できず、椎奈は鼻をスンと鳴らした。彼が反応して、横になったまま椎奈へ体ごと向かいあった。手を伸ばしてきて、椎奈の頬に触れ、何かを確かめている。
「どうした?」
「わかんない」
 声が割れてしまった。涙も流れ、椎奈は鼻をすすった。これで泣いているのが分かってしまったのだろう、男は椎奈の頬を撫で、涙を拭った。
「そんなによかったのか」
 口調に揶揄が含まれている。腹は立たなかった。自分でも、どうして泣いてしまったのか分からないのだから。
「そう、だと思う」
 椎奈が途切れ途切れに伝えると、男は椎奈を引き寄せ胸を合わせた。汗だくの、男の体は熱い。大丈夫なのだろうかと心配してしまったが、男の方も、椎奈の肌が汗で冷え始めているのに驚いたようだ。体全体で椎奈を抱え込むように動いた。
「はああ」
 椎奈を抱きしめながら、男はわざとらしいため息をついた。
「両親というか、親父かお袋かどちらかに、俺の好みが見抜かれていたのかと思うといい気はしないな」
「それは……どういうこと?」
 男は椎奈の、冷たくなっていたお尻に両手を添えた。あたたかくてきもちがいい。
「こうも、俺好みの女性を引き当てて合わせてくれるのは、ありがたいやら悔しいやら……。親のどちらかが俺に合うだろうとあなたに決めたというのはどうにも……妙な気分だ」
 言わんとすることが伝わるだろうかと問われて、椎奈は笑ってしまった。額を彼の胸に重ね、胸元に唇で触れると、男は椎奈の頬を手に取り、上から覆い被さって唇を重ねてきた。
「私のことを、気に入ってくれたのなら、嬉しい」
 口付けの合間に伝えると、鼻が触れ合った。
「明日も来てもいいか?」
「明日も来てくれる?」
 二人の言葉が重なった。椎奈は目を見張ったが、彼は声を出し、肩を奮わせて笑った。


 職場で、仲のいい社員と昼食を囲んでいるときだった。
「菊野さんは、お見合い中?」
 突然、先輩社員の山崎に聞かれ、椎奈は箸を止めた。
「あ、そうなんだ」
 同じく先輩の原田までが納得したという顔をした。萩原琴瑚は、頬を赤くして先輩たちの言を黙って聞いていた。
「うーん。ん十年も前だけどさ、私も当時、こんなだったのかな」
 原田は感慨深げだ。山崎も「わかる~」と遠くを見ている。
「……わたし、雰囲気変わってる?」
 琴瑚は目で「そうだよ」と器用に肯定を示してきた。
「菊野さんの相手、よさげな感じなのね」
「いいなあ~なんかいいなあ~。あ~ちょっとでいいから昔にもどりたーい」
 先輩組は楽しげだ。
「萩原さんのときもこんなに変わる?ってびっくりしたけど、菊野さんもかあ」
「今、何日目? 今晩も待つ?」
 興味津々である。椎奈は顔が熱くなってきているのを自覚しながらも、答えた。
「今日で三日目です。……待つつもりです」
 それを聞いた三人は、全員甘いものを沢山食べたような息を吐いた。
「いいわあ……お見合い序盤で、今晩も会いたいって願ってる、女性からしか取れないときめきってこれよね」
「これよねえ~。はあ~。いいわあ~」
 椎奈も二人の言わんとするとことは理解しているつもりだ。つい先日、椎奈は見合い中だった琴瑚からその「ときめき」を摂取していた。
「ねえ、菊野さんの相手は、どこがいい感じ?」
「そんなこと、言ったら惚気になるじゃないですか」
「だから聞きたいのよ。しかも菊野さんのよ。惚気てよう」
 琴瑚も勢いよく何度もうなずいている。赤べこみたいだ。
「ええと……犬が好きなところ」
 今、咄嗟に思いついた、口に出せそうな無難な話題はそれしかなかった。田原と山崎も赤べこのようになった。
「大事、そういうの本当に大事!」
 琴瑚はきょとんとしているが、田原と山崎には沁みるところがあったようだ。赤べこの角度が大きい。
「菊野さんは、察しがいいから」
「……はい?」
 突然、山崎にそう言われて椎奈は面食らった。
「気を回しちゃいすぎるでしょ。菊野さんが気にならないならそのままでいいけど、察して!と思うようになったら相手に対し言葉にしなきゃだめよ?」
 隣で田原も「そうそう」と同意している。
 椎奈は「はあ」と、よく分からないなりに返事をした。経験者の談は、後になってそういうことかと分かることもある。覚えていれば、いつか役に立つかも。

 椎奈は会社から帰宅の途中でスーパーに寄った。琴瑚から夜食のレシピをいくつか教えてもらい、作ってみることにした。椎奈の見合い相手はあの体躯で、お腹が減ったりしないのだろうかと気になっていたのだ。
 自宅の門をくぐると、伯父の伴侶、伯母の蕗子ふきこが庭の草木に水をやっていた。
「おかえりなさい……あらあら、夕ご飯の支度?」
 蕗子伯母は、昨晩もだったが、見合い中の椎奈を慮って、現在、椎奈の家の食事まで用意してくれている。今日もそのつもりだったのだろう。椎奈が下げているスーパーの袋を目にして困った顔を見せた。
「ただいま。違うんです。これは、その、……相手の方の、夜食にしようと思って」
 蕗子は困惑顔から、雲が晴れたようにぱっと笑った。
「あらあらそういうことね。だったら、うちの方の台所を使いなさいな」
 提案の意味が分からず椎奈が首を傾げていると、蕗子はコロコロと笑った。
「椎奈ちゃん、自分の家でそれを作ってたら、なっちゃんとかっちゃんに食べられちゃうかもしれないわよ」
「あ」
 双子の弟妹たちの名を出され、さもあらんと椎奈も納得した。今のあの二人の胃袋は四次元ポケットのように、何でもいくらでも入ってしまう。
 蕗子伯母はこういうところに本当によく気が付く。自分の母の、郁のことももちろん尊敬しているが、椎奈は蕗子のようになりたいとも思っている。
「お言葉に甘えて、お借りしてもいいですか?」
「どうぞどうぞ。とりあえず双子ちゃんたちに見つかる前に、先にうちの台所に入って、冷蔵庫に入れなきゃいけないものを入れちゃいましょ」
 伯母に促されるまま、伯父宅の裏口から台所へ入ると、珍しく伯父もいた。
「伯父さん。こんばんは。非番だったんですか?」
「こんばんは。どうした」
 伯父──菊野勝明きくのかつあきは椎奈の質問に答えず、何故椎奈がここへやってきたのかを尋ねた。
「それがねえ、あなた」
 椎奈の後ろから一緒に入ってきた蕗子が、事情を説明し始めた。
 伯父夫婦は性格が正反対だ。蕗子がよくしゃべり常に朗らかであるのに対し、勝明は口に重しがあるのかと思うほど、口数が少ない。しかも別段怒っていなくても、話しかけにくい怖い雰囲気を背負っている。勝明は父、勝善かつよしの兄にあたる。父は、勝明と顔は似ているものの、普通に、それなりに喋る人物だったので、そこは似ていない。むしろ父の気質は、血の繋がっていない伯母の蕗子に近かったと椎奈は思う。
 蕗子から一通り説明を聞いた勝明は、椎奈に顔を向けた。
「椎奈。郁さんから聞いた。お前はまた知らない男に話しかけたそうだな」
 隣で蕗子があら……と眉をひそめた。
「そういうことはやめろと、何度言えば分かる」
「済みません」
「謝らせたいんじゃない。二度とするな。お前がすべきなのは、安全な場所まで移動した後で、誰かに連絡をすることだ。それだけを守れ」
 椎奈は頭を下げた。勝明はさっと踵を返し再び部屋を出た。


 数年前、椎奈は、通っていた大学の最寄り駅で、座り込んでいる初老の男性に声をかけられた。気分が悪いので、喫茶店まで肩を貸してほしいと頼まれたのだ。椎奈は言われた通り肩を貸した。途中で、指定の喫茶店に行くより、さらに近くにある交番の方がいいだろうと椎奈は判断した。交番前で、中へ声をかけようとしたとたん、初老の男は無言で椎奈の手を振り払い、すたすたとどこかへ行ってしまった。唖然としていたら、中から女性警官が声をかけてくれた。顛末を話し、その話は筒抜けで郁と勝明まで届いた。
 椎奈は特に何かをされたわけではない。肩を貸しただけだ。そのあいだ、椎奈の体は必要以上に触れられなかったし、卑猥な話題を出されもしなかった。しかし、言われた通りに彼の言う「喫茶店」に連れて行っていたなら、どうなっていたのかは分からない。
 郁と勝明からきつい叱りを受けた。椎奈はみじめだった。後で蕗子が「交番を思いついたのはとてもえらかったわよ。それに、その人も治ったのよきっと」と慰めてくれたが、伯母の気持ちはありがたいと思いつつも、気は晴れなかった。
 善意が仇となったことも悔しかったが、そういう手口を見破れない自分も情けなかった。あの男は本当に、気分が悪くて、歩くうちに治ったのだ。そう思い込もうとしても、何度も何度も後悔が押し寄せてくる。
 あのとき、自分は警察官に向いていないということが、嫌でも思い知らされた。郁と勝明からにも、そらみたことか、と言われている気がした。


 沈んだ気分だったが、蕗子は何事もなかったかのように、椎奈の買ってきた食材を覗いている。
「あら、美味しそうなものが入ってる」
 伯母は空気を入れ換えようとしてくれている。椎奈も切り替えようと、無理に笑顔を作った。
「会社で、仲のいい子がとても料理上手で、レシピを教えてもらったの」
 ざっと伝えると蕗子も興味が湧いたのか、メモを取り始めた。そんなときだった。誰かの携帯電話が鳴った。距離からして伯父の携帯のようだ。五分後に伯父の勝明は台所に顔を出してきた。
「出てくる」
 たったそれだけの言葉だったが、椎奈は硬直してしまった。蕗子はいつものことだとばかりの平素さで、勝明を追った。
 管轄内で、大きな事件が起きたのだ。

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