なつのよるに弐 叢雨のあと

まへばらよし

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本編 雌花の章

第十五話 足を捕られたまま

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 中学生の男子の事件は、初公判の日付が決定した。

 夜、夕食後にキッチンのテーブルに座り、朝刊を読み直していた。今朝から三度目になる。最近購入したルイボス茶を淹れ、しかしそれに口をつけず、椎奈は新聞の事件欄を隅から隅まで確認した。
 朝に読んだ内容と同じだ。見落としはない。
 夕刊に手を伸ばしたとき、こちらへ向かってくる母の足音が聞こえた。耳にしながらも、椎奈は新聞の文字を目で追っていた。
「椎奈、いい加減になさい」
 郁は至極厳しい声で命じてきた。郁から声をかけられるまで、椎奈は母がそこまで近くに立っていたことに気が付かなかった。
「万が一、藩内の警察官が死ぬような大きな事件があったとして、亡くなったのがあなたのお見合いの相手かどうか、調べてどうするの。お葬式に行くの?」
 顔を上げられない。後ろめたい。
 郁は、椎奈がこの二ヶ月間、新聞を何度も読み返していた理由を見抜いていた。
「……そんな言い方、ひどい」
 手が震え、新聞の端をくしゃくしゃに掴んでしまった。
「椎奈、あなたが断った相手でしょう。未だに何を引きずっているのよ」
「分かってる。自分でも馬鹿みたいだって思ってる」
「でしょうね。椎奈。あなたはもう、名前以外の彼のことを知ってしまっているのよ。彼と結婚しようがしまいが、あなたは一生、彼のことを心配し続けて、そうやって神経をすり減らしていくのよ」
 母の言う通りだ。

 椎奈は連日、新聞で、地元の警察官が、怪我をしなかったか、亡くなっていないかを、何度も何度も調べている。
 理由付けもなにもない、全く意味不明の行動だと自覚しているのに止められない。
 名前も顔も年齢も、個人情報の何も分からない相手を、何を手がかりにしてそうだと断言するつもりか、それすら頭にない。
 ただ、警察官が関わった記事がないかどうか、ずっと二月、調べ続けている。

 見合いを中止しても、何一つ、楽にならなかった。

「あのときは、お見合いを止めるのが最善だと思ってた。これで終わって、普通の生活に戻るんだって」
「そう」
「その後どうなるかなんて、何も考えてなかった。辛くなりそうな未来を怖がって逃げた……逃げたことはその場しのぎにしかならなくて、後で地獄みたいな後悔と不安に苛まれるなんて、本当に分からなかった」
 椎奈は郁を見上げた。母は眉をひそめていた。泣きそうな顔をしている。
「お母さんは、私がこうなること、分かってた?」
 郁は否定した。
「多少は不安がるだろうとは予想してたけど、ここまで病むなんて思ってなかったわね」
 郁から見ても、椎奈は病んでいるように映っているのだ。
「私は、お母さんの想像以上に弱かったってことね」
「そうじゃないでしょ。あなたが彼を、ここまで好きになるって思ってなかったのよ」
 椎奈は返事ができなかった。ぐるぐるといろんな思考が巡っている。
 あんな素敵な人、好きになるに決まっている、母親のくせにそんなことにも気付かなかったのか。いや、母であっても分かるわけがない。いくらなんでも言いがかりが過ぎる。
 人を好きになる度合いなんて、誰にも分からない。琴瑚が大鷹をあんなにも愛しているのを、椎奈が理解できないように……理解できなかったように。

 郁自身は、どうだったのだろう。今は聞けないし、この先も一生、聞くつもりはないが、父、勝善が亡くなったとき、どうやってこうして立ち直ったのか。
 何を考えているのだ。
 父は亡くなったが、椎奈の見合い相手は生きている、はず。比較はできない。
 負の思考は蛇のように椎奈に纏わり付き、椎奈を捕らえている。そういった状態を自覚しながら、どうやって抜け出せばいいのか。椎奈には出口が分からない。
 出口は、自分で埋めてしまったのか……まだ埋めているのか。
 どうしたらいいのだろう。

「椎奈は単純に、彼のことを好きなだけではないでしょう」
「なに、それ」
 郁は腕を組んで胸を反らせた。
「嫌味で言ってるんじゃないわよ。でもあなた、私や勝明さんや、従兄弟たちのこと、心配はしてるでしょうけど、彼ほどじゃないわよね」
「それは」
「さらに言うと、奈月も香月も高校を出たら警察官採用試験を受けるつもりだって知ってるでしょ。あの子たちには止めろとは言わないじゃない」
「それは、だって……」
「椎奈、あなた、本当は、何が嫌なの?」

 本当に嫌なこと。それを母に言わなければならないのか。人間として、醜悪な告白になるそれを。
 父の死に関わること、そんなことを、母にだけは言えない。椎奈は数多あまたある理由のひとつをまず述べた。
「私の相手だった人を、探したい……」
「自分で断っておいて? 結局、吹っ切れなかったから、寄りを戻したいの?」
 椎奈は、自分はそこまで楽観的ではないと、見合いの前は思っていた。だが今回、幾度いくたびか、そんな未来を頭のなかで描いてしまった。言葉にされると、より浅はかな行動をしている自覚が湧いた。
「酷いことを言ったから……今度こそ、きちんと謝りたい……許してほしくて……このまま、なかったことにするのが、いやで……」

 結局、自分が楽になりたいだけだ。悪者で居続けたくない。彼にしょうがなかったね、と納得してもらいたい。エゴばかりだ。
 彼の言う通り、優しさも上っ面だけの、本当にどうしようもない人間だ。
 いつになったら、自分は愚かでなくなるのか。一生、愚かなことを続けて、悔いて生きていくのだろうか。

「今度こそ?」
 郁は首を傾げていた。
 椎奈は冷や汗をかき始めた。
 ──母にだけは、知られたくない。もうひとつの己の罪を。

 薄暗い部屋の中で、ずっと同じ場所を見ていた父の、丸い背中。
 ──また、気付かないうちに、誰かを失望させて、取り返しのつかないことに──

 過去から今までの、悔恨の渦に巻かれてしまった。動けなくなった椎奈を、郁はじっと見下ろしていた。
「椎奈。あなた、月のものが来てないでしょう」

 自分の心臓の音が、だんだんと早くなっていくのが分かる。
「それに昨晩、あなた吐いてたわね」
「……あれは」
「確認は?」
 かくにん
 視界が暗くなって、あやふやになってきた。
「椎奈」
 郁は椎奈の、横の椅子に腰掛けた。彼女は椎奈の硬直している手に手を重ね、それをしっかりと握った。
「キットで確認はしたの?」
 郁の声から厳しさが消えた。完全に母の顔となり、椎奈を心配している。
「……た」
 椎奈は自分の腹に視線を落とした。
「え?」
「した」
 郁は息を飲んだ。
「結果は?」
「……マイナスだった……ぜんぶ」
 郁は眉根を寄せ、首を傾げた。
「ぜんぶ? 全部って、どういうことなの?」


 幾つも幾つも、いろんなメーカーの妊娠検査キットを試した。笑えるくらいに全部、印がなかった。尿を出したくて何度も水を飲み、検査をした。次は、水を飲んでばかりだから正確な結果にならないのかもしれないと、勝手に解釈して、同じキットを再び買おうとした。しかし近所中の薬局の、ほぼ全部を行き尽くしたので、同じ店に行きたくなく、ネット通販で同じ物を購入した。届いた日に開封し、全てで確認をして、全てマイナスが出るのを繰り返した。
 確認の時期が早すぎたのかもしれないと、一週間経って、またネット通販でキットを買って検査したが、どれもこれもマイナスだった。
 ゴミ箱に入りきらない、山のようになった使用済みのキットを見て、椎奈は自室で呆然とした。何をしていたのか家族に知られる。
 ゴミを捨てにいくときに、幾度かに分けてこっそりと、混ぜて捨てていった。
 恥ずかしかった。
 あまりにも惨めで、愚か過ぎて、自分にまつわるものを全て消し去りたかった。


「椎奈」
 母の慈愛が隠った呼び声に、ホロホロと涙が出てきた。
 限界だ。
「馬鹿みたい。妊娠したかったのよ。私。本当に、馬鹿みたい。妊娠したら、会える、もう一度会えるんだって、期待……結婚できるかもって……馬鹿みたい。馬鹿……」
 彼のそばで、彼にそっくりなこどもを抱いている自分を想像し、背徳のなかにある歪んだ喜びに浸り、つかの間の幸福をいだいた時期があった。
 麻薬のような妄想は、妊娠検査キットがことごとく無に帰していった。待ち続けても何の兆しも見せないプラスチックが、椎奈の手から床に落ちたとき、乾いた笑いが出た。

 ボタボタと涙が頬を伝い、椎奈の手と郁の手を濡らした。郁は椎奈の手を強く握った。
「椎奈」
 母の声も震えていた。
「私はいつもいつも、後になって、こんなで……どうしてそのときに」
 椎奈は上体を傾け、膝に額をつけて泣いた。母の手を握り、自分と母の着物を濡らすのも構わず、嗚咽を漏らした。郁が背に手を置いた、その温もりがやけに鮮明に感じられる。
 かの男が頭を過った。
 彼の手もあたたかだった。

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