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本編 雌花の章

第十六話 対話をする意義

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 椎奈は放心状態になっていた。ときどき、ひくりと喉が鳴るが、中はからっぽのような感じだ。
「私はずっと後悔してたのよ」
 椎奈が落ち着いたのを待っていたように、母はぽつぽつ、涙声で話を始めた。
「勝善さんのお通夜で、私が先に泣きわめいたから、椎奈は泣けなかったでしょう」
 思いもしないことを言われ、椎奈はのろりと顔を上げた。
「え?」
「あなたを泣かせてあげられなかった」
 郁は自嘲の笑みを浮かべていた。

「椎奈が二歳のとき、私は一度流産したのよ。あのときも私は泣き叫んで、勝善さんにずっと慰めてもらってた。椎奈の面倒も、勝善さんと蕗子さんに任せっきりだった。勝善さんが亡くなっても、私は泣き叫ぶだけだった。椎奈に慰めてもらって、奈月と香月の世話をあなたと蕗子さんに任せた。こんな母親で申し訳ない」
 椎奈は首を左右に振った。
「そんな……ことは」
「ごめんね。椎奈。あなたが、警察官の妻になることを怖がってるのは、私が父親を急に亡くしたこどもを……あなたを、ケアできなかったせいじゃないかしら。私は……勝善さんと同じ気質を持った椎奈を、勝善さん代わりにして、あなたに私を慰めさせた。あんなことは親として、してはいけなかった」
 郁は椎奈の背を撫でた。
「……おかあさん。それは……違う」
「そうかしら。……一度ね、勝善さんの四十九日のあと、蕗子さんからしっかりしろと発破をかけられたこともあったのよ」
 椎奈は目を見開いた。
「夫を亡くしたばかりの私になんて酷いことを言うんだって、その時は憎らしい人だって無視したの。後になって、蕗子さんの言いたかったことが分かった……分かるまで、時間がかかったけど」
 郁は目を閉じた。
「椎奈だって、勝善さんを……父親を亡くした辛さを抱えていたのに、私は先に、あなたと蕗子さんのおかげで立ち直って、さっぱりしてた。椎奈は辛さを抱えたまま、それを我慢して、私だけでなく奈月と香月も慰めていたのに。私は、それは当たり前のことで、しょうがないことだと本気で思ってた。……椎奈にうらぎりものって言われても仕方がない」
「あれは、ごめんなさい」
「もう、水に流してしまいましょう」
 椎奈は一度うなずくも、目を閉じ、首を左右に振った。

「お母さん、私は……お母さんや、蕗子伯母さんみたいになれる自信がない。警察官の妻なんて、無理……」
 椎奈の、決死の告白に対し、母は半笑いで首を傾げた。
「蕗子さんはともかく、私?」
「うん。お母さんは、大変な仕事を続けてる。蕗子伯母さんも伯父さんを支えてる。私はそんなの、できる自信がない。進路を決めるとき、お母さんも伯父さんも、警察官になる自信がないならやめておけって……実際、そんな覚悟は私、なかったから受けなかった。警察官の妻になるのも、やめておいたほうがいいって……思ってる」
 郁は、口を真一文字に結んだ。真剣な眼差しを椎奈に向けてきた。
「椎奈は勘違いをしているわ」
「してない」
「してるわよ。椎奈は決して、警察官に向いていないわけではないのよ」
「……まさか」
 椎奈は冗談でしょう、と半笑いをしたが、郁はさらに悲しげな顔をした。
「私も、勝明さんも、椎奈に対して同じ考えを持っているわ。椎奈にも素質はある。それ以上に椎奈は、辛い役目を背負っている人間を、癒やすことが上手なのよ。勝善さんや、蕗子さんみたいに。だから私も勝明さんの提案に同意して、椎奈の相手は警察官がいいと判断した。私たちの仲間の誰かを、辛い日々を越えられるよう慰めてほしくて。過去の私みたいに」
 椎奈はぽかんと口をあけた。
「椎奈が自分を卑下するのは、私たちの意図がうまく伝わっていなかったからなのね。少なくとも私は、あなたがいなかったら今の仕事を続けてなんていられなかった。多分、勝善さんが亡くなったときに、辞めたと思う」
「……そうなの?」
「そうよ。でも、私ももういい年だから、自分でなんとかするようにしなきゃね。若手に椎奈を譲ってあげるかあ~って決心したのよ」
 母は一度ニヤッと笑ったが、真面目な顔に戻って、椎奈の手をぽんぽんと軽く叩いた。
「どちらにしろ、病院にはいかないと駄目よ。早いうちに……心細かったら、私か、私が無理なら、蕗子さんに付き添ってもらって」
「いい、自分ひとりで、いけるから」
 郁は、それ以上は追求も強要もしなかった。

「親子でも、言わなければ分からないものよねえ。つい、サボっちゃうけど」
 しみじみと噛みしめる郁を見ながら、椎奈は山崎の言葉を思い出していた。
 察してほしいと思うくらいなら、言わなければいけないのだ。夫婦のことに限らず。
「お母さん」
「なに」
「それでも私……警察官の妻は無理だと思う。お母さんの期待に添えられないかも」
「どうして」
「……くやしいから」
 郁は軽く眉をひそめた。椎奈の言ったことが理解できてないようだ。
「警察官になれなかった私が、彼の昇進を心から喜べる気がしない。夫が活躍したら悔しがるって、酷いって思ったから」
「ああ、なるほど。そういうことね。分かるわ」
 郁は平然としていた。椎奈は母から嫌悪されるだろうと予測していたのに、あっけなく郁は受け入れてしまった。
「もちろん私も、勝善さん兄弟が憎いとまではいかなけど、二人に嫉妬することも時々はある」
「……あるの?」
「そりゃあ、私が出産して停滞しているあいだに、男の人はどんどん出世するじゃない。椎奈や香月と奈月を産んだことは後悔していないし、一度流産したときも辛くて散々泣きわめいたけど、それとこれとは別だから」
「そう……なんだ」
 母から、悪びれずケロリと告白されると、自分もよくあることで悩んでいたのかと、妙な連帯感が生まれた。
 そういえば、蕗子伯母も言っていた。達観していそうに見えたが、心配し続けるもので、どうにもならないものだと。
 同じなのだ。

 とりあえずお風呂に入ってきなさい、と郁に話を閉められた。椎奈はおとなしく従った。


 産婦人科で診てもらったが、やはり椎奈は妊娠していなかった。ストレスでホルモンバランスが崩れていると言われ、内科の検診も勧められた。
 内科で初期の胃潰瘍と診断された。軽い睡眠導入剤が処方された。可能であれば、ストレスの原因になりそうなものから遠ざかる等の、現状の改善を試みてはどうかとの助言があった。
 仕事が閑散期であったのもあり、上司と相談もし、三日有給を取ることにした。土日を含め五連休となる。
 有給を取った前日から、椎奈は早々にとこに入った。
 うつらうつらしているとき、誰かが廊下をすり足で歩いているのに気が付いた。ボソボソと話し声も聞こえる。
「寝てるみたい」
 香月の囁き声だ。
 我が弟妹ながら、なんと可愛らしい。椎奈はふっと口に笑みを浮かべた。笑いそうになるのは久しぶりだった。椎奈は二人の挙動を知りたくて、じっと目を閉じたままで、音に集中した。
「なんかなつかしい」
「俺も思った」
 何がだろうと、聞き入っていると、奈月はふふっと笑っているようだ。
「おねえがさ、お父さんが寝てるときは、部屋の横はこうやって歩けって教えてくれてさあ。……これ、剣道のすり足だったんだね」
 椎奈は、思わず声を上げそうになった。

 見合いの相手である彼が初日、ものの数秒で寝入って、きっちり十五分で起きたあのとき、椎奈は懐かしい気分になった。懐かしいと感じたのは、父、勝善も同じ特技を持っていたからだ。
 その父が、いつの日からかだったろう。

 眠らず、ずっと、座ったまま微動せず、虚空を見続けるようになったのは。


 伯父の勝明は、椎奈が有給を取った一日目の朝、朝食後に椎奈に会いにきた。
「おはようございます。伯父さん、非番なんですか?」
「おはよう。そうだ。以前、お前には、どうして見合いを断ったのか、いつか事情を話してもらうと言っただろう」
 覚えている。あのときは自暴自棄になっていた。今思えばあんな暴言をよくこの伯父に吐けたものだ。我ながら感心してしまう。
「はい。私も、伯父さんに聞きたいことがあるんです」
 椎奈は勝明を家に上げ、座敷に通し、お茶を用意して椎奈も座敷へ入った。
 勝明は出されたお茶をまず手に取り、口にしてから、首を傾げた。
「珍しい茶だな。紅茶とも違うな。変わった味がする」
「あ、緑茶の方がいいですか?」
「いや、これはこれで美味い。中国茶か?」
「ルイボスっていうアフリカ原産のお茶で、カフェインが入ってないんです」
 言うなり、勝明は背筋を伸ばした。椎奈を凝視してくる。
 なにやら、全てを見透かそうとしている熟練の刑事の目のようだ。伯父に取り調べをされると、こんな感じなのだろうか。
「それは、椎奈、お前、妊娠しているからか?」
「えっ」
 てっきり、母から伯父夫婦に話が伝わっていると思い込んでいた。
「違います。初期ですけど……胃潰瘍になってしまったんです。ルイボス茶はカフェインが入っていないから、胃に優しいと思いまして」
「胃潰瘍だと?」
 さらに伯父は眉をつり上げた。何か言おうとして口を開いたが、結局、何も言わず、またお茶を飲んでいる。
 椎奈は内心驚いていた。伯父は緊張しているようだ。椎奈は、座布団から降り下がり、勝明に対し頭を下げた。
「先日は失礼なことを言って、申し訳ありません」
「……今日は、落ち着いているようだな。構わん、儂も謝らねばならん。具合も悪いんだろう。座布団の上に座りなさい」
「はい」
 勝明はよしと言って、湯飲みを置いた。
「単刀直入に聞くが、相手の男の、何が気に食わなかった」
 椎奈は目を伏せた。
「いい人です。……本心を言えば、一緒になりたかったと、今も思っています」
 勝明は目を見開き、唖然と口を開けた。予想してなかったらしい。
「見合いをあんな形で終えたのは、あのとき、怖かったからなんです。相手の方が警察官だと知って……父のように、なってしまったら、耐えられる自信がなくて……それで、無理だと相手の方に伝えました」
 その言葉で、勝明は我に返ったようだ。眉根を寄せ、諭すように椎奈の名を呼んだ。
「人は誰しも死ぬし、その時は誰にも予想できないものだぞ。仮にお前の見合い相手が警官でなかったとしても、事故であっけなく逝くこともある。さらに言えば、多くの警官は殉職しない。事情があって、健康だろうが辞める奴もいるし、そうでなければ定年で退職する」
 椎奈は伯父の説得に同意した。
「私も、それが怖いんだと思い込んでいました。でも、思い出したんです。……お母さんには絶対に聞けないことで……伯父さんにも、聞いてもいいのか」
 勝明は椎奈の目を見、自分の姪が落ち着いているかどうか、確認しているようだ。
「構わん。言ってみなさい」
 椎奈は震えながら口を開いた。
「私のお父さんは、晩年……鬱を患っていたんじゃないですか?」

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